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ハンジがリヴァイから二度目の〝内密の呼び出し〟を受けたのは、一度目のそれから一週間後のことだった。前回と違って真昼間の執務室に召喚されたため、てっきり壁外調査における人事か何かの相談だろうと踏んで訪れたのが、リヴァイに見据えられながら分厚い封筒を渡される。
あの夜以降、二人きりで相対するのは初めてだ。
汚れたなら清潔になるまで洗浄すればいい、などと偏執的な清掃欲を持っているリヴァイだが、汚れること自体には彼なりに許容範囲があるようで、あの夜も散々互いの体液に塗れて、それから地獄の風呂時間に突入した。翌日まで全身の肌や粘膜までがヒリヒリと痛んでいたハンジであるが、鮮烈な感触だけを残して、リヴァイはそれ以降ハンジに接触をしてくることはなかった。お互いに業務が立て込んでいたのだ。
だからもちろん、二人の関係がことさら変わるような出来事もなかったわけで。
久方ぶりの本人に、おまけに互いに濡れそぼった当の現場に呼び出され、ハンジは内心動揺していた。とにかく、となんとか意識を切り替えて渡されたものを見る。一度開封した跡があるので、リヴァイが自身で確かめたうえでハンジにも改めさているのだろう。
中には書類の束が入っていた。
「なんだい、これ、は……、っ!」
――『資料一、強制性交装置仕様書』
一枚目につづられた一文でもうギョッと目を剥いたハンジに、リヴァイは事も無げに言う。
「例の実験の報酬だ」
「ちょっとリヴァイ! そんな堂々と、」
「誰も聞いちゃいねぇよ」
慌てて制止するも淡々と躱され、顎の動きでソファに座るよう促される。「続きを読め」と言うことだろう。実験に協力するかわりに、あの装置の『人体に淫らな衝動を起こさせる仕組み』を知りたいと望んだのはハンジのほうだ。それは純粋な興味からに違いなかったので、窓辺に移動して外を眺めはじめたリヴァイに合わせてソファに腰を下ろし、素直に資料の内容に集中する。
「素材は……特に目新しいものはないな。やっぱりワイヤーは立体機動装置に使われている物と同じか」
ずいぶん贅沢なことで、と若干呆れを覚えながらも、詳細な設計図と合わせてつらつらとお固い言葉で書かれた試作の工程などを辿っていく。
「屈折金具? 背もたれの角度を変えていたアレか。こんな小さな部品で……凄い」
指の第一関節までほどの厚みがある資料にはなかなか見応えのある技術も含まれており、つい耽読しかける。いけない、と立ち戻ったハンジは、知りたい項目を念頭に置いて文字を浚っていった。最後の一枚を捲るのは早かった。早かった、のだが。
「あれ……?」
おかしい。〝知りたい項目〟が見つからない。あの装置に拘束された人間の性感を高め、性行為に至らせる要因。その不可思議の源が、どこにも載っていなかったのである。
「リヴァイ、渡された資料はこれで全部……なんだよね?」
「そうだが」
答える声が思いのほか近くから返ってきたことにも気づかず、ハンジは何度も紙を捲りながら思考に没する。
(隠蔽されている? いや、最終稿の設計図にも何かを隠したような不自然は見られない。……じゃあ、)
「あの夜のことは……」
「気になるなら、直接アレをバラしてみるか」
「うわっ!」
すぐ隣から斬りこむような提案をされ、ハンジはまず、提案をしてきた存在との距離感に度肝を抜いた。いつのまにか、リヴァイが背もたれに腕を回してハンジを囲うように座っていたのだ。しかもハンジが驚いて座面の上を後ずさると、何食わぬ顔で近寄って空いた場所を埋めてくる。ソファの端に追い詰められ、なのに冷静な瞳に「どうする?」と見つめられて、違和を正すよりも「何が!?」と訊き返してしまった。
「あの装置だ。報酬として分捕ってきたから、どう調べるのも自由だが」
「分捕ってきた……!?」
「どうせ複製なんて腐るほど作れるだろうからな。大して渋られもしなかった」
そう言って部屋の隅へと動く視線を追えば、布がかけれた大きな物がそこに鎮座していた。仕様書によれば折り畳み可能らしいので、小さくしたものをしれっとあそこに置いているのだろう。どんな度胸してるんだ、とハンジは思った。推察どおりならば、リヴァイが交渉した相手は兵団上層部である。どう脅しつけたのか、老獪な彼ら――というか彼――相手に凄いことをしてきたものだ。
「た、助かるけど……ええと、」
しかし、だ。先方があっさりとあの装置を手放したことで、かえって『隠蔽はない』という証明が成されてしまったことにならないだろうか。強制性交装置なるものに、この資料に書かれている以上の能はない。つまり。
(私が、勝手に……)
「――どうする?」
「ひえっ」
リヴァイに吐息で後れ毛を撫でられ、ハンジはようやくその異様な近さを思い出した。抗議しようと体を向けて座りなおした瞬間、背もたれにかかっていないほうのリヴァイの手が、とん、とハンジの膝に乗せられる。ごく軽い熱が、それでも確かに、服越しの肌を撫でる。ハンジはそこで、直接そうなのかと訊ねる前に、わかってしまった。
「……リ、ヴァイ……」
「なんだ……?」
瞬きをして、今度はその内心を慮りながら、もう一度見つめ合う。
どうして、今の今まで知らないふりができていたのだろう。この部屋に来てから。それとも、あの夜から。いいや、きっとそれ以前から。
リヴァイの薄い色の瞳は、まるで炎で舐められて溶けだした金属のように、つるりと表面を光らせている。その熱さに捕えられていると、唯一触れあっている一点がまたハンジを刺激しはじめる。中指で膝頭をくるくるとなぞられ、それが足のふもとに方向を示して傾き、また行儀よく元の場所に戻っていく。ハンジの中心に来たがっている。
誘われているのだ、と。明確に理解した途端、顔が熱くなった。
「……っ」
「ああ、いっそもう一度使ってみるか? 二度三度とヤってみりゃ、お前の疑問も解消できるかもしれねぇだろう」
「や、実験の在り方としては、それが正しいけど……」
「なんなら、次は俺が座ってもいい。散々好き勝手したからな」
「! リヴァイ」
この申し出には驚いた。知識欲の行きつく先にハンジが「今度は君が座ってくれ」と言い出すならともかく、リヴァイが自分から拘束されようとするだなんて思わなかったのだ。しかもハンジ相手に主導権を渡すなんて、リヴァイじゃなくたって普通は嫌がるはずだ。
胸の中にずっと、うっすらと積もっていた「性欲発散の相手が欲しいのかもしれない」という疑いは、この時点で完全に散り飛んでしまった。
「君、どうしてそこまで……」
呆然として問うと、「どうして?」と、熱を溜めた眼がすうと細まる。手は動きを止めて膝を包むだけになり、ハンジを甘く崩そうとしていた気配が突然鳴りを潜めた。
張り詰めた空気が周りに満ちる。それは、言い聞かせたことをまったく理解しない相手への怒りにも、小箱に隠した宝を教えるような恥じらいにも感じられて。
リヴァイの口が「俺は」と小さく開く。
「最初は……連中に手を貸すつもりなんて、毛頭なかった」
忌々しげに額を歪めながら、初めてその意図を明かしていく。
「お前が座る役なんかで名前を出されなきゃ、あんなモンとっとと蹴り壊して突っ返してた」
やはりそうだったのか、とハンジは唇を噛んだ。大方リヴァイを釣るために受験者として名前が挙げられたのだろう。リヴァイ自身それに気づかないわけがないし、察したハンジがこうして罪悪感を抱くことさえわかっていたはずだ。
なのに彼は今、それさえも超えて心の内を見せようとしている。単なる仲間との受難や、あの夜にあった強引な結実とも違う、まったく別の形に帰結させようとしている。おそらくは、ハンジのワガママのために。
「吐いた唾は飲めねぇ。一度引き受けたなら、ただの任務として終わらそうと腹を決めていた。……なのにテメェときたら、あんな声で俺を呼ぶ」
「えっ」
「いかにも俺に気があるような……クソムラつく声で」
カッと頭に血が上るが、一つの疑問がかろうじて冷静をつなぐ。ハンジはあの夜の自身の淫乱を装置のせいだと思っていたが、それは違うと否定されてしまった。リヴァイは果たしてどこまで気づいていたのだろう。
「君は、あの装置の効果のことは……最初から知ってたの?」
「いや……だが、やたらゴチャゴチャ動くだけのカラクリじゃねぇか、とも思っていた」
「なんで?」
「みっともない願望だ。……お前が気のねぇ男にもあんなザマを見せるなんて、思いたくなかった」
あんなザマ、と婉曲に示されて、かえってあちこちを鮮明に思い出す。羞恥で身悶えるハンジとは逆に、リヴァイはどこか悲壮だった。
「あんなふうに、求められて、しゃぶられて……殺した情だって、さすがに生き返る。……あのクソ装置のせいだとしても、お前なら、圧しきっちまえば、と」
「……そんな」
てっきりハンジの気持ちを全て把握して、自信に満ち溢れた行動をとっているのだと思っていたのに。内心でそんなことを弄していたのかと驚く。
「悪かった。お前の言うとおり、全て改めて、……振られるなり、すべきだったな」
「わ、私だって!」
盛大な告白を、けれど少し待ってほしい、とハンジは遮った。リヴァイは自分自身を悪者のように言うが、こっちにだって言い分はある。
「私だって、そりゃあ、装置の効果については根っから信じちゃったけど! でもね!」
目を丸くするリヴァイに迫り、ハンジも、胸裏に苦しく溜めていた感情を吐き出す。本当は、あの夜に伝えるべきだったことを。
「君が相手じゃなきゃあんなもの、その場ですぐに解体してたよ! けど、リヴァイだから……」
小さく息を吸って。
「途中からは、……リヴァイじゃないと、って、ずっと思ってたよ。——今も」
「ハンジ」
「都合がいいかもしれないけど……あの装置に、この気持ちを疑ってしまうような変な効果がなくてよかったって、思っ」
頭を掴まれ、視界がいきなりリヴァイでいっぱいになったと思ったら、了承も何もなく口を塞がれていた。
足元に書類が散る。鼻先の初めての光景を惜しみながら、ハンジもすぐに目を閉じる。あられもないところを夜通しぶつけ合ったくせに、一番に切望しながら得られず終わったキスを、今、互いにようやく味わう。
「ん、ん……」
歯の存在を奥に感じながら唇をぶつけあい、相手のものを食んで、甘く噛みつき、外に出した舌を擦り合わせる。そのうちピタリと洞が合わさり、くちゅくちゅと中で全てが混ざり合う。
頭がぽうっと熱くなって、体が空の彼方まで浮いていってしまいそうだった。多幸感とはまさしくこういうものを言うのだろう。しばらく夢中で口づけ合っていたが、リヴァイの手が首へ降りてきて、肩を抱き、背中を撫で、尻を覆ったところで、ハンジの危機が呼び覚まされる。断腸の思いで繋がりを振り解いた。
「……っリヴァイ、私、午後から技術班に……」
「チッ」
盛大なしかめ面と舌打ちを残して、それでもリヴァイはきびきびと床に散らばった紙を集め、埃を払って封筒に戻し、しっかりと口を閉じる。ハンジもハンジで身なりを整え、何も言わずに立ちあがった。頭の中には何言うべきかという思考が渦巻き、足元がおぼつかない。
ついてくるリヴァイを携えてトボトボと扉の前まで来た時、ハンジは意を決して振り返った。
「リヴァイ!」
「どうした」
「あっ、あのさ……! アレの仕組みは、引き続き解明したいなって思ってて、えっと、資料との照らし合わせもしたいし、君の申し出もあったことだし、」
部屋の隅に眠る過去をちらりと見たハンジは、けれどすぐにリヴァイを視界の真ん中に置く。それ以外のものを削ぎ落とすように。
「君さえよければ、また、〝実験〟できたらと思うんだけど……」
リヴァイは瞬きをして、当然のように頷いた。
「ああ、協力しよう」
その一言だけで。たった一巡のやりとりだけで。二人はきちんと理解した。
これが欲の伏流に申し訳程度に被さる、上っ面だけの会話だということを。これ以降は、とうとう重なるまでにどれだけ相手を高められるかという、爛れた戯れに過ぎないのだということを。
「あ、……ありがとう、それであの」
すう、と息を吸うハンジの湿った肌から、リヴァイはひと時も目を離さない。
「効果の比較のために、アレだけじゃなくて、ベッドとか……ほ、他の場所でもたくさん、する必要があると思うんだよね……だから、っ♡」
また、声と吐息を相手の口内へと吹き込む数十秒が経つ。いろいろなものを引きながら離れたあとで、新鮮な空気を吸いこんだリヴァイが、燦々と降り注ぐ陽光を背にはっきりとした輪郭で言ったのだった。
「――ああ、まったく。お前はしょうがねぇ奴だな、ハンジ…♡」
〈了〉
(初出 24/03/31)
(初出 24/05/10)