私の女神
美しい男に喰われる話
私の女神
美しい男に喰われる話
彼について語るとき、ハンジが言うことはいつも同じだった。
「綺麗、ですか?」
「うん。それが一番しっくりくるんだよね」
紙に書かれた数字の羅列に傾向を探りつつ、ハンジは神妙に答えた。研究室にこもっての長期間の作業に、世間話は必須である。もちろん状況にもよるが、無自覚的に狭まっていく視野に対して、『他人』と『時間』というファクターは重要な働きをする。
今日の議題は《リヴァイ》だった。第四分隊の先頭班の中では唯一の女性であるニファが、またもや彼に「研究室の掃除はちゃんとやってるのか」と親切な小言を食らったらしい。「ああして実家の母のようなことを言われていると、凄い御方であることをつい忘れてしまいそうで」との苦笑を皮切りに意見交換がはじまったものの、ハンジが掲げたリヴァイ評にニファは首を傾げている。
「綺麗……失礼ですが、それは見た目の話ですか? それとも、心掛けのような……?」
「全部かな。見える部分も見えない部分も、全部綺麗」
「ぜんぶ」
ハンジの与太話の相手は、大抵がいつも女性兵だ。特にニファとはなにかとおしゃべりに花が咲く。男同士の輪にも入れないことはないのだが、飛石のように話題や比喩を渡り歩くハンジは時に軽薄だ軟派だと見られがちで、私的な体験や感情についてはほとんど言及されることがない。必然、同性と交わすのは兵務に関する事柄が多くなる。
対して、女性たちはといえば。こと会話においては柔軟性や適応性に富んでいることが多く、いつだってハンジの言葉も広く浅い意味で受け取って、軽やかに次に進んでくれる。彼女たちとの会話はとても気楽だった。班の男連中が所用で出ている今、二人のとめどない会話を咎める者はいない。
「つまり、兵長の所作や考え方、心根などの部分も引っくるめて、全部、ということですか」
「そうそう。例えば……山や湖なんかの自然は、人の目に美しく映るように計算して創られているわけじゃないだろう? でもあんなに雄大で綺麗だ。彼にもそれと同じものを感じるんだよ」
ハンジの言葉を聞いたニファが、顎に手を当てて考える素振りをする。先日モブリットに「分隊長に似てきましたね」と指摘された仕草だ。彼女がやるとずいぶん可愛らしい。
「もしかして、兵長を神格化されてます?」
「……そうかもしれない」
可愛らしい、なんて感じたそばから錐のような意見で刺されたりするのだから、彼女とのおしゃべりはちっとも飽きがこない。
「エルヴィンやミケなんかも凄い奴だし、同じ男として格好いいとは思うけど、彼らのは『こうなりたい』と憧れて、目標として据えられるような魅力なんだ。実際になれるかは別としてね。……でも、」
実験結果を一旦隅に起き、リヴァイのことを考える。その天辺から足の裏までを脳内に描き、〝生きるために生きてきた〟肉体と精神の美しさを思う。
余人から抜きん出た力は周囲を圧倒し、また同時に惹きつけもする。なのに、特異な出生にちなんだ物言いや思考は他人を寄せつけないことがある。小さな体躯は機動性抜群で、けれど隆とした筋と骨には重さを感じる。視線は建前を切り刻むように鋭くて、だけど、話すことはぶあつい壁のように本音を遠ざける。彼の持つすべての要素の相反と撹拌が、彼を地面に定着させない。
「リヴァイは出会った時から、ずっと超自然的だった。風や水が偶然意思を持ってしまったような……つかみどころがないというより、つかんではいけない畏怖を感じるんだ。彼を見るたびにそういう美しさに打たれて、『絶対に〝ああ〟はなれないな』って思ってしまうんだよ」
ハンジの言動に呆れたり焼きを入れたり、気遣ったりしながらも、リヴァイはハンジの持つ俗に決して染まったりはしない。どころか、エルヴィンやミケのような特別な人間たちとでさえ一線を画す場所にいる。ハンジにとって、リヴァイとはそういう存在なのだ。
「……私には、よくわかりません」
ニファが困ったように言う。
「はは、そうだよね。実を言うと私にもよくわからないんだ。綺麗だと思う結果だけがあるんだよ」
「その超自然的で綺麗な兵長が、今しきりに気にされているのが、この研究室の清掃のことなんですよね?」
気の利いた転換に、ハンジは思わず笑い声をあげた。
「それも不思議だよねえ。実際に彼がここを使うわけじゃないのにさ」
班のメンバーに敬意を表して、リヴァイはこの研究室に深く足を踏み入れることはしない。だからこそ指摘の箒で掃こうとするのだろうか、小言の数は一向に減らないのだ。
「汚れた場所の存在、その可能性ですら許せないのかもしれないな」
「でも女子便所の掃除については何も言ってきませんよ」
「それはさすがに問題になるだろうからね……一応弁えてるんだと思うよ」
徐々に逸れていく本筋を「これぞ世間話」とゆるやかに受け入れつつ、そういえば、とハンジは考える。
この数週間、リヴァイとまともに話をしていない。かろうじて視線を交わしたのも二日前。苦労して壁内に連れてきた巨人が、拘束具を引きちぎり部下に食いつきそうになったところをリヴァイがうなじを削いで阻止した時だった。
出会ってから今日まで、こんなにも長く関わらなかったことがあっただろうか。彼が調査兵団にやってきて間もないころでさえ、その影を目にしない日はなかったというのに。
手元を見やれば、今回の巨人に対するあらゆる観察や実験結果が積まれている。きっと抽出できる成果は少ないだろう。それでも、共に戦う仲間たちやあの綺麗な男が、巨人の脅威に晒される時間が短くなるなら。少しでもその確率が上がるなら、いくらでもこの身を捧げられる、とハンジは思う。リヴァイと言葉を交わせない恐れだって、そう、ほんの些細なことに違いなかった。
キ、と床の軋む音が、なぜか妙に耳に障った。火を入れたばかりのランプのもとで、探しもとめるモノがなかなか見つからず苛立ちを感じ始めた時だった。
「……誰かいるのかい?」
部屋の隅の暗闇に、ハンジはそう呼びかけた。研究室は整頓こそされているものの備品の数が多く、死角も至る所に存在する。野盗が隠れるにはもってこいの場所なのだ。しかしハンジに警戒はなかった。
「——リヴァイ?」
果たして、声が返ってくる。
「夜更かしが過ぎるぞクソメガネ」
無許可で研究室に立ち入っておいて随分な言い草を放ちながら、重たい足音で現れたのは、案の定リヴァイだった。
彼の気配は独特だ。まったくの無に感じるときもあれば、潰れるほどの威圧になるときもあり、すぐそばに立たれて触れられているように感じるときもある。その独特が故に『リヴァイがいる』とわかってしまうのだが、使い分けているのなら相当人間離れした技だ。はっきりと顔が見える場所までやってきたリヴァイに、ハンジはわざと厳格な表情をつくってみせる。
「そっちこそ、随分な夜遊びだね? さあ、研究室侵犯の理由を教えてくれよ。場合によっちゃ懲罰房入りだ」
「窓から灯りが漏れているのを見て賊の侵入を疑った」
「おっと」
「賊じゃなく糞だったようだが」
「ごめんごめん、疑って悪かった。見回りご苦労、兵士長どの」
リヴァイの背中をバシバシ叩きながら、ハンジは笑顔の裏で安堵した。一ヶ月近く言葉を交わしていなかったにも関わらず、彼との会話には一切つまずきがない。ほんの数時間前にも話したような気安さが漂っている。両者のなかの互いが、まだ変容していない証拠だった。
「で?」
たった一言で「お前こそこんな時間に何をやっている」と詰問してきたリヴァイに、今度はハンジが説明をはじめる。
「うん実はさ、今日やっとまとめあげた報告書の内容について、寝る直前に急に気になることが出てきてね。居ても立ってもいられず確かめにきたんだけど、当の報告書がどこにも見当たらないんだよ。参っちゃってさあ」
つらつらと述べるのに合わせて、相対する眉間が狭くなる。
「……この惨状で見つかると思ってんのか?」
そう言って辺りを示され、「惨状?」と彼にならって視線を巡らせると、二人が向かう机の上にはもちろん、そのまわりを囲むように書類や書籍、紙屑が散乱している。ハンジは瞠目した。
「あれ? なんでこんなに散らかってるんだ」
「お前がやったんだろうが」
「私?」
「三週間と四日、囲った巨人の観察以外はここに籠って食うのも寝るのも適当に済ませて、紙束にガン飛ばしてペン軸折りまくって文字と数字書きつけた結果がこれだ。班の奴らが多少は片付けていたみてぇだが……それも今しがた、どこぞのクソメガネがパァにしちまった」
雪崩のように突きつけられたものを反芻し、なるほど、と得心する。三週間と四日。巨人の捕獲以降、研究班が対象の観察や実験、分析に費やした期間だ。本日の夕方にようやく調査結果報告書の第一稿をまとめあげ、没頭に目処をつけたハンジは自室に帰り体を清めて休もうとしていたわけだが、そういえば、研究室を出た時の室内の様子を思い出せない。ひとたび目標を定めればそれを達成するまで生活の質をとことん落ち込ませ、そのたびにリヴァイに苦言を呈されてきた自身を顧みる。まったく自覚はなかったが、今夜の室内の有様もそれのせいなのだろう。
「ということは報告書も……あっ! あったあった!」
数歩ほど暗闇を進み、物を埋めがちなハンジのために班員たちが一時的な避難所として用意してくれた戸棚を開けると、あれほど探していた報告書があっさりと出てきた。一稿目だからと雑にまとめていた注釈なども綺麗に整頓されている。
「こういうことをしてくれるのはニファだな……」
やれやれ、と取り出して要加筆のメモを挟み、ハンジは書類をしまい直した。
「いやあ助かったよリヴァイ。あり、」
振り向いて、すぐ。触れそうなほど間近に彼がいて息が止まる。今度の気配はまったく読めなかった。やはり使い分けているに違いない、なんて思う裏で、室内の小さな光をすべて引き連れたかのように照る彼の眼が、ハンジの心臓をきゅう、と縮み上がらせる。
「汚ねぇな」
当のリヴァイは、ハンジの背後の戸棚にちらりと目をやったかと思えば、机のまわりに飽き足らない騒然を責めるように睨みを戻した。本物の怒りにはほど遠い、お遊びのようなしかめっ面だ。
「籠城は終わったんだろう。明日は班総出で掃除だからな」
「わかってるって。ウチの子たちは優秀だからね、本気を出せばリヴァイ程度の戦果なんて簡単にあげてみせるよ?」
「ほう」
皮肉の一つでも言われるかと思ったが、リヴァイは机のほうに目を向けて何かをじっと考え込むように押し黙った。ハンジも釣られて口を閉じるが、内心で湧き上がるものを抑えきれない。
(ああ、綺麗だなぁ)
この男ときたら、どうして皺の一筋でさえいちいち美しいんだろう。輪郭は風に吹かれた砂の軌跡のように儚く、なのに、女神の横顔に似た堂々を湛えている。鬨の声をあげて気勢を掻き立てるのは歴代の団長たちであったが、何度門をくぐっても亡くなりやしないハンジの恐怖は、いつだってあの女神の面影に慰められてきた。彼の静謐は、それと同じものを湛えている。
突然、リヴァイが言った。
「風呂は」
視線は横向いたままだ。
「……え? あ、私? 体は拭いたけど」
「今夜はどうするんだ」
「今夜?」
「籠城が終わった後はいつも何だかんだとうるさいだろうが、お前は」
そうだっけ、と記憶を探るも、浮かぶのは鷹揚にうなずくリヴァイの姿だ。彼は頭脳労働で疲弊しつくした後のハンジに、〝いつも〟小一時間だけの無茶を許してくれる。
騒ぐというには弱い力のなさで半分寝ぼけて支離滅裂なことを話すハンジを風呂場に押し込んで、濡れた髪を乱暴に拭いながら律儀に相槌をうって、とうとうそれが途絶えた後はベッドに放り投げて、施錠までして部屋を出て行くのだ。思い返せばとんでもない親切の重層だ。なんだか、脳の芯を優しくくすぐられているような気持ちになる。
「いつも、ね。まったく……君くらいだよ、そんなふうに私の平穏無事まで気にしてくれるのは」
「わかってんじゃねぇか」
「うんうん、心から感謝してる」
先日ニファとあんな話をしたからか、それとも久方ぶりの実体にあてられたのか。リヴァイの輪郭が、まるで熱を発しているかのようにハンジの感覚を焼く。自身の肉体と空気の境目が曖昧になるような心地だった。視線を合わせたところで目も眩みだして、不自然でないように顔を逸らす。
「安心してくれ。今夜は大人しく休むつもりだから」
「……腹の調子でも悪いのか」
「快便だよ。今回は研究中もニファがよくおしゃべりの相手になってくれてたんだ。だからわざわざ誰かを煩わせることはないかなって、」
「——汚ねぇな」
ぼたり。まるで泥が落ちたような呟きが、ハンジの言葉を塗りつぶした。自分から訊ねたくせに、リヴァイは視線を床に落として、話を聞いていたのかも曖昧な態度だ。よっぽどこの部屋の状態が癇に障るらしい。
「……えーと、だったら君も明日一緒に掃除する?」
「部屋が、じゃねぇよ」
「え?」
「汚ねぇツラしやがって」
くっ、と。胸を手のひらで抑えられた。ごく軽くではあるが肉厚なその圧迫が、一瞬だけ呼吸を奪う。驚いてリヴァイを見れば、鼻先に彼の顔があった。そうして、ハンジが何かを言う前に、唇が重なっていた。
「……ごめん」
自分でも情けないと感じるほど力ない呟きに、相対する瞳の奥で、何かが揺れる。
「っ、ごめん!」
もう一度繰り返すと、今度はその何か——固く張り詰めていて、得体の知れない何か——が、溶けて崩れていく気がした。気がしたところでどうしようもなかった。今いまハンジを「汚ねぇ」と罵った相手の、よりによってその唇に、ハンジは触れてしまったのだ。全身が氷を詰められたように冷たくなる。同時に汗を噴くような焦燥にも追いかけられて、ハンジの頭はとにかく元凶である場所から痕跡を消し去ることでいっぱいになった。震える手のひらでリヴァイの口元を覆い、その確かな熱と感触に馬鹿みたいに驚き、どうにか寝巻きの袖をたぐってようやく彼の唇を拭う。
「ごめん、ごめんよ、わざとじゃないんだ。やろうと思って、キ……、したわけじゃなくて、」
必死で言葉を続けながらも、頭の中では「そうじゃないだろう」と別の声が狼狽えている。
ハンジは何もしていない。何もしていないのにリヴァイの顔が目の前にあって、気づいたら柔らかいものに触れていた。それはハンジが得たいと願って得たものではなかった。だから、ハンジのせいではない。はずなのに、そんな弁解も潰れるほどの負い目がひたすら謝罪を吐き出させた。
(なんで、なんでなんでなんで!)
冷や汗の濁流が、脚のあいだでジンと脈打つ熱のかたまりを際立たせる。リヴァイの唇に触れた瞬間から生まれたそれは、勃起というには微かで、けれどまごうことなき反応だった。
(なんで……! たかが顔の一部で!)
意識すればするほど、血の含みは増していくようだった。絶対に気づかれてはならない。その一心で、ハンジはリヴァイの唇どころか鼻や頬、顔全体をゴシゴシと拭きあげた。
「……済んだか?」
「た、たぶん」
焦って手を離した途端、現れた両眼にまた心臓をきつく握られる。ヒッと鳴りそうになる喉をどうにか押し留め、ハンジは大袈裟に体をひいた。
「ああうん! どこからどう見ても美丈夫だよ!」
「そうか」
リヴァイが、たいして結果を気にした様子もなく頷く。そうしてベロリと舌舐めずりをしたかと思うと、最低限の動作でハンジの胸ぐらを掴み、力任せに引き寄せてきた。
「んっ……!?」
薄くて柔らかい皮膚の下に、歯の硬さを感じたのはほんの少しのあいだだけだった。痛いほど押しつけられたリヴァイの唇が万力のようにゆっくりと開き、ハンジの口もいびつに開く。隙間に指を差し込まれ、あっというまに開かれた場所に、ねっとりと重たい熱が流れ込んでくる。リヴァイの舌だ。認識した直後、ハンジの下腹が、より一層不明の凝りを増す。
「なにふ、っぁ」
ぐちゃ、と音が聞こえた。外からではなく、口の中から。聴覚を犯したその事実は、消し去るまもなく脳全体に広がり、ハンジの眼裏に別々の粘膜が絡み合う像を作り出した。口蓋を舐められ、歯列をなぞられ、じゅぽ、と舌を吸われて、苦しさから引き出す力に従えば、リヴァイが顔を動かしてそれをしゃぶりだす。耐えきれず目を開くも、今度は鼻先でリヴァイが瞼を震わせている様を突きつけられる。眼球を包んで繊細に見える薄い皮膚からはハンジを強く留める力など想像もできない。とっさに抵抗した右手もすぐに捕らえられて、腕ごと自分の腰に回された挙句、リヴァイの右手で左腕側に引っぱるように拘束されてしまった。それならば、と振り上げた左手は脇の下に肩を入れられ、可動域を封じられて彼の服を握るだけになる。
鮮やかな手つきだった。リヴァイは男ひとり、大の大人、一介の兵士を封じ込めることにいっさいの困難と躊躇を抱いていなかった。もがいて突っ張るハンジの両脚さえものともせず、抱きしめるようにして全身を抑え込んでくる。押された背中が後ろの棚に強くぶつかり、バサバサと何かが落ちる音がした。息苦しさから無意識にリヴァイの肩に縋ったハンジは、それが彼との密着を招くことに気づかなかった。
「……オイ、」
「え、っあ」
ふっと瞬いた眼光に、隠蔽など無意味だった。密度の高い筋肉をまとった腹が、ハンジの欲望をあっというまに暴く。
「テメェ、なんで股座こんなガッチガチにしてんだ? 舌しゃぶられて興奮したのか?」
「ばっ、やめ……」
硬くなったそこを押しつぶすように刺激され、逃れようにも背後の棚に阻まれる。おまけに尻まで掴まれて、追及をかわすことなど到底叶わない。
「なあ、俺に欲情したのか」
「違うってば!」
必死で首を振るも、その強情を嘲笑うかのようにリヴァイが動きを変える。上半身をわずかに退き、股だけはぴたりと合わせたままユサユサと腰を突き上げはじめたのだ。睦合いの最中、女の中に入り込んだ男が、濡れそぼった穴を擦りあげるように。
「っぁ……く!」
喘ぎそうになるのを、歯を食いしばって呻くことでかろうじて耐える。不随意の快感に頭蓋のなかが一気に煮えたち、カッと頬が熱くなった。「何か言わなきゃ」と湧いた唾液を飲み込むも、存外大きく喉が鳴って、自身の興奮を嫌でも掲げられる。聞こえてしまったかもしれない。焦ってリヴァイを見たハンジは、けれどすぐに後悔した。熱っぽく、そのくせ責めているかのような険しい目がこちらを刺していたからだ。ほんの一瞬でも「与えられるものを吟味したい」と傾いたことを、盛大に罵るように。
「あ、っあ……! 違うんだ、わかるだろホラ、研究室に籠りっきりで、溜まってたんだよ! だからその、」
「溜まってた、なぁ?」
「ぅわっ」
不意に、ぐ、と体が浮いた。踵が床から離れる不安定を感じ、肉体と視界をぶんまわされる。瞬きと鈍い衝撃の後、ハンジは呆然と天井を見上げていた。リヴァイによって仰向けに引き倒されたのだ。慌てて肘をついて起き上がる。
「ちょっと! 危ないじゃな、」
なじりは簡単に潰れてしまった。リヴァイの顔が、瞳の輪郭がぼやけそうなほど間近にあった。適当に置きやっていたランプの灯りが、その瞳の陰影を蒼深く描く。飴をかけたように艶めく眼球が、嘘も衒いも、いっさいの揺らぎもなくハンジを射抜いている。
あ、と思うと同時にまた唇が触れて、背中が床の上にべたりと戻された。覆いかぶさってくる熱にハンジはただ震えただけだった。もう誤魔化しはきかない。リヴァイがリヴァイの意思で、ハンジにキスをしている。ハンジが綺麗だと思ってやまない姿で、ハンジを「汚い」と痛罵した口で。彼の言と動とは明らかに相反しているのに、普段のハンジがやらかすような、思考と行動とが足並みをそろえられないような矛盾は感じない。彼のなかで、一連の行為は一貫しているのだ。
「っは……!」
「抜いてやろうか」
離れた唇が紡いだ言葉に、ハンジは耳を疑った。シモの話こそ好んで出しはするものの、これまで性の匂いなど感じさせなかったリヴァイの口から、溜まるだの抜くだのと雄の肉欲が臭うような単語が繰り出されのだ。低俗なその響きに、なぜだかズクリと腹が疼く。
「そ……ういうの、さすがに冗談じゃすまないよ……」
「ああそうだろうな。テメェときたら野郎相手におッ勃てて、冗談なんかで済むわけねぇよな」
「そんな」
あたかもハンジこそがこの行為の主体であるかのような言い草だ。そんなはずはない。リヴァイがここに導いたのだ。無理やり。強いる形で。ハンジの意思を無視して。——本当に?
「っ! は、ぁ」
飛びかけた意識に、するり、とまったく異質な感覚が刺しこんだ。一瞬で皮膚を剥がれた挙句、じかに神経に触れられたかのようなそれに、全身の力が抜けそうになる。頭を起こして互いの体の隙間から下半身を見やれば、痺れを切らしたらしいリヴァイが、寝巻きの上から股間をゆっくりと揉みしだいていた。
「え、え〜…あ、うそうそ、うそ」
「うるせぇ」
リヴァイが、ハンジの性器に触れている。兵器とか茶器とか掃除用具とか、とにかくハンジ以外に使い込まれた、清潔な手のひらで。彼は呆然とするハンジの視線を釘付けにしたまま、硬くなった陰茎を扱き、頭の膨らみを指先でクルクルと撫で回した。五本の指で極め付けのようにくびれをくすぐられ、ピクン、と自身が震える。
「……動いたな。よかったか?」
「っんな、こと!」
耳元で囁かれ、顔を隠そうとすれば腕を捉えられて強い力で床に押し付けられた。ならばと限界まで首を逸らして視線を避けるも、浮き上がった筋を鎖骨から上に向かって舐められる。喉から息が抜けた。暗い室内に散ったそれは女の嬌声に似ていた。
「甘っくせぇ鳴き方……」
低く掠れた声でなじられ、否定と拒絶のつもりでかぶりを振る。だがリヴァイは正確にハンジの耳殻に舌を伸ばし、唾液を滴らせながら軟骨をなぶってきた。じゅるじゅるとわざとらしく淫らを煽られ、背筋にぶわりと鳥肌が広がる。急所に手をかけられたままいっそ暴力じみた手管に翻弄され、知らぬまに滲んでいた涙が、ポロリとこぼれ落ちた。
ふ、と目元に温い感触が触れる。薄目を開けたハンジは、リヴァイが舌なめずりするさまを間近に見上げることになった。唾液だけじゃなく、涙まで、彼の体内に取り込まれてしまったのだ。
「は……エロいツラしやがって。イイってことか」
「ッ、ん」
意識が緩んだのを見逃さず、リヴァイがハンジの寝巻きを下履きごとずり下げた。膝まで一気に露出させられ、下半身がすうと冷えた空気に晒される。リヴァイの突飛な行動にハンジはもはや驚きすら追わせることができなかった。解放された陰茎がぶるんと上下する様を呆然と眺め、そこに伸びる手を漫然と受け入れてしまう。屹立に直接指が絡む。熱い。強い。——快い。
「チッ。口吸っただけでチンポガチガチにしやがって。まさか童貞か?」
「ち……ちがうけど、ぅうっ!」
否定の途中できゅっとカリ首を締めつけられる。ぬらぬらと光る赤黒い肉を、常ならば清廉と、時には暴虐を持って動く指先が滑らかにしごく。女のそれよりも確かに太くて節くれだった五本は、なのにずいぶんと艶かしくハンジを追い込んでいく。
「ぁっ、あっえ、だめだ、だめだよ!」
「何がダメだ。もうイッちまうのか?」
「汚れちゃうって!」
く、と喉の詰まる音がする。
「……汚すのはお前だ」
「触ってるのはそっちだろっ!」
「は。女の手は汚せて、俺は許せねぇってのか」
「っはぁ?」
どうして急に女の話になるのか、心底意味がわからない。
身を丸めて隠そうとするハンジの頭を、リヴァイの手が乱暴に掴み、放り投げるような強さで開いてくる。そうして屹立に手を伸ばし、明らかに追い詰める動きでぐちゃぐちゃと扱き出した。
どれだけ根を詰めても、この研究室に籠る空気は、大義と情熱に塵を燃やされて静謐だった。なのに、今はひたすら、つん、と生っぽい匂いが鼻をつく。
濡れた口を開閉させて、ハンジは「冗談じゃない」と喚きそうになった。冗談じゃない。何を考えてるんだ? 大事な大事な研究室で、脈絡もなくこんなことをして。男同士なのに。相手はよりによって——私なのに。浮かんだ言葉の一つも、声に出すことができない。上っ面を適当に引っかくようなそれらの問いに、本当は、自身でさえ答えを欲していないことに気づいてしまったからだ。この苦痛のような攻めも、ハンジが「やめろ」と本気で刺せば終わるだろうことも、本当はわかっていた。けれどじゃあ、何を言えばいい。
「ああっぁ、あっ」
「抵抗するな、ハンジ……じきに好くなる」
(あ)
犯している側の、身勝手で一方的な言い分。だが、ハンジがその中から一番に、そして唯一拾ったのは、久方ぶりの響きだった。「ハンジ」と呼ぶ声。リヴァイの落ち着いた声音を土台にして、派手ではなくともいかようにも抑揚を伴って。まるで自分が特別な存在になったかのように感じられる、この世にたったひとつだけの彼の調べ。
「……りばい……」
名を呼ぶと、ぴた、とその動きが止まった。自分でさえ、どんな二の句を継ぐつもりで呼んだのか定かではなかった。彼は尚更何を感じ取っただろう。ハンジが薄闇に答えを探すと、光る両眼が、裁きを待つようにそこにあった。
(ああ……怖がってる)
どうしてか、そんなことを思った。
同時に、彼はやっぱり綺麗だ、とも思った。支離滅裂な主張にも、行動にも、表情にも、その美しさはけして矛盾しないのだ。不動の事実はハンジを心底安堵させた。
「幻滅したか」
ハンジに覆いかぶさったまま、リヴァイが頭を垂れて言った。闇夜ですら艶めく黒髪の向こうに荒いだ息が隠れ、死にも似た沈黙が一瞬だけ降りる。
「俺は、お前が思うほどマトモじゃない……仰ぎ見るような、人間じゃない」
「……君は、きれいだよ……」
こんな状況になって初めて、つっかえもなく、するりと言葉が出た。心のままに紡いだ糸だった。
「誰も、何も、到底……汚せない」
だから。他でもないリヴァイが自分で、ハンジへの暴力を不当なものと自覚しながら、その不当で身を堕とそうとしているのなら。まったくもって動機はわからないにしても、止めたい、止めなければ、と思う。どんな扱いを受けても、彼がハンジの友人であることは変わりようのない事実だからだ。
「だったら」
ハンジの崇高な使命感はしかし、突然、重たい声によって断ち切られた。
「お前に何しようが、関係ねぇってことだな?」
「えっ……ぅぐ!」
歯が当たるほど激しく口をぶつけられて、じいん、と痺れる痛みに思わず目をつぶる。と、体の上から激しい衣擦れが聞こえてきた。負傷兵の衣服を剥がすような、覚えのある音と切迫の後、経験したことのない感触が先端に触れる。
「ひ、えっ?」
再び開いたハンジの視界に、リヴァイの顔が、一番熱い場所に近づくのが見えた。その小さな口が見たこともないほど大きく開き、次の瞬間、がぷりと陰茎を飲み込む。
「あっ!? えあ、だめ、だめっ……!」
今の今まで拒んでいた男の肩を掴み、拒むどころか、縋りつくように身を丸める。熱くぬかるんだ肉が男根を飲み込む感触。しつこく絡みつく舌の不快。――我慢ならない快感。ふつふつと凝り集まっていた熱が、手招きされて解放へと流れていく。
ぶる、と腰が大きく震えて、それからすぐ。
「あ゛ッ……」
抵抗など初めからなかったかのように、ハンジの体は、あっけなく達してしまった。崇高なる研究室で。遥か高みに頂いていた男の口の中で。拍動に合わせて何度も迸る体液が、そのたびにハンジの脳を焼き切る。信じられないくらい気持ちがいい。
「……っは、ああ、」
「く、ふ。っは……濃いな」
「ぃ、やだ……」
唇の輪で幹を包んだまま、ぬるりと頂点まで滑らせて、尿道の残滓を、じゅ、と吸いまでして。リヴァイは、あまりにもそつなく全てを終えてしまった。頭を後ろにそらし、上下する喉をハンジに見せつけて、一滴の汚れも残さなかったその美しさを示す。
確かに彼は、ハンジが出したものを完璧に拭い去っただろうけれど。それはつまり、余すことなく自分の中に取り込んでしまったということなのだ。ハンジの体が生んだもの。唾液と、涙と、精液と。それらをすべて、リヴァイの体の中に。理由さえわからず。
呆然とするハンジに、彼は何を思ったのだろう。ここに至るまでの全てが、何一つわからない。唯一確かなことは、陶然と見下ろすその姿が、この世のものでないほど美しい、ということだけだった。
降れていたままだったリヴァイの手が、またゆるゆると動き出した。幹を象るその指先で、ハンジは、自分がまだ熱を保っていることに気づく。
「足りねぇのか……? わけわかんねぇって顔しといて、欲深いな……」
「あ、あ……」
れ、と上向くものに唾液を垂らされた。透明の線はすぐさま頂点にまとわりつき、零れる前に掌中に巻き込まれる。ぐちん、と一度扱かれて、ハンジは胸を逸らした。二度目の始まりは声も出なかった。
濁った吐息を天井に向かって吐き出しながら、視界にあわい光と闇が揺れるのを、どうしてか、とても貴い気持ちで追う。
「なあ、ッハンジ、次はお前の後ろよこせよ、俺もくれてやるから。な?」
上ずった声が、必死さを纏いながらハンジに向かう。じわりとしみ込んだ意味に、無意識に、カクン、と腰が突き上がった。
「大きくなったな……興奮したのか?」
そんなことわかるんだ、と、どこか遠い場所でハンジは思う。
「イイって意味だな?……なら、俺のモンだからな。違えるんじゃねぇぞ」
――〝俺のモン〟――
それはつまり、ハンジが、少なくとも体のどこかが、彼の所有になるということだろうか。
床に投げていた頭を起こし、自身の下腹にしつこくかぶりつくリヴァイの姿を見やる。
汗みずくで、瞳に炎を燃やして。ぼうっと内側から光る輪郭をひと時も闇にからめとられることなく、ただ、ハンジを暴くことに執着して。
(なんでそんなに、きれいなんだよ、君は……)
この美しい男に食われて、咀嚼されて、たとえわずかだったとしても、確かな血肉になる。肉体に起こる衝撃を凌駕して、その認識はひたすらに甘い。
ハンジは腕を上げて、指先を伸ばした。目ざとくそれを捉えた視線が光を煌めかせたかと思うと、飲み込むような勢いで応えてくる。指と指のあいだに、同じようにリヴァイの指が通り、熱く握り返されていた。万物の誕生からずっとそうだったように、肌は深くなじみ合った。
起源も知らぬまま、自分の身も心も、とっくにこの女神のような男のものになっていたのだ、と。
ハンジはこの時、初めて知ったのだった。
〈了〉
(初出 24/03/31)