フロム・ハー・フルード
愛した女たちの命を継ぐ話
フロム・ハー・フルード
愛した女たちの命を継ぐ話
「あなたはいつ、〝特別〟になったのですか?」
外から来た人間たちは、確かに新しい風に違いなかった。
「初めてアッカーマンの力を意識したのは? 生まれた時から備わっていた? それとも、ある日突然目覚めた?」
とっくの昔に聞き古された話題をまるで新鮮なモノのように掘り起こし、リヴァイの前に散らかしてきたからだ。
兵士に由来するといえど、借り物の部屋はよそよそしい。
窓辺に寄り素早くカーテンを閉じたリヴァイの背後で、ハンジも常より丁寧に扉を閉める。振り向けば目が合い、けれど逸らされ、かわりに「ああ」と溜息が転がってきた。
「一時間も暇になるなら、二人と話の続きがしたかったよ」
「……少しは総統や司令の分も残しておくべきだろうが」
「でも、彼らとの付き合いも今日で終わるかもしれないし」
彼ら――義勇兵。二週間前、この陸の南端に降り立った連中は、マーレに叛いた自分たちを指してそう名乗った。
壁中人類に協力をうたい、仲間の船を騙すまでしてみせた連中に対し、中央本部はその信義を問うべく三兵団合同での尋問を行うことを論結。先刻、調査兵団が海岸から本部に義勇兵代表二名を送り届けたところである。
リヴァイとハンジはそのまま尋問に加わる予定だったのだが、「憲兵団の準備にまだ時間がかかる」と待機を命じられた。その理由が人を待たせて食う昼食が格別に美味いからなのか、敵より優位に立つための威圧行為のつもりなのかはわからないが、馬車から降ろされた二人――イェレナとオニャンコポンには好都合だっただろう。
証言台での発言次第では、幽閉か、あるいはすぐにでも吊るされることになるかもしれない。海からここまでの数時間、同乗したハンジに質問攻めにあっていたことを思えば、覚悟の前にまずそれなりの休息が必要なはずだった。
「拷問中に俺たちと顔突き合わせて食ったアレが最後の飯の記憶になるってんなら、さすがに奴らに同情するな」
「え? なに食べたっけ?」
「カラッカラのレタスと妙に酸っぱい肉のサンドイッチ」
よく覚えてるね、と感心した後、ハンジが片眉をあげる。
「拷問って、もしかして馬車での時間のこと? 人聞きが悪いな、彼らも喜んで話をしてくれていたじゃないか」
底の見えない笑顔だったイェレナを指して「喜んで」などと言っているのだろうが、あの女もさすがに無遠慮なハンジの攻めには愛想が底をついたのか、最後は口角を下げていたはずだ。ハンジはそういう機微に気づかない人間ではない。より重要なことのために通り過ぎているだけだ。
身近な人間に対してだろうと、それは変わらない。
「……オイ、午前中は喋りどおしだっただろう。時間になれば遣いを寄越すと言われたんだ、少し休め」
据え置きの机から椅子を引き寄せ「ハンジ」と呼べば、当てもなく歩き回っていた体がぎこちなく近づいてくる。その襟首をつかんで座らせ、リヴァイは俯く顔を眺めた。
言えないことがあるとき、ハンジの目は何も見せない。鏡になりうる角度を取ろうとしない。それが嘘をつかないための策であるということを、リヴァイは知っている。
「頭冷やしといて悪いことはねぇだろ」
「待って」
離れようとしたリヴァイを、けれどハンジが止めた。
「少し雑談しない? あなたが疲れてなければだけど」
「……構わねぇが」
ひとたび揺れる心が定まれば、その視線がまっすぐにこちらを刺すことも、やはりリヴァイは知っていた。軽率を演じながら誰かの傷になる話題に丁寧に触れようとする。それが真実に対して誠実でいるための策なのだ、と。
向き直ると、ハンジは『雑談』なんて言っておきながら、あらかじめ決めていただろうことを話しだした。
「馬車の中で、イェレナが君に質問する側にまわった時、……なんだか昔のことを思い出したよ」
やはりそのことか、と思う。リヴァイの弱みを探ってか、勇敢にもあれこれと問いかけてきたイェレナの姿は、ハンジの言うとおり、リヴァイにも警戒と〝ある想起〟を与えた。
——『初めてその力を意識したのは? 生まれた時から備わっていた? それとも、ある日突然目覚めたの? ねえ、教えてよリヴァイ』
「遠慮のねぇコトばっか聞いてきやがったよな、お前も」
「でも、イェレナは私よりたくさんのことを知ってたね」
そう。過去との相違は、質問する側が未知の情報を持っていた点だ。
——『アッカーマンの血を継いでいるあなたは、ユミルの民の中でも〝特別〟な存在なんですよ、リヴァイ兵士長』
「王を守るための理想の戦士の一族。伝承上の存在。挙句が……人体実験の偶然の産物か。真偽はわからないけど、この巨人の島を楽園だなんて呼んでいた歴史がある連中だ。ありえない話ではないと私は思う」
「全部が全部本当なら、俺について『人間より巨人に近い』と分析していたお前の説は正しかったことになるな」
意外な返答だったのか、ハンジが軽く息を詰める。
「ああ、それも懐かしい話だ。ユミルの民の呪いを知った今となっては、私たち全員が巨人に近いとも言えるけど」
『全員』と強められた単語が妙に耳に障る。
「そういや、俺の血の色だの粘度だのを知りてぇとかでお前に刃を向けられたこともあったな。さすがに正気を疑った」
「……本当に、よく覚えてるね。出会ってすぐのころだ」
ひとつきりの眼球は、記憶を探る動きをしなかった。思い出すまでもなくそこにあった、ということだ。
「あの時も言ったけど、リヴァイの血液は一般的な人間のそれと変わらなかったよ」
「ああ、そうだったな。なら〝下の〟はどうだった?」
レンズの向こうに、一瞬、非難めいたものがあらわれた。外れそうになる視線を、今度は逃さない。
ハンジが座る椅子を、リヴァイは足先で軽く蹴り上げた。ひるんだ脳が反応を見せる前に、開いた脚のあいだに体をねじ込み、座面に左膝を置いて逃げ場をふさぐ。肩越しに背もたれをつかみ、限界まで退かれたハンジの体に迫れば、繋がった視線が急角度を描いた。
「……リヴァイ? これ、少し話しづらいんだけど……」
接触はしていないが、かろうじてという程度。囲われ、覆われ、身動きも許されない状態で、ハンジは握った拳でこちらを打つこともせず戸惑いだけを浮かべている。
「俺は〝特別〟か?」
「え?」
「〝特別〟だったから、お前も近づいてきたんだよな。常識外れの頼みもたくさん聞いてやった。……あの時も」
「なんのことだよ」
こんな時は勘の鋭さを隠すハンジにひどく苛々した。耳元に口を寄せ、ゆっくりと囁く。
「忘れたのか? 『何もしないで』いてやったのに」
「……っ!」
不本意にも自由の翼を背負い、一年を数えたころだ。自分の足が兵団に根を張りはじめていることに気づき、その原因の最たる存在に袖を引かれて、リヴァイはハンジと体を重ねた。近づいたと思った距離は、けれどその日を境に透明の壁を挟むようになった。
「あれ以降構ってこなくなったが、たった一度ヤったきりで、俺はつまらない男に格下げされちまったわけだ」
「格下げなんて……! あれはその、いつもの好奇心で、」
リヴァイの頭の芯が一瞬にして冷たくなった。ハンジはその低下に気づかない。
「君は私にとって特別な人だよ。それこそ、一番……」
「ああ、『仲良し』か? お前のやりたいことを叶えるために一方的に結んだ関係のことか。罪悪感を誤魔化すための、都合のいい呼び名だよな」
「……!」
常は爛々とやかましい瞳が開かれ、すぐに光を失くした。
馴染みの道具や場所、着古した服。動き。
それらと同じように、言葉にも使う人間の癖や固執が表れるものだ。ハンジが相手の強張った肩に腕をまわして作り物の笑顔で提示する『仲良し』の言葉に、リヴァイは今まで、字面どおりのものなど見出したことはなかった。
「当たりか?」
ハンジは何も言わない。
「俺はお前の、一番の『被害者』か」
「……ごめん」
謝罪は否定になりえない。広がる失望は期待の証だった。
「こんな話をするつもりじゃなかったんだ。私はただ、君がアッカーマンのことについて色々と聞いて、落ち込んでるんじゃないかと思って……それで」
「わかっている」
常人なら触れまいとしていただろう、そんな話題にあえて触れるのがハンジで、そのあえてに慰められてきたのがリヴァイだった。だからこそ、その慰めがあくまで仲間としてのものであることも、ハンジがリヴァイの欲するものだけは渡してくれないこともわかっていた。
「違う」と一言、首を振ってくれていれば。
いや、そもそもどうしてこんな話をしてしまったのか。こちらの思案の遥か遠く、手の届かない処にいて、だからこそ軌跡を指でなぞることができる。この人間のそういう性質を大切にしたいリヴァイはと思っていた。なのに。
「『落ち込んでるんじゃないかと思って』か。なら、慰めてくれるよな」
空いていた右手を動かし、リヴァイは己の着ていたジャケットに触れた。ベルトとボタンを解いたところで何かを察したらしいハンジが「リヴァイ?」と呟く。
構わず椅子に置いていた膝を押し進めると、ハンジの右脚がリヴァイの腿に乗り上げた。慌てた手が椅子の背板をつかむ下でジャケットの裾が捲れ、ハンジの隠されていた狭間があらわになる。
男とは違う肉の山なりに、思わず目の裏が熱くなる。体を引いてゆるく兆した自身の場所を手のひらで包むと、ハンジがぎょっと目を剝いた。
「なんで……!」
「……さあな」
切り捨てられた慕情の断末魔か。傷つけられた矜持の復讐か。ざわつく感情に、リヴァイの肉体は応えてしまった。
屈服させたい。貶めたい。同じ目に遭わせたい。
知ってほしい。見ていてほしい。今だけは。自分だけを。
「え、や、待っ、……て」
小さな金属音と衣摺れのあと、下腹の窮屈が一気になくなる。視線を感じて痛むその先端を、ハンジの首の前辺りに向けて固定し、唾液で最低限濡らした手で扱いて見せる。どうしてか、リヴァイのものでない身体が震えた。
「だめ……誰かが、」
「来やしねぇよ」
わざわざ二人だけがこの部屋に隔離された裏には、調査兵団と義勇兵の内通の疑いを晴らす意図があるのだろう。ハンジもそれはわかっていたのか、ぐう、と喉が詰まったように唸る。しかし眼に宿した焦燥は消えない。
「『一番の仲良し』なんだ、こっちの我儘も聞いてくれよ」
「それ、と、これとは……」
口内で呟かれた何かは届かず消えて、迷いのみが揺れ残る。追い打ち、刻むように、リヴァイは言った。
「安心しろ、お前には指一本触れない。名前も呼ばない」
「っえ?」
「お前も『何もしなくて』いい。触ることも、呼ぶこともな。ただ少し姿勢を保っていれば……面倒なことには、しない」
「……そんな」
——『何もしなくていいから。触ったり、名前も呼んだりしないから、君も呼ばないで。ただ少し〝そこ〟を貸してくれればいいんだ。面倒なことにはしないと誓うよ……』
十年も前に一方的に押しつけられた要求は、リヴァイの中にしつこく残っていたらしい。口をついて出た台詞は、あの日ハンジが放ったものとそう変わりなかった。
どうして断らなかったのか。どうして、ハンジの手を取ったのか。何度も疑問を抱き、結局同じ答えに辿り着く。
——『お願い。君だから頼むんだ』
欲しいと思った。この身勝手な要求を許す人間が世界に自分しかいないという事実に、リヴァイは簡単に煽られた。
それで? 傲慢極まりない願いを、高慢な懐に受け入れて。リヴァイが得たものはなんだった?
朝になれば消える感覚と、ハンジ・ゾエの負い目、ただそれだけだ。
今日に続くのは、「君に一番迷惑をかけている」という唯一無二の罪悪の呼び名だけ。
もしもリヴァイが、その罪悪を「迷惑なんて」と否定したなら、ハンジはへらへらと笑ってすぐに離れていくだろう。一番ですらない、ただの『仲良し』になる。遠くで軌跡を残すだけの存在を、疎んで、拒んで、求めて、憎んで、上辺の笑顔を返されて終わる。リヴァイも、そんな有象無象たちと同じところに行く。だったら、せめて。
リヴァイは再び手を動かしはじめた。一度、二度と扱くたびに硬度が増し、亀頭の向く先も高くなる。
呆然としていたハンジが、は、と息をつめた。しかめられた目元から始まり、女の丸みを描く額となだらかな頬がうっすらと赤くなる。布に水が滲むように、じわじわと。そうしてその伝播は、喉元まで留められたシャツの下にも染み込んでいく。慎ましく、それでいて扇情的な光景だった。
「……く」
リヴァイの手は世辞にも「良い」とは言えない心地だったが、実体のないものを想像して触るのと、すぐそばに確かな質量を感じながらするのとでは訳が違う。漏れる先走りの量に「こんなに濡らしたのはいつぶりだ」と自嘲する。一人で走る分には道程など計りはしないが、今日はそうもいかない。気を抜けばすぐに出てしまいそうだ。
身をかがめ、ハンジに近づく。茶色い虹彩はリヴァイの手元に釘づけで、おかげで顔面を存分に眺め回せた。血の色を透かした目の粘膜に、長くて散らかる睫毛の縁。内側に溜めた熱のせいか、肌は艶と光っている。舐めたらどんな味なのかと喉が鳴った。
亀頭を包み、段差に引っ掛けるように手首をまわすと、ニチ、ニチと粘ついた音が立ち、熱と湿りをおびた独特の匂いがゆらゆらと濃淡も曖昧に立ちのぼる。
ハンジが小さく鼻を鳴らした。顎が動き、ふっくらと血を溜めた唇が小さく息を吐きだす。肩や胸は小刻みに上下し、こめかみには汗の粒が浮いている。
視線はずっと、リヴァイの欲に注がれたままだ。
「は。煽られたか?」
「! そんなわけ……」
首を振る勢いは強いがそれだけだ。衣服に覆われているとはいえ股を晒した下半身は、リヴァイの眼下で密かに、せわしなく動く。浮いた片足はブーツの中で爪先をしきりに丸め、地面についたもう片方は懸命に床をこねまわす。
こんな乱れ方をするくせに。たった一夜を過ごして以降、リヴァイにだけわかる線引きをして遠ざかったのだから、まったくもって解せない貞操だ。
「我慢できねぇなら自分で……いや、適当な男がいなきゃイけねぇんだったか、お前は」
何気なく放った言葉に、欲に溶けていた眼光が、不意に鋭さを取り戻した。
「……どういう意味で言ってるんだよ、それ」
小さく、明確な怒りの棘が、リヴァイの興奮を募らせる。
「お前のやり方だろ。男を転がして跨って腰振って、」
「リヴァイ」
「っ……呼ぶな」
あやうく応えそうになった。なんとか突き離すも、ハンジの歪んだ唇に求めまで錯覚し、奥歯をきつく噛み締める。
「呼ぶな、触るな。お前も俺にそれを強いただろうが」
罪悪感とこの身の特異を理由に、ハンジはリヴァイを、一番そばに置く。忘れていい無駄話も、明日に繋がらない約束も、不特定多数のためではない自分のための我儘も、ハンジは、自ら進んでリヴァイにくれたことはなかった。
——『俺は〝特別〟か?』
今この瞬間、リヴァイの血に宿った力がなくなっても? 両手両足が潰れて、戦うすべを失くしても?
ハンジの芯に刺さった大義をすべて否定して、「二人でどこか遠い所に」と願っても?
馬鹿げた空想だ。頭の中ですら叶う光景を描けない。
(なら、お前がやった最低な身勝手を俺にだって許せよ)
それが叶えば、己の輪郭をハンジの中に見出せる。「この人間にとって唯一なのだ」とくだらない矜持を保って、これからも自分を騙していける。
拒絶の裏に懇願があることなど知るはずもなく、ハンジは、リヴァイの言葉をまっすぐ受け止めたらしい。瞼を伏せ、ひとしきり悲しみに暮れた様子を見せた後、静かに言った。
「わかった……君の言うとおりにする」
妙に落ち着いた声だった。
「でも、『君の言うとおりだった』って事じゃないから」
「あ?」
意味を問う前に、ハンジが自身の衣服に手をかけた。むしるような勢いでジャケットを開き、シャツのボタンを外していく。
「は、……オイ待て、ハ、っ」
リヴァイが自分の定めた決まりに足止めを食らうあいだに、兵服の下から現れた下着もすべて、一気に捲り上げられる。室内に散る陽光が、今の今まで秘められていた部分を容赦なく照らしだす。
突然晒された肌を前に、リヴァイは完全に声を失くしてしまった。実用重視の生地に囲まれているせいか、乳房はやけに白く、記憶よりずっと丸みを帯びているように見えて、肉の落ちた鎖骨がうっすらと光を発し、そのすぐ下のベルト跡を際立たせている。膨らみのはじまりは長年の兵装のために少しだけ凹んでいて、なのに見目にもわかるほど柔さを湛えていた。薄赤色の頂点はもう小さく立ち上がり、口づけを望んでいるようで。
リヴァイの意識のすべては、呆気なく奪われてしまった。こめかみから頸動脈までがうるさく脈打ち、腹底が煮えたぎる。脳から直接落ちてきたものが、凝ったものを醜く震わせて訴えた。感じたい。触りたい、と。
「ふうっ」
「っ! てめ、」
不意に、ハンジがリヴァイの握る欲に息を吹きかけた。睨み下ろすも、皮膚という皮膚すべてを赤く染めたハンジがもっと強く見上げてくる。瞳には切迫があった。
「つ、っ、続ければっ?」
「……言われるまでもねぇよ」
最悪の形で煽っておいて、距離を縮めれば強張るハンジの真意は理解できない。けれど走り出した欲を止められるはずもなかった。
一人と半分の体重を支える椅子がギシ、ギシと軋む合間に、小さくて高い、甘い声を含んだ息が混じる。リヴァイが欲を高めるあいだ、ハンジは両腕に上気した顔を埋め隠し、汗ばんだ首筋を晒し、けれどズレた眼鏡の下から時折、とろけた光でリヴァイを刺した。こちらの手が動くたび、下から突き上げられたかのように胸をはずませて。
視界を上下する色が、震えが、理性を殴打する。こんなもの、もう組み敷いているのと同じだ。肌から伝わる雑多な快感が幻覚に彩られ、それだけで上り詰めそうになる。動きを緩め、一度深く息を吸う。と、首筋にまた、ふう、と細く息を吹きかけられた。
「っく、……は」
越えそうになる限界を、力を入れて耐える。『触るな』に対する策か。ハンジの小賢しいやり方も、それに応じる自分の体も憎たらしい。惨めな気持ちで眼下に目をやる。
そうしてリヴァイは、通じた視線に呆気にとられた。
ハンジの片方だけの眼球は、嫌悪とも肉欲とも違う熱を湛えてリヴァイを捉えていた。涙が張って溶けだしたかのようなそこに、自分を辱める男を一心に映して、歪んだ額にはなにか切実な感情がこめられている。
厚みのある唇が、思わず、というふうに薄く開き、は、と小さく息を漏らした。濡れた舌が顔を出し、引っ込み、蠢きをちらちらと見せつける。
誘っている。他でもない、リヴァイの吐息を招いている。そう勘違いしたっておかしくない、痴態で。
(なんだ、そのツラ)
火をあてられた、そう思うほど全身が熱くなった。耳端や指先がじんと痛み、破けて血を噴き出すような心地がして、途端、手の中のものが跳ね上がる。腰の震えから集束を察したのか、ハンジが胸を突き出してリヴァイに差し出すような姿勢をとった。
欲望の先に、馬鹿みたいに乞うた女の裸を用意されて、
「ッ……!」
視界が白んだ。音こそなかったものの、どぷり、と噴きこぼれる感触があり、リヴァイは自分が果てたことを知った。圧倒的な解放、少しの倦怠。ない交ぜの中にハンジの呼吸を感じ、香ってきた汗と肌の匂いに身を委ねる。眠気に変わりそうな、温い霞みがリヴァイを包む。
「うあ、垂れる」
はっ、と目が覚めた。慎重に体を起こしたリヴァイは、手元よりも何よりも、ハンジの首から胸をべっとり汚す己の体液に声を失くした。と、当のハンジが腹まで伝う半透明のひとすじに指を埋め、粘つくそれを掬い上げる。そして唖然とするリヴァイの前で躊躇なく口に含んだ。
「ゔぇ、……ん」
「なっ、にをやってんだ、お前は」
「一般的な精液、なのかな? これ以外の味を知らないから比較のしようがないけど」
口調こそ穏当だったが、激情の気配を孕んでいる。
「ハンカチある?」
リヴァイが無言で差し出すと、ハンジは受け取ったそれで残滓を丁寧に拭い、服を元に戻しはじめた。
「オイ、そのまま……」
「しょうがないだろ、脱いで洗えるような場所はないし、浴場を貸してくれなんて言ったら不審に思われるよ」
汚した本人である手前強くは言えず、手際良く消されていく行為の痕を見つめ、ようやくリヴァイも乱れっぱなしの己に気づいた。片手で衣服を直してハンジに意識を戻せば、俯いた顔がまたその目を隠す。言えない何かを秘めてのことなのか、陵辱に対する侮蔑のためなのか。判断できずに立ち尽くすリヴァイを、乾いた笑みだけが撫でる。
「なんだよ、心配しなくても怒ってないから。君も怒って訴えたりしなかったし、こういう形で清算してくれた。おあいこだろ?」
おあいこ。罪を等分にして、それぞれで握りつぶして飲み込んで、終わり。自分でもそれを望んでいたはずなのに、暗い穴に落ちたような気持ちになる。
「……ハンジ」
「もう呼んでもいいの? リヴァイ?」
一方的で、こちらの話を少しも聞かない。寄り添おうとするくせに、重なろうとしない。今までと何も変わらないハンジが、リヴァイを見ぬまま、何度も聞いた言葉を言う。
「これからも君は、私の『一番の仲良し』だよ」
その意味を問うことは、リヴァイにはできなかった。
◆
——『マーレが保持するアッカーマンの情報に、イェレナが証言した以上のものはないと思われます』
——『根拠は?』
——『ジークです。ライナー、ベルトルトの二名からリヴァイやミカサの力を知らされていた彼が、シガンシナで何も策を講じなかった。直接の戦闘の際も一方的に攻撃されて逃走しました。こちらの脅威となる情報を有していないという、一つの証拠になるかと……』
コン、と異音を拾い、リヴァイは瞬きをした。どうにも体力の配分にしくじったらしい。明かりを灯したまま意識を飛ばしていたことに舌打ちする。
時計を見れば日付が変わる直前だった。兵舎に帰ってきてからさらに夜も深まっている。明日も朝から馬を駆り、また海に向かわなければならない。人員のほとんどを海防と義勇兵の監視にあてている今、調査兵団の拠点はほぼ南岸にあるようなものだった。
尋問にかけられた二人はひとまず危険視を免れ、後日仲間のもとに返されることになった。協力的な姿勢を見せながらジークとの対話については譲ろうとしないイェレナに対し、オニャンコポンは長じた技工力で義勇兵たちをまとめてはいるものの首脳といえるほど計画には関わっていないらしい。本部の警戒は確実に前者に向かうだろう。
コン、と再び音がした。素早く立ち上がり戸を開ければ、勢いに驚いたらしい顔でハンジが立っていた。
「あ、起きてたね」
「……今起きた」
へえ、と首を傾げられ決まりが悪くなる。昼の件以降、初めて向き合ってする会話だ。なにか障りがあると思われたくない。夜中に寝間着で現れたハンジに思うところはあったが、リヴァイは努めて平静を保った。
「どうした」
「うん、ジークについて少し確認したいことがあって」
一瞬で神経が尖る。ハンジを招き入れ無言で続きを促す。
「尋問の時にも言ったけど、マーレには君やミカサを封じられるような情報は残ってないんじゃないかと思う」
先ほど夢と言わずとも思い出していたことだ。あくまで可能性に過ぎないが、今までこの力を古びた書物の中に放置していた連中が、急に有効な策をとれるとは思えない。
「でも、ジークは『リヴァイ』を知っている。今後敵対した場合、血の習性に関わらない方法で立ち塞がってくるかもしれない」
「具体的には」
「心理的な攻撃とか。彼はそういうやり方が得意なようだから」
ハンジの表情に去来したものの意味を、すぐに察する。
「俺がグラつくんじゃないかと思ってるのか」
支柱となるこの力が、過たず行われるべき働きが、他でもないリヴァイの精神によって阻害されるのではないか、と。
「正直、少し。今日……のこともあるし。心配しすぎかな」
「ない」と言いきれない事をしたのはリヴァイだ。信用を失うためにあんなことをしたわけではない。
けれど、結果的にそうなってしまった。後悔を飲み下し、「もうあんなことはない。二度と」と絞り出す。
「本当に?」
頷くが、ハンジは疑いを消さない。
「私に対して、もう不満や言いたいことはないんだね? 分かれ道に立った時、ひとつだって、」
「うるせぇよ」
思わず遮っていた。言ったそばからこれだ。声を断たれたハンジの呼吸が、不自然に弾む。
「……実は、私も言っておきたいことがあって」
不安定を責められると思っていたリヴァイは、ぽつん、と落ちた告白に顔を上げた。両手を握りしめたハンジが、それでも、目を逸らすことなく口を開く。
「リヴァイ、あの時のことを、ちゃんと謝るよ。君の意思を無視して、行為に及んでしまったことを」
違う。手を取ったのはリヴァイだ。
「確かに最初は、その力に惹かれて好奇心でいろいろと付きまとった。それからすぐに大切な仲間だと思うようにもなったよ。……でも、あの夜は違ったんだ」
「欲の捌け口か」
違うに決まっている。ハンジがそんな人間だったなら、今日のことだって拒絶か甘受かのどちらかになっていたはずだ。わかっているのに、首を振らせたい。
「そうじゃなくて、もっと……排他的なものだ」
ハンジは言葉を選んでいた。おそらくは、互いの今後のために。その施しが今は、高い壁のように思えてしまう。
「だから、断ち切ろうと思ったんだ。嫌われてもよかった。結果的に君は受け入れてくれたけど、『君は優しかったな』で終われると思ってた。……実際、今日まで上手くやってただろう? 迷惑はかけたけど、後顧にはならなかったはずだ」
「だったらなんで今、こんなザマになってんだ」
弁解か、懺悔か、言葉の奔流に自身でも飲まれそうになっているハンジへ、どうして、と投げかける。知りたいわけではない。リヴァイは自分だけの答えを欲していた。
「上手くいってると……思ってたんだけど。今日の君の言葉で、自分を棚にあげて怒ってしまった。……ごめん」
「……終わりか?」
迷いのない肯首に、「クソッたれ」と悪態が出る。
「今ので全部ゲロったってことか? スッキリして帰って寝て、明日から普通の顔して『仲良しでいてね』か」
「だって、そうあるべきだろう」
私は、と続いた言葉に、気がつけば手が出ていた。つかんだ腕の熱さに、抵抗のなさに、ひどくやりきれなくなる。
「本当に、何一つわかってないんだな、お前」
「……ごめん」
「謝ってんじゃねぇよ」
惨めになる。ここまで明かしておいて、ハンジはリヴァイの気持ちを求めない。そしてリヴァイは、この期に及んでまだハンジに求められたいと思っている。
天辺から爪先までが互いを向いているのに、視線だけが重なろうとしない。わかっている。重なってはいけないのだ。相手以外の何かを、誰かを、平らな目で見れなくなる。けれどリヴァイはもう、接した熱を傷つかずに剥がせない。
「ハンジ」
引き寄せて抱きしめた体は、反抗を見せなかった。無に等しいその許容がリヴァイの最後の口火になる。
「言葉は、正しく使え」
「……え?」
「『仲良し』ってのは、片方だけが思ってりゃそうなる関係じゃねぇだろう。……なあ、そういうもんで傷を作ってばかりだったじゃねぇか、俺たちは」
息を飲む音がした。もう何も映さない左眼も、リヴァイが額を埋める肩の傷も、失った者たちも、通じ合うことなく終わった人間や感情の痕だったはずだ。
「……そうだね、そのとおりだ。それでも諦められなくて、こんなところまで来ちゃったってのに……」
奪い奪われ、「それでも」と傷を受けに行くハンジの妄信を、妄信がなければ得られなかった結果を、リヴァイはずっと隣で見てきた。
それが二人の正解なのだろう。言いたいことを伏せあって、断裂をあいだにして、それでも、互いに隣にいつづけた事実が。……けれど。
リヴァイはそこに、理由を求めてしまった。リヴァイでなければならない理由を。相手が、ハンジだからこそ。
力なく垂れていた手が持ち上がり、背中に触れる。
「十年前に言えなかったこと、……今、言いたいな」
「……待ちわびた」
服を握る指にさえ、「もっと」と望んでしまう。
「リヴァイ。――私と、『仲良し』になってくれる……?」
掠れた声は、普段のハンジのものに比べれば信じられないほど弱く、けれどリヴァイを何よりも震わせた。理性にかけられた枷が、風に吹き飛ぶように消えていく。
「嫌だ」
「ん、……っん」
「『一番の仲良し』だ。それ以外許さねぇ」
抱きしめる腕に、ようやくすべての想いを乗せられる。背骨が軋む感触があったが、涙交じりの笑声と爪を立てる指がそれを止めてくれない。
「もちろん。絶対、あなたが不動の最高位だよ」
頭の中で、バチ、と何かが切れる音がした。
◆
「ちょっ、ちょっと待って……!?」
胸を押す手を取り、指を絡める。抵抗もなくそれだけで赤くなる肌が忌々しい。
「散々煽った男の部屋にノコノコやってくる了見が悪い。全身で謝るんだな。朝まで」
「え!? さっき『謝るな』って言ったのリヴァイなんだけど!」
「ベッドの上でなら謝っていい」
うわぁ、と声が上がったものの、整えるばかりで皺とは無縁だったシーツの上、さまよう視線にはちらちらと熱が灯り、退路を探しているようにはどうしても見えない。
「……一方的な行為の記憶で終わらせたくねぇんだよ」
狡い言い方なのはわかっていた。過剰を求めながら、不足を取り戻すためだと装っている。『一方的な行為』というぼやけた指示語で今日のリヴァイの非を挙げながら、同時に、十年前のハンジの非も持ち出している。
ハンジの頬に触れ、耳をくすぐる。組み合った指と耳殻をすりすりと撫でてやれば、肩や腰がわかりやすく跳ねた。
「んっ……」
「お前の空けた穴がどれだけ深かったか、きっちり教えてやる」
「や、やり方はこれ一択なんだ?」
「当然だ。『もっと』と泣かれて等分になるくらいだな」
ハンジのあらゆる場所の肌が、ぼう、と血を上らせた。それだけお前を求めていたのだ、などと随分熱烈な意味を指してしまったことに気づき、リヴァイも顔を顰める。
「……いいな?」
「あ、あっ! あの、リヴァイ」
羞恥を押して先に進もうとするも、ハンジに止められた。
「なんだ」
「最初に、……キスしても、いいかな」
訊ねてきたそこが閉じる前に眼鏡を抜き去り、リヴァイは口付けていた。完全に体を倒し、リヴァイの領域で警戒を解いたハンジに覆い被さりながら、何度も、何度も唇を合わせて、離して、また吸いつく。やわやわと食むだけ食んでから舌を入れると、眼下の光がとろりと溶けだした。ひとつの虹彩でこんなにリヴァイの頭を滅茶苦茶にしてみせるのだ、両揃いであれば殺されていたに違いない。包帯の下に叶えられない果てを見て、ひそかに惜しく思う。
膝と、頭を囲んでついた腕を支えに、ハンジの顔を固定して深々と舌を挿す。
口蓋の凹凸、頬の粘膜。並んだ歯粒のつるりとした丸み。唾液の甘さ。初めて許された場所を、順々に味わっていく。
「う、っんぐ、……ぉ」
ハンジの呻くような声に、リヴァイは少しだけ顔を離した。他人の穴からずるりと抜け出す己の器官がどうしても行為を連想させる。下はとっくに反応していた。
「はーっ、は……ん。やだ、まだやめないで……」
腕を広げられ、招かれる。開いた唇のなかで濡れた舌が蹂躙してみろとばかりにリヴァイを挑発していた。望むとおりに戻れば今度は頭が抱えられ、髪のあいだに指が入り込む。地肌を撫でられ、経験したことのない粟立ち方をした。叩き起こされる神経のすべてがハンジに向かい、ハンジに与えられるものを喜び、リヴァイの血を下腹に流していく。
意気盛んに侵入させた舌は、ちゅ、ちゅ、と絞られるように吸われ、裏側をぬとぬととくすぐられて、ハンジの中で存分に可愛がられた。「あとで下でもやらせるからな」などと声もなく脅しながら、際限なく湧く唾液をハンジに流し入れる。
「ん、んく。んー、……ふ…♡」
こく、と喉が動き、とうとう甘い声がこぼれた。それは今日まで、記憶のどこにも存在しなかった過程だった。
硬くなる陰茎とすり寄ってくる脚を宥めながら、リヴァイはハンジを抱きしめて上下の体勢を入れ替えた。背をつけたシーツは人熱で温かく、上に被さった熱源と合わせてリヴァイを焼きつくそうとする。焼かれてもいい、と思った。火傷がほしい、ずっと残る夜がほしい。
胸の上で息を整えるハンジを見ながら、あふれかけた言葉を慎重に潰していく。もしも、この部屋に残る冷静を全部燃やして、朝には何も覚えていられないほどハンジを馬鹿にできたなら、そのときこそ口にできるかもしれない。
「ハンジ、おら、口あけろ」
「あ…♡」
あ♡ じゃねぇんだよ。痛みには強いくせに快楽には弱すぎると心配になりながらも、リヴァイは自分のために開いた洞を下から犯しはじめた。めいっぱい舌を伸ばし、波の動きのように突き上げると、ハンジの柔肉が堕ちてきてリヴァイに応えてくる。ぐちゃぐちゃとそれをいたぶり、とろりと流れてくる吐息と唾液を喉奥に溜める。
そうして、リヴァイもまた、それを飲み込んだ。
「っん……ぐ」
ゴクリ、と大きな音が体内に響いて、口から続く筒が、焼けるように痛む。
初めてだった。本当に、初めてだった。十年前も、今日も、リヴァイはハンジに触れられなかった。ハンジから生まれたものを何一つ、味わって、飲んで、この身に刻むことができなかった。ようやく今、それが叶ったのだ。そんなわけもないのに、体が作り変わっていく気がして、ぼう、と余韻に浸る。——暇もなかった。
「……あ、リヴァイ、……ここ♡」
上に乗っかっていた好奇心の塊が、よりによって脚のあいだの柔らかい部分でリヴァイの熱凝りに気づいたらしい。腰を動かしてスリスリと撫でるようなことをしてくる。
「……おまえ、ちんこ好きだよな」
「またそういう言い方する……」
ハンジの瞳が曇り、棘ついた怒りが顔に浮き上がる。
どうにも奇妙な嗜好だが、リヴァイの雄はこの棘にチクチクとやられるのが好きなようだ。
我ながらめんどくせぇなと呆れてしまう。
「もしかして、言わせたくてそういうこと言ってる?」
「なにを」
「こういうのはリヴァイだけだし……君のだから、」
内心で「悪くない」と掌を返す。声にするのを抑えた悦びは、けれど巡る血に表れたらしい。膨らみが鼓動したのを感じたのか、ハンジが顔を覗き込んでくる。
「ぬがそうか? ぬがしていい?」
「なんでさっきからお前がやる前提なんだ」
「私の意思でこうしてるって、知ってもらいたいからさ」
これ以上脳をぶん殴るのはやめろ、と歯噛みする。物理的な攻撃なら視界が揺れた反射で殴り返すこともできるが、ハンジの攻撃はタチが悪い。予測も見えない上に、拳を入れられるたびに脳が小さくなっていくのだ。
「……さわってくれ」
「! うん♡」
てっきり視線ごと下に行くのかと思えば、ハンジはリヴァイの目を見つめたまま手を胸に置き、そこをゆっくりと撫ではじめた。胸筋の山なりをするすると擦られ、快楽に煽られて服の中で立ちあがっていた頂点を引っ掻かれ、「うわっ乳首!」とよくわからない驚きを受ける。あとでコイツのを弄ったら同じ反応をするだろうかと想像して、その滑稽な場面にリヴァイはやはり興奮した。
そうしていないと呼吸もままならない、とでもいうようにキスを重ね、そのあいだに腹筋をたどった指が、とうとうリヴァイの隆起を包む。
「……あの時は、ううん、今日もだけど……」
ハンジが目を伏せて、うっとりと囁く。
「リヴァイ、自分で勃起させてくれてただろう? ずっと触ってみたいと思ってたんだ」
「チッ……本当にヤッたのかわかったモンじゃねぇな」
今、向き合うだけでこんなにも互いの思考は崩れていくのに。過去に交わせたものは、あまりにも少なかった。
「私のせいだ。ごめん」
「謝るな」
急所を握られつつ、リヴァイは強く言う。
「いいか、今後お前が俺にすること全部、『悪かった』なんて思うなよ。二度とだ」
「それは……寛大すぎやしないかな」
「俺も思わない」
「ベッドの上では思ってね。多少でいいから」
あやまらないためにはどうすればいいか。訊ねればいい。リヴァイとハンジにとって、これは正しい答えなのか、と。問い続け、決めていけばいい。
「……じかに、触ってくれるか」
「もちろん…♡ ね、舐めてもいい?」
「あとで、一緒にな」
期待に逸ったらしい手が下衣に潜り、引き下ろし、ついにリヴァイと接触を果たす。さすがに凝視された。指先でおそるおそる上辺を撫でる様子に、慣れていないのか、と思えば、いきなり根本をきゅっと握って揉んでくる。
「っ」
「あっ、意外とやわらかい……でも芯はかたいんだね…♡ 表面もぼっこぼこだ…♡」
幹に巻きつく血管の一本一本をなぞり、こりこりと押し、なのにわかりやすく傘を張った部分は避けていく。好奇心の成せる技だと思いたいが、どうにも焦らされている気が拭えない。堪え性のない先端がじわりと欲を漏らすのを感じ、リヴァイはハンジに声をかけた。
「俺も触るが、いいな」
「あ、うん、んんっ♡」
ハンジの動きを邪魔しないよう体の下から回した手で、できるだけ優しく尻をつかんだつもりだった。が、適当ではなかったらしい。むっちりと張った肉から続く腰や腿がビクビクと跳ねて、ついでにリヴァイを握る手もつるりと上に滑る。指がカリ首をぶるん、と掻いた。
「! ア゛ッ、……」
「わ! ごめん、変なとこ触っちゃった?」
突然上がった濁り声を心配したのか、ハンジが労るようにそこを撫でまわす。
「いや、いい。そのまま、でっ」
「そう……? んっ♡ リヴァイの手も、気持ちいい…♡」
褒め言葉にまんまと焚き付けられ、調子に乗って尻を揉みしだきながら谷間に指を当てこむ。この先に深い泥濘があるのかと思うと我慢がきかなかった。
「ここ、直接、」
「あ、うん。……でも、驚かないでね」
噛みついてくるのか? と別の意味で期待を募らせながら生肌をたどったリヴァイは、指先で感じる様相に思わず息をつめた。慌てて身体を起こす。
「月のものだったのか?」
「うん、いや、違うんだけどさ……」
少し触れただけで、谷間どころかその周辺、どうやら脚のあいだの大部分がべっとりとぬめりに覆われているのがわかった。こちらも起き上がったハンジが、曖昧な物言いをしながら寝間着を脱ぎだした。むっと立ち上る女の匂いに煽られたが、どうにか耐えてそれを見据える。
服の上からでも時折リヴァイを悩ませていた脚線は、生肌となると一層その暴力性を露わにした。すらりとのぼる足首から膝、尖った膝頭を経て、十分な筋とほどよい脂肪を束ねた太腿が目を焼く。
「こんなになったの初めてで……自分でも驚いてるんだ」
言いながら、ハンジがそうっと脚を開く。奥に広がる園は、黄金麦の群れに雨が降ってすぐに夕陽が差したあとのようになっていた。
下着を超えて染み出した愛液が一面をてらてらと濡らし、柔らかな皮膚の息づきを際立たせている。行為中に窓の外のことを思い出した自分が不思議だったが、茜空の下で見たいつかの景色に対して、今のハンジは少しも遜色がなかった。
「……きれいだな」
「すごい、そういう感想が出るんだ」
「まあ……男のほうはコレだからな」
コレ、と指し示した場所は、刺激のない時間などものともせず立ち上がったままだ。
「私はそれ、好きだよ。格好いいと思う」
見つめ合い、引き寄せられるようにまた、キスをする。
「……一緒に舐める、する?」
「そうだな……」
ベッドに寝そべったリヴァイは、ハンジに自分の顔をまたがらせ、逆にハンジには自分のモノに被さるような体勢をとらせた。勃ち上がった陰茎に興奮を示す吐息がかかり、ハンジの足のあいだからそちらに意識を向ければ、下垂した胸の膨らみが目に入る。
後程あれも可愛がってやるとして、まずは眼前の戦場だ。
水浴びでもしたのかというほど濡らしているのに、その源泉たる狭間はひどく控えめだった。肉ひだはぴたりと言わずとも閉じていて、中で何が起こっているのかわかりもしない。本当にここから漏れているのかと疑ってしまう。色は昼に見たハンジの胸の先と同じほどで、リヴァイはやはり「口付けてほしそうだな」と思った。軽く唇を当て、今度はそれを叶えてやる。薄味の塩気を感じた。
「ん♡ んー…♡ リヴァイの息、あつい…♡」
「さっき散々、ん、温められたからな……」
ハンジもリヴァイの勃起に口をつける。お気に入りらしい血管の道筋を、傾けた顔でむちゅむちゅと唾液を滴らせながら辿り、ひどい有様であろう亀頭には指先でくりくりと刺激を与えてくる。
腹に力を込め、リヴァイは舌を動かした。秘部の周辺にまぶされた光は覆いも厚く、舐めても舐めてもぬめりが取れない。我慢できずに真ん中の縦筋をつついてみれば、硬いと思っていたそこが緩やかに開いて鮮やかな赤を見せつけてきた。
綻んだ入口から覗いた中は、壁と壁のあいだから、くぷ、と新しい蜜を零し、まだ何も咥え込んでいないはずの状態で絞るような動きをする。なんて穴だ。誘惑はなはだしい場所にリヴァイは迷わず指を差し入れた。
狭い。「リヴァイだけだ」と囁いていたハンジの言葉はきっと本当なのだろう。嘘だとしてもどうしようもない。この膣壁の柔らかい凹凸を完勃ちの棒で潰しまくって、やはり「リヴァイだけだ」と言わせるしかないのだ。
「……キツく、ねぇか」
「ん♡ んん♡ っぷ♡ え? なに?♡」
なるべく甘く聞こえるように出した気遣いを、けれどハンジは聞いていなかった。かわりに、あ、と思うまもなく亀頭を咥えられた。舌の腹でくるくると撫でられ、くびれを指と尖らせた舌先で弄られ、口内全てでじゅぽじゅぽと吸われる。先走りは玉になったそばから消えているのだろう。音以上に理性をかき乱す感触で脳髄が蜂の巣になる。
気を逸らすためにハンジの尻に腕をまわし、固定した穴をさらに弄る。ある程度まで指を進めて掻き出すように動かすと、白く濁った愛液が垂れてきた。
轟く中で限界まで捏ねられ攪拌されたそれは、ハンジの興奮の度合いを表すものだ。伸ばした舌で受けとり、そのままべろべろと入口に塗り拡げる。敏感な芽をかすめ、茂みを濡らし、くぷくぷと壁を擦りながら指を抜き差しする。
「! っ♡ あ、あっ♡」
「オイ、止めるな」
咎めると、ハンジは素直にリヴァイを含み直した。軽く腰を突き上げても離れることはなく、むしろそれに合わせて頭を上下までさせる。
今日まで「裸? 誰の? 巨人の?」なんて輝くほどの貞潔を見せてきたようなハンジの痴態に脳が焼き切れそうになるが、よく考えてみれば、リヴァイへの想いを断ち切ろうとして身体をぶつけてきた女だ。肉体は慕情の受け皿として万全の状態だったのだろう。そのくせ、濁りもない顔をしてずっとリヴァイのそばにいたのだ。ハンジと過ごした何気ない過去がいくつも浮かび、甘い匂いと熱を放つものに書き換えられていく。
「……ハンジ。挿れるぞ」
「ん♡ もう?♡ 挿入るかな、私ずっとご無沙汰で、」
「拡げながら挿れる」
「……痛くしたら噛むから」
そう言われて無意識に興奮に震えた場所を「なんで?」とつつかれたが、リヴァイの身勝手な要求を聞いて穴をひくつかせたハンジも大概だった。
挿入は予想と違い、喜びよりも焦りが大きかった。
両手を繋げ、脚を開いたハンジの真ん中に先端をあて、ゆっくり、ゆっくりと拓いていく。
「あ、なんか、痺れる……」
「痛くないか?」
小さく頷いたハンジが、ふ、と頬を緩める。
「十年前は痛いばっかりで、……でも、嬉しかったな」
「……お前、『準備してきた』と言ってなかったか?」
「経験のない人間のいう『準備』なんて、ねぇ」
こんなことを吐露されて、苦痛を看過できるはずがない。当のハンジはリヴァイの憂いなど遥か遠く、自身を裂こうとする肉塊を繁々と眺めており、この人間が他人のものにならなくてよかったとリヴァイはつくづく思った。
入口にくぽっと差し込んだ頭を、引っ掛けながら抜く。二、三度それを繰り返すと甘い反応があった。
「あっ…♡」
「好きか、これ」
「うん…♡ 身体、はねちゃ、恥ずかしい…♡」
「全身がベッドから浮いて言え」
ふくく、と笑い声があがり、触れ合った全ての場所から、残っていた緊張がしみだしていくのを感じる。
ハンジと手指を絡めたまま、リヴァイは結合の上の部分、陰核にそっと親指を密着させた。小さなしこりはハンジの出したものを借りてつるつると圧迫を逃れようとする。それまで笑んでいた口元が、途端に力を失くす。
「う、ふ…♡」
「ここ、俺が触るのは痛いか?」
「んっ♡ ううん、平気……」
「なら、何も感じないか?」
いまだ皮に覆われたそこを、皮ごと挟んでくるりと転がす。ぎゅう、と亀頭の先が柔肉にしゃぶられた。反射にしては飲み込むような動きが続く。
「ん、ぅ…♡ なか、せつなくなる…♡」
「素直だな。俺のモン全部ぶち込んでから弄ってやったら、どうなるだろうな、ハンジ?」
「はっ、♡〜〜♡♡ 絶対、蠕動運動はげしくなるっ…♡♡」
ゼンドウウンドウが何なのかはわからなかったが、要は射精を促すということだろう。促されたいリヴァイは重点的にそこを可愛がりはじめた。潤沢な熱を指にまぶして、神経の塊を優しく念入りに撫でると、リヴァイの腰に割られた脚がぶるぶると震えて膝の関節を伸ばそうとする。リヴァイはそれを軽く叩き、「脚は曲げてろ」といさめた。ハンジが語尾を甘く溶かして子どものように頷く。
「良い子だ。一緒にヨくなろうな」
「うん…♡」
くるくると芽のまわりをくすぐるように撫でて、育って頭を出しはじめたそれをさらに優しく追い立てる。指できゅっと挟んでやると尿道のひくつきが見えた。そこから噴き出すものを夢想して血がたぎる。
ハンジはリヴァイの与えるものに感じ入りつつ、全身に散らばる快感を拾い集めるように繋がったもう片方の手を動かしていた。腰をうねらせ、リヴァイの手の甲で自らの肌を撫で、とうとう、二つの胸山に辿り着く。
男の手を柔い山間ではさみ、撫でさすり、はあ、とため息をつく。リヴァイが誘導して頂きの硬くなったところを弾くと、ぐ、と顎を引いて胸を突き出してくる。
「……今日、俺ので汚したまま、野郎どもの前に立ったな?」
「ん、そうだよ……服の下から、あなたの匂いがして……苦しかった…♡」
「そりゃ悪かった……もっと嗅がせて慣れさせねぇとな」
「もぉ…♡♡♡」
射精を求める切迫が心地良くなってきたところで、ようやく、ハンジの中がリヴァイで埋まった。
「ふう、ぐ…♡ おもた…♡」
「……一旦、っ、抜くか?」
「だめ♡ ちゃんと記憶に、んっ、きざまなきゃ…♡♡」
籠った息を吐き、ハンジが自身の感覚に没していく。
「すご、全ぜ、うごいてないのに…♡ ビクビクしてる♡ 血管わかる、ドクドクって…♡♡」
「は、……ばかになってんなぁ」
「おくまですきま、ない、はっ♡ くるしいっ♡ 私の中、りばいでいっぱい…♡♡」
不意に、右眼が涙をこぼす。そうしようと思う前にもう、リヴァイはそれを舐めとっていた。由来が心と体のどちらかはわからないが、その雫は歓喜によるものに違いない。飲み込んで、リヴァイの中の同じものに溶かし込む。
「あっりば、♡ 先っぽ、とこの、ちょっと……ひだり♡」
言われた場所を予想して軽く突き上げると、甘さに満ちていた声がぐるりと旋回して落ちていく。細切れだった呼吸が深いものになる。
「あーっ♡ あー…っ♡ はあ、そこ♡ そこだめ♡ ちから抜けちゃう♡♡」
「ダメじゃねぇよ、っな。ほら、イイって言え」
「あっ♡ あっ♡ まって、はっ♡♡♡」
手をほどき、ハンジの腰の両側に置いたそれを支えとして、リヴァイは細かく腰を揺らしはじめた。激しい抽送ではなかったが、太くイキった幹を咥え込んで熱い肉壁で窒息させようとしてくる中は、どうかすればすぐに根を上げてしまいそうになる。息が上がる。巨人を前にしてすら稀有な肺が縮む感覚に、リヴァイは軽く恐怖を覚えた。
キッキッと鳴るベッドは昼の音よりもずっと鋭く短い間隔で、緩めれば今度は、突いて抜く動きが重たくなる。
「っは、は、♡♡ はー…っ♡ あぁぁあ♡ りばい…♡」
ひと突きひと突きを、ハンジは大事に感じ取っているようだった。リヴァイが埋める時は心持ち尻を上げて、より多く快感を拾うためか腰を上下させ、抜く時は次を待って脚を広げる。不意を打って中をみっちりと満たし、腰をつかんで振動を送るように揺すれば、違う悦楽を得るのか足の指先がぎゅうっと丸まった。
先ほど望みを受けたとおり、挿入した状態で陰核を弄ってやる。と、ハンジが頭から腹までを盛大に打ち震わせた。
「っ……♡♡♡」
「っ、は、っー…」
奥へと誘う動きが一層激しくなり、陰嚢がぎゅう、と硬く凝って射精の準備に入る。奥歯を噛み締め、眉間が痛むほど顔を歪め、リヴァイはなんとか終わりを先延ばした。登らずに済んだ頂点をうっそりと眺める。そこは魅力的だったが、まだ目的を果たしていない。
抽送を止めぬまま、ハンジの臍の下を手のひらで覆い、優しく押す。そのまま緩やかに揺らすと、土砂降りのようだった中が締まってさらにとろりと蜜を吐いた。
「んっ♡ あ?♡ や、っなに♡ りあ、♡」
腹の壁越しに、誰も住まわない場所を確かめる。先端でその扉に触れ、軽いノックを繰り返す。
「やら、やっ♡ それなんかへんっ♡ だめ♡」
「甘ったれたこと言ってんなオラ、しごけ」
「〜〜っ♡♡♡」
体の相性、という評があるのは知っているが、体液まで絡めて抱き合った女がハンジだけのリヴァイにその階層は見えない。この女が最上だということしかわからない。これから先も、わかるつもりはない。結実するものがなかったとしても、この女がリヴァイにとっての唯一だった。
キツくなっていく締め付けが陰茎に巻きつく血管をぬこ、ぬこ、と引っ張り、かき回すことさえ辛くなってくる。意識が飛びそうだった。背中にびっしりと汗が浮き、ハンジと距離を詰めれば、流れたそれが結合部に合流する。
混ざりたいと思った。混ざれば、きっとリヴァイは安堵できる。
「ハ、ンジっ」
「うっ♡♡ ん?♡ なあ、にっ♡♡」
「俺は、っ……」
声が続かない。潰して、なかったことにして、そういう言葉を飽くほど過ぎてきた。言わせることはできるのに、言うべきこともわかるのに。言いたいことはひとつも音になってこなかった。
他から自分を切り取って、見えない称号を与えてくれ。
(俺も同じものを、お前に、差し出すから)
どろどろに濁った瞳の海に、一筋の光がちらつく。
「……あなたは、〝特別〟……だよ」
リヴァイの喉は、そこで完全に塞がれてしまった。世の恋患いたちが叫ぶような、わかりやすく決定的な言葉をハンジに贈ろうとしても、このわずかな煌めきに結局沈められてしまうのだろう。
「ぜったい。不動の、最高位。……私の、『一番の仲良し』」
頬に手が触れ、引き寄せられる。舌を招かれ、上も下も存分に慈しまれる。ごく、と必死で動かした喉が、リヴァイの肉体に熱くて甘い唾液を与える。
特別。誰でもない唯一の女の、唯一。『一番の仲良し』。
それでいい。お前が選んだ特別なら。特異な力でもなく、異質な系譜でもなく、その地位が与えるものにこそ、リヴァイは生きる望みを見出していける。
舌を絡めたまま、一番奥に、ずん、と突き入れた時、ハンジの両脚がリヴァイの腰を強く囲った。出して、出してと強請るように揺らされ、一向に緩まない中で先端にキスを送られ、食まれ、リヴァイは諦めた。堰を切った欲望を止めようともせず、走り出した子種を、実りもしないのに奥に押し込もうとする。
塞がった口の中でハンジがひきりなしに声をあげ、貰い受けたリヴァイはさらに中で暴れまわった。震える身体を押さえつけて、獣のように腰を振りたくる。
十年の蓄積を思えば、随分早い終わりだった。穴から脱した屹立はまだ硬さをもっていて、首のまわりに精液と愛液のかたまりを誇らしげにまとっていた。けれど誇示に構ってる暇はない。ハンジの縦筋に指を潜り込ませ、食いついてくる肉を割れば奥から白濁が億劫そうに出てくる。
「は、ああ…♡ きもち、よかった…♡♡」
くたりと力の抜けた体を惜しげもなく晒し、リヴァイをひたと見据えながら、ハンジが感嘆の溜息をつく。この女が色づくことや湿ることを、今は誰も咎めない。胸の裏を素直に見せられる場で、なんの憂いもなく笑む女はひと際美しく——いやらしい。
「ん、? あっ♡ ふ、」
ゆったりと被さり、唇を何度も啄む。おぼつかぬまま応えようとする口内はいまだ熱い。
「……『もっと』がなかったな? ハンジ」
「え。あ、」
「まあ、さっきまでのは練習だ。次から気合入れろ」
「リヴァイ……明日も早いよ」
「なら余計に頑張らねぇとな?」
「そんなぁ…♡」
震えるハンジが零した唾液を、リヴァイはまた、当然のように舐めとった。
◆
——『いま食ったもんを覚えておけよ、リヴァイ』
「起きられる?」
促す声に目を開けたリヴァイは、片方だけそれが叶わぬことに体を強張らせ、それから徐々に己の失敗を思い出した。命を繋いでからずっとこの調子だ。ハンジの気配がなければ、そのたびに迷子の時間は伸びていただろう。すぐそばにいた存在を見やり、いびつな口を開く。
「……さっきの、うるせぇのはどうした」
「ああ、ライナーとジャン? もう二人とも眠ったよ」
ここに集うまでの経緯を思えば、先刻リヴァイの眠りを妨げた諍いは致し方ないことだった。同時に、少し前まで殺し合っていた敵同士が拳だけで衝突を納められたのは救いでもあった。世界の終末のような今夜、仲間割れが許される時間も、選べる手段も、ほとんど残されていない。
身体を支え起こされ、顔の包帯だけを解かれる。血で汚れたものを捌いたハンジが食事の準備をはじめた。
「よく眠ってたみたいけど、夢でも見た?」
「夢、というか……昔の、記憶だな……」
血縁の男に拾われ育てられた、わずかな期間の記憶。あの男に対して思い残したことはないが、教えられたことの多くが今もリヴァイを生かす事実を、こうして振り返ることはある。
——『いいか。テメェの口に入るのは、身長の足しになるありがてぇもんか、もしくは体ぶっ壊して殺そうとするヤバいもんの二つだ。噛んで味わって飲んで、覚えておけ』
男にそう言われた当時のリヴァイは、己の短い人生を遡り、馬鹿正直に「おぼえてない」と絶望したものだった。珍しく、嫌味のない笑みを向けられた気がする。
——『おう、精々必死に思いだしな。そうだな、テメェがいっちばん最初に食ったもんから始めるといい。……そんくらいは、わかるだろ』
「あ、飲み込みやすいように具は全部潰しておいたからね」
「……ああ、助かる」
渡された椀に入っているのはおそらくシチュー、だったものだろうが、本調子でない身体では匂いもわからない。少し考え、ハンジに「食わせてくれ」と椀を押し返した。
レンズの分だけ遠い瞳が、数秒、リヴァイを見つめる。そこに宿るのはどう見ても羞恥だ。「お互い呑気なもんだ」などと思いながら、近づいてきた頭をさらに引き寄せる。動かした腕も唇も、ハンジの唾液も、傷に染みた。
「っ! ばっ、」
「聞こえるぞ」
痛みに耐えつつ適当に周りを指させば、ハンジは顔を赤くしながらもそれ以上なじることはしなかった。
「まったく、本当に怪我人かっての……」
治療した本人に言われるなら、いずれ意思どおりの動きもできるようになるだろう。悪びれない態度を見せつつ、リヴァイは何でもないことのように続けた。
「口直しにくらい付き合え……どうやら知らねぇうちに、クソにクソのクソなモン飲まされてたようだからな」
一瞬だけハンジの動きが止まり、すぐに動き出す。
ジークに盛られたものがあの男曰くの『ヤバいもん』ならば、シチューや〝口直し〟は『ありがてぇもん』になるのだろう。身長の足しになるかは置いておいて、リヴァイを確かに生かすもの。
「悪戯できて悪態もつける、その口が健在で何よりだよ」
様々な情を混じらせた、夕焼けよりも刹那だろう笑みを浮かべてハンジが言った。向けられた匙を受け、リヴァイも口を開ける。
ぬるい雫が舌に乗り、痛みとともに腹底へと落ちていく。
満身創痍のこの命を、先へ、先へと歩ませるために。
ああ、全部覚えておこう。爪や髪、肉や血や骨の由来。体と心を作り上げる要素。今日まで口に入り、リヴァイをこの世に遺しつづけたものたちを。
せめて、この連綿が途切れるまでは。
——『あなたはいつ、〝特別〟になったのですか?』
二度と迷わない。
この酷薄な世界に生まれて、母の体液を口にした時から。自分で生きる道を選んで、たった一人だと思う女に出会い、たった一人だと思われて。
口付け合い、その体液を飲んだ時から。
「どう? 美味しいかい?」
「……ああ」
いつだって。今、この瞬間だって。
答えはずっと、リヴァイの命とともにある。
〈了〉
(初出 21/06/12)
『濡らしてんじゃねぇよ 舐められるだろうが!』より再録