尾結の二人
尾結の二人
ハンジがリヴァイと顔を合わせたのは、朝食の場でだった。
通常ならゆっくりと歓談する暇もない時間だが、昨夜の宴会の名残が同席の仲間たちの口を緩くしたのか、頭痛い、酒が残ってる、眠い、などと文句が行き交い、その隙間を利用するように、ハンジは斜向かいのリヴァイを盗み見た。そしてすぐにぎょっと目を剥く。
いつもどおりの静かな表情、その白い頬に、異様に目立つ赤――まるでひっかいたような傷が走っていたのだ。深くはないものの線に沿ってうっすらと腫れた様子は、傷ができてからそう時間が経っていないことを示している。ずいぶんと痛々しい。「どうしたんだ?」と驚いて訊ねる周囲にリヴァイは「剃刀」と短く答えるだけで、多くを語ろうとしない。
あのリヴァイが傷を作った、という衝撃に、ハンジはしばし夢のことを忘れてしまった。じっと見つめていたせいか、ふ、と薄い色の瞳が光を宿し、ハンジを見返す。焦りを取り戻したハンジはぎこちなく口角をあげてそれに応え、すぐに俯いた。
そのままやり過ごしたかったのに、変に緊張したハンジの異変に気づいたらしい隣の仲間が、よく通る声で心配を投げかけてきた。
「元気ないじゃん、ハンジ。昨日も大して飲まずにベラベラ話してたのに」
「ああ、うん。まさに昨日の疲れが残っ、……てる、みたいで」
昨日、というのは間違ってはいない。間違っていないが、自分で自分の羞恥を掻き戻すようなことを言ってしまった。熱くなる頬が恨めしい。とはいえ所詮ハンジの夢の中だけで起こったことなので、詳らかに話でもしないかぎり誰かがこの恥を知ることもないのだ。
ふう、と一息ついたところで、からかい混じりの気遣いがさらに痛いところを突いてくる。
「そういえばさぁ、昨日見せびらかしてた腕輪、ちゃんと持って帰ったの。途中でバラバラにしてたけど」
「えっ!?」
つい大きな声を出してしまった。一気に集中した視線の中にはリヴァイのものもあり、ハンジは慌てて話を掬いにかかる。
「え、えーっと、どうだったかな! 片方はちゃんとポケットに入れて持ち帰ったんだけど、ええと」
そういえば、持ち帰った片方も今朝は目にしなかった気がする。最後に見たのは昨晩、夢に落ちる直前だった。途端に「あれ、ちゃんと部屋にあったよね」と不安になる。ハンジの表情の変化を、周りは紛失の惑いと捉えたらしい。
「嘘、買ったばっかでもう失くしちゃったの?」
「え? あの腕輪?」
非難を帯びた物言いに、さらにほかの兵士たちも加わってくる。ハンジの背中に「勘弁してくれ」と冷汗がつたう。
「片づけの時は見つからなかった気がするけど、誰かが持って帰ったとか?」
部屋にあるはずの片方だけでなく、昨夜離れ離れにしてしまったもう片方も行方知れずになっているらしい。気になりはしたが、このままの空気だと他を巻き込んで捜索が始まってしまいそうなのがまずかった。
「ううぅん! どうかなぁあ!? あとでちゃんと部屋の中を探して、」
「オイ」
動揺に被さるように声を飛ばしてきたのは、よりによってリヴァイだった。ハンジは「ひっ」と声を詰まらせた。
「もう片方、俺が持ってる」
「……え?」
思ってもみない言葉だった。失くしたと思っていた片方は、どうやらリヴァイが持ち帰ってくれていたらしい。ということは、昨夜ハンジが幻だと思った一連の記憶は正しかったということか。
「置きっぱなしにしていたぞ、お前」
リヴァイはそれだけ言うと、カップの縁に指をかけ、持ち上げ、けれど飲まずにおろし、と妙な動きを見せて、皆の視線から逃れるように顔をそむけてしまった。その動作を不審に思ったのはハンジだけだったらしい。周りは「よかったね」と紛失騒ぎの解決を歓び、それきり、違う話題に移っていった。
食事が終わった後、ハンジは慌ててリヴァイを捕まえた。
「リヴァイ、あの、腕輪のことごめん……持っててくれてありがとう」
「謝るくらいならちゃんと管理しろ」くらいには言われると思っていたのに、リヴァイは微妙に視線をずらして、「ああ」とも「なあ」ともつかない声を出した。伏し目がちなその表情に昨夜の熱情を思い出しそうになり、ハンジも喉が塞がるような気分になる。胸が苦しい。早くこの場を立ち去りたいとも、もっとリヴァイのそばにいて、その意識にのぼっていたいとも思う矛盾。
「……今は、持っていない」
「え?」
逸らした顔で呟いた声を、ハンジは上手く聞き取れなかった。
「あの片方だが……部屋の、どこかにはあるはずだ。昨夜持って帰ってどこに置いたか曖昧で……悪いが、すぐには取りに戻れそうにない」
「そんなの、」
いいのに、と続ける前に、視線が重なった。途端にピリピリとした痺れが起こり、ハンジの全身に震えが起こる。リヴァイの口が動き、周囲には聞こえない大きさで、湿った手触りの言葉を発する。
「だから――夜、部屋に来るか」
その瞳が湛える光を、たった一晩で、どれほど望んだことか。
ああそうだ。夢とはいえ。
夢だからこそ。
ハンジははっきりと、自分の内側にあるどうしようもない欲望を思い知った。「この人が欲しい」と。噛みついて、丸呑みにして、同じことをされて、二度と離れたくないと思うほどの欲望を。
逡巡は短かった。こくん、と頷いた意思も、どろりと溶けた慕情も、確かにハンジのものだ。
例え腕輪が揃ったとしても、剥いた牙を再び納める気はない。リヴァイにだけ聞こえる声で、ハンジは囁いた。
「もし、もう一つのほうも見つからなかったら……一緒に探してくれる?」
道半ばの脇に生えた木の根に腰を下ろし、長旅にほどよく痛んだ脚を揉む。次の行き先は決めていなかった。あてどない放浪と生産がどうにも自分の気性に合っているようだ、と男は思っている。
太陽を真上の近くに見とめて、腹に何か入れるか、と荷物を探る。すると、個々に布で包んだ商品のあいだからころりと何かがまろびでてきた。
「……ははぁ、今回は早かったな、お前……」
互いの尾に噛みつく二匹を手に取り眺めながら、先日これを買っていった男女に思いを馳せる。
きっかけが何であろうと、生まれた幸せが永遠に近いほど長く続くのなら。この腕輪にかけた時間も労力も、願いも、それだけで報われるんだけどな、などと。
先行きを知らない男は、そんな嘯きを風に載せるのだった。
〈了〉
(初出 24/01/31)
(更新 24/05/12)