εροβóρος
壁尻の夢を見る話
εροβóρος
壁尻の夢を見る話
尾噛の二匹
妙な空の日だった。
全天をまだらに覆う薄暗い雲、そのあちこちから細く弱くと陽が透けて、強大な蛇が都市の上に被さっていると見えるような。そこはかとない沈鬱に満ちた上空を、頭が背に着きそうなほど振り仰いでいたハンジは、小さく「残念だな」と呟いた。
「……何だ?」
反った喉で押し出した声を、リヴァイは上手く聞き取れなかったらしい。
眼前の活況に意識を向けたまま訊ねてくる。ハンジも姿勢を正して彼に倣い、これ幸いと嘘をついた。
「うん、雨が降らなくてよかったなって。ひとまわりする時間くらいはありそうだ」
夏待ち月の某日。
仲間内で催すことになった小さな宴の彩りを求めて、有り金を懐に兵舎を飛び出したハンジは街中でリヴァイと出くわした。どうやら同じ目的で店を見て回っていたらしい。
抱えこんだ紙袋の中身を見せ合い、難癖にもならない難癖をつけ合い、なんとなく肩を並べて歩きだしたのが一時間前。
そろそろ冷やかす先もなくなってきたところで、街角から香ってきた喧騒に目を留めたのはほとんど同時だった。「ちょっとだけ寄って行かない? 酒の肴になりそうな物が見つかるかも」などと言って誘ったのはハンジだったが、リヴァイも断りはしなかった。
そうして、大通りの中央から西、運河まで伸びる小道へ。さして長くもないそこに足を踏みこめば、色とりどりのテントを天井に所狭しと露店が並んでいた。
兵団監理局から許可を得た商人たちが自慢の品を持ち寄り、道行く客相手に売れるだけ売りさばく、いわゆる市場である。城壁都市のどこかで半月に一度、食料品に至ってはもっと頻繁に開催されており、老若男女を問わず訪れる人間は多い。
陳列された品や店の体裁からして、二人が遭遇したのは雑貨品専門の市場のようだった。熱を持った呼び込みや値切りの声があちこちであがっている。賑やかな全景を、ハンジは眩しい気持ちで眺めわたす。
「へえ、規模は小さいけど盛況だね! リヴァイは市場で買い物したことはある?」
「いや……初めてだ。ずいぶん人が多いな」
そう言って物珍しそうに周囲を窺う様子は、それこそリヴァイにしては珍しい。どこかあどけないその表情に、ハンジも弾む胸を抑えながら言葉を紡ぐ。
「そうそう、突出区周辺の村や集落はもちろん、他の都市からも商人がやって来るから、こうして結構な人出になるんだよね。そのぶん無許可で物を売ろうとする連中も後を絶たないんだけど……駐屯兵団の知り合い曰く、危険な物を取り扱ったり、他のお店の妨げになるほど儲けを出したりしないかぎりは見逃しちゃうんだって」
「まあ、危ねぇモン売るにもそれなりの地盤が要るからな」
法の外側に捨て置かれた経験を持つためか、リヴァイは違反者の存在や管理者の看過にも大して反応しなかった。王都の地下から調査兵団に移り、年を跨いでもなお、彼は独自の法の下で生きているようにハンジは思う。
仲間と背中を預け合ったり、からかいを交えて談笑したり、共に街をぶらついて店を冷やかすなんてことはどうやらその法に抵触しないらしいが、一般的な常識を土台に育ったハンジなどは、彼にはずいぶん物を知らない人間に見えるのではないだろうか。
もしかしたら、子どもみたいに思われているかもしれない。ハンジも油に浮く水のように周りから浮いていた存在だったので、「お前とは話ができない」と遠ざけられるくらいならそっちのほうがまだマシではあるのだが。
「オイ、ガキみてぇにフラフラするな。ぶつかるぞ」
予想を裏づけるような注意に、思わず笑ってしまった。
「ごめんごめん。昔っから市場に来ると気分があがっちゃってさ! それこそ子どものころなんて、こんなにお店が多かったら二度と同じ売り物に会えないんじゃないかって心配になって、一日中店から店を歩き回ったもんだよ」
「は……想像がつく。どうせ同じモン二つ買っちまうヘマをして、小遣い減らしてベソでもかいたんだろう」
「……見たことあるみたいな言い草だな」
「さぁな」
口こそ弧を描かぬものの、愉快そうな横目がハンジを見る。
十中八九、先日まさに『同じモン二つ買っちまっ』た誰かのことを言っているのだろう。ハンジの失敗が明らかになった時、リヴァイはその場にいなかったはずだが、どこで話を聞いたのやら、油断ならない男である。
ハンジは唇を軽く尖らせ、一歩だけ先に進んでみせた。リヴァイも、何も言わずにそれに続く。
人群れをするすると縫いながら、二人はつかず離れずの距離を歩いた。
交わす言葉は色も潤いも含まないものだったが、周囲に見知った人間がいないという状況にどうにも肩の力が抜けたのか、流れる空気は終始穏やかなものだった。
店から店、人から人へと目を動かしてやまないハンジに、リヴァイが控えめに注意を投げて、きちんと拾えなかったハンジが「なに?」と顔を向ける。視線に導かれた脚が互いの距離を詰めて、二人の腕に、掠めるようなふれあいを引き起こす。リヴァイの口元がわずかに緩み、労を惜しまず、同じ言葉をくりかえす。何かの火種にもならない、そんな応酬の繰り返し。
時折生ぬるい風が吹いて、二人の頬を舐めていった。雑多な匂いに混じる雨の気配が刻一刻と濃くなっていくのを、何も言わないながら、二人ともが感じとる。陽が落ちるころには降りだしているだろう、と。
ちょうど通りを端まで見終わったところで、引き返すにはいい時間だった。ハンジはもう一度、今度は内心で「残念」と呟く。
もう少しここにいたかった。もう少し、リヴァイと二人でいたかった。それは『興味』から一歩だけ個人の感情に入り込んだワガママで、だからこそ、兵士たちの能力向上を盾に「君の体を調べさせてよ!」と研究欲を圧し通していた以前のように表に出すことは叶わない。
表に出して、早々に決着をつける勇気もなかった。
リヴァイはきっと、そんな矜持とも臆病ともつかないちっぽけな停滞ごとハンジの気持ちを察しているのだろう。今日だって、今日以外だって、ハンジが取りこぼした感情に言及しない。疑問さえ口にしない。見ないふりをしてくれているのだ。それこそ、子どもを扱うときのように。だったらハンジは、その優しさを糧にして、大人にならなければいけない。
勢いづけて振り返り、声と指で帰路を指す。
「あらかた見て回れたかな? じゃあそろそろ帰ろうか、リヴァイ」
「構わねぇが、何か買わなくていいのか」
「そうだね、今回は特に目を引く物もなかったかなあ。君は? 気になるお店はあった?」
「いや……」
あわよくばリヴァイがどんなものに興味を持つのか知れるかも、などという期待も呆気なく散って、ここに留まる理由は完全になくなってしまった。
ならばもう、と足を踏み出した時。
ハンジの目が、まったく意識もなく、とある一点に吸い寄せられた。
店と店の隙間に隠れるように、汚れた布を敷き、小さな物々を並べてうずくまり、どうやらそれだけで店の構えとしている男が一人。これまた汚れたフードを被り、客を呼び寄せるでもなく俯いていたそのおもてが、ハンジの視線に気づいたように持ち上がる。そうして、ニイ、と歯を剥きだしたのだ。
「……? オイ、どうかしたのか」
「いや、アレ……」
ハンジが指を差したことで、リヴァイも怪しい人物の存在に気づいたらしい。軽く目を見張ったかと思うと、すぐに細め、眉間に皺を寄せる。「面倒な」という内心がありありと表れた顔だったが、見つけてしまった以上は放っておくわけにもいかない。
対象から目を離すことなく、二人はゆっくりとその男に近づいて行った。
「いらっしゃい……お客さん、お目が高いねぇ」
どう見ても客とは言えない雰囲気のリヴァイとハンジを、男は警戒もなく迎えた。どころか、嫌味のない嬉しそうな笑みを湛えている。
意外な柔さに毒気を抜かれたハンジは、そうしようと思ったわけでもないのに、彼の前に屈みこんでしまった。整列もなく置かれた品々は、ざっと見たかぎり、なんの変哲もない貴金属や木製の玩具ばかりだ。
「やあ、素晴らしい売り物がいっぱいだね。儲けはどう?」
「ぼちぼちですねぇ……けど、今日一番のお客はアンタですよ」
「えっ?」
意表を突かれて顔を上げると、男はまっすぐにハンジを見ていた。ハンジだけを、なのが不自然だった。背後のリヴァイには目もくれず、しかし悪意のある排除かといえばそうでもなく。
たとえば、注文していた品を店まで取りに来た客のように、ハンジを「何か買う前提でここにいる」と捉えているようなのだ。フードの中から、三日月を寝かせた形の目が笑いかける。
「好きな物を手に取ってくださいねぇ。それが〝選ばれる〟ってことですから……」
「……は、」
「悪いが、商売の前に確認したいことがある」
それ以上の会話を遮るように、鋭い声が斬りこんできた。リヴァイだ。
男の無視の賜物か、はたまたハンジの迂闊の成果か、背後に漂う空気はいくぶん刺々しくなっている。
男もようやくリヴァイを見上げて、頬を崩したまま「なんです?」と首を傾げた。
「行商許可証を見せろ」
「はあ、兵士さん方でしたか。これは失礼しました。ええと、許可証ですねぇ、もちろんですとも……」
一も二もなく了承した男が、ほつれた袖の中から小さな木板を取り出す。ハンジの顔の横を過ぎて背後の手に渡ったそれは、一見しては管理局より発行される正式な証のようではあった。が、「初めて市場に来た」と言っていたリヴァイは知らないはずである。
共に確かめるべきか、と肩越しに視線をやると、かえって意味深な目配せを受けた。どうやら「お前は売ってるブツを検めろ」とのことらしい。
つい先ほど世間話として出した「よほど危険な物を売らないかぎりは」なんて看過を、まさか自分がすることになるとは思わなかったハンジだが、再び前に向き直り、飛び石のように置かれた品々を検分しはじめた。
大きくても手のひらを超えないサイズの装飾品、雑貨、子供用玩具、合わせて十数点。素材は錫、銀、銅などの比較的安価で加工しやすい金属や、壁内の至る所で手に入る木など。
目を引く点と言えばデザインくらいで、どの品も曲線が目立つ作りの中に、人の感情の軌跡を残したようなわずかな歪みが残されており、かえってそれが不思議な温かみを宿している。この男か、はたまた誰かの手製なのだろう。
とりあえず怪しいものはなさそうだ、と一息ついたところで。胡坐をかく男の膝のすぐそばにチカリと光る物を見つける。ハンジの目が、またしても吸い寄せられる。
「……何か、お気に召すもんでも?」
「その、それを」
無意識に持ち上がったハンジの指を追い、男が嬉しそうに笑った。
「ははあ、コイツですか。ということは、アンタぁ……」
「え?」
「さあさ、遠慮せず手に取って。腕に通しても構いやしませんよ。コイツはもう、アンタの物ですからね……」
ずいと差し出されたものを、ハンジも黙って受け取ってしまった。
それは不思議な色と形をした金属の輪だった。「腕に通しても」ということは腕輪なのだろう。
ハンジの指より一回り細い輪の部分は、よく見れば何かの動物が二匹、互いの尾を噛んだ形で構成されている。一匹は紫、もう一匹は緑に着色されており、角度を変えるたびに地の黒にそれぞれ光沢のある色が走って美しい。
輪の外側には鱗、内側には蛇腹のような模様が繊細に彫られていたので最初は蛇かと思ったが、すぐに違うことに気づく。二匹の動物の頭には角、背中にかけては立髪を模した隆起と小さな羽、そして腹側には四肢のようなものまである。
「……これって、もしかして」
「よくご存じで……そのとおり、リュウです」
瞠目するハンジに、男はさらに続ける。
「綺麗な色でしょう。チタンでできてましてねぇ。火に近づけると色が変わっちまうので、そこだけは注意してくださいね……」
「あなたが作ったんだね?」
「ええ、ええ。コツコツと……だからコイツは特に〝強くて〟ね、自分でちゃあんと人を選ぶんですよ。アンタは選ばれたんだ……」
男は先ほどから、しきりに『物が客を選ぶ』という意味のことを言っている。おおかた購買欲を掻き立てるための眉唾だろうが、それを差し引いても突っ込まずにはいられない物言いだ。
今の今までハンジの優先順位の最上にあった『検分』の項が、急にポロリと下に落ち込み、むくむくと膨らんできた好奇心に取ってかわられる。
「この子に選ばれたら、私はどうなるの?」
「そうですねぇ……」
男が両目を限界まで細め、ハンジの手元を見る。
「その腕輪はね、二匹とも尾っぽから頭が外れて、二つに分かれるんですよ……そら、そのツノ。カチッて手応えがあるまで、引っ張ってみてください」
「わ、本当だ」
男の言葉どおりに操作すると、確かに二匹のリュウが離れ離れになった。一方の口にもう一方の尾を差し込み、そこで頭の角を押し込むと、口の中で尾にある小さな穴に挿し込まれて固定されるという仕組みらしい。輪にしたままでも指を束ねれば腕に通すことができるので、この分離は別の目的で作られた機能だということになる。
目で続きを訊ねるハンジに、男も独特のテンポで秘密を明かす。
「コイツらは、それぞれが雌と雄のリュウでして……互いを想うあまりに、勢い余って相手の尾っぽに噛みついちゃったんですね。だからね、これに選ばれた人間ってのは、心のずっと奥に、懇ろになりたいと願ってる相手がいるんですよ……それでその相手と、コイツの片方ずつを持っているとね、奇妙な縁で惹き合うんです。奇妙なっていうのは……まあ、色々ありまして、そこは私にも読めないんですけど、合うことは合いますからね、ええ……」
つらつらと流れる説明を聞きながら、ハンジは「リヴァイに顔を見られない位置でよかった」と心底安堵していた。
とっくにこの些末な慕情にも気づかれてはいるのだろうが、気づかわれたいわけではない。動揺が表に出る前に、少し意地悪な質問で逃げを打つ。
「へえ、そんなに凄いご利益があるのに、今日まで売れてなかったのかい?」
「いえいえ、何度も売れましたよ……。けどねぇ、役目を終えたら、私のところに帰ってきますからねぇ」
「帰ってくる……?」
あっさりと切り返された上に、燻ぶっていた好奇心にさらに油を注がれてしまった。もはや意思のある生命体を指すような口ぶりだ。
ハンジは、手の中の金属をじっと見つめた。身につけても重くはなさそうだし、リュウの顔も二匹それぞれ微妙に違っていて可愛いし。男が自信満々に説明したご利益の真偽も気になるし、怪しい物ではないし。
「——問題は見当たらなかった。悪かったな」
「ああ、いえいえ……。お勤めご苦労様です」
ハンジが黙々と『購入してもいい理由』を積みあげる後ろで、リヴァイが男と話をしはじめる。どうやらハンジの様子から『商売するのに問題ない』と判断して許可証を返したらしい。声の棘も、聞いてわかるほどには落ちているようだった。
「そいつはいくらだ?」
「そうですねぇ。こんくらいかしら……」
「…… 値切る気にもならねぇ額だな」
「中古品ですからねぇ……ああ、お買い上げで。ありがとうございます……」
「んん? ちょっと待って!」
違和感に気づき、慌てて振り向く。
案の定、リヴァイが懐に手を入れて今にも財布を取りだそうとしているところだった。男も男で、そこから出されるものを当然のように待っている。
ハンジは二人のあいだに入るように立ちあがった。
「それ、もしかしてこの腕輪のお金?」
「? 買わないのか」
「いや買うよ、買うけど、あっ」
ハンジの口は素直に『買う』ほうに決定を下していた。宣言した以上そこにもう異存はないが、問題は「どうしてリヴァイが買おうとしているのか」である。問い詰めようと息を吸った瞬間、なぜか男が「まぁまぁ、お客さん」と待ったをかける。
「男としてはね……連れが何か欲しがっているなら、叶えてやりたいと思うもんですよ。ここはこの方の顔を立ててやんなさい……」
「はあっ?」
見逃せない行動と聞き捨てならない言葉に挟まれ、ハンジの首と目が忙しく動く。
「違うよ、リヴァイとはそういうんじゃないから! その、……そうだ、今夜宴会があって、もともと話の種になりそうなものを探してたんだ。それで、」
「おや……」
「ってわけだからコレ! 私が、自分で買わせてもらうよ! いくらだって?」
ハンジとリヴァイとを見比べる男に結構な剣幕でまくしたて、確かに値切る気にもなれない額を支払ったハンジは、その勢いで「さあ帰ろう!」とリヴァイをも追い立てる。後ろは一度も振り返らなかった。
奇妙な店と男に別れを告げ、足早に歩くこと数分。
露店の並びが途切れ、交差点に辿り着いた。複雑な街路を進んできたわけでもなく、なんなら通りの入口へと戻って来ただけだが、急に霧が晴れたような心地になる。ふと思い出して手元を見れば、丸裸のままの腕輪を握っていて、いくらなんでも慌てすぎだったとハンジは決まりが悪くなった。
ポケットにしまいつつ、ついてきていたリヴァイを見やる。彼はさして気にした様子もなく、「なんだ?」とハンジを見返した。
「あ……えっと。なんだか変なお店だったね。許可証は本物のように見えたけど、正規の出店にしては他とずいぶん構えが違ってたし」
「ああいったのは初めてか」
「うーん、記憶にないなぁ。基本的にどこも客の目を引くように展開するからね。かといって、占いみたいに秘密が一定の価値になるような店でもなかった」
よくよく思い返してみれば、両隣にあった店の人間は、声も視線も一切よこしてこなかった。まるで男も男の店も、どころかリヴァイとハンジさえもそこに存在しないように振る舞っていた気がする。
「単に商売の勝手を知らなかっただけじゃねぇのか」
「はは、そうかもね」
不可思議な経験だったが、嫌気を感じたわけではない。手元に残ったのは興味を惹く腕輪と、ほんの少しのわだかまりだけだ。
「あのさ……誤解がないように言っておくけど、さっきのはけっして君を貶めようとして断ったわけじゃないからね」
「……ああ、支払いのことか」
「こういう装飾品って、不注意で傷つけたり失くしたりするかもしれないだろ? 特に私は気に入ったものほど持ち出して弄るし、人からの貰い物を損ないたくないから、なるべく自分で買うようにしてるんだけど……君の面目を傷つけただろうか」
リヴァイが首を振る。
「お前の言うとおり、今夜の与太話用のブツくらいに思っていた。どっちが金を出したところで結局精算するから、と」
精算と言っても大まかにだが、宴会に参加した仲間内で手出しの合計を割り、個々の不足や過剰を均すのだ。これが一応金の使いすぎ防止になったりする。
腕輪はハンジの私物として買ったので、この計算の範囲外だ。
「言っちまえば店側も、売れさえすりゃ誰が金出そうが構わねぇはずだからな。ちょっとばかし揶揄われただけだろう」
事もなく返され、これはこれで反応が過剰だったと突きつけられた気がして恥ずかしくなる。「だったらいいんだけど!」と殊更大きな声を出して切り上げたハンジに、今度はリヴァイが訊ねる。
「……で、身に着けるのか」
「え?」
「腕輪」
「ああ、これ。実を言うとね、そういう使い方は考えてなかったんだ。物が客を選ぶんだって売り文句が面白くて、つい。あとは……モチーフや着色が珍しいから、眺めて楽しむだけで十分かな。あ、着色といえば」
話しながらも、二人の足は自然と兵舎に向かっていた。重くなる一方の天気模様に急かされるが、互いに、話を遮ってそれに従うまではしない。
「あの店の男の人さ、もしかしたら元工兵とか……いや、もっと高位にいた人間かもしれない」
「なんだと?」
「彼、腕輪はチタン製だって言ってただろう? 硬度も汎用率も黒金竹には及ばないけど、あれもなかなか加工が難しい金属なんだ」
「それだけの技術と設備を持っているってことか」
「そう。それに、リュウのことを知っていた」
リヴァイが片眉を上げた。無言の催促だと心得ているハンジは、『リュウ』について解説しはじめる。
「蛇に似た姿をしている、伝説上の生き物のことだよ。壁ができるよりもさらに前、遥か古代に存在したと伝えられている。山ほどの大きさで空も飛んでいたって話だけど、それを再現してるってことは……禁書の知識を持っている可能性がある」
「オイオイオイ。十分危険物じゃねぇか」
「知らない人は異形の蛇くらいに思って気づかないよ。元々リュウも大蛇を見間違えて生まれたんじゃないか、って説があるくらいだし」
「よくわからねぇが……持ってると惹き合うだのなんだのの話も、そのリュウが由来のもんなのか」
一瞬だけ、ハンジは喉を詰まらせた。まさかリヴァイがそこを蒸し返すとは思っていなかったのだ。
「うー…ん、ええと。蛇やリュウが尾を噛んで円になった形を『ウロボロス』と呼んで、完璧や永遠の象徴にしていた集団なんかも昔はあったらしいけど、これについてはほとんど資料が残ってないんだよね」
焦りを収めつつ、ふと、思いついたことを声に出してしまっていた。
「それよりも、蛇のほうに因んだのかも……」
「蛇の?」
二匹の蛇が台となるなら、ハンジが最初に思い出すのはその交尾のことだった。雌雄の蛇が互いを相手と決めて、指切りのように尾を絡ませあい、腹にある生殖器で精を交わすのだ。
だが、腕輪の二匹は互いの尾を噛み合っている。
相手を引き寄せようとしても、見えない場所で相手が自分を引くためにこれを阻まれる。繋がっているのに到底交われない。片思いの人間が己と意中の人を投影などして身につけるには、ピッタリではないだろうか。
――なんて話は、例えば同性の女たちと酒精にまかれてする分には笑いを誘えるだろうが、今いま想っている相手に、それも素面で伝えるには生々しい。リヴァイに変に反応されたくもない。
彼とは結局、この距離がちょうどいいのだとハンジは思う。ちょうどいいと、思っていなければならない。
「……ううん、なんでもない。そんなことより早く帰ろう! いよいよ降りだしそうだ!」
湿った空気を振り払うように天を指差し、リヴァイに向かって声を張る。リヴァイもリヴァイで、どこまで察しているのか、それ以上深掘りはしなかった。
「お前がゴチャゴチャくっちゃべってたんだろうが……」
文句を言って歪んだ口は、けれど、少しだけ演技じみていた。
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私物として買い求めはしたものの、ハンジは宴会にしっかり腕輪を持ち込み、手に入れた経緯や、リヴァイにしたのと同じ話を披露した。
今夜の集まりは兵団に長く在籍する女性兵の結婚を祝うものだったので、男女の契りの話題が腕輪の奇妙な効能とちょうどよく馴染んだらしく、それなりに盛り上がった。
それこそ、席に同性と酒が揃った時には蛇の交尾の話もして、顔を赤くした女たちできゃらきゃらと笑い合った。二匹の頭と尾を離して、片方を誰かに渡して、矯めつ眇めつと観察して。ハンジはもちろん、宴のどこかでリヴァイとも言葉を交わした。
日付が変わるころに解散となったが、その時にはもう、一揃いの腕輪の行方を正確に知る者はいなかった。