て、なるほうへ
若リヴァハン×寄生系触手
て、なるほうへ
若リヴァハン×寄生系触手
闇の中で、何かが動いた。
火を持ち替え、神経を研ぎ澄ませながら、ゴーグル越しの世界に懸命に目を凝らす。
時が止まった空間。辺りを囲む暗く沈んだ石。火が燃える音。あとは、静寂。
(大丈夫。何もいない)
数十秒ののち、ハンジは緊張を吐き出すために、努めて深く、ゆっくりと呼吸した。それでも、身体の芯に強張りは残したまま。過度の心配だとは思わなかった。ここは壁内ではない。女神マリアの横顔をくぐり抜け、馬足で南へ下ること数時間。調査兵団は今、人類最南端の夜にいるのだから。
後方を振り返る。もう随分と暗がりを歩いてきたように思ったが、数メートルも離れていないところに上階へと登るための階段が見えた。段の一つに設置した小さな炬火が、ひとり彷徨うハンジを呼び戻すように明かりを滲ませている。その仄赤い暖かさをしばらく眺めて、ハンジは結局、より深い闇のほうへと歩き出した。響く足音は石を踏んだときのそれだが、歩き心地に引っかかりや凹凸はいっさい感じられない。丁寧に加工された石材が敷き詰められているのだろう。
今夜の調査兵団が拠点とするのは、広大な森のそばにポツンと存在する、築百年を超える建造物だった。一世紀を過ぎてもなお堅牢な造りの外壁や、ほとんど崩れてはいるが塔が建っていたと見られる跡から『城』として機能していたことが予想できるが、壁内の目ぼしい場所にこの建造物に関する資料は残っておらず、周囲に人が生活していた痕跡もさっぱり残っていなかったため、由来は何もわかっていない。そういった経緯に加えて、細く何度も折れ曲がる廊下や溢れかえるほど存在する小部屋、周囲からの視線を拒むような窓の少なさなど、入り組んで風通しの悪い城内が気味の悪さに拍車をかけている。そのせいか、一晩をここで過ごすことになった調査兵たちは皆、同じ階の同じ空間から出歩こうとしなかった。
(他人の家に勝手に入り込んでおいて、不気味もなにもないけど)
ため息をつくと、使い古したランプの小さな灯りが足元の影を左右に揺らす。視力の悪いハンジには光源からたった数十センチの距離が確実に視認できる限界だ。その範囲さえ、夜が刻一刻と濃度を増すにつれ狭まっていくのがわかる。明日の指示はまだ降りてきていない。ここに来るまでの被害は少なかった。怪我人は複数出たが、死者はいない。前回を鑑みて、幹部はギリギリまで天候を見るだろうか。どちらにせよ充分な休息と装備の点検は必須だろう。本当はさっさと寝床に戻って体を横たえるべきだなのだ。
壁外で過ごす夜は、八月半ばの今日を入れて二度目。前回は春だった。夜間を壁の外で過ごす――目的は人類の行動範囲の拡大ただひとつ。やむを得ない場合を除いて過去にも例のなかったその作戦は、当然各方面からの猛反対にあったが、キース団長は作戦を断行した。新兵たちも含めた全隊で出陣するかについては内部でも意見が別れたらしい。前例も少なく、実験的な側面が強い作戦だったため、結局は選抜された精鋭のみで壁外に出ることになった。
シガンシナ区を早朝に発ち、日が落ちる前に拠点に辿り着く。そこを中継として夜明けより二日目の壁外調査を開始する。大まかな動きはこれである。
この『城』は過去の調査の際に偶然発見されたものだったが、人の手も入らず風雨に晒されるだけの百年を過ごした建物がこれだけ形を残していた僥倖にキース団長は大いに喜び、最低限の下準備を経て夜間の拠点として扱われることになった。壁内で野営訓練の経験があるとはいえ、壁の加護の外で日の出を待つとなると話が違う。多くの兵士たちに極度の緊張を強いて行われた夜間遠征は、当たり前のように悪い結果を残した。一日目の段階で被害を大きく出し、城に溜め込むはずだった備蓄の多くを亡くして命からがら辿り着いたここで、一部の兵士を除けば皆が青い顔で夜明けを待つこととなった。加えて翌早朝、突然ぶあつい雨雲が空を覆い、一帯を水浸しにした。激しい大雨に被害状況も考慮し幹部は撤退を選択、結局、通常の遠征以上の損失を抱えて帰還することになった。
次はないだろう。誰もがそう思っていたところに、王政府よりじきじきに労いの言葉と再遠征の下知が降り、こうしてまた誰もが望まない夜が始まってしまった。
「貴族連中は調査兵なんてみんな死ねばいいって思ってるんだよ」
遠征前夜、誰かが酒に巻かれて放った言葉を否定できる者はいなかった。ハンジもそのとおりだと思っている。
(せめて夜間の巨人の動向を観察できればな……)
『夜のあいだ巨人は動きを停止する』という性質について、ハンジは常日頃から誰彼構わず「調べてみたい」とこぼしていた。まさか馬を動かせる限界まで壁外にいられるなんて思いもしなかったが、例えばこの拠点を十分に整えて、城の周りに罠を張れる余裕が出来れば、捕獲した巨人を夜通し観察することも可能だろうか? 王政府に笑顔で墓場へと案内された不審はどうしても拭えないが、願うことへの第一歩だと思えばまだ顔を上げていようと思える。
(けど壁外で巨人の生態を調べるには限界がある。やるなら壁内で、きちんとした場所を確保してだ)
三重の壁を築き、必死で外敵から身を守っている内側に、奴らを招き入れる。夜間作戦よりさらに突飛な思いつきだとわかっていたが、そういうハンジの思いつきを最後までちゃんと聞いて、異なる視点から現実的な意見を述べてくれる人間がいるのだ。そのために捨てきれない思いでもあった。
(……いや、そういう人間が〝いた〟、が正しいか)
辺りを漂う闇が入り込んだかのように、ふ、と思考に影がさす。
日の出はまだ遠い。何重にも巻かれた石の向こうの遙か先で、この時期だけの星座たちが夜を過ごしているのだろう。その瞬きを思い描くと、春の遠征で交わしたくだらない会話が甦える。
あの時は確か、見張りを任せられたハンジと、当番でもないのにどこかから現れた彼と二人で、半壊した天井と塔の瓦礫が転がる最上階に立っていた。天辺の先で広がる星空に惚けながら「紺のベルベット地だ」と呟いたハンジに、「小麦粉と塩をぶちまけたみてえだ」と答えたのは隣の彼……リヴァイだった。
「情緒ってもんがないね」
「さっきクソと一緒に埋めたからな」
「それにしたって小麦粉と塩って……あ、なんかお腹が空いてきたな。まだ食料あったっけ」
「お前……クソの話の後に……」
「クソはあなたが言い出したんだろ!」
必要もないのにヒソヒソと声を潜めて、聞こえない言葉を埋めるように、距離を詰めて。生き残った今日にも、潰える可能性の明日にも言及することなく。時折重なる視線を、それが意味を成す前にそっと外すのも二人同時だった。意味も終わりもない応酬は、ハンジに交代を促す背後からの声で断ち切られた。音もなく去っていく彼に向かって投げた言葉、それだけが、ハンジにはどうしても思い出せない。他愛もない一言だったと思う。それから今日まで、彼とは一度も話をしていない。
(避けられている)
確信があった。現在は別の班に所属しているリヴァイだが、元同班のよしみで何かと顔をあわせる機会があった。挨拶や軽口や意見、時には酒を交わしてきた。だと言うのにここ三ヶ月、口を聞くどころか顔も見ていない。リヴァイの気配を感じて彼を探してみても、既にその場を去った後だったりする。
今日だって、拠点に到達し各自の持ち場と行動の指示を受けた後、ハンジはリヴァイを探した。彼と同じ班の連中に「リヴァイは無事か」と問えば「是」と返ってきた。けれど「居場所を知っているか」との問いには、皆一様に「否」と答える。知らないはずがないだろう、と苛立ちを隠しもせずに問いつめても、誰も彼の行く先を明かそうとしない。足音も荒く背を向けたハンジに、笑いまじりの揶揄が飛んでくる。
「いい加減さ、愛想つかされたんじゃねえの」
「……うるさい」
声が尖るのを抑えられなかった。握った拳をさらに固めて、大声で否定したい気持ちだけはなんとか押し留める。
ハンジの反応に仲間たちは憤懣を感じ取ったのだろう、賑やかに緩んでいた場の雰囲気が、冷たく萎んでしまうのが手にとるようにわかった。
「悪かったよハンジ、本当に知らないんだ」
「アンタが来るまでそこにいたんだって。いつのまにかいなくなっちゃったけど」
巨人や敵を前にすれば無視できない存在感を放つリヴァイだが、普段は足音どころか気配さえ薄い。人の目を掻い潜ってその場から立ち去るなど造作もなくやってのけるだろう。そうしなければならない理由があるなら。
何も言わずに歩き出したハンジの背中を、最後に叩いたのは仲間の声だった。
「ほどほどにしときなよ。明日もあるんだから」
『明日』の部分が強調されていたのは、彼らなりの「備えておけよ」という忠告だったのかもしれない。
ハンジだってそうしたかった。時間があるうちに今日遭遇した巨人の特徴を事細かに書き出して、できることなら他の班員にも聴取して回りたい。情報を集められるだけ集めたら、精いっぱい整えた寝床に横になって思考に沈むのだ。なのに実際はどうだ。死戦をくぐり抜けてきたばかりの仲間たちに当たり散らし、夜には一層ポンコツになる視力で寝床を抜け出し、闇に潜む何かに冷や汗を垂らしながらリヴァイを探している。
(そんなのおかしいじゃないか)
周囲に向けているべき意識が、自分の内側に集中していく。なぜリヴァイのためにこんなに時間や労力を割いている? 彼が何よりも優先して「ハンジに会いたくない」と考え、会わないように、また会わなくても支障がないように行動をしているのなら、これ以上ハンジにできることはない。しなくてもいいのだ。一兵士であるハンジとリヴァイのささいな交流がなくなったとしても、兵団や公務は滞りなく進んでいくのだから。
(つまりその程度の繋がりだったんだ)
そう思うと、胸に石が詰まったような感覚に襲われる。誰かに背を向けられたり、急に距離を開けられることは今まで何度もあった。ハンジもそのたびに原因を分析して、言動の改善や復縁に努めて、あるいはその労力の意義を考えたりして関係を深めることを諦めてもきた。密に会話をすることはなかったとしても、『調査兵団』という所属と表向きの大義を同じくしている以上、兵士たちは皆最低限の情の線の上にいる。それだけで戦って死ぬには十分なのだから、と。けれどリヴァイに対しては、どうしてかその諦めを持つことができないでいる。
ジ、と何かが燃える音がして、ハンジは我に返った。慌てて周囲を見渡すが、当然ながら捉えられるものない。大方ランプの火に羽虫が飛び込んで焼かれたのだろう。
ハンジが立つのは、兵士たちの寝床や作戦本部が置かれた二階を後にし、持ち込んだ藁を敷き詰めて馬房がわりにした一階玄関ホールの、さらに脇に並ぶ小部屋のうち一番端の室内にあった、地下階への入口を降った場所だ。古い扉が真新しく蹴破られた跡を見つけ、ひと一人が通り抜けできる程度の階段を下りた際に、音の響きから意外にも広い空間があるのを察したハンジは、もしかしたらリヴァイがいるのではないか、という予感を頼りにここまで来ていた。が、長年の湿気による黴臭さと、一階から吹き込むわずかな風による埃の堆積、おまけに虫の気配もある不潔な空間に、あの潔癖な男がわざわざ入り込むだろうかと今さらながら思う。
おまけに。
音と光が吸い込まれる先ばかりに眼を奪われがちだが、ランプの光が揺れた瞬間、ハンジは両の壁に〝あるもの〟を見つけていた。
(……扉?)
腐り、朽ちて、それでもかろうじて機能している木の扉。火を高く掲げ、よくよく目を凝らしてみれば、ハンジが歩いてきた道の途中の壁にも一定の間隔で同じ扉が並んでいる。どれにも大きな錠前がついており、しかも鍵穴が潰されている。ごくごく小さな覗き窓しかない扉は牢屋にしては不十分に思えたが、懲罰房にしては数が多すぎる。異様な光景に、ぞ、と背筋を凍らせたハンジは、粟だった肌をマントの上から撫で下ろし、ようやく引き返す意思を固めた。
(こんな所にいるわけがない)
意外に真面目な彼のことだ、きっとハンジの目につかない場所で、それこそ明日に備えて体を休めているに違いない。そうでないと困る。
圧倒的な戦力を持つ彼は、まだ新兵呼ばわりされる在籍年数にもかかわらず、既にこの作戦と言わず兵団の主要戦力に数えられている。異例の出自から引き抜かれてここに来たのだから、隊の動かし方を覚えればいずれはさらに上層に引き上げられるだろう。そうなれば、ハンジも彼が背負う大勢のうちの一人になる。この断絶にかかずらっている余裕もなくなって、ただの上司と部下になるのだろう。
「……あーあ! 仲良くなれたと思ってたんだけどな!」
こびりついた執着を剥がすように、わざと大きく言い放つ。うわんと響いたハンジの声は、大して高くもない天井と壁にぶつかって跳ね返ってきたほかは、全てが石畳の続く闇の中に消えていった。相当先まで続いているらしい。
(地下道か何かだったのかな? それにしては並んでる小部屋が変だけど……)
リヴァイへの苛立ちや焦燥に一旦ケリをつけてしまうと、ハンジの興味は周囲に移りはじめた。満身創痍で戻って、先程の仲間たちに訳知り顔で見られたくない、という忌避もあった。
どうせならこの建造物のことを少し調べて、拠点強化の足掛かりにするのもいいかもしれない。疲れたらどこかで適当に休息を取って、日が昇る前に皆に合流すればいい。
半ば自棄になっていたのかもしれない。その自覚もなく、ハンジはさらに先へと進む。しばらく歩くと、この道は階段下を起点として先へ行くほど降っていくように、ごく緩やかな傾斜がつけられているらしい、とハンジは気付いた。両側の壁と床の境目に溝が掘られ、それぞれの扉の下の隙間から部屋内の水が流れ出るようにもなっている。これらは排水のための措置なのだろう。ただの倉庫なら必要のないもののはずだ。
扉の木板はぶ厚く、経年の劣化の痛みが激しいものの中を覗き込めるほどは崩れていない。裂けた隙間から中がわずかに覗き込めるが、こう暗いと当然何も見えない。ただ黴の饐えた臭いとともに、油を極限まで酸化させたような強烈な異臭が漂ってくる。確信は持てないが、これは生き物に由来するものではないだろうか。
(やっぱり人間が収容されていたのか? それとも何かの動物か)
鼻の奥が痛みはじめたところで、さすがに諦め扉から顔を離す。「さて次は」と視線を先に移したハンジだったが、そこでまたも影が動くのを目撃した。錯覚だ、と頭を振る。恐怖が作り出した錯覚なのだと。
「ハンジ」
なのに。影が声を発した。間違えるはずがない、ハンジの探しびとの声を。
「……リヴァイ?」
灯りを掲げ、影を探す。
「リヴァイ? どこ?」
辺りに、カツン、と耳慣れた音が響いた。ここまでにハンジも散々鳴らしてきた、ブーツの踵が石畳を叩くときのもの。カツン、カツン、と続いたそれは、誘うように奥に向かっていた。背後に抜けていく反響に見向きもせず、早足でそれを追う。
真っ暗闇が距離感をなくし、とあるところで止まったときには、ハンジは自分が今どこにいるのか定かではなくなっていた。けれど、共に彼がいるのだ。何も怖くない。
「リヴァイ?」
「ハンジ」
すぐ横から声が聞こえて、ようやく、と息を吐きそちらに目をやる。頼りないランプの明かりに浮かび上がったのは紛れもない彼だった。喜びに浮いた気分が、しかしすぐに重たくなる。
「リヴァイ、あなた……ずいぶん顔色が悪いけど、どうしたんだい?」
「……こう暗くちゃわかんねえだろ」
そんなことはない。俯いてハンジに顔を向けようとしないが、リヴァイの頬が火の色を受けてもなお白く、おまけに引き攣っていることは簡単に見て取れた。明らかに異常だ。ハンジの腹をみっちりと満たしていた憤りが、焦燥へと形を変える。
「……リヴァイ? どうしたんだよ一体。まさか怪我したの? それとも誰か、目の前で……」
「何もねえよ」
「何もないことないだろ」
リヴァイの態度は、隠し事をするにしては露骨すぎた。彼はハンジに対して言いたいことを飲み込むことはしなかったし、言葉を探して途方にくれる時はハンジの眼を覗き込んだ。求める言葉がそこにあるかのように。
ハンジとて、そろそろ片手の指では足りなくなる年数を彼と過ごしているのだ。彼の青と灰の虹彩を見れば、その心中を大概は察せられるようになっている。けれど彼は顔を俯かせて、ハンジを意識から締め出そうとする。
「ねえ、……最近私のこと避けてただろ……少し話そうよ、何か、」
「ハンジ」
口にした何かを遮られるということを、彼に初めてされたように思う。それだけ、彼はいつもハンジの話を聞いてくれていたのだ。なのに。
「俺のことは放っておけ。早くここを出て、戻れ」
リヴァイなのに、リヴァイではない。彼の中で何かが決定的に変わってしまった。そう確信する。それでも、『ハンジ』と呼ぶ声だけは前のままだ。いつだって何かを求めているような響きで、けれど与えるか否かの判断はハンジに委ねている。そういう呼び方がそこにあった。だったらそれは、ハンジにとって『リヴァイ』だ。
「あのさあ、そんな態度の理由を聞かなきゃ私だって納得できないよ! 頼むから、こっちを向いてくれ」
硬く縮こまったままの肩に、縋るような思いで手を伸ばす。けれど。
――パシッ。
「触るな」
乾いた音が散って、ジン、と痺れる手がそこに残った。顔を上げた時にはもう眼前の暗闇にリヴァイの姿はなく、存在が空間に溶け出したように気配だけがそこにあった。ハンジを拒絶しながら、拒絶を受け入れることを待っていた。立ち尽くす背中にかかる闇がいっそう重くなり、硬く冷たい一言が打ち下ろされる。
「もう、俺を追うな」
そこからの記憶は曖昧だ。
意識が重鈍に浮かびあがる。外界に薄く繋ぎ止められた感覚の中、虚ろな目がゆらゆらと揺蕩う。暗い。目がかすむ。腕が、脚が、動かない。また、遠のく……。
「……はっ……」
自分の覚束ない呼吸音が、ようやくハンジを目覚めさせた。途端、鈍い痛みが後頭部から起こる。
「ふ、……っ! ごほっ、ぐ……」
乱れた気息を整えようと吸い込んだ空気には、むせ返るような甘さが満ちていた。水のように重たく、鼻腔が痛むほどの匂いが、ドロリと肺にまで流れ込んでくる。
激しく咳き込んだハンジはせめて顔を覆うために手を動かそうとして、それが少しも適わないことに気付いた。頭上にピンと伸びた左右の腕は手首の辺りでぴったりと合わさり、何か強い力で固定されている。掌の開閉はできたが、指先の痺れを確かめる以外は役に立たない。
体を突き破りそうになる悲鳴を、ハンジは必死に抑え込んだ。恐慌に身を投げようとする自意識を懸命に繋ぎ止める。いまだ痙攣しつづける気管を押さえ込み、必死で身をよじる。しかし、バタつかせたはずの脚が地面を蹴らないことに気付き、より一層恐怖に沈んだ。
(何が、……何が起こっている?)
汗腺が一気に開く。夢現を区別するためには境目を探すことだ。落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせる。
(リヴァイ……と別れて……上に、部屋に――行こうとして、違う? 追いかけた? 違う)
拒絶された。行動の順を追っていたはずのハンジは、場違いにもその大きな感情に頭を占められた。リヴァイに拒絶をされた。友達だと思っていた彼に「放っておけ」と言われて、「追うな」と切られてしまった。ままならない状況に置かれた今よりも、その瞬間の絶望のほうが深かったような錯覚に陥る。
「ち、がう」
無理やり声を出し、ハンジは縮み上がった体を叱咤した。違う。今は感情に飲まれている場合じゃない。状況を正確に捉えて、迫る危機を知って、そこから迅速に抜け出すことが第一だ。冷たい汗がびっしょりと浮かぶ全身の感覚に少しずつ意識をやりながら、ハンジはまず、「どこも怪我はしていない」ということを確認した。覚醒の際に痛んだ後頭部も今は何事もない。ただ、拘束されている。手首と膝の裏、そして胴の一部を何か太くて頑丈なモノで天井から巻き取られて、どの程度の高さかはわからないが宙に釣り上げられている。どこかから落下して手足だけが引っかかった可能性も考えたが、訓練を受けた兵士であるハンジが必死に抜け出そうとしてもビクともしない拘束に偶発的なモノではないだろう、と推理する。
こんなことをするのも、できるのも人間だけだ。巨人ならすぐにハンジを食べるだろうし、動物の類にはこの手のことはできないだろう。
暗闇に目が慣れてきたことで、ハンジは次第に冷静さを取り戻していく。周囲を見渡すが、現在の時間帯が夜だったとしても極端に暗い気がする。
(地下……)
やはり地下にいるのだ。だとすれば、気を失う直前にいたあの地下牢の並びだろう。ハンジは思いきって「わ!」と声を出した。声が反響する様子で大体の広さを図る。かなり狭い。思い当たる部屋など一つしかない。先ほど見ていたあの小部屋のどれかの中にいるのだ。
記憶がうっすらと甦える。リヴァイに拒絶されて、戻ろうとして、だけど途中の小部屋の扉が開いていた。不審に思って覗き込んで、それから……。
ハンジは瞬きを繰り返した。今は過去のことはどうでもいい。ここが城の地下なら、仲間に見つけてもらえる可能性はある。あの時、地下にはリヴァイがいた。リヴァイ自身は助けに来なくても、寝床に彼だけが戻れば仲間の誰かがハンジの行方を捜してくれるかもしれない。
闇の中に希望を見出した、その時だった。天井から、ボト、と何かが落ちて、ハンジの胴体にぶつかった。小型の獣のような重さを持った何かだ。ハンジは目を凝らした。
「ひ……っ!」
眼下でうっすらと白を帯びていたのは、マントとジャケットを剥ぎ取られたハンジの上半身だった。その体の上で、先ほど落ちてきたものが轟いている。ネズミか何かか、と思った瞬間、その塊が生き物にはありえない動きで形を変えた。
「⁉︎ ぁ、あっ、なに……!」
それは肉片だった。紐のような形状で、ハンジの胸から臍にかけほどの長さを持ったものだ。先端は丸みを帯びていて、身をよじらせながら膨張と収縮を繰り返している。見たこともない生き物のおぞましい姿に、ハンジの全身がぶわ、と粟立った。
(上から、落ち……)
意識を向けたと同時に、天井で、ミチチ、と音が鳴った。動物の声帯が発したようなものではない。濡れた肉に手を突っ込んでかき混ぜている時のような、そういう音だ。まさか、と血の気をなくしたハンジの予想に応えるかのように、上からゆっくりと〝何か〟が降りてきた。
「ひっ……は 、」
巨大な指、とでも言えばいいか。ハンジの腹でいまだに悶える肉片をさらに何倍も大きく太くしたものが、釣られたハンジに目線を合わせるように近づいてきた。目や鼻や口の類はなく、ぼこぼこと歪んだ表面を持っている。動きに合わせて何かを引き剥がすような音が降ってきたことで、その肉の生き物が天井一体を覆っていることがわかった。
(変なの)
予期せぬ遭遇に体が固まり、それとは裏腹にハンジの思考は柔らかく溶け出していく。抜本的に状況を切り抜けたわけでは到底ないが、この変な生物が現れたことで、それまで得体の知れなかったこの拘束に『原因』が与えられたのだ。肉体の大部分は相変わらず恐怖に占められているが、こうなればもう、ハンジの中では「わからないから怖い」ではなくなる。死ぬのが怖い、になる。
生物がハンジの顔に先端を寄せ、ぬち、と音を立てながら頬に触れた。表面はぬるぬるとした熱い粘液に覆われており、生物そのものの感触はわからないが、大の男が力を抑えている触れてくるときのような伏流を感じ、ああ、力では敵わない、とすぐに知れた。この長いものに殴られたり叩かれたりすれば、骨は砕けて肉は潰れるだろう。
気になったのは、先ほどから生物が動くたびにあちこちで響く、ズルズル、ドシャ、という音だった。よくは見えないが、生物が覆う天井から絶え間なく肉片が降っているらしい。最初にハンジの胴の上に落ちてきたのもは、今はもう動くことなく小さな塊になってしまっている。生きている部分から腐肉が落ちているのだろうか。
必死で気を逸らすもむなしく、ハンジの肌に触れていた生物が、ぐう、とまた頭をもたげた。そうして、とうとう喰われるのかと覚悟するハンジを置いて、あっさりと元いた場所に戻っていった。呆気にとられたのもつかのま、おそらくはそれが『交代』の儀式だったのだろう、代わりに天井から降りてきたものを見て、顔面が蒼白になる。
それは〝手〟だった。正確に言えば、太さは細い紐から太い綱に至るほどまでで、さらには形状もさまざまな、十数本はいようかという生物たち。直感する。こいつらはさっきの生物の〝手〟なのだ、と。それから、天井に棲む本体ではなく、ハンジの体に合わせるように大きさも形状もバラバラのものを下ろしてきたということは、単に肉を食われるよりも何かおぞましいことが自分の身に起こるのだ、とも。
「ふ、ーーっ」
その直感は正しかった。ハンジが恐怖の予感に吐息だけで悲鳴を上げた瞬間、十数本もの手がいっせいに体に巻き付いてくる。ハンジの体にあっというまに取りすがったそれらは、細いものがシャツの襟ぐりから侵入し、太いものが胴体を揺すり上げて衣服を乱し、先端を人間の指のように細らせたものがズボンのベルトのバックルに絡みついた。
「ぃ、や……や、やだやだやだ! いやだっ! なん、うあっ」
衣服の下に入り込んだものは、細い体をくねくねと動かし、ハンジの下着の中にまで入り込んでくる。その隙に、硬化した皮膚のような部分を持つ一体が立体機動ベルトの留め具を外す。パチン、と鳴り響く音にハンジは混乱した。
(どうして、外し方が……)
全く抵抗もできないうちに、ベルトは全て外され、着ていた兵服も最低限の戒めを解かれて、手たちがハンジの体を這うのに何の妨げもない状態にまでさせられてしまう。何が起こるのか、など考えたくなかった。それでも、先ほどからちらちらと視界に映る男性器のような形状のものに、最悪の事態を想定する。
(犯される)
この生き物たちに。体の外も中も食い荒らされる。
事実、下着の中を居場所と定めたらしい数本は、ヒルのような吸い口を使ってハンジの胴体に吸いつきはじめた。気味の悪い感触にぷちゅぷちゅとあちこちを吸われ吐き気を催すが、嫌悪感とは逆に体温はあがり、汗が背中に伝い始める。最初に本体に撫でられた頬がじんわりと熱を持ち、少しの痒みを起こしていることからも、おそらくこの肉の生物たちがまとう粘液に何らかの炎症を起こさせる成分が含まれているのだろう。
分析を繰り返し、なんとか正気を保とうとするも、胸の頂点に吸いつかれたハンジはとうとう小さく泣き声を漏らした。胸一帯に粘液を塗りたくられ、皮膚の薄い部分はさらに強い刺激にさらされる。敏感な乳首が痛痒さでビクビクと膨らむのを、生物たちに遠慮もなく、じゅ、じゅ、と吸い上げられ、胸に抗いようのない甘い痺れが広がっていく。
「う、ぁ、はっ、あ……」
別の太い一体がまたシャツの下に入り込み、ハンジの胴体をぐるりとめぐった。先端ではなく体表にパイル織物のような突起を持つその手は、汗の滲む脇腹や脇のくぼみをさわさわと走り回り、胸の膨らみを囲んではぶるぶると揺らしたりしてハンジをさらに追い詰める。上半身を襲う耐え難い熱と刺激に身悶え、必死で体をくねらせるうちに、いつのまにか手たちの行動範囲が広がっているのにハンジは気づかなかった。脳が膿んだような視界に意識すらも曖昧になっていた時、股のあいだに何かが触れた。
「っひ、」
緩んだズボンの中に、指を三本ほど束ねたと見える程度の手が入り込んでいた。ソイツは両膝裏を拘束されて脚を閉じられないハンジの股に潜り、ついに女の陰に到達してしまったのだ。全身がぶるぶると震え、歯を強く噛みしめることもできない。
ハンジの股に執心していたソイツは、どうやら先端が平べったく、小さな舌のような形をしているらしい。まず手始めに、とでもいうように下着の上からハンジをひと撫でし、続いて溝にピッタリと沿うように密着してくる。
「ん、う、……く、ぅ」
まるで、本当に人間の舌のような動きをする〝手〟だった。与えられる感覚をやり過ごそうと目を瞑ると、かえって誰かにそこを舐められているような錯覚を覚えてしまう。――誰か、と具体的な像を描きそうになり、ぶるぶると首を振る。
(彼は来ない)
助けが来るとしても、彼だけは来ない。ハンジを拒絶して置いて行った。仲間が危機に飲まれているのを見て捨て置くような人間ではないが、『ハンジが危機に飲まれている』という事実を知る距離にさえ、彼はもういない。
間接的にぐっしょりと秘部を濡らした舌が、布を避け、脇からハンジのそこに直接触れた。誰にも触れられたことのない場所だった。経験の有無のどちらにも特段価値を見出してはいなかったけれど、まさか人間じゃない生き物に血を流されるなんて、と自らを嗤う。
(こんなことなら、彼に破瓜を頼めばよかったな)
たとえ拒絶されたとしても、彼となら笑い話にできただろう。それとも、ハンジのそういう甘えのために彼は去って行ってしまったのだろうか。
ハンジの女の外側が、未知の生物に蹂躙される。下から上へと小刻みに舌を動かされ、初めての神経を嬲られる。あの粘液を表面にたっぷりと塗布された縦筋は、ジンジンと痛みに近い痒みと熱を与えられ、ぼってりと腫れたように膨らんだ。ピタリと閉じていた唇が内側から開き、生物の粘液とは違うものが中から染み出してくる。
ハンジの体は今、性行為の準備をさせられているのだ。人間じゃないものとの交わりが待っているのに、それをわかっていても谷間はずくずくと挿入を待っている。虚な気持ちになるハンジの目の前を、あの男根の形をした手がつい、と横切った。血管をいくつも巻き付けたような胴体に、太く張った先端。それがハンジの下半身目掛けて、ゆっくりと降りていく。
「……リヴァイ……」
囚われて初めて、彼の名前を呼ぶ。途端に、体の中に涙が満ちるような気がする。
「っ……リヴァイ、リヴァイ……」
振り絞った声は誰にも届かない。底なしの恐怖を落下する指で必死に掴んだものが、よりによってハンジの手を弾いた男の姿だなんて。
手のうちの数体が、ハンジのズボンと下着を膝までずり下ろした。ひんやりとした空気にさらされて疼きが多少収まりかけた下の唇に、ハンジが一番恐れる形の〝手〟がちゅくちゅくと頭を擦り付けてくる。
「いや……ぁ」
浅い場所に、くぽ、と先が潜り込んだ。嵩の張ったそこだけでも引きつるように入口は痛み、ハンジの体が強張る。すると、ハンジの中に入りかけているそれが、先端からビュッと粘液を吐き出した。
「あっ!」
驚いてビクつく脚を他の手が押さえ込み、穴ごと広げるように手助けする。男根が吐き出したものを塗り込めるように中へと進んでくる。浅い場所とはいえ中で受けた粘液は、体の表面に付着した時とはまったく違う強さで効果をもたらした。性器全体が心臓になったように脈打ち、中からだらだらとハンジ自身の体液が溢れだす。胎の奥が我慢できないほど疼き、硬いものでめちゃくちゃに捏ねられるのを待ち望むように熱くなった。
「うっあ、あ、ぁ……」
視界がチカチカと明滅し、息も満足にできなくなる。体を必死に逸らせて腰を動かし、下腹部になんとか刺激を与えようと浅ましい動きを繰り返す。客観的にどう見えるかなど考える余裕もなく、ハンジはよだれと涙をこぼして喘ぎもできない状態だった。
だから、貫かれたことにも最初は気づかなかった。燃えるほど熱く熟れた状態にようやく少しだけ慣れたころ、ぼんやりと胎に収まる異感に気づく。疲れきった頭を上げて、なんとか開かれた脚のあいだを見れば、ハンジの穴にあの男根がみっちりと埋まっていた。
「……あ」
(おかされ、ちゃったのか……)
一気に入り込まれたのに、粘液のせいか痛みはなく、ただ中の肉が不自然に引きつる感触があるだけだ。ハンジはそれを確認するとまたガクリと頭を垂れ、ただ打ち込まれるものを享受するのみになる。
ハンジの体の力が抜けたのを契機に、手たちがまた活発に動きだした。男根の手は、ずちょ、ずちょ、とスムーズに中への出入りを繰り返し、自らの形でこそげるように左右にも動く。吸い口の手たちは胸やクリトリスにしつこく吸いつき、そこを休みなく弾く。耳をくすぐる手に、尻の穴をつついてくる手まであって、間断なく与えられる過ぎた刺激に、ハンジの意識が次第に歪んでいく。
「あ、あ、ぁ、くっ……ん」
リズムよく突き上げてくるあの生物が、たとえば、……たとえば彼のものだったなら。腰の筋肉がしなやかに発達しているから、きっと柔軟にハンジの中をかき混ぜてくるのだろう。角度を変えて、脚も軽々と抱え込んで、ハンジが自分では一生触れられないところまで突いて捏ねてくれるのだろう。ハンジの体力が尽きるまで、きっと、ずっと力強く抱きしめてくれる。
「はぁ……リヴァ、イ……」
熱に浮かされたように、彼の名を呼ぶ。彼と体のどこかが触れ合った記憶は極端に少ない。潔癖の性質があるリヴァイは、たとえ握手でも誰かと触れ合うことを避けているようだった。けれど、それが仲間の血や死の前では出てこなくなることも知っていた。躊躇なく手を握られる傷病者や英雄たちに「羨ましい」と不謹慎な感情を抱いてしまっていたことは、墓場まで持っていくつもりの秘密だった。
涙で頬が冷えて、顔の半端な火照りを鎮めてくれる。こういった感情で泣くのは好きじゃない、と思う。何も解決しない。誰かに何かを示唆するための記号にすらならない。
リヴァイへの情や思考は、涙や時間でどうにかできるものじゃないのだろう。始まる前からそう思える。だってハンジはリヴァイについて何一つ知らなかった。知らないから、知りたかった。知れる距離になりたいと思っていたのに、何もつかめないまま終わってしまった。
自分の中ですら曖昧で手に取れない彼の像を、どうして他の何かが薄めたりできるだろう。
勝手に上り詰めていく体に腹を轟かせた時、中からずぶ、と手がいなくなる。そして、
「がっ、ああっ……!」
突然、ガツン、と奥を穿たれ、ハンジは思わず叫んでいた。熱と疼きで誤魔化されていた痛みが戻り、指先まで固まる。頭を振って逃れようとしたが、当然ながら打ち込まれるものは消えない。
「ひっうっぐ、う」
どうして、なぜ急に。きつく閉じた目を開け、涙で歪む視界に要因を探す。開かれた脚のあいだにあったのは、〝手〟ではなかった。真白いそれがシャツだとわかり、ハンジはゆるゆると目線を上げた。
「……リ、」
俯いた頭の黒髪は、ハンジが彼の中でいっとう好きな直毛だった。見間違えるはずがない。
彼を中心に据えて、けれど周囲の景色は何一つ変わっていなかった。彼の後ろには相変わらず何体もの〝手〟がぶら下がっていて、ハンジの体の上にも這う感触がある。皮膚は粘液で焼かれ、どこかで肉の落ちる音が鳴り、吸えた臭いと甘い臭いが脳を叩く。
それでも、リヴァイがいる。彼がいる。ハンジを拒絶して立ち去ったはずの男が、ハンジの胎に彼自身を挿している。認識した瞬間、ぎゅう、と中が締まっていた。それを合図にリヴァイも動きはじめる。目はやはり見えないけれど、白いシャツと白いクラバットと、綺麗な形の額は彼そのものだ。
(――嬉しい)
彼が来てくれた。驚きよりも何よりも、歓喜がハンジの胸を満たす。
リヴァイとの交わりは、得られなかった破瓜の痛みを再現してなお有り余るだろう、と言えるほど痛かった。無遠慮に腰を振り立てられ、腕を使えずどこにも縋れない苦悶を置き去られ、ひたすら中を抉られた。なのにハンジの体は、無理やり与えられた快感よりもその痛みに激しく悦んだ。
「あ、あっ、あっん、リヴァイ、はぁ、りば、い……っ」
自覚できるほど中が甘くうねり、体も媚を売るように捩らせてしまうのを、ふ、ふ、と口端から漏れる吐息や、胴にまとわりつく〝手〟の合間を塗って落ちてくる汗の粒が肯定する。恥じらいも、奇妙な状況に対する訝しさも抱くことなく、ハンジはリヴァイが与えるものに夢中になった。手や脚が使えない分、繋がる場所で精一杯彼にしがみつき、呼べるだけ彼を呼んでいると、とあるところで一際奥まで穿たれ、熱い噴射をかけられた。リヴァイが中で達してくれた、という事実に、ハンジはもはや恍惚とした。
「っく……ん」
壁まで持っていかれそうなほどの質量が抜け、出されたものがとろとろと零れ落ちた。もったいない、と惜しむ気持ちと、また出してくれるだろうか、と逸る気持ちで引き裂かれそうになったが、リヴァイは二度目を別の場所に決めたらしい。釣られた下半身の尻を支えて、もう固く立ち上がったものを穴にあてがう。けれどそこは、本来なら出すために使うはずの場所だった。
「っ……! あ、」
そこは違う、と言いかけて、何が違うんだっけ、と口を噤む。リヴァイが間違えるはずもなく、ハンジに対して望む行為なら叶えてあげたい。拒否するという選択肢はないのだ。
窄まった部分目掛けて、リヴァイの先端が入り込んでくる。感じたことのない痛みにすうと背中が冷えて、自然と涙が出てきてしまう。意識的に息を詰めないよう呼吸を繰り返すが、体を裂かれる衝撃の前では効果は薄かった。リヴァイを受け入れられるように緩めようとしても難しく、ぎりぎりと歯を食いしばってしまう。
意識が飛びそうになったところで、〝手〟の一体が繋がっている場所にあの粘液を吐き出した。途端、粘膜がぼうっと熱くなり、リヴァイの先端を包む部分がにゅくにゅくと収縮をしはじめる。たっぷりの潤滑油を得たリヴァイも勢いがついたのか、ハンジが大きく呼吸をした拍子に、グイ、とそこをねじ込んだ。
「ぁあ……っ」
あまりの違和感に脂汗が噴き出し、全身の力も入らなくなる。生物たちの力を借りても、快感なんてものはそこにはなかった。けれど必要もなかった。ハンジの体の先にあるものが彼の肉体なら、意識なら、自分の表面で生まれては消える痛みや心地よさなどいくらでも上書きできる。
そういうものだ。体に残る傷でさえ、所詮その傷に物語を付加するのは人間なのだ。いくらでも作り変えられる。
リヴァイ、あなたが、あなたでさえあれば。
「うっ、んっ、く……う」
上がる声はさすがに苦痛を含んだものになってしまうが、それでもハンジは「痛い」とも「やめて」とも言わずにリヴァイの乱暴を喜んだ。後ろがある程度馴染むと、男根の形をした例の〝手〟が空いたままの前に入ってきた。リヴァイとそれがハンジの肉越しに触れ合うことはなんだか気分が悪かったけれど、後ろの穴で動く陰茎だけに意識を集中していればいい。先ほどよりも大きくなった気がする。もうすぐ達するのだろうか。
ハンジの体の感覚のうち、痛覚はもうほとんど消えかかっていた。麻痺している、というほうが正しいのか、とにかく肉体の内外で起こる無体に痛みを見出せず、「どこか怪我とかしてないといいけど」とかえって不安になった。
なんにせよ、それは『ここから生きて出られたら』へと続く話だ。明日も壁外を駆けて、無事に壁の中へ帰り着かなければならない。だがここで死ぬならそれを考える必要はないのだ。
(死ぬときなら、手を握ってくれるかな)
リヴァイが達する気配に、ハンジは満たされた気持ちで目を閉じた。
翌早朝、ハンジは一階玄関ホールの、仮説馬房の真ん中で目を覚ました。窓に打ち付けられた板のあいだから、そう爽やかでもなさそうな空気が漂ってくる。あたりには湿った草や糞の匂いが転がっていて、これは雨が降るな、とすぐに予想できた。ボサボサの頭を馬に食まれつつ、鈍痛に沈む体を抑えながら起き上がる。馬の群れから突如として現れたハンジの長身を、二階へ登る階段に立っていた同班の仲間が大慌てで指差した。
「あーっ! ハンジ、アンタ何処にいたのよ! あと五分で朝礼よ!」
「ごめん。気絶してた」
「時と場所と状況を考えなさいよ!」
同室なだけあって、普段からハンジを知る故の指摘である。やれやれと彼女のほうに向かおうとして、ハンジは少しだけ足を止めた。注意深く見下ろしても体には干草がまとわりつくだけで、異常なもののあとはどこにも見当たらない。ようやく階段を登りおえたハンジに、彼女が心底呆れた様子で話しかけてくる。
「三班の奴らに聞いたよ。昨日はリヴァイのこと探してたんだって? 見つかったの?」
一瞬だけ、どこから夢だったのだろう、と考える。そして、どこから夢でも関係ないな、と考え直した。リヴァイは昨日が始まるずっと前からハンジを拒んでいたのだ。
「見つかったよ。でも『もう俺を追うな』って言われちゃった」
「え……なんで?」
「知る必要ある?」
彼がそれを望んでいるというだけで十分なのに。ハンジの答えを黙って聞いていた仲間は、「アンタ、リヴァイのこと好きなんだと思ってた」と呟いた。若干の非難を含んだ調子に思わず笑ってしまう。
「好きというか……私、リヴァイになら何をされてもいいって思ってたんだ。何かしてあげたいとも思ってた。昨日気づいたんだけどね。だから『追うな』って言うならそれを叶えたいよ」
「ふーん」
朝礼に集まる兵士の中に、彼の顔を探すことはもうしなかった。天候の悪化が予想されること、帰還が悪路になるだろうこと、それでも進むべきだということを、キース団長が全員に告げる。各自が引き締まった顔で出陣の支度に取り掛かるなか、先ほどの彼女が馬具を持ってハンジの横に立った。
「私の勝手な印象だけどさぁ」
彼女は大したことでもなさそうに言った。すぐに取り戻せる、と信じているような、そういう適当さで。
「リヴァイはアンタに、『何かしたいしされたい』って思ってたよ」
彼女は帰路で、雨と共に巨人に食われた。
ハンジは、その手を握ることはできなかった。
夜間壁外調査の失敗から一月が経った頃、ハンジはエルヴィンに着いて中央本部への活動報告のために数日王都に出かけ、夜遅くに兵舎に帰り着いた。エルヴィンと二人で団長室に赴き、炎を氷で固めたような表情のキースを前に報告を挙げる。口の回る二人でどうにか捏ねくり回したそれは、けれどどう頑張っても『失敗続きの調査兵団の王都での人気は道化として最高のものだ』以外のものに他ならない。
それでも、彼なら前に進むだろう。たとえ違う形になったとしても。ハンジは自身が持つキースへの評を信じていた。
労をねぎらわれ、ようやく自室へと向かう。経費削減のために明かりを絞られた廊下は、夜目のきかないハンジには真っ暗に等しい。その真ん中に立っていると、あの『城』の内部が周囲に広がっていく気がする。感傷じみた錯覚の理由は、エルヴィンのツテで潜り込んだ王立図書館内で何気なく探して見つけた文献のせいだった。
『主人は生物学の研究も行っており、分野は主に――』
『城の改造、――地下牢の増設、――』
『過去数年にわたって使用人が何人も行方不明』
百年以上前に健在だった城の主人は、地下の小部屋で研究動物を飼育する変わり者だったらしい。不審な事件が周囲で何度も起こったせいで身柄を拘束され、どこかの牢で病気になってあっけなく死んでしまったそうだ。それ以来、城は手つかずのまま。
部屋の前にたどり着き扉を開けようとしたハンジは、そこでふと甘い匂いを嗅いだ。むせ返るほど強くて、水のように重たく、鼻腔が痛むほどものだ。ノブにかけた手を止め、背後の闇に意識を向ける。
「……リヴァイ?」
返事はない。けれど感じる。彼はそこにいる。そこにいて、ハンジを窺っているのだ、と。
「帰りを待っててくれたの? ありがとう」
ハンジはその場に足を止めたまま、優しく続ける。
「安心して。追わないから。それがあなたの望みならその通りにする」
言いきって鍵を開けた。もう随分馴染んだ言葉だ。この一ヶ月、闇の中に彼の気配を見つけるたびに自分に言い聞かせてきた。それが最善だと信じて疑わなかったからだ。室内に身体を滑り込ませ、外に広がる闇に向かって口を開く。
「追わないけど……私はここで、待ってるよ」
扉から手を離し、一歩、二歩。そこで数秒。隙間の闇から、彼の手がするりと現れ、戸板を掴む。そして音もなくハンジの部屋へ入り込んできた。
こんなに静かなところで彼を見るのはいつぶりだろう。カーテンのない窓から入るのは月明かりだけで、心もとない光の中では輪郭も曖昧だ。それでもリヴァイだ、と確信する。リヴァイは白い顔からいっさいの表情をなくし、色の沈んだ目でハンジを見ている。彼の頬に触れ、濃い隈をなぞる。
「ここ数ヶ月あなたを苦しめていたものがようやくわかったよ」
リヴァイの眼球が動き、肌を撫で続けるハンジの手を見る。唇が少しだけ開いた。
「一人で辛かったね。でももう大丈夫。私がいる。あなたにも私が必要だったんだろう?」
「違う」
空気を切るように、彼が声を発する。久々に聞いたはずなのに、それはすんなりとハンジの中に溶け込んだ。
「違うんだハンジ、俺は……」
「うん」
「こんなことになって、おかしくなっちまう前から、本当に……ずっとお前のことが」
「うん。わかってる」
――城の主人が研究していた生物学の分野は、『寄生虫学』だったと記録にある。宿主を定め、その体内に寄生し、繁殖を繰り返す動物である寄生虫の実験・観察のために、地下室を改造して動物を飼育していたのだそうだ。何の動物か、と明記はされていなかった。まあ、広義で捉えれば人間も動物だ。
ハンジが城の地下であの人体に慣れた生物に出遭った時、その肉はボロボロに崩れ落ちていた。おそらく、もうじき寿命を迎えるのだろう。より強い個体に寄生し、繁殖をし続けることが本能である彼らにとって、命が尽きる前に調査兵団があの城を拠点にしたことは僥倖だったに違いない。おまけに、その中には壁内でも稀に見ぬほど強い個体がいた。手を出さない理由などないだろう。
そうして、寄生すればあとは繁殖するだけ。より強い個体や孕ませやすい個体と生殖行為を行うべく、神経に根ざして欲望へと働きかけつづけるのだ。
「リヴァイは……どうしたい?」
ここまではあくまで生物たちの話だ。正直、ハンジにとってはリヴァイの苦しみの根源を解き明かす情報でしかない。
「私、あなたになら何をされてもいいよ。何かしてあげたいんだ。知らなかっただろう」
リヴァイの瞳がきらと光り、呼吸音が耳につきはじめる。吸って吐くたびに上下する肩や胸が、徐々に動きを早くしていく。触れている指でも触れていない肌でも、上昇する温度を感じる。
腰を掴まれ、体がくるりとまわる感覚の後、背中が扉の内側に押しつけられていた。ハンジの体に押され、大きな音を立てて閉まった扉も、後ろ手に鍵をかけることで万が一の危険を回避できるだろう。
リヴァイの腕がハンジの片脚を抱えた。ハンジは片脚と言わず、彼の首にすがって両脚を持ち上げ、彼の腰に絡みつかせた。体が宙に浮き、それなりにある重さがリヴァイによって軽々と地上から離れる。
兵服越しに女と男の一番弱くて敏感な部分が密着する。溝にピタリと嵌る彼の隆起が、硬く熱を持っているのがすぐにわかった。生き物の中にたまに見られる、こういうひどく合理的な形がハンジは大好きだ。リヴァイの背中に腕を回し、ぎこちなく体を揺らしてそこを擦り合わせる。
「硬い。膨らんでる」
「……違う」
「何が違うの?」
「ハンジ。これが俺の意思なのか、俺にはわからない」
そんなことが不安なのか、と驚いた。一月前のあの城の地下で、リヴァイの自意識はとっくに証明されているのに。
「変なところで馬鹿だねあなたは……。お尻にいくら子種をばら撒いたって孕んだりはしないよ」
あの場において、あの行為だけは生物の生殖本能に反していた。誰かの、無意味な意思が介在したということだ。
指摘の意味を理解したのか、支える体がビク、と小さく固まった。彼なりに目が見開かれ、白い頬に血が上っていく、ような気がする。
「……酷くしてすまなかった」
「まったくだよ。翌朝もすっごく痛かったんだから。おかげで夢なんかじゃないって確信できた」
「――それを、望んでいたのかもしれない」
もうすっかりと消えてしまった痛みは、リヴァイの思惑を知った今やハンジの中で甘い記憶に成り果てていた。思い出そうとすれば体の芯に火が灯り、肌の表面にまで飛び火して焼き尽くすことしか考えられなくなる。
リヴァイの手が使えないのをいいことに、ハンジはリヴァイに口付けた。途端にかぱりと開いて舌を絡めてくる彼が愛おしい。
「お前を遠ざけたい自分と、貶めたい自分がいる。行動が矛盾する」
地下でハンジを誘い、また遠ざけた彼を思い出す。大層苦しかっただろう。しかし結果だけを見れば、案外収まるところには収まるものだ。それにハンジの答えは決まっている。
「私にとっては〝あなた〟の言葉が本物なんだ」
薄い唇と厚い舌と低い声で作られた言葉が、どれだけハンジを縛って振り回して苛んだことか。涙が出てくる。
「もう私を遠ざけないでくれ」
「ハンジ」
ガク、と体が落ちる感覚があったかと思うと、リヴァイがハンジを抱えたままその場に膝をついていた。「すまない」という謝罪と「頼む」という懇願を続けざまに受け取り、ようやく彼の望みが聞けるのだ、と熱くなる。リヴァイは、ハンジの体を押さえ込み、真正面から瞳を見つめて、そうしてなんの躊躇もなく言った。
「お前に種づけしたい」と。
ハンジは一も二もなく頷いた。あの夜に孕むことがなくてよかった、と内心で思う。彼の欲望を聞けたのだから。
「大丈夫だよ、リヴァイ。体や頭の中に何が住んでいようが怖くない。たっくさん子作りして、またたくさん空を飛べばいい」
寄生動物は宿主が死ねばともに死ぬ。その時まで、互いにしか働かない生殖本能とやらを満たしてやればいいだけだ。
野外の壁外調査は二度と行われないだろう。兵団は別の形で前進し、拠点は再び朽ちていく。巨人がいなくなるその日まで、あの地下に日が当たることはない。それまでは、二人だけの夜だ。
体を弄る無数の感触に吐息を漏らしながら、目の前の愛しい男に、ハンジは密やかに乞うたのだった。
「手を握っていてくれる?」
〈了〉
(初出 19/12/22)