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訓練場が位置する方向から、耳慣れた号令がかすかに響いてくる。過去に何千何万と繰り返したはずのそれが、今は遙かに遠い。
腕を組んで、何処にあっても静かに君臨する首像と対峙しながら、「取り残された」と、ハンジはそう思った。
秘密を暴かれたくないと行動したばかりに、ハンジはこの像と二人で、皆から離れた場所に取り残されてしまった。
『余計なこと気にして大事な兵務に支障を出されても困るからね』
よくも偉そうに言えたものだ。
曖昧な切り分けのままここに座って、他人の親切を迂回しながら時間を浪費していたのは誰だったか。
「ねぇ、今日の私をどう思う?」
ハンジは像に問いかけた。
像は答えなかった。当たり前だ。リヴァイを精密に再現した彼は、けれどリヴァイではないのだから。
もしも声に色や形があったのならば、ハンジが発したばかりの問いはさらりとした石膏の表面にぶつかって、少しも姿を変えることなく返ってきただろう。
リヴァイではそうはいかない。きっと発言の意味を汲むのに瞬き程度の時間を使った後、改めてハンジに向き直り、その渋面を新しい渋面に作り変えてこう言う。
『いつもどおりだと思うが……クソの通りでも悪いのか?』
ハンジの想像の中に、目の前で微笑む像のようなリヴァイはどこにもいやしない。それが真実だった。
エレンの言うとおりだ。
この像の本質は石膏。硫酸カルシウムの塊。水分を吸収して元に戻ろうとする化学反応を利用して、腕のいい職人たちの手で生み出された"作り物"。
英雄扱いされて台座に据えられようが、独り言の的になろうが、明かり代わりになろうが害獣よけになろうが、微笑んでいようが。
それは決して、リヴァイではない。
だってそうだ。
リヴァイしかリヴァイたりえないのだから。
「うん、その口がいけない!」
ハンジは首像を持ち上げ、鼻先まで近づけてそう言った。
黙って待っていれば、いつか優しく弧を描いて語りかけてくるかもしれない。そんな期待を持たせてしまう口元がいけない。
ハンジも無意識に期待を持って、すぐにその期待に裏切られた。
願わずともリヴァイの笑顔を得た一〇四期の彼らに、妬心とも悔しさともとれるものを感じてしまって、だからこそこんな馬鹿を演じてしまったのだ。
今、改めて像を見る。
そこにハンジの知るリヴァイはいなかった。リヴァイを心配する素振りで、実際は誰の目にも留まらぬよう像を隠し、理想の彼を映して崇め奉ろうとしていた自分が少しだけ哀れになる。
リヴァイが偶像として扱われることを避けたかった。なのに、ハンジ自身がこの像を使って彼を偶像に仕立て上げていたのだ。
そんな固執との決別は、おそらく、アルミンとジャン、コニーとサシャ、そしてエレンとミカサのおかげで順を追ってなされたのだろう。
なぜなら、彼らの彩りに触れてハンジも笑ったからだ。何度も、何度も。馬鹿にしたり嘲ったりするものと違って、ただ純粋な慈しみをそこに覚えた。
リヴァイが笑った時も、きっと胸に同じ温かさを得ていたのだろう。像が持ちうることのない温度に気がついたなら、作り物を囲い込んでおくことはもう、できない。
(そうだ、夕食は彼らとリヴァイと共にしよう)
遅れないように食堂に行って、訓練で疲れた皆を明るく労って、そして像のことを正直にリヴァイに言おう。この始末をどうするかはそこで話し合えばいい。
──ついでに、一〇四期がハンジに対して隠していることも暴露させよう。
彼らがこの像に関してなんらかの秘密を持っていたことにも、ハンジはとっくに気付いていた。わからないのはその秘密の中身だけだ。
常ならば白状するまで問いつめていただろうが、自分の隠しごとに協力を請いながらそんなことはできなかった。それももう遠慮しなくていい。
どのみち、彼らが悪意を持ってハンジを騙そうとするなどありえないことだ。
行く先が決まれば、ハンジの行動は早かった。
手をつけずにいた昼食を詰め込み、像に布を被せて棚に置き仕事に取りかかる。集中すると決めればあとは容易い。やるべきことの優先順位と処理計画を早々に打ち立てると、ハンジの意識はあっというまに紙と文字のあいだに埋もれていった。
**
ペン先がチカリと光り、一つしかない眼を刺した。
眩しさにしばし眉を顰めていたハンジは、それが窓から射し込む夕日の反射によるものだとようやく気付く。
背後を振り返ると、紅を薄く伸ばしたような空が広がっていた。直線を結ぶ壁の向こうに、光源である太陽がまさに沈まんとしている。
集中が切れて、一つ息を吐く。
秋の日暮れは早い。
この部屋に閉じこもって、一日中エルヴィンの仕事を手伝っていた季節がひどく懐かしい。時間を忘れて議論しあっていたところに夕日が射して、二人でやっと我に返った。そこへタイミングよく現れたリヴァイがうんざりした顔で「お前らのせいで東に太陽が沈むんだ」などと呟いて、それがあまりにも大仰で、なのに詩的でもあったから、ハンジは一頻り笑ったのだった。
あの時よりずっと静かに、ふ、と笑みを漏らす。
じきに火を灯さねば手元も見えなくなるだろう。その時がちょうど夕食が始まる頃だ。リヴァイがこの部屋で光る鉱石の使用を許さないのは、ハンジの無茶に足を止める機会を与えるためだった。彼の親切はわかりにくい。「困った人だなぁ」と呟きながら立ち上がったハンジは、顔を上げた瞬間に言葉をなくした。
扉近くの暗がりに、密やかに立つ影があった。
「よう」
影に沈んで顔も見えない誰かが、低まった声でそう言った。ハンジの緊張が一気に解ける。
「……リヴァイ」
目が闇に慣れてくる。体の半分以上を夕焼けの黒に隠した彼の姿は、辛うじて腕組みをした輪郭しか捉えることができない。
「びっくりした……なんでそんな所に突っ立ってるの? ノックした?」
「ああ」
嘘だ。いくら没頭していたとしても、この椅子に座る限りハンジがその音に気づかないはずがない。第一、気づかなかったならばリヴァイがそれを咎めるだろう。
意図の読めない嘘に戸惑っているうちに、リヴァイが足を進めてようやく面を晒した。
きちんと顔を合わせたかも怪しい早朝以来、今日初めて正面から彼を捉える。けれどそこにあったのは、他人に心の内を一切読ませることのない無表情だった。
ーーこんな容貌をしている男、だっただろうか。
戸惑いが困惑へと深まっていく。と、リヴァイが最小限の動きで口を開いた。
「一日中顔も出さねぇで……何をやってるかと思えば」
「何って、仕事だろ。決まってるじゃないか」
「わかっている」
そのわりには随分棘のある物言いだ。思わずむっとした瞬間、リヴァイの眼光がハンジを貫いた。
「街で経費外の買物をしたそうじゃねぇか。お前にしちゃ珍しいな」
「!」
なぜそれを、と言いかけて口を噤む。決まっている、彼らがリヴァイに喋ったのだ。
「アイツらに隠し事は向かねぇな。……お前もだが」
一〇四期が一列に並べられ、彼の尋問めいた質問を受けている場面を想像して気の毒になった。
ハンジの蒔いた種が恐怖の花を咲かせてしまったのだ。そのような状況を強いてしまったことに申し訳なさを感じたハンジは、布を被せて棚に置いていた像に無意識に視線を投げていた。
リヴァイが目敏くそこに気づく。
「それか。検分してやるから俺にも拝ませろ」
「え、ああ」
打ち明けると決めたのだから、彼らもハンジもこれ以上あの像のことを隠す必要はない。必要なのは双方の心の準備だ。
「先に断っておくけど……というか、わかっているとは思うけど、あなたが見てあまり面白いものではなくて」
「んなことは俺が決める。御託はいいからとっとと出せ」
言葉が常になく鋭い両断で遮られ、像のほうに歩きかけていたハンジは思わず足を止めてしまった。
「……どうしたんだよリヴァイ、あなた今まで私の個人的なことに興味を示すなんてなかっただろう」
「個人的なこと」
繰り返す声に、ほんのわずかに揺れが混じる。それはどこか苦味を帯びていた。
「見せもしねぇくせに」
「え?」
「興味じゃねぇよ。確認だ」
痺れを切らしたのか、リヴァイの注意がハンジから像へと切り替わった。
「! 待っ……」
一寸遅れてハンジもそれを追いかける。
布を掴んだのはほぼ同時だった。一方は引き下げようと、もう一方は現状を維持しようと力を込めたせいで、ピンと張った覆いの中で像が揺れて、そのまま、
「あ」
床に、落下した。
ただ落ちただけなら何ともなかっただろう。しかしその後がまずかった。直下する物体を驚異的な動体視力で捉えたリヴァイが、それを掬いあげようと素早く腕を翻したのだ。
誤算は、像の形状とすべらかな材質を把握していなかったことだった。速さをまとった掌は、するりと像を跳ね上げてしまった。
像が、空中で華麗な一回転を見せた。そして硬い執務机の角に着地し、ゴシャ、と低い音を立てて粉々に砕け散ってしまった。
「……あ、」
「ああぁあ!?」
粉と残骸が机と床を白一色に染めあげる。塵芥が空気を舞い、夕日を受けて煌めく。
「っ……」
先に動いたのはリヴァイだった。
呆然とするハンジを残して像だったものに近づき、汚れるのも構わず床に膝をつく。しかしできることはなかった。
打ち所が悪かったのだろう、像は鼻から上を大きく破れ欠いた、無残な姿でそこに転がっていた。
「…………ハンジ、すまない」
遅れてふらふらと歩み寄り、同じように膝をついたハンジにリヴァイが言う。蒼褪めた肌と、後悔を滲ませた声で。
先ほどまでの、何千本もの針が突き出た天井のような重圧はどこにもない。
「いいよ……別に」
リヴァイの真摯な謝罪は、しかし、ハンジの肌の上を滑って部屋のどこかに消えていく。
像がリヴァイの姿を捨ててしまったのを目にして、ハンジはどうしてか戒めから解放されたような気持ちだった。
呆気ない幕引きだった。あんなにも惑いを生み、嫉妬を煽り、ようやっと本来の像の形に収めることができたそれは、役を終えた演者が如く、あっさりと舞台上から去ってしまった。
まったく、出来が見事なら散り際まで見事だ。今のハンジが惜しむのは、職人たちの技の証明の一つが永遠に失われてしまったことだけだ。
「悪かった」
そうやって放心する様子をどう読み違えたのか、リヴァイがますます悲痛な声で謝ってくる。その頬にも、血の気はまだ戻らない。
「いくらで買った、きっちり弁償……、」
顔を上げた彼が、不自然に言葉を途切れさせる。
滅多に見られない動揺が珍しかったせいか、ハンジは無意識にリヴァイを見つめていたらしい。眼の色がわかるほど近くで、一呼吸分、視線が絡み合う。
そして、やはり逸らされてしまった。
リヴァイはハンジの目の前で、ぎゅっと眉間に皺を寄せて、唇を固く結んで俯いた。
──……本当に、大違いだ。
うら寂しい気持ちで顔半分だけの像に目を落とすと、残った口元がハンジに向かってゆるく笑みを描いている。眼と鼻をうしなっても尚印象深いそれは職人の技術の結晶だ。
不意に、疑問が生まれる。
一〇四期がリヴァイの笑んだ瞬間を知っているのは事実だ。
しかし作業現場でリヴァイを見かけただけの作業員たちが、彼のこの表情を再現できたのはなぜだろう。理想を写して作成したのかとも思ったが、素描の段階でリヴァイはハンジの知らない顔をしていた。だとしたら、やはり像の作製者たちは直接彼の笑みを見たことになる。
そうだとしたら。
リヴァイはどうしてあんな場所で、一体、何を見て──
「弁償する。誰の……誰の像か、教えてくれ」
思考の巡りに楔が打ち込まれ、ハンジの探求はそこで別の方向へと切り替わった。
『誰の』?
リヴァイはこの像が、誰を象ったものなのか知らないということか。
「あの、リヴァイ?」
「なんだ」
「あなたが一〇四期から聴取した内容を教えて欲しいんだけど」
突然の切り返しに逡巡する様子を見せるも、リヴァイは結局、顔を伏せたまま訥々と説明しはじめた。
「……お前が、『誰か』を模した像を隠し持っている、と」
なるほど、彼らは肝心の部分だけはなんとか伏せようとしたのだろう。リヴァイの威圧相手によくぞ耐えたものだ。
「なんでも、金を積んで手に入れたくらいの熱心さで」
ちょっと待て。止むを得ず購入したことが妙な形で伝わっている。ジャンが誤魔化すのに失敗したのだろうか。ハンジは口を挟もうとしたが、その前にリヴァイが続けた。
「お前の心が安らぐから部屋に置いておくつもりだとか」
これはアルミンの言い分か。彼は像を相手に心安らぐ性質を持っているのだろうか。ハンジはそうではない。
「お前がよほど…………『首ったけ』だとか」
『首ったけ』?
なんだそれは。どこからそんな単語が出てきた。記憶をつらつらと辿ったハンジは、コニーの小さな疑問を無視してしまったことに思い至った。が、今さら後悔しても遅い。
「あとなんだ、場を明るくする才能があるだとか……獣に怖がられるだとか」
くり抜いて嵌め込むことはできないとあんなに説明をして結論を出したはずだったが、おそらくサシャは咄嗟に口に出してしまったのだろう。おかげで多才な男が出来上がってしまった。
「エレンの野郎は腹立つ顔で『ああ、兵長のことじゃないので気にしないでいいかと』だと」
間違ってはいない。いないが、言い方ひとつでここまで違う意味になるなんて。ハンジはもはや感動を覚えた。
「『身長が団長より十センチ高かったかもしれない』……これはミカサだ」
確かに、職人たちの決定次第でリヴァイより二十センチは高い立像ができていたかもしれない。でもそれは過去に選択されなかったことの話である。想像上の男のことではない。
ハンジは脱力した。
なぜこうもねじくれた伝わり方をしてしまったのだろう。ここにあるのはリヴァイの像なのに、当の彼は断片的な情報を寄せ集めて誰とも知らない人物を作り上げてしまったのだ。
いや、これは自分のせいだ。即座にそう思い直す。自分で直接伝えることをせず、一〇四期の面々を介してしかリヴァイとやりとりをしていなかったために起こったことなのだから。
それでも、端から見れば疑問だらけの伝聞でリヴァイがここまで取り乱すのは意外だった。
「どこで手に入れた? 俺でも買えるものか」
「どこ、というか……いいんだよリヴァイ。私のせいでもあるしもう気にしないでくれ」
「そういうわけにはいかねぇだろ。お前がそれだけ、……惚れ込んでる、男のなら」
呟きの終いのほうは、小さくて掠れてしまっていた。ハンジにだけ聞こえる声で自分の意思を伝え、リヴァイはまた固く口を結ぶ。
『壊そうとしたわけじゃない』
『お前が引っ張るから』
一言だって、そんな弁解を発することなく。
視界が開けた気分だった。
ハンジはようやく、自分の中にあった歪な物の中身をとくとその目に映した気分になった。
何度無視してしまっても諫言を止めない優しさで、そのくせ、言葉自体は素っ気なくて。ハンジが団長職についてから露呈していく一方の心配性で、なのに直接は言いに来られない線引きで。
異質な変化を遂げていく部下が、今日は昔のままの姿であることを見せようとして、下手くそな命令で寄越すような不器用さで。
面倒な誠実をこれでもかと表す、笑わない唇を持っている。
そんな男がいい。
ハンジは、そんな彼しか選べない。
作り物でもない。微笑みもしない。
本物の、彼がいい。
「……すまない……」
「リヴァイ、もういいんだ」
なおも謝ろうとするリヴァイの唇を留めるように、ハンジはその間近に指をかざした。触れるか触れないかの距離で、不意の行動に驚いたリヴァイの吐息を感じる。
「……ちょうど、」
生きた人間の熱。呼吸。肌で感じるそれらに、ハンジは彼自身を見出すことができる。
「実物のほうがずっと素敵だなって、ちょうど思ってたんだ」
リヴァイが目を瞬かせる。二人がまた、見つめ合う。
ハンジは笑って見せた。『実物』も『誰か』も、この視線の先に存在するのだと、彼に伝わるように。
「お前、それは……」
何かを言いかけて、リヴァイが離れようとするハンジの手を取った。じん、と熱い掌に、皮膚が焼かれるような錯覚を覚える。周囲を包む空気が、徐々にその色を変えていく。
リヴァイは、今度は目を逸らさなかった。
青灰色の虹彩は瞼に隠れることなく、少ない光を集めてきらきらと瞬く。
握られた手を優しく引き寄せられ、ハンジの指が、笑むことのない場所に接した。柔らかくて、乾いていて、冷たさなどどこにもない。
肩に、予告もなく手が回る。
それに少しだけ驚いているうちに、ハンジの視界の全てがリヴァイになる。
拒む理由はなかった。
受け入れられる喜びだけがあった。
砕けた像の口元が、二人のあいだから薄く漏れた光に、深い弧を描く。
けれど、ゆるりと瞼を下ろし、彼の唇に触れたハンジが、その笑みを目にすることはなかった。
〈了〉
(初出 18/05/31)