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「話し相手だってさ」
ソファの背もたれに体を預け、ハンジはリヴァイの首像にそう語りかけた。当然ながら、返ってくるものはない。彼は相変わらず近くにあるものが遠くに存在するような目で何かを見つめている。
またしても起こった違和感に、ざわりと心が騒ぐ。
アルミンとジャンが提案したように、この像に何事かを吐露しようとしたところで、ハンジ自身が予想だにしなかったものまで引きずり出されてしまいそうだ。
……そうだ。それよりも、一〇四期の会話を聴いているほうがずっと楽しい。
兵団で生活しているとどうしても上官と部下の態度が当たり前のものとなるが、ああして業務に関係ないことで彼らの意見を聴く側になってみれば、その為人の凹凸がハンジの目には随分鮮やかな陰影として映る。
先ほどの二人は特に、変革を遂げていく兵団において重要な役割を任されることになっている。アルミンは超大型巨人の力で敵の制圧の要、そしてジャンは作戦行動における現場の指揮官だ。
『過ぎた役割だと思うかい?』
そう問いかけた時の、二人が出した答えを思い出す。
『いいえ』
『適した兵士になるだけです』
その強さがあればこそ、今日もこうしてハンジやリヴァイと忌憚なく向き合えているのだ。
ハンジの目が無意識に像を捉える。
そう、落ちていく心さえ掬い上げる、彼らの朗らかさがあったからこそ、リヴァイは──
「失礼します!」
我に返った時には、既に室内に足音が響いていた。
誰何の声さえ待たなかった訪問者に思わず鋭い睨みを投げるも、そこに立っていた兵士にすぐに脱力する。
「……コニー、サシャ。ノックと入室は一緒にしちゃだめだ」
一応は咎めであるそれを、現れたコニーとサシャは真面目な顔で受け取り、背後の開け放たれた扉に目をやる。そして重厚な木の板をコンコン、と拳で叩いた。
「失礼します!」
「兵長から『缶詰になってるメガネ団長を食堂に連れてこい』と仰せつかってきました!」
どこから何を言えばいいかわからず、ハンジは片手で額を覆った。しかしすぐに二人に向きなおる。
「リヴァイから?」
「はい。『ほっとくと絶対出てこねぇからな』だそうです」
サシャの真似は似ていなかったが、その言い分はまさしくリヴァイのものだった。彼は今日、朝からぶっ通しで兵士たちの訓練に付いている。一日内勤のハンジとは会う機会がないのでそういったことも含めて先ほど『後で食べに行く』と伝えていたはずだったのだが。
「アルミンとジャンに会わなかったのかい?」
「いえ、訓練場から直接来たので」
なるほどすれ違ったわけか。リヴァイはアルミンとジャンがハンジには強く言えないこともわかっていたのだろう。訓練終了後にコニーとサシャを遣わせたのが策士である。
サシャは遠くなってしまった昼食を思ってか目が若干虚ろだし、天然が妙なところで炸裂するコニーとサシャの二人に組まれて来られると、ハンジは弱い。ちなみにリヴァイも弱い。彼ら自身は押している気もない押しに負かされてしまうのだ。
「訓練……そういえば、サシャはもう怪我の状態はいいのかい?」
「順調です! 食事の量ももう普通に戻りました」
そこで測るのがサシャらしいが、経過がいいのは喜ぶべきだ。
「ところで、それって何してるんですか?」
コニーが首を傾げて指し示したのは、書類の数枚を掴んで机の上の何かを覆うハンジの片手だった。隠す間もなかったリヴァイの首像を守る苦肉の策だ。ハンジは努めて平静に笑った。
「あー……仕事だよ。ちょっとやり残したことがあって」
「あれ、アルミンとジャンが手伝ったんですよね? あいつらサボってたんですか?」
「違う違う! ちゃんとこなしてくれたよ」
「じゃあそれは……」
二人の興味をひかない話題であれば誤魔化せるかと思ったが、上手くいかなかったらしい。彼らは怪訝な顔でハンジを見つめている。そのうち、サシャが気迫をまといながら言った。
「もしかして……食料ですか……!?」
「……そんなもの隠し持ってたらリヴァイに怒られるって」
「俺らもちゃんとした理由を聴かないと、『どうして連れてこなかった』って兵長に怒られちゃいます」
コニーのもっともな言い分に喉が詰まる。
ここは大人しく食堂に向かうかとも思ったが、アルミンとジャンに断った手前もある。何より、ハンジは隠し事が苦手だった。単純に黙ってはいられるのだが、「どうした?」と聞かれたときに「なんでもないよ」と通せないのだ。そしてリヴァイは黙っているハンジの機微に聡い。
食堂で彼に会えば、首像のことがばれる可能性は大いにあった。
ため息をつき、片手を下ろす。東向きの窓からの薄光に石膏のくすんだ白を晒しながら、二人の前に像が現れた。
「うわっ!」
「兵長!?」
「そう。見てのとおり、リヴァイの首だけの像」
コニーが真剣な顔で「首ったけ?」とサシャに聞き返していたが無視する。
「ちょっとした理由でこれを手に入れたんだけど、始末に困っててね。リヴァイに知られずに早急になんとかしたいんだ」
ここは素直に事情を説明して協力してもらったほうがよさそうだ。二人とも口が軽いということはないので、ハンジが直接リヴァイとやり合うよりはバレる可能性が低くなるだろう。
「兵長が知ったら、どうなるんですか?」
難しい顔になったコニーがぽつりと尋ねる。ハンジは少し考えて簡潔に答えた。
「嫌な気持ちになるかな」
「ハンジさんも困ります?」
「まあ……そうだね」
そう答えると、ふ、と幼さを消し去った眼で彼は頷いた。
「そっか、じゃあ頑張って黙っとかねぇと」
ハンジの右眼の奥が、ツンと痛む。
「そうですねぇ。コニーはうっかりですから余計に気をつけてください」
「お前が言うなよな!」
彼らの表面に不意に現れる親愛を、リヴァイも知っていればいい。
「あ! 眼の部分だけくり抜いてあの光る鉱石を嵌め込んだらどうですか!」
「なんだって?」
数分前にハンジの胸に沸き起こった熱は、その一言であっさり蒸発した。
てっきりすぐに退いて食堂に急ぐかと思っていた二人は、けれどそこに留まってこの面倒な置物の使い道について頭を捻らせた。
石膏像自体が珍しかったのだろう、矯めつ眇めつを繰り返し「そっくりだ!」「今にもお小言を言いそうです」などと交わしながら考えた末、まずコニーから出てきた案がそれである。
「この像の眼のとこに鉱石を埋めて、そしたら灯りの替わりにならないかなって」
「そ、そうだね。でもそれだったら普通に灯りを使ってもいいんじゃないかな……」
闇夜を照らす二つの眼とその背後にうっすら浮かび上がるリヴァイの白い相貌。意味不明な形態を想像しハンジの背筋が震える。
真面目に意見を述べていたらしいコニーは「それもそうか」と残念そうに肩を落とした。
「ふふん、まだまだですねコニー。兵長のお顔を最大限に利用してこそですよ」
そう胸を張ったサシャが、次に提案して曰く。
「畑に置いて作物を食い散らす害獣除けにするんです!」
なるほど、食物に大いにこだわる彼女らしい視点である。
先ほどまで散々『兵長そのものだ』と賛辞を呈していた像に対してこの掌の返しっぷり。現実に即した物の考え方ができる優秀な兵士だ。
などといくら理由をつけてみても奇抜な提案内容を飲み込めないハンジが懸命に言葉を探しているあいだに、サシャとコニーはますます盛り上がっている。
「確かに兵長の顔だったら迂闊に動物も寄ってこねぇよな……芋女のくせになかなか良い意見だぜ」
「目の部分だけくり抜いてあの光る鉱石を嵌めこんだら夜も見張れますよ。そのまま回る台の上に置くとか」
「なんだそれ! かっけえーっ!」
「どうあってもくり抜いて嵌め込みたいんだなぁ君らは!?」
結局、「リヴァイにバレるから」という点で獣除けの案は却下になった。目に嵌め込む云々もハンジの「石膏製だしたぶん眼だけくり抜こうとしたら割れちゃうんじゃないかな」という一言で見送られた。消沈する彼らに引きずられそうになったものの、とち狂った提案を思い出すと口を噤むしかない。
「ありがとう二人とも。昼食を随分遅らせてしまったんじゃないかな」
「はっ! そうでした! 私の肉!」
「ぁうっ、涎が目に……」
『仕事があって食堂に来られないが必ず後で食事を摂る』旨をリヴァイに伝えるよう二人に言い含め、ハンジは賑やかな二つの背中を軽く叩いて送り出した。
退室の間際にも律儀に扉を叩いたサシャとコニーが、足音も聞こえないほど遠くに去ったあと。蓋をしていたハンジの喉から、とうとうくつくつと笑い声が漏れ出る。
「あー……おっかし……」
人類最強と謳われ部下からは総じて畏怖を持たれていたリヴァイを捕まえて、完全にモノ扱い。おそらくこの場に本人がいたとしても彼らは真面目に同じ提案をしていただろう。相当に肝が据わっている。
過ぎてみれば、サシャとコニーもやはりアルミンやジャンと同様に虹のような光彩を放っている。あれで戦場では的確な動きをするのだから尚面白い。
ハンジとて散々『変人』だとか『奇人』だとか言われてきた人種ではあるが、彼らの糸の切れ方はまた違うもののような気がする。未熟ではあるが柔軟さを秘めている。ハンジの精神が鉄であるならば、彼らのそれは舐めした革だ。
傷ついて、時間をかけて熟 れていくもの。
そして鉄にしても革にしても、情を捨てきった人間にはなれない。まったくもって面倒なことに。
いつになく穏やかな気持ちで像を見やる。机上にあるリヴァイの首は、紙一枚ほどの薄さに唇を開いて、その両の口角を指でそっと触れた程度に窪ませている。
それがどうしても、微かな笑みを湛えているように見えて──。
「そっくり、か」
机仕事には十分な光量だけを受け入れる窓の枠が、その白い面に影をかける。
仄暗くなった顔の半分で、リヴァイの像は確かに微笑んでいた。
──そしてそれは、『ハンジの知らない表情』だった。
片手では足りない年月を彼と共に過ごしたハンジが、それでも、一度も目にしたことのないものだった。
像を正面から捉えるたびに肌をざわつかせていた違和感が、ようやく胸の底に音を立てて落ちてくる。ひどく歪な形をもって。
「駄目だよなぁ、こういうのは……」
額を強く抑えて右眼を閉じれば、瞼裏に自然と一〇四期たちの歓声が蘇る。
対する相手に微笑む寸前、まさにそんな表情の像を前にして、揃って『兵長にそっくりだ』と口にした彼らのことを。
誰一人として、ハンジと同じ違和感を口にする者はいなかった。
当然だ。彼らは知っているのだから。
リヴァイが優しく眼を細め、唇で弧を描いたその瞬間を。
兵舎にまだ、使い古されたブーツの音が鳴り重なっていた頃。ハンジは興味本位からリヴァイに尋ねたことがあった。「あなたって本当に、全然笑わないんだね」と。
今になって、あの時の彼を鮮明に思い出す。眉間に皺を寄せ、目を逸らして、返すことさえ億劫な様子だった彼のことを。
『愉しくもねぇのに笑えねぇよ』
**
日が中天から少し逸れた時間になって、再び扉を叩く音がした。
部屋まで近づいてくる脚が二組だったこと、その歩き方と扉の叩き方が『他人に知らせるために敢えて音を鳴らしている』ものではなかったことから、ハンジは「そこにリヴァイはいない」と瞬時に察した。それでも、布を被せて棚の隅に追いやった像にどうしても目をやってしまう。
「開いてるよ」
「失礼します」
現れた二人に、ハンジは違う緊張を抑え込んだ。
「やあエレン、ミカサも。二人揃ってどうしたの?」
平静に届くよう努めた声音は、彼にはどう聞こえただろう。
エレン・イェーガー。知性巨人である進撃、始祖の巨人をその身に宿す者として、現在の壁内において最も重要な少年。
そして最も壁の外を知る少年。
彼の頭の中に広がる地を、記憶を、〝海〟を覗き見られないことが原因なのか、ハンジは最近、エレンが仲間たちと笑う場面に遭遇しなくなっていた。
もっと言うと、近頃の彼は日没に沿って範囲を広げていく陰の如く、じわじわと違う人間に染まっていっているようにも思える。
懲罰房の壁に寄り掛かり何かを真摯に睨む彼を見た時、ハンジは十日どころか数十年の隔たりをエレンの前に感じた。思わず声をかけた後は元に戻っていたが、それも今は不安定な状態だ。
エレンの変化や彼の背負う宿命が、隣立つミカサの心にも暗い影を落としている。
「ハンジさ……、団長に昼飯を持って来ました」
しかしそんな憂いも、エレンがトレーを掲げて笑ったことで少しだけ薄らいだ。
真実に触れて不自然な沈静をまとうようになる以前の、本来の彼の瞳がそこにあったからだ。だからだろうか、ミカサも今日は幾分か和らいだ表情をしている。
ハンジはそこではっとした。
「昼食? わざわざ持ってきてくれたのかい?」
「はい。兵長が『アイツ絶対食うの忘れるやがるからな』って」
リヴァイの真似はやはりまったく似ていなかったが、気遣いとも諦めともとれる彼の言葉に脱力する。
トレーにはパンに薄い肉と野菜を挟んだもの、根菜のスープ、茹でた芋を油と香辛料で炒めたらしいもの、菜っ葉に乾燥させた玉ねぎを散らしたサラダが載っていた。
おそらくハンジ用にいくらか手を加えたのだろう。気づいてしまった以上は申し訳なさを感じるばかりである。
「すまないね、給仕みたいなことをさせて」
机にトレーを置くエレンの後ろで、ミカサが静かに首を振る。
「ハンジさんが食べるのを確認するよう命令されたので……これは任務です」
「どこまで徹底してるんだあの男は」
ソファに座るよう二人を促し、ハンジは部下の任務完了のために書類を脇によけて食事をはじめた。まずはスープを口に入れる。
「そういえば、アルミンとジャンが像がどうとか言ってたんですけど」
「ごっ、ぶ」
思わずむせた。顎に滴る液体をそのままにエレンを見る。エレンも驚愕の面持ちでハンジを見ていた。
「そっ、そんなに不味かったですか?」
「いや……そうじゃなくて……アルミンとジャンが、像について何か言ったの? 君に?」
「え、そうですけど、俺とミカサに……」
「他の人には言ってなかった?」
「たぶん」
「たぶん」では困る。だがあの二人のことだ。『リヴァイには知らせたくない』の要望どおり、リヴァイには知らせずにリヴァイ以外の人間には話したということだろう。合ってはいるが、違う、そうじゃない。
「実はその件、ちょっと理由があって……頼むからリヴァイにだけは言わないでほしいんだ」
対面で座っていたエレンとミカサが顔を見合わせる。再びハンジを映した二対の眼には明らかな関心が光っていた。二人の視線をまじまじと受けたハンジはしばらく無言でそれをはねのけていたが、結局はため息をついて折れたのだった。
「なんだか気持ち悪い」
「お前なぁ、いきなりそれかよ」
執務机の真ん中で覆いを取られた途端、リヴァイの首像はミカサの素直な暴言に晒された。「だって生きてるみたい」と続いたのを聞けばむしろ彼女なりの称賛なのだろう。
「はは。リヴァイ、よくそういう顔をしてるだろう?」
ハンジの口がわざわざ言わなくてもいいことを聞くと、エレンが素直に頷いた。
「よくかどうかはわかりませんけど、まんまだと思います。兵長に粘土でも塗って型をとったんですか?」
案の定の回答に、ぐっと息を止めるも「それじゃあ死面だよ」と笑って誤魔化し、ハンジは二人に像を入手した経緯、そして素描のことを説明した。
「……? 街でリヴァイ兵士長を見かけて、その場で下書きを描いたということですか?」
像を眺めていたミカサが、ハンジの話した経緯をもう一度なぞった。その目にはわずかな疑問が浮かんでいる。
「街で、というより外門の作業現場でだね。今日はジャンと私が担当だったけど、リヴァイも何度かあそこに訪れているから」
共有する情報に齟齬が生じないよう、作業進捗の件に携わるのはハンジ、リヴァイ、ジャンの三人に絞り、現場視察も二人一組を回しながら行っている。そこから派生する各種業務にその都度関わってくるのがアルミンだ。
作業員はいつかの視察でリヴァイを見かけ、彼を描き写したのだろう。
ミカサはじっと像を見つめた後、何かを探しあてたかのようにふ、と視線を宙に浮かせた。
「ああ、それで『日付』……」
「え?」
「は?」
エレンとハンジが同時に疑問の声をあげるも、浴びせられた当の彼女はどこまでも涼しい顔をしている。
「アルミンが『日付でわかった』『この像の製作にはハンジさんも関わっている』と言っていたので」
そこでエレンも思い出したのだろう、「ああ」と頷いて後に続く。
「そういやそんなこと言ってたっけな。ジャンの奴も、何かをすっかり勘違いしてた、とか……『あの人たちなんでもないんだな』って」
二人のそれぞれの発言はなんとなく要領を得なかった。アルミンはなぜわざわざハンジと像の関与の可能性を話したのだろう。ハンジとしてはそんなに重要なことでもないのだが。ジャンの発言に至ってはハンジのことかすらわからない。
「関わっているというか、疑惑どまりなんだけどね」
「いえ、関わっています。確実に」
首を傾げたハンジに対して、ミカサが断言した。彼女は黒い瞳を瞬きで隠すことさえせず、より強く示すようにハンジを見つめて重ねる。
「像を見れば、わかります」
「像を……?」
「なんだよミカサ、これに何かあるのか?」
ミカサの自信を不審に思ったのか、エレンが像に顔を近づけ、その相貌を注意深く観察しはじめた。
側から見れば無生物相手に眼光での勝負をしかけているような姿だ。どこか滑稽な睨み合いに、内心で動揺をかき混ぜていたハンジの意識が、ゆるりとそちらへ逸れる。
「特になんもねぇけど……。ハンジさん、これって元から首だけなんですよね。身体は壊れたとかでなく」
「ああうん、そうだよ。最初は全身を造ろうとしていたらしいんだけど、なんか『気遣いの一種』とかで等身大にするか、もっと……二十センチほど高くするかで揉めたんだってさ。で結局、首までの像になった」
「はあ、結果的にモデルよりもっと低くなっちゃったんですね」
「そうだね」と肯定しようとしたがやめた。なんとなくリヴァイに悪い気がしたからだ。そのかわり、造られた頭部ではなく、造られることのなかった部分について口を開く。
「皮肉だけど、そのせいで街の人からああいう扱いをされちゃったんだろうね。知ってるかい? 人間って、〝そこ〟そこに在るはずなのに無い物……不在や欠乏に対してこそ強く想像力を刺激されるんだって。己の理想の形をその場所に見出すんだよ」
リヴァイの像の前に立ちながら、人々は彼の首から下に何を見たのだろう。
仲間の遺体を抱く腕か。刃を翳す手か。
前に踏み出そうとする脚か。
あるいは、硬く握った拳で抑えられた胸か。
ハンジの言葉に、エレンが訝しむ顔をする。
「勝手に理想を抱けるならなんで二十センチで揉めたんですか? 三十でも四十でも同じことなのに」
「……言われてみればそうだね」
どうして二十センチなのだろう。その理由は聞きそびれてしまった。
と、ミカサがまたポツリと零した。
「誰かさんより高いから、です」
ハンジのわずかに掠れたものとも、エレンのよく通る中音とも違う。秋の清流を思わせる声が耳奥に届き、そこに留まるような錯覚をハンジは得た。
「誰かさんって……」
「なんだよ、変な言い方すんなよな。お前のことか?」
「違う」
エレンが怪訝な様子で振り返り、ミカサを問い詰めるように前に立った。そして「だったら、」と続きを言いかけたが、何かに気づいてふと動きを止めた。
「……? ミカサ、お前……背が縮んでないか?」
兵士らしく均等に重心を載せ、肩幅に開いた両脚が、彼女と彼とで二人分。
ひと繋ぎの床から始まったそれらの体は、けれど腰の位置を、肩の線を、そして天辺の高さを微妙にずらしながらそこに立っていた。二人が二人のままで交わす視線は、もう二度と水平を描かない。
突然沸き起こった、形にさえならない感情に、ハンジの喉がきゅう、と締め付けられる。
「——君が伸びたんだよ、エレン」
彼らと出会ってまだ半年なのに、ずいぶん遠くまで来た、と──来ることができたと、そう思う。
「俺が……?」
ミカサを上から下まで眺めたエレンは、彼女の赤いマフラーに目を戻し、それから黒の瞳に己を映した。
二人が、一呼吸分、見つめ合う。
結びついていく視線を先に断ち切ったのは、意外にもミカサのほうだった。つ、と最小限の動きで目を逸らしてエレンから逃げた彼女は、ほんのり色を変えた顔の半分をマフラーに埋めて、そのまま沈黙してしまった。
一連の動きを追ったハンジが再びエレンを見ると、彼はミカサほど顕著な反応を示していなかった。ただ微かに目を細め、ほんの僅かに眉尻を下げて、例えば子どもが幸せな夢の途中で目覚めた時のような、そういう顔でミカサを見ていた。
──もったいないな。
ハンジの中に、もどかしさが湧き起こる。
ミカサは知っているのだろうか。視界の外でエレンが自分に向けている目を。エレンはわかっているのだろうか。目で捉えているミカサが、心の奥底に持っているものを。
合わない視線が、とてももどかしい。
「あ、〝誰かさん〟ってハンジさんのことか」
「は?」
止まっていた空気は、エレンのなんでもないことのような一言で再び動きだした。
あまりにも軽い、「解いてみれば簡単な問題だった」とでも言うような口調のせいで、ハンジはその言葉をきちんと受け取ることができなかった。
数秒をおいて聞こえたことを脳に染み込ませるも、完全な理解からはまだほど遠い。ハンジの名前が不相応な場所で使われたことしかわからず、見開いた目を元に戻す前にエレンがやはり唐突に「あ!」と声を上げた。
「やばい、そろそろ時間か? ミカサ、もう行くぞ」
「エレン。十分間に合うし、転ぶから走らないで」
「ちょっ、え? 待って君ら私の昼食の、」
「『訓練開始から三十分以内には来い』って言われてたんです」
制限があったのかと驚くも、当然といえば当然だった。今さら気付いた自分に呆れかえる。ハンジの監視など任務にかこつけた気遣いであったし、平時における調査兵の最優先任務は自己鍛錬に他ならない。
「二人とも、もしリヴァイに叱られたら私に引き止められたって言うんだよ」
「……それ、通じるでしょうか」
「『どうして遅れた』と聞かれたら口籠るだけでいい。向こうが勝手にそう思う」
「ぇえ……」
エレンとミカサが揃って疑惑の色を浮かべてハンジを見るが、これがそのとおりなので仕方がない。そもそも大抵の場合は嘘にならないのだが。
「あ、そうだ。像のこと、くれぐれもリヴァイには黙っておいてくれよ」
退出しようとする二人に『これで最後』とばかりに念を押すと、振り返ったエレンがさして興味もなさそうに像を一瞥する。
「あの、それってわざわざ隠しおかなきゃいけないものなんですか?」
「それは、まあ……だってこんなの見せられて、おまけに神様扱いされてたなんて知ったら気分は良くないだろう」
「そうですか? たかが作り物じゃないですか」
ミカサがエレンの袖を引く。その眼が、彼とハンジを交互に行き来する。
「兵長の形をしてたって、これは兵長じゃない。見えているものと本質は違うんじゃないかって、そう言ってたのはハンジさんなのに」
そう問う少年の両眼には、またあの他人の静けさが宿っていた。霧がかった湖のような。死体のそばで立ちすくむ時のような。
と同時にハンジは、埃を払った空気と、ランプの油と、夜の匂いに包まれた。まだ何も知らなかった己が、やはり何も知らなかった彼を前に据えて太陽が昇るまで語り通した、あの日の匂いに。
今ここにいるエレンは、いったい誰なのだろう。
「食事、ちゃんとしてくださいね……リヴァイ兵長が心配していました」
部屋を出て行くエレンに続こうとして、ミカサが途中で足を止めた。最後に優しさを残していくところが彼らの幼馴染を彷彿とさせる。
「心配って……リヴァイが?」
「たぶん。顔には出していませんでしたが、今日はよく、ハンジさんのことを口にしていたので」
あれで結構わかりやすい表情をするんだけどな、と言いかけて目を伏せる。
リヴァイの内面で起こる、けっして単調ではない感情を表に出させることができたのは、ハンジではない。
「リヴァイに伝えておいてくれ。『ちゃんと弁えてるよ』って。今私が使えなくなったら困るからね」
「……はい」
扉が閉まる寸前、ハンジを前にした時よりもずっと密なやりとりが聞こえてきた。
「なあ、アルミンも身長伸びてんのかな」
「うん……きっと」
「……そうだよな。あとで三人で比べてみるか」
その約束は、兵士でも誰かでもない、少年と少女のものだった。