お礼をする話
親切なリヴァイにハンジが礼をする話
お礼をする話
親切なリヴァイにハンジが礼をする話
長い長い沈黙の後に、リヴァイはようやく口を開いた。
「おいクソメガネ……今のは何だ……」
「お礼」
「礼?」
そう、お礼。
短くはない時間を割いて練り上げた案がとうとう産声をあげるかという瞬間に背後に現れ、愛しい赤子からハンジを引き剥がした挙句に裸に剥いた体を熱湯に晒しやがった畜生へのお礼。
と称した、キスだ。
自分のことを棚に上げまくって他人の寝不足を糾弾するリヴァイのくたびれた頬に、ハンジはなんでもないようにキスをしたのだ。
ちゅっ、と。
一秒を十等分したうちの、一つ分くらいの長さで。
「人類の歴史は」
先刻「早く乾かせ」と指さされた髪を、ハンジは重たくかきあげた。間抜けな軌跡を描いた水滴がリヴァイの目元を打つも、彼はかかずらう様子も見せずにハンジを凝視している。
「それすなわち贈答と返礼の歴史だ。人は己が『過剰に受け取った』と思うものはそのままにできない性質を持っている。それが正負どちらのものでも、目に見えないものでもね。持ち続けられないそれをどうするか? 返すか、他の者に渡すかだ。この繰り返しが今日の人類の発展に繋がってきたんだよ。話を戻すけど、私はリヴァイから受け取りすぎた。『ご親切にどうも』で済む範囲をとっくに超えてしまったんだ。ではどうするか? 返すしかないんだなぁ、これが。だからお礼のキス」
「おい」
べらべらと喋くりながら両肩を押すハンジに、リヴァイも案外素直に押されるまま部屋の入口まで後退する。ハンジが扉を開けて境界線を跨がせても、彼は「今のは何だ」と聞いた時と同じ、鳩が豆鉄砲を食らったような表情のままだった。
(いや、違うか)
鳩に豆鉄砲なんて打ったことのないハンジは思い直した。小石だ。餌に見せかけた小石を投げて、それを咥えた時の唖然とした顔だ。
『過剰に受け取った』ものを返すといったって、彼と同じことなどハンジにはできない。だったら丁寧なとは言わずとも単純な感謝の言葉くらいが、たぶんその場でリヴァイに送るべきふさわしいものだったのだろう。彼だって多少はそう思っていたかもしれないので、それはそれは驚いたはずだ。
感謝の言葉どころか、最低最悪のものをくらったのだから。
「おやすみ、リヴァイ」
ハンジは、今夜自分ができる一番の笑みを作って扉を閉めた。
**
「ううん……」
徹夜明けの伸びとは明らかに違う快感が、背中を抜けていく。
くっ、と上に伸ばしていた腕を戻し、ハンジは朝日の流れ込む自室を眺めて目を瞬かせた。二、三度繰り返すと、起き抜けの靄は視界から外れ、そこにはただ劣悪な視力が見せるぼやけた静物たちが並ぶだけになる。
思考は軽く、すこぶる明瞭。
枕の側に放り出した眼鏡を手に取り、立ち上がりざまに装着する。足裏に床板があたった瞬間、ぽん、と跳ねるような力が全身にみなぎった。
「ーーよし!」
陽光が満遍なく塗られた机の上には、完成した計画書が鎮座していた。
「おはよう!」
会議室には人がまばらだった。口々に挨拶を返す彼らに適当な言葉を投げながら自席に着座する。と、間髪入れず隣から声がかかる。
「朝から騒がしいな、クソメガネ」
いつもはなおざりに返すような科白だが、今朝のハンジは機嫌がよかった。顔を横向け、ついでに体も横向け、全身で彼に相対する。
「おはようリヴァイ、あなたも朝から不機嫌なフリに精が出るね」
「フリじゃねえよ。何をそんなにはしゃいでやがるんだてめぇは」
「うん? 別に? 一週間ほど力を入れていた計画書が昨晩ようやくまとまったから最高な気分ってだけで」
「……まさか、てめぇあれからまだ起きてやがったのか? 俺はさっさと寝ろと言ったはずだが」
言い募るリヴァイに周囲がちらりと視線を投げてくるが、他愛ない日常茶飯事だからかすぐに戻っていく。
「起きてたっつったって一時間くらいだよ。あの後すぐに出来上がりが不安だった部分についてさらなる名案を思いついたんだ! おかげで悩みもなくなってベッドに潜り込んだらぐっすり。だから今朝はとても元気なのさ」
「……そうかよ」
言葉を探すための沈黙は、ただ喋らないための静寂に比べて意外と喧しい。ハンジは、リヴァイが時たま上げるその声なき声を察知するのが得意だった。そもそも彼がハンジ以外の前ではそんな黙り方をしないためなのだが、今朝その時の沈黙は、ハンジに別の──そう、昨晩のことを思い出させた。
リヴァイは昨夜、ハンジが礼と称してかましたキスについて、このような沈黙の後に「今のはなんだ?」と問いかけてきた。結局「お礼のキス」という答えを受けた彼の最終的な反応を見届けることなく追い出してしまったが、あのまま対峙していたなら、一体どうなっていたのだろう。
(……とりあえず、一回は殴られていただろうな)
リヴァイの綺麗好きは、頭に「ちょっと病的に」がつくほど有名だ。
市井の人間とて二日に一度の頻度が普通の風呂にも兵士のくせにやたらと入りたがったし、それだけならともかく、机仕事や研究に夢中になると他のことは後回しになるハンジの部屋にたびたび現れては、無理やり風呂に入れて部屋を掃除していく始末だった。
正直、たいっっへん大きなお世話である。
だからハンジは考えた。リヴァイが二度とお節介を焼かなくなる方法を。
そして辿り着いたのが、『お礼のキス』だったのだ。
日ごろ汚ねえ汚ねえと罵っていた相手によりによって顔を、しかも唇で直接触られるなんて身の毛もよだつ経験だっただろう。しかもハンジはそれを『お礼』と言いきったのだから、リヴァイが今後同じ行動をしたなら、ハンジもまた同じやり方で感謝の意を伝えてくるという宣言に他ならない。
どうだ、たまったもんじゃないだろう。
昨夜の出来事をこの場で糾弾して朝から揉め事を起こすのも彼の本意ではないはずだし、ハンジの行いは咎めを受けることもなく、リヴァイのお節介を永遠に封じてしまったということになる。
なんという良策。
何事か考え込んでしまったリヴァイの横顔を、ハンジは勝利の笑みをもって見つめた。二人の会話がそのまま薄まるように消えて少しすると、エルヴィンの一声で朝礼会議が始まる。ハンジのやや上向いた面は、輝かんばかりの自信に満ち溢れていた。
**
「っは、」
目覚めた瞬間、天井にとどまっていた水の粒がハンジの吐息を受けたかのように額に落ちてきた。滑り落ちていく冷たいそれを手の甲で拭い、違和感に気付く。
「あれ……? ふろ、」
「起きたか」
「ひいっ!」
振り向く前にはもう、その声がよく聴き慣れた人物のものだとはわかっていた。視線の先には果たして、黒髪と小柄な男のシルエット。
あいにく眼鏡がないのでしっかとした像は結べないが、それは紛れもなくリヴァイだった。
わからないのは現状だ。ハンジは全裸で、浴槽に貯まるぬるい湯の中にいた。
「起きたんなら後はてめえでやれ。手を抜いたら承知しねえぞ」
「え、えー? ちょっと待っ……」
リヴァイは手に持っていたタオルと穏やかでない言葉をハンジへ放り投げると、そのままとっとと浴室を出て行ってしまった。
静かに閉められた扉を凝視したあと、呆然と自分の体を見下ろし、腕に掌を滑らせる。それから、髪に指を通す。どこもかしこも石鹸で脂を落とした直後のつるつるとした触感で、ハンジはリヴァイの言った『てめえでやれ』の部分など少しも残っていないことを悟った。
(私……またやらかしたのか)
リヴァイにしてみれば、ハンジの日常生活などどこもかしこも〝やらかした〟に塗れているだろう。当のハンジの基準はもうすこし狭く、意識を失くすのはその狭い範囲に含まれることだった。
水を振り落としながら、勢いよく立ち上がる。
頭がくらりと傾いだが、それが何に起因するものなのかは考えたくもなかった。
浴室を出ると、雑然なんて言葉が生易しいほど荒れていた室内は綺麗に磨き上げられ、散らばっていたはずの書類その他は机の一角にまとめて置かれていた。
リヴァイの得意分野が『清掃・清潔』であること、そしてここがハンジの部屋であることを鑑みて、彼はこの部屋の『整理・整頓』には決して手を出さない。まとめられた諸々が探し物を見つけやすいように区分けされているのも、あくまで心遣いの範囲だろう。
ベッドには見目にも洗いたてとわかるシーツが張られており、硬いマットの存在などは露ほども感じられない。
そして「冷めるからとっとと食え」との言葉とともに極め付けのように示されたのは、柔く湯気を立ちのぼらせた食事だった。リヴァイは棒立ちのハンジを強引に椅子に座らせると、タオルで湿った髪を包み込んだ。
至れり尽くせりを二巡したような状況に落ち着かず尻を浮かせかけたハンジだったが、吐いただけ吸う空気にかぐわしい香草の気配を感じ、頭はすぐさま食欲でいっぱいになる。
欲望のままスプーンを手に取り、食事にありつく。塩気、香り、本当にわずかな肉の脂、出汁の甘み、野菜の臭み。それらは口内いっぱいに広がり、胃までの道程を優しくも熱く滑り落ちて、味覚以上の何かを加速度的に満たしていく。
「おいひい……」
「そうかよ」
──時間がないのに。
次回壁外調査はもうまもなくだった。
ハンジ以下第四分隊は、そこで巨人の観察および実験を担うことになっている。巨人研究を一手に任されているということは、裏を返せば『巨人により精通していなければならない』という使命を背負っているということだ。単に生きて帰ってくるだけではダメなのだ。
犠牲は最小に、成果を最大に。
ハンジは万全を期するために何度も何度も作戦を練り直した。けれど、まったく足りないのだ。彼らについて人類が知っていることはごく僅かなのに、知れば知るほど知らないことが増えていく。壁外という未知の場で相対する未知は、作戦の計画から『確実』という行き止まりを徹底的に遠ざけていく。
自覚したそばから、もう二度と忘れないだろうと思えた料理の味が苦いものになる。
「リヴァイ、わたし、こんなことしてる場合じゃ」
「……黙って食え」
「無理だよ……」
何を否定したかったのか自分でもわからないが、ハンジは顔を激しく横に振った。が、頭部を掴むリヴァイがそれを許さない。
「リヴァイ……」
「食え」
彼はハンジにそれだけを命令した。ハンジの体が一番求めていることを。
リヴァイの力が痛いほど強かったのは、ハンジにとってはたぶん幸いだったのだろう。従うしかなかったからだ。
食事を終えた体を、次に訪ねてきたのは睡魔だった。
「寝ろ。そんな絞りカスみてえな脳から一体なにが出てきやがるってんだ」
「……」
「ハンジ。寝ろ」
腹を満たして上がった体温が徐々に下降を始める、入眠に一番心地いいとき。すぐ側には最高のあつらえのベッドがある。瞼のどうしようもない重さはハンジがどれだけ睡眠を軽んじてきたかの結果だった。
観念するしかなさそうだ。
「いいか、俺が出たら鍵を閉めてとっとと寝るんだぞ。このあいだのように、」
「わかった、わかった、大丈夫……。信用できないのもわかるけど、正直私も今すぐぶっ倒れそうなほど眠い。心配しなくてもいいよ」
そう言い聞かせるも、リヴァイは開け放たれた扉の境い目に立って、じっとハンジを睨みつけている。
「……なに?」
「……」
まただ。いつかの再来のように、リヴァイの沈黙が暗い廊下に木霊する。しっかと踏みしめられた両足には、ハンジがそれを解するまでここから動かないという意思が感じられた。必然、彼の望むことを探らざるを得なくなる。
(ええと……なんだろう……)
鈍さを増していく思考で、ハンジはただその一点のみを突き詰める。
と、ヒントを与えるかのように、リヴァイがわずかに顔を傾けた。血色の悪い目の下から顎までを数秒ほど見つめたハンジは、ようやく「ああ」とひらめきに声を上げた。重たい腕を動かして彼の首に回し、そこを引き寄せる。
「ありがとう、リヴァイ」
そして、頬にキスをしたのだった。
**
「なんでだよっ!」
疲弊をすべて夜に溶かして目覚めたハンジは、それはそれは機敏な動きで起き上がると指通りのなめらかな髪の毛を搔きむしった。
朝一番のツッコミは、数時間前にこの部屋を出た男とそれを見送った自身に対してのものだった。
昨晩彼は、リヴァイは何をした?
部屋に閉じこもって行き詰まっていたハンジの世話をして去っていった。
ではハンジは、彼に何をした?
……『お礼のキス』だ!
その事実は、潔癖性の男の頬にキスして追い払えば二度と関わってくることもないだろう、なんてハンジの目論見がすっかり外れてしまったことを示していた。おまけに昨夜の、リヴァイのあの素振り。まるで返礼としてわざわざそれを求めているかのようだった。
(いやいやいや、そんなわけない)
眩暈をおぼえる勢いで頭を振る。
昨夜はそうだ、きっとあれだ。
単なる「ありがとう」の言葉を期待していたのに、寝ぼけたハンジが勘違いをしてキスをしてしまって、寝ぼけた故の行動だったのでリヴァイも制裁を加えられなかっただけだ。そうに決まっている。そうじゃないと──おかしなことになる。
彼が前回のことを踏まえた上でまた部屋に現れたのだって、己の不快感よりもハンジの健やかなるを優先してくれたというだけだ。
なんだそれ聖人か。そう、彼は聖人だったのだ。
刹那もなくそう結論を打ち出すと、ハンジは強引に思考を切り替えて脳内議論を終わらせた。
なんせ、やらなければならないことがたくさんあったからだ。
昨夜は抱えきれないほどに感じていた諸問題が、今朝は曙光の中にはっきりとその姿を現していた。不思議なことに、それは闇夜で見るよりもずっと、掴み方さえ間違えなければきちんと手に馴染むと思えるものだった。
ハンジの『キスとリヴァイに関する推論』は、しかしその後も悉く裏切られることとなった。
ハンジが食べることを忘れ、眠ることを遠ざけ、清潔にすることを軽んじるたびにリヴァイは部屋へとやって来て現実に引きずり戻した。
そして必ず、去り際に沈黙した。
目を伏せて。何かを待って。
今日こそは腹に一発決められるのでは、と怯えながらもこわごわとその頬に口付けるハンジに、リヴァイはいつもただ「じゃあな」とだけ言って去っていった。
だから、キスが正解だったのだろう。
まったくもってありえないことだが。
(もうやめよう)
不意の二度からさらに五度目のキスを終えて扉を閉めた時、ハンジはリヴァイが整えたベッドを見てそう決心した。
もう、無茶をするのはやめよう。
彼に部屋を掃除させるのも、ハンジを抱えて浴室に入らせるのも、食事の世話をさせるのもやめよう。
それはなにも、キスを待つリヴァイの顔や唇を近づけて触れるまでの一瞬に、胸をかきむしりたくなるような恥ずかしさを覚えることだけが理由ではなかった。リヴァイのそれは、仲間に施す親切としては過剰だった。
ハンジはそれを受け止めきれなくなったのだ。
そうして、ハンジがようやく自分で自分の身を管理し始めると、部下たちは口々に「よかった」「これで安心ですね」「兵長のおかげだ」と喜びを露わにした。誰が見ても健康で身綺麗になったハンジに、リヴァイですら「やればできるじゃねぇか」と非常に分かりづらく喜色を見せたのだから相当のことだ。
他人から見れば当然の見繕いも、ハンジにとってはおおごとである。起床の鐘の少し前に目覚め、消灯の鐘の少し後に寝台に潜る。朝と夜それぞれに顔を洗い、状況に合わせた身支度をし、最低でも二日に一度は体を清める。食事も兵団が決めた時間に決められた量だけを摂る。
ハンジは改めてうんざりした。今まで省略していた、そして省略しようと思えばいくらだってできていた事項のなんと多いことか。ハンジとてずぼらを好んでいるわけではない。他にやりたいことや、やらなければならないことが多すぎるだけだ。
けれど驚いたことに、それだけ面倒なことを粛々とこなしていると、日々の作業効率がぐっと良くなったのだ。考えたいことにはすぐ手が届いたし、思考に行き詰まっても、義務的に詰め込んだ食事や睡眠が後ろを振り返る余裕を生み、新しい道を見つけることができた。
時間内に終わりそうにない業務を試しに部下に任せてみたところ、彼らは嬉しそうにそれをこなし、結果的にハンジ一人でやるよりも早く正確に済ませてしまったのだ。どころか、ハンジがそれまで己の頭の中に留めていた、とりとめもない、今後なんの形も成しそうにない言葉を渡してみると、彼らはそれを自分たちで発展させていたことすらあった。
最終的に、忙しさが常になってから整える暇もないと思っていた身近な諸々が、油を差したように滑らかに回るようになったのだった。
──リヴァイ、あなたって凄いよ!
ハンジは静かに、熱く感動した。
彼はずっとハンジにこの状態を与えたがっていたのだ。まあ、いささか言葉が足りなさすぎた気がするが。
あの〝頬にキス〟を受け入れていたのだって、きっとハンジの意図を見抜いて逆手に取った故のことだったのだろう。ハンジが彼を邪険に思っての行為すら、ハンジのために利用していたということだ。
聖人か。きっと聖人に違いない。
ハンジの行動が改まってからというもの、リヴァイとは業務外で顔を合わせる機会がすっかり減ってしまっていた。
彼が何かを訴えるあの沈黙が急に恋しくなる。時間を気にすることもなく、リヴァイが話し始めるか、もしくはハンジが何かをするまで二人の呼吸の音だけが続く時間。
その幸福に、いまさらになって気づく。
(彼に会って、直接礼を言おう)
ハンジはそう思い立った。リヴァイのおかげで手に入れたものの大きさはハンジにとって『過剰』だったのだから、いつか彼に説いた言葉を証明するなら、受け取り過ぎたものを彼に返さなければならない。
さて、礼の形はどんなものがいいだろう?
**
ランプに火を灯す時間になって、ハンジはリヴァイの部屋を訪れた。挨拶もそこそこに、扉を開けた彼が用を尋ねる前に、その胸に包みを押し付ける。店で慎ましく飾られたそれがリヴァイの手の中に収まった瞬間、ハンジはなんだか気恥ずかしくて仕方がなくなった。
「なんだこれは」
「開けてみてよ」
促すハンジに一瞥を投げて、リヴァイは背を向けて部屋の中に引っ込んでしまった。そして扉を開けたまま戸惑うハンジに振り返ることもなく「入れ」とだけ告げた。返事を待たないということは、入らないという選択はないということだ。ハンジは後手に扉を閉め、彼のそばまで足を進めた。
室内の清潔さは疑うべくもなかったが、リヴァイは相変わらず整頓だけはそんなに得意でもないらしい。もともと持ち物が少ないために気づく人間もわずかだが、ソファの座面に書類とペンが並べて置いてあるのを見ても『使った物を元の場所に戻す』ことにこだわらないのがわかる。少なくとも、掃除よりも心を砕いていないことは確かだ。もしかしたらハンジの部屋に対してより大雑把かもしれない。
ハンジが部屋を見渡しているうちに、リヴァイはさっさと箱を開けてしまっていた。中から繊細な金属細工が現れる。
「……茶漉しか?」
「うん。なかなか良い品だろう?」
互いの目を繋いだ線の上に載せるように、リヴァイがそれを掲げ持った。
華美ではないが丁寧な装飾がなされた両手持ちの把手が、ランプの光を受けて甘く輝く。ぼんやりとその煌めきを眺めていたハンジは、リヴァイの鋭い目が細かな網を透かしてこちらを射抜いているのに気がついた。
途端、弁解を求められたかのように落ち着かない気持ちになる。
「あの、お礼のつもりだったんだけど……気に入らなかったかい?」
「礼?」
「リヴァイには色々と迷惑をかけたからね。お陰ですっかり生活がまともになって諸々が上手くいってるんだ。だからお礼として、それを」
それを、わざわざ早くから街に出て、選んで、買って。銀製だからちょっと値が張ったし、包装までしてもらいました、なんてことは言わなくてもいいだろう。必要のないことだ。リヴァイが喜んでくれればいいのだから。
しかし肝心の『お礼』を両手でもてあそび始めたリヴァイの表情は、ハンジの期待どおりのものではなかった。眉間に皺を寄せて、ハンジが先走ってあれこれと彼に話しかけた時にするような、そういう顔をしている。
「……」
「……リヴァイ? 気に入らなかった?」
「それなら、」と伸ばした手は、けれど当のリヴァイに掴まれて押しとどめられる。
冷たい金属に触れていたのに、その皮膚はちょっと驚くくらいに熱い。巻きついたうちの人差し指だけが静かに動いて、ハンジの肌を撫でる。
肩を跳ねさせるハンジを見ながら、リヴァイが口を開いた。
「お前、普通の礼もできるんじゃねえか」
「……あ……」
リヴァイが〝普通の〟と強調した意味を悟り、ハンジは顔を赤くした。
そうだった。あの『お礼のキス』について言及するのを、すっかり忘れていた。
「あ、あれは……ごめん、ただの冗談だったんだ……というか、わかってるのに蒸し返すなよ! 今日はちゃんとしたお礼をしようと思って来たんだよ?」
「そうだな。ガキじゃあるまいし、あんなのが礼になるわけないな」
リヴァイにとっては今この瞬間のことよりも、ハンジが重ねた嘘のほうが重要らしい。はっきりと『礼にならない』とまで言われ羞恥から俯いたハンジに、大げさなため息が追い打ちをかける。
「まあ、例外はあるが」
「あーもう! そんなネチネチ言わなくてもいいだろ! じゃそれ確かに渡したから! おやすみ!」
言い捨てて踵を返す。が、強い力に遮られた。
リヴァイに手を掴まれていたのを失念していたハンジは、そこを引かれた反動で勢いよく彼にぶつかってしまった。
「いって!」
「まあ聞け、ハンジ」
体を離そうとするも叶わず、片腕で腰を抑えられていることに気づく。驚いてリヴァイを見下ろすと、仕掛けた当の彼は眉ひとつ動かさずに言った。
「この礼だがな……俺にはちっとばかし『過剰』だと思う」
「は?」
「返すか、他の奴に渡すか、だったか? 俺のやり方で構わねぇな?」
そうして、次に彼がしたことは──キスだった。
ハンジの度肝を抜いたのは、そのキスが頬へのものではなく、唇へのものだったことだ。
離れた瞬間、ハンジの全身は燃え盛る火の勢いで熱を上げた。
「……!? なっ……にするんだよ……!」
「だから、〝礼〟だが」
狼狽えるうちに、リヴァイがハンジを抱えたままソファに倒れこんだ。そして分厚い体に密着したハンジが体勢を立て直そうともがくのを抑えながら、未だに片手にあった茶漉しをとくと眺める。
「……確かに良い品だ。お前の世話を焼いていたのは下心もあったから、これは上等すぎる」
「は!? したごころ!?」
「そうだ。だから、貰いすぎた礼だと言っている」
なんてことだ。彼は聖人などではなかったのだ。
あ、と思う間もなく眼鏡が抜き去られ、また唇が触れてくる。やはりまた、ハンジの同じところへ。何度も何度も、薄い皮膚を指の代わりにして優しく摘むように、リヴァイはハンジの唇を吸い上げた。
言葉はなかった。沈黙なんてものもなかった。
別々の人間が触れ合う音の、なんと喧しいことか。
「なんか、おかしい。矛盾してる」
「そうか?」
唇が離れる合間合間に、湿りながらも火傷しそうな温度の息を吐き出して、ハンジは必死に抗議する。
「してる……! だってさっきあなた、キスが礼になるわけないって言ってたじゃないか!」
「俺は例外もあると言ったが」
「なんで〝これ〟が私にとっての例外だと思えるんだよ!」
「違ったか?」
質問に質問で返すなよ、と唇を噛む。
いつもそうじゃないか。答えを求められるのはいつだってハンジのほうだ。
湧き上がる悔しさを感じ取ったのか、リヴァイが宥めるような真摯さで頬や額に口付けてくる。
それを易々と受けいれている現状こそが答えなのだと、わざわざ答えずとももう、ハンジは嫌というほどわかっていた。
(ちくしょう)
リヴァイを睨みつけたタイミングで肩を引き寄せられ、深く深く口付けられる。
二人のあいだを、沈黙が支配する。
目を閉じる暇もなかったハンジは、同じく瞼の下に隠れることのなかったリヴァイの瞳を間近で見つめる羽目になった。
正円を描くその不思議な色味は、リヴァイの普段の無言ほど長くはハンジの答えを待ってくれなかった。そして無言よりもずっと、リヴァイの言いたいことを伝えていた。
舌が潜り込んできた瞬間、ハンジは降伏を決めた。
結局、すべてが一つの真実に辿り着く。
リヴァイは最初から下心込みの親切でハンジに触れていて、ハンジとて、無意識の部分まで感謝の気持ちに満たされてリヴァイの元へ訪れたわけではなかった。
人の原初にはまず、何かを、誰かを欲する気持ちがあるということだ。
ハンジがリヴァイの首に両腕を回すと、彼は危なげなく持っていた茶漉しをようやく机の上に置いた。ついでに体の下敷きになっていた書類とペンを引っ張り出してどこぞへ放り投げる。
空いたばかりのそこに早々に身を横たえると、二人は二人の欲望を満たすために、喧しく音を立て始めたのだった。
〈了〉
(初出 18/04/07)