偶像は笑う
リヴァイの首像をめぐる話
偶像は笑う
リヴァイの首像をめぐる話
1.
ウォール・ローゼ最南端。
人類の版図をぐるりと囲む壁の一部分から、マリアの地に向かって突出する街・トロスト区。
半年前、超大型巨人の襲撃と無知生巨人群による侵攻を受けたこの街は、〝巨人になれる少年〟エレン・イェーガーの出現と抵抗、多くの犠牲により陥落を逃れて以降、なにかと壁内情勢の変化の風に煽られてきた。
一時は王政に反旗を翻した調査兵団の本拠として壁内中の耳目を集めることになったが、女王ヒストリア・レイス新政権が確立した現在、街はマリア再開拓事業計画の中心地として、ようやく住人たちの賑わいに彩られている。
マリアと街とを繋ぐ外門の周辺には、来年に予定されている街道の舗装事業のために、各地から集まった作業員たちが簡易的な住居を築いて壁までの道を整える作業についていた。
五年越しの境界からは時折、調査兵団の開発した兵器が巨人のうなじを潰す音が響く。その槌が二度と鳴らなくなった時こそ、失われた地が再び人類の手に戻る日なのだと人々は言う。
その日はそう遠くないのだ、とも。
「なにこれ」
口に出したのと同時に、ハンジは「どうか私が予想するものではありませんように」と願っていた。けれど、そばを通りがかった作業員が「なにって、リヴァイ兵士長ですよ」と願いを蹴散らし何食わぬ顔で去って行く。
ハンジはむなしく天を仰ぎ、改めて「リヴァイ兵長ですよ」と紹介された〝ソレ〟を見下ろした。
そして考える。
──なぜ、リヴァイの生首がここにあるのだろう?
「ねえ、フレーゲル!」
ハンジが作業の騒音を裂いて叫ぶと、日に焼けた男たちの中から一際若い面が持ち上がり、張り響く声に臆することなく応えてくる。
「おう、どうしたんだ団長!」
「コレのことなんだけど! ちょっと説明してくれないかな!」
ハンジが大ぶりで指したソレとは、生首だった。
厳密に言えば、人間の頭部から首までをかたどった石膏像だ。大きさも生身の人間の首とほぼ同じ。そしてその生首の像は、ハンジが──ハンジだけと言わず、壁内の誰もが──よく知る男、調査兵団兵士長・リヴァイの容姿を象っていた。
秀でた額。冷静さがそのまま重さとなったような上瞼。地平より遠くを見つめるがごとき瞳。眼窩の窪みが造る影は顔全体に自然と静謐な印象を与え、真っ直ぐに伸びた眉には軽薄さの欠片もなく、そのあいだに刻まれた微かな皺からは彼の持つ強靭さが窺える。
眉間からは驚くほど美しく鼻梁が伸び、口元は今にも開いて何事かを囁きそうで……それは紛うことなき、リヴァイだった。
同僚の生首に対面してしまった驚愕も、実物を写しとったかのように精緻な造りへの感嘆に塗りつぶされてしまう。それほどの出来だった。
けれどどうしたことか、ハンジはその造形にかすかな違和感を覚えた。あまりにも仄かなそれの出所を探ろうとしたところで、隣に来たフレーゲルが「あっ」と声をあげたために、探求はそこで打ち切られてしまった。
「いけねっ、見つかっちまった!」
フレーゲル率いるリーブス商会は、トロスト区を先端にした街道舗装事業の総管理を任されている。
作業計画、現場の物資調達、他地域から訪れる作業員の雇用や衣食住、賃金の細かい管理、調査兵団や中央政府とのやりとり……などなど、業務内容があまりにも煩雑だったために、政府と街の住人両者から「事業を主導してくれ」と依頼があったのだ。住人たちの弱腰に「こういうのが金の生み所だろうが!」と呆れながらも、フレーゲルは街の活気を絶やさないようあちこちを走り回っている 。
ハンジは今日、作業の進捗と断頭台の使用頻度を確認するためにここを訪れ、リヴァイの首像を発見したのだった。
「見つかっちまったって……随分目立つ所に置いてあったけど」
像は、作業員用に建てられた簡易休憩所の中の、中央にある台の上に載せられていた。休憩所に入れば一番に目に入る場所だ。おまけに像の周りはなぜか花や食物で溢れている。見つけるなというほうが難しい。
今さら隠そうとでもしているのか、フレーゲルは像とハンジのあいだに体を捻じ込ませてくる。
「その、大したものじゃねぇんだ。それより昼飯の話なんだけどよかったら一緒に」
「フレーゲル」
「……実は、ここの作業員たちのあいだで『リヴァイ兵長の像を造ろう』って話が持ち上がったんだ」
「リヴァイの、像?」
ハンジが思わず右眼を眇めると、彼の丸い体が一回りほど萎んだ。隠匿は早々に諦めたらしい。
「〝らしくて〟ということは、君は把握してなかったってことかい? 確かに兵団にそういう話は来てなかったけど」
「だから見つかりたくなかったんだ」
初めて会ったころからわずかに肉の削げた頬を撫でて、フレーゲルはいかにも申し訳なさそうに顎を引く。
「芸術家っていうのか? 石を彫ったり絵を描いたりしてお偉いさんから金もらってた人間が、マリアのこととか王政の解体とかで食扶持が減ったもんでこんな南の先っぽまでいっぱい流れてきてるんだ」
切れた言葉の先を探すように、大きな眼がチラリと背後を窺う。そこには精悍な兵士の顔があった。
「家族とも離ればなれで……けど塞いでもいられねぇ状況だろ? そんな中で偶然おっさんを見かけたもんで、みんな『英雄の姿を見られた!』って大喜びしてたんだ。そこから盛り上がっちゃんだろうな。気付いた時にはもうこのとおり、石のおっさんが出来てたってわけよ」
「……おっさんじゃなくて兵士長ね」
「いや本当に……申し訳ねえ」
凶刃に斃れた先代の後を継いで商会の長となったフレーゲルは、しかし未だ年嵩の指南役たちに助けを借りる若旦那である。管理不行き届きを恥じているのか、若気をまとった肌がくしゃりと歪んだ。そのくせ決して逸らされることのない視線は、今の立場であれば常に持たなければならない責任に、懸命に爪を食い込ませている証拠でもあった。
途端に強く言う気が削がれてしまうのだから、ハンジも大概彼に甘い。
再び首だけのリヴァイに向きなおり、溜息をつく。相当の技術を持つ人間たちの手で生み出されたらしいことを考えれば、素人目ですら見事と思える造形は当然だったのだ。
貧しさが真っ先に削るのは文化だ。
マリア陥落から数年。平定から遠ざかっていく壁内において、誇りと腕を封じなければならなかった芸術家たちの苦しみはどれほどのものだったか。『英雄』を打ち出したこの技を見れば想像に難くない。
だからと言って盛り上がった流れであちこち像を作られても困る。リヴァイとて鼻の頭に皺を寄せて嫌がるだろう。
とりあえずハンジは「これっきりにしてくれよ」という忠告だけをフレーゲルに与え、次のことを考えることにした。
「……ところで、なんで首までしかないの?」
像、ましてや英雄のそれならば普通は全身を象った立像が思い浮かぶ。けれど目の前のリヴァイ像は首までしかなく、なおかつそれで完成されていた。材料の不足かと聞くもそうではないと言う。
「あー……」
それまでは罰の悪そうな表情を浮かべながらも口を開いていたフレーゲルが、そこで初めて言葉を濁す。
「なに?」
「いや、その……造る前に『身長をそのままにするか、あと二十センチほど高くするか』で揉めて……結局首だけになったんだと」
「身長? なんで高くする必要があるんだい?」
首を傾げるハンジをじっと見つめた後、フレーゲルは「まあ、気遣いの一種だ」と苦笑いを返しただけだった。
「それで」
聡明な青が、ハンジと像を交互に映す。
「コレを、持ち帰ってきたってことですか?」
「うん、そう。買い取った」
「買い取った?」
驚愕したアルミンが次に目を向けたのは隣にいたジャンだった。
「なっ、なんだよ。俺は別件でちょうどその場にいなかったんだって」
ジャンはアルミンの責めるような視線をまさしく責める視線とみなしたらしく、ハンジの顔を伺いながらもはっきりと弁解する。
「そうそう、それに心配しなくてもちゃんと自腹だよ」
アルミンの憂慮を察したハンジも、ジャンの後にそう続けた。
ハンジがリヴァイの首像の撤去、および破棄を命じると、フレーゲルは「どうか見逃してくれないか」と頼んできた。
先の王政転覆騒ぎにて絶望的状況を覆し、さらには壁中人類を偽の歴史から解き放った調査兵団は、壁外の真実を知らされた人々にとってますます希望の象徴になっているのだとフレーゲルは言う。
そんな調査兵団の『英雄』である人類最強の像こそは、作業に携わる人々やその家族、街の住人から災厄を避ける祈りの対象として──ついでに、冷めた眼差しを持ちながらどこか熱を秘める相貌が、密かにトロスト区の女性たちの目の保養として──扱われているらしい。
像の周りの妙な花や食料は供物だったわけだ。もはや神である。
己の意図せぬところでその様な扱いを受けていると知ったら、普段から自分に対する英雄視を苦く思っているリヴァイはどう感じるだろう。ハンジは「自分なら嫌だ」と顔を歪め、ますます首を縦になど振れなくなった。
拮抗する話し合いにとうとう周囲の作業員までが集まり、その場が騒然となったのもつかの間。
その中の一人が不意に叫んだ言葉で事態はあっさり片付くことになった。
「団長さんが貰ってくれればいいんじゃないか?」
「え?」
「そうだそれがいい! 捨てたり壊すのは御免だよ。アンタが持って帰ってくれ」
「ああ、そうか……団長さんならいいか」
「ちょっと待って、なんでそうなるの?」
困惑しながら問うも、なぜか皆一様に意味深な笑みを浮かべるだけ。納得できないハンジに「はいこれ、像の下書きね」と筒状に丸めた紙まで渡し、作業員たちは持ち場に帰って行った。
「なんなんだよ……」
「ああ、うん、アンタには世話んなってるから」
『世話んなった』礼にしては、物理的にも精神的にも随分重たい。そもそもハンジは世話をした覚えなんてない。
反論を考えているあいだもフレーゲルは手際よく像の梱包作業を進めていく。
目的だった撤去の条件として提示されたのが『ハンジが像を受け取ること』なら、拒めばまた話し合いが長引く。「撤去させられた」より「譲渡した」のほうが街の住民側にも示しがつくのだろう。
そこまで考え、ハンジは拒否を諦めた。
しかしそうなると、無償で貰うことにも気が引ける。
結局ハンジは像の代金を払い、さらに腕のいい職人たちのために仕事の斡旋の約束までして、重たい石膏像を脇に抱えてフレーゲルに見送られた。そして「なんですかそれ!? 元の所に戻してきてください!」と驚くジャンを引き連れ兵舎へ帰還したのだった。
「ジャンってば犬や猫を拾ったみたいな諭し方だね」
「中身を知ってたらそんなこと言ってねえよ……」
不本意にも像を手に入れてしまったハンジ、そして売買が成立しているということで何も言えなくなったジャンは、帰還したらしたで二人の不在のあいだに団長室での待機を命じられていたアルミンに遭遇し、事情を説明して今に至るというわけだ。
「購入を言い出したのは私だし、見事な職人技への心ばかりの敬意だと思えば大した額じゃなかったよ」
「見事な出来、という点は僕も同意です。ただ、話を聞いているとその像とハンジさんには元々何か関係があったようにも思えますね。さすがに金銭を巻き上げるつもりはなかったでしょうが」
「そうかぁ? 考えすぎじゃないのか?」
「うーん、私も気になる点があるにはあるんだけど……」
アルミンの穿ちももっともだとハンジは頷く。
あんなに像の撤去と破棄を拒んでいた作業員たちが、ハンジが持ち主となると満場一致で賛成したのが引っかかる。
おまけに、首像は石膏製だ。
素描を元に粘土で原型を作り、石膏の粉を水で溶いたもので型取りをし、粘土を搔き出し、その型にさらに石膏を何度も流しんで固め彫り出してやっと完成するものだ。とにかく面倒くさい。
無計画に始まった製作だったとしても、材料や手間を考えると必ず途中から現場管理者であるフレーゲルの協力も必要になってくる。
「まあ損らしい損はしてないし、深く考えないでおくとするよ」
万が一フレーゲルらが何らかの理由で謀っていたとしても、ハンジは彼らを責めるつもりはなかった。今のところは使う宛のない私金と執務室の机の一角分の面積が減っただけだ。
なによりハンジは、首像を抱えながらの去り際に「ああそうだ、一つだけ」とフレーゲルの言葉を訂正したのだ。
『絶望的状況を覆したのは調査兵団じゃないよ。——君たちに、英雄は必要かな』
彼らが今「上手くいった」と笑っているのなら、それでいい。
**
「さて、一段落したかな。二人ともお疲れさま」
午前中いっぱいを使い、ハンジはジャンとアルミンとで事務仕事をこなした。
断頭台の使用頻度、外門周辺および街の復興作業の進捗、それらを照らし合わせた上で来年に予定する海までの遠征計画の見直し。現状把握できるだけの『外』と『敵』の詳細な情報の把握、それに伴った防衛策、戦闘態勢の変更、兵士の増員、訓練計画、武器の開発、知性巨人二体の情報収集・練熟……やることは山積している。
ハンジとアルミンがあちこちへ意見を投げ散らし、ぶつかり合わせ、結び、ジャンがそれらを余すところなく拾って紙に落ち着ける。重要な仕事の補佐を任せるのに二人は今や必要不可欠な存在となっていた。
時刻は正午の少し前だった。
そろそろ食堂で昼食の配膳が始まる頃だろうと考えたハンジはアルミンとジャンに退室の許可を出したつもりだったが、目の前の二人はソファに尻をくっつけたまま、ある一点に目を向ける。
「あの、結局アレはどうするんですか?」
団長用執務室に鎮座する机の重厚な天板の上にあっても、負けず劣らず存在を主張するリヴァイの首像が、その場のすべての視線を奪う。
「……どうすべきかな?」
買ったはいいが、正直、ハンジは始末に困っていた。
「にしても、本当に生きているみたいですね」
先ほどまで書類を広げていた接客用の低いテーブルに像を据え、アルミンが素直な賞賛を漏らす。隣のジャンも「そうだな」と同意する。
二人の向かいに座ったハンジには像の後頭部しか見えないが、それでもリヴァイだとわかるのだから製作に手抜かりのないことがうかがえる。
髪の一本一本までを彫出すことまではしていないが、風に吹かれて流れたような毛束も美しい。うなじの緩やかな凹凸など、本物のそれさえじっくりと見たことがないのに、その下にリヴァイの生きた血管が詰まっている気がしてくる。
「街で兵長を見かけただけでこれだけの物を造った、ってことですか?」
「ああ、恐らく素描……リヴァイを紙に写し描いた人間がよほどの観察眼と技術の持ち主だったんだろう。こういう像の製作は最初の下書きが大事だというから」
「へえぇ……」
『彫塑の肝は素描なんです』──今は亡きハンジの部下、モブリットが言っていたことだ。彼も素描が上手かった。
「それならば」と巨人を模した立体物を造らせようとして泣かれたことまで思い出し、ハンジの指が無意識に左眼の跡地に触れる。
「そうだ、その下書きも一緒に貰ったんだった」
筒状に丸められた紙を取り出して開くと、木炭で描かれたであろういくつもの線が現れた。紙面の下部にはスケッチした日付が小さく記されており、それ以外の部分にはすべて、リヴァイの頭部をあらゆる角度から捉えた絵が所狭しと並んでいた。
やはり相当に腕のある人間が描いたようだ、複雑な陰影を描く立体を、見たところ狂いもなく正確に面に写し取っている。
しかし、ハンジはそこにまたも違和感を覚えた。
実物のリヴァイにそっくりの絵なのに、そこにはハンジの知らない何かがある気がするのだ。試しにスケッチをジャンとアルミンに渡してみると、すぐに感嘆の声が上がる。
「すげえ。まんま兵長だ」
「うん、凄いね。きっと兵長の表情の中で特に強く印象に残った部分を切り取ったんだろう。単純に物を写したのとは違う気迫が伝わって……」
途中で言葉を切ったアルミンは、無言で紙を見つめた後「ああ」と得心したように息を吐いた。
ジャンとハンジは顔を見合わせる。
「どうかしたのかい?」
「いえ……対象の心情まで表れているような素晴らしい絵だなぁと。それより像のことですが、兵長ご自身には知らせないんですか?」
「リヴァイに?」
今ここに至るまで考えもしなかった。確かに、リヴァイを模して造られた像なのだからその始末も本人に確認するか、そうでなくとも存在を伝えるくらいはすべきだろう。
考えたハンジは、しかし首を横に振った。
「いや、私で処理する」
像を引き寄せ、その冷たい石肌に触れる。
「街の人たちは純粋な好意からだっただろうけど、それでも『英雄』としてこの像を作ったのには違いない。知らんぷりしてるけど、あの人そういう扱いされるの得意じゃないんだ」
期待も落胆も、過剰になれば身を重くするだけだ。
リヴァイが他人から寄せられる一切合切を無視できる人間であれば、ハンジもとっとと彼にこの像を押し付けていただろう。けれどもし彼がそういう人間だったなら、きっと兵士長として今日まで生き残ることもなかったのだろう。
その矛盾は息苦しい。生傷をこさえたばかりの今は、特に。
本人が知る前に排除できるならばそれが一番だ。
「余計なこと気にして大事な兵務に支障を出されても困るしね。『知らせない』というより、『知られたくない』のほうが近いか」
「……そうですか」
アルミンが口を閉じる。と、今度は隣にいたジャンが身を乗り出して言った。
「あ、じゃあ部屋に置いて話し相手にするのはどうです?」
「話し相手?」
何も語らない口と、何も聴かない耳を持つ〝彼〟を?
思わず手元に目を落とす。そこにはやはり動かぬ表情を刻まれた像があるだけだ。困惑しながらジャンに戻るも、彼はからかっている様子もない。真剣に言っているのだ。
「誰にも気兼ねせずにいろんなこと話せますし、反論もされないし……あっ駄目か、部屋だったら兵長に知られちゃいますね……」
「? いや、寝室に置く分には確かにバレないと思うけど」
何気なく返すと、ジャンがぽかりと口を開けた。そして仲間内から「悪い人相」だなんて言われているらしい顔の全体をうっすらと赤くする。
「えっ、と……あ、すみません俺、失礼な勘違いを」
「勘違い? なにが?」
「あーっ、あーっ! ジャンのそれ! 僕も良い案だと思う!」
アルミンが横から賛同を示したことに、ハンジは素直に驚いた。現実的な思考と推察でここまでやってきた彼が、突然何を言い出すのだろう。
「最近の医療に『動物介在活動』というものがあると新聞で読んだんです。犬や馬などの情緒反応がある動物との交流によって、ストレスが軽減するという研究結果が出ているそうで」
像に情緒はなくないか。大体、調査兵団の兵士には一人一頭馬が与えられている。部屋に同僚の生首像を据えてまで軽減させたいストレスも今のところない。
ハンジがそう返そうとしたところで、ジャンが呆れた様子で肩をすくめる。
「んだよアルミン、お前だって兵長の像を犬猫と一緒にしてんじゃないか」
「『人の言葉を話さない』という点では一緒さ。そう言うならジャンがもっと良い案を出してくれよ」
「元々話し相手の案は俺が出したんだろ!」
二人のやりとりを眺めながら、ハンジの口角が自然と上向いていく。
三ヶ月前の作戦以降、兵団はもちろん、壁中人類のすべてが前を見て進むことに心血を注いできた。だからこそ街の住人たちも、生きたリヴァイを像として戴いたのだろう。
それを間違いだとは思わない。ハンジは未だマリアの地で眠る仲間たちの骸に対して、骸であること以上のものを求めてはいない。誰かの死を受け取って、どんな形であろうと心に留めるのはいつも生きている人間だ。
ハンジは団長の職務をこなすこと。リヴァイは獣の巨人を斃すこと。それがエルヴィンの『最後の命令』だからこそ、そして失った多くの同志を悼めばこそ二人は先を見据え続けている。
けれど、多くの経験からただ前に進むことを学んできたリヴァイやハンジと違って、アルミンやジャンを含めた一〇四期の傷は大きかっただろう。
それでも彼らは、今、ここにいる。
胸を突く熱が漏れ出でぬよう笑みを抑えながら、ハンジはことさら大きな声で言い合いを遮った。
「待った待った二人とも。そもそも話し相手も何もないだろう? 部屋で一人で話すことなんてないんだから」
「えっ」
「えっ」
「え?」
二人が驚いた様子でハンジを見る。そのまま沈黙が落ちた。予想と違う反応にハンジのほうも驚いていると、アルミンが何事か察したように遠い目をした。
「あー、あー。あの、そろそろ食堂に行きませんか」
「え……ああ、そういえば君たちも午後は訓練だったね。遅れたらリヴァイにどやされるな」
なぜか落胆している様子のジャンを「ほら、行こう」とアルミンが引っ張り、二人が立ち上がる。
「あれ、ハンジさんは行かないんですか?」
「うん。さっきの書類、中央への提出用にまとめなきゃいけないから。食堂は人も多いだろうし後で行くよ」
「そう、ですか」
食事を抜くのだけはなしですよ、とどこかで聞いたような忠告を残し、二人が扉のほうへ向かう。と、アルミンが振り返り足を揃えて言った。
「あの、僕はやっぱり兵長にも相談すべきだと思います。差し出がましい意見だとわかってはいるのですが」
「……そうかな」
「もちろん多少は気分を害されるでしょうが、それよりも自分の知らないところでハンジさんが悩まれているほうが、その、」
現実的な思考と推察でここまでやってきたアルミンが、それに反する優しさを備えていることもハンジは知っている。この意見はきっと後者だ。
「ありがとう。悩んでるってほどじゃないし、君たちの意見も参考にして自分で考えてみるよ」
そう手を振ってみせると、アルミンは曖昧に微笑んでジャンと去っていった。