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もしや約束があったのだろうか。
先ほどから杯を持ち上げては何度も飲む振りをして横目で時計を気にするリヴァイに、ミケはなんとなくそう察した。
古参兵たちの夜は、基本的に長くて暇である。
短時間で良質の睡眠を摂れるように訓練された兵士の性質もあるが、そうでなくとも歳をとると長く眠ることが難しくなる。外に出て酒や女を買うだけの身軽さはとうに失くしている。
多くが暇を持て余す中で、例外は恋人がいるか時間外の仕事が大好きな者たちだったが、リヴァイに関してはどちらもないだろうと少々強引に誘ってしまった。
しかしもし業務に関しての用事があったなら、ミケが「古参の男どもで飲まないか」と誘った時にそう返していたはずだ。そこまで考えたところで、付き合いの長いリヴァイへの気遣いをいささか他人行儀に思ったミケは結局素直に聞いてみることにした。
「リヴァイ。誰か待たせてるのか?」
「……ない」
待たせてるんだな。
答えまでの沈黙の長さがいかにも面倒な匂いを醸し出している。それを敏感に嗅ぎ取ったミケは、これ以上は突っ込むまいと簡単に相槌をうった。が、酒気で満たされた周囲をじろりと見回したリヴァイがミケに向き直る。
「ミケ。相談があるんだが」
相談。リヴァイが「相談がある」だと。
男のあいだで私的な相談が発生することは稀だ。あるとすれば金か痴情のもつれだが、そのどちらのトラブルからも縁遠い印象のリヴァイが、しかも弱みを見せることを本能的に忌避しているのか、大抵は聞き役になることの多いリヴァイが、相談。
「……俺で役に立つなら、聞くが」
暗に「役に立たないだろうからいやだ」と伝えるも、暗すぎて目に入らなかったらしい。リヴァイは珍しく前のめりになりながら、おそらくは真剣な表情で言った。
「俺の部下のことだ」
思わず顔をしかめる。
「部下」
「そうだ。部下だ。その部下が……同僚の女に、ちょっと突っ込んだ頼みをしちまったんだが」
「突っ込んだ、というと」
「ああ、まあ……服を脱ぐ感じのをだな」
よりによって上司の中からリヴァイを選んでそんな相談をかました、蛮勇と呼んでもいい『部下』を拝みたいとミケは思ったが、おそらく目の前に座る男によく似た顔をしているのだろう。
「その女は同僚で間違いないんだな? 関係を強要できるような上下関係はないんだな」
「ああ、ない」
なんとなく、なんとなくだが、その女はボサボサの髪を一括りにして眼鏡をかけていそうな気がしたミケだったが、おそらくそう聞いたところでリヴァイは「そうだ」とは言わないだろう。
「服を脱ぐ、というのは……寝たのか」
「寝てねえよ。寝るとかそういうんじゃねえ。そもそも、その同僚の女が怪我した時に、こう、肌が……胸が見えて……いや、見たのは部下なんだが、」
「待った」
ミケはリヴァイを手で制し、杯に入っていた酒を一気に呷った。露で濡れた髭を指で拭ってから、ようやく視線を戻す。
「リヴァイ。俺は登場人物が二人を越すと匂い以外での識別が困難になるんだ」
「あ? そんなの初耳だが……?」
「初めて言ったからな。というわけで、その部下を仮にリヴァイとしよう」
「⁉」
「同僚の女は、そうだな……ハンジはどうだ」
「⁉……なぜだ」
「お前の同僚の女でお前が突っ込んだ頼みをできるのはハンジくらいだろう」
「そ、うか。ーーそうだな」
そうだな、でいいのか。「お前それ自分のことだとバレバレだぞ」と突きつけるつもりでした無茶苦茶な提案をこうもあっさりと許されるとは思っていなかったため、ミケは少々焦った。
どうにも臭い始まり方をしただが、そんなにも切羽詰まった案件なのだろうか。
自分の手には余る問題かもしれないと考え、いざというときの道連れを求めて周りに視線を彷徨わせる。が、どいつもこいつも酔っ払いの体で使い物になりそうもない。
唯一、場に馴染みつつも決して酔うことのないエルヴィンを見つけたが、こういう男と女のシモが絡む問題に彼を巻き込むのはタブーである。もっとも合理的な判断が下せるであろうエルヴィン・スミスは、相談者に棄て置くようにと諭した感情の分、あとでなぜか自分が隠れて傷つくようなまわりくどい繊細さを持っていた。
要するに、ただでさえ兵団のことで忙しい彼をくだらないことに巻き込みたくない、ということである。これは幹部兵たち共通の認識でもあった。
やはりミケ一人で対処するしかないということだ。
「それで、お前と、ハンジが?」
「…………俺が、以前、ハンジの……胸を見た。それがきっかけで、その……それを『弄らせてくれ』と頼んだんだが」
思わず想像しそうになり、部下のままで話を進めなかった己の判断にミケは心中で思いきり唾を吐きかけた。
「なんでそんな頼みを……」
「……そうしたいと思った、としか言えねえ」
「ハンジ……は受け入れたんだな?」
「そうだ」
「そうだろうな」ミケは無言で頷く。ハンジでなければ大惨事になっていただろう。
そんな頼みを聞き入れたハンジのぶっ飛び加減も気にはなったが、彼女のことだ、信頼している(どうかすればし過ぎている)リヴァイからの頼みなら彼女は快諾しただろう。
「あー……それで?」
「誓っていうが、俺……は、胸だけでよかった。アレさえ触ったりできればそれでよかったんだ。やましい気持ちなんて一つも持っちゃいなかった」
お前、そりゃ無理があるだろう。言い方が既に過去形だし。真顔でそんなことを言うリヴァイにも、それを信じたハンジにもミケは呆れた。
「アイツは……最初こそ恥ずかしがってた、はずなんだが……そのうち、色々反応するようになって」
「…………」
「俺だってナマクラじゃねえんだ。あんまりにもそういうことされると、こう……仕方ねぇだろうが」
「…………」
「このあいだはとうとう……いや既で止めたんだが、それだってどうにかというところだった。ハンジの奴だって妙に赤い顔しやがって……でも止めるようなことを」
「…………」
「俺はどうすりゃいい……」
「えっ?」
知己二人の気まずいにもほどがある惚気を聞かされていると思っていたミケは、どうやら途中、リヴァイの相談内容を聞き逃すほど意識を飛ばしていたらしい。死んだ目をしている場合じゃなかった。
「すまん、何が問題なんだ?」
「あ? 耳が悪いのか?」
「鼻が良いぶんな。で、何が問題なんだ?」
男と女のことだ。どうにかなる時はどう動いたってどうにかなるもんだ、というのがミケの信条である。
胸をいじる、という頼みがきっかけというのはあまりにもアレだったが、リヴァイとどうにかなるならハンジが一番可能性が高いとミケは思っていたし、それは主語を入れ替えても同じだった。
リヴァイがぽつぽつと心中を吐露していく。
「……正直、俺はもっと他のこともしてえ、と、思ってる」
「最初の言い分と違うことになるな」
「まったくだ……けど、我慢にも限界がある」
「ハンジに言え」
「この頃は一人でいる時も姿が浮かん……なんだと?」
「だから、ハンジに言え。ハンジがいいと答えればすればいいし、嫌だと答えればそれまでだ」
それが言えれば苦労はしない、という話なのだろうか。しかしミケとしてもそう返すしかない。
「いや、だがアイツは」
「このままなあなあで関係を続けても辛くなるんじゃないか? 惚れてるんだろう」
「……惚れてる?」
あくまで確認のつもりで聞いたのだが、リヴァイは絶句してしまった。
(おいおい、よりによってそこか)
ミケは天を仰ぎたい気持ちになった。自分がハンジに惚れているかどうか確信すら持てていないと、リヴァイはそう言うのだろうか。
てっきり気持ちを伝えないままことに及んでしまった、という話だと思っていたのだが、やはり相当面倒で相当切羽詰まった問題だった。おまけにくだらなくて、当人たちばかりがわかっていない。
朝まで続きそうなため息をつき、ミケは少し考えて話題を変えた。
「そういえばリヴァイ。このあいだうちの隊の男が、お前……じゃなくてその部下と似たようなことをやったんだが。知ってるか?」
「なんだ」
「べろべろに酔っ払って、よりにもよって一班の女性兵に『そのでっけえおっぱい揉ませてくれ』と絡んだ」
「……どうなった」
「『私はもっと小さいのが好きだなあ』とかなんとか言われて、強烈な蹴りをくらった」
どこに、とは言わなかったが、リヴァイは察したらしい。もともとよくはない肌色をさらに青くした。話しているミケ自身も縮む話である。どこがとは言わないが。
「てめえの班の女どもは……相変らずスゲエな」
「凄いのは否定しないがな、リヴァイ。これが普通なんだぞ」
リヴァイが顔を上げる。
「これが普通なんだ。蹴られた奴も自分が悪かったと相当落ち込んでいた」
余談だが、その馬鹿な男が女性兵に惚れていたことは当の女性兵以外周りの皆が知っていることだった。
リヴァイがハンジの胸に執着した理由などミケにはさっぱりわからないが、それがどんなものであったとしても、口に出した途端手酷い制裁を食らう覚悟が必要なほどの願いではあるだろう。むしろ制裁を食らうのが普通だ。
ハンジは、まったくもって普通ではなかったということだ。リヴァイが相手のとき限定で。リヴァイはそれをわかっているのだろうか。
「お前、ハンジを軽んじてそんな頼みをしたのか」
「断じて、違う」
「そうか」
よかった、とリヴァイを軽蔑せずに済んだことに安堵する。
「アイツはキレててどうしようもなくおかしな奴だが、軽く扱っていい人間じゃない。んなことは髪の毛の先まで承知してる」
(そこまで言うなら、なぁ)
もう部下のことであるという前提も放り投げ強く言いきったリヴァイを見て、「わかりそうなもんだがな」とミケは首を傾げる。
言いたいことをそのまま伝えたところで真には伝わらないだろうことはわかっているので、それ以上言葉は紡げない。リヴァイの理解力を貶しているわけではなく、本当に伝えたいことほど直接言葉にすると説教になってしまうのだ。人は自分が例外の可能性ばかりを考えて、他人の説教なんて聞かないものだ。
リヴァイは「クソ」と悪態をつくと、飲んだって酔えもしないくせに自分の杯を干す。
そして小さく呟いた。
「アイツは……俺を友人だと……」
それきり、自分の中に沈んで何かをじっと考え込んでしまった。心中のせめぎ合いが珍しくその顔に浮かんでいたが、そのどちらが、リヴァイとハンジにとっての何なのか、ミケには全くわからない。
女の胸まで弄っておいて、しかもどうやら互いに楽しんでおいて、変なところでわかっていない奴らだなと思う。ハンジのこともそうだが、リヴァイにしたって女や仲間相手に軽々しく責任が発生するようなことができる性格じゃないだろうに。
リヴァイとハンジのことはあくまでフラットで気安い関係だと思っていたのだが、壊れるかもしれない可能性を目の前にして石のように黙り込んでしまった現状を見ると、どうやら揃って重たい気質だったらしい。
さてどうするか、と鼻を鳴らしたミケに、ふっと影がかかる。
「兵長、ミケ分隊長。どうかされたんですか?」
減らない酒を前に二人で押し黙っていたのが気になったらしい。別の席にいたモブリットが声をかけてきた。
(厄介な奴を忘れていた)
円卓に加わりながら「失礼します。おや、杯が空ですね」と酒を注いでくる彼は、現在ハンジ率いる第四分隊第一班に属し、分隊の副隊長に就いている男である。非常に優秀な兵士で、ハンジが隊長を勤める上で彼女に一番貢献している人物といえた。
「あの、ハンジ分隊長の名前が聞こえたのですが」
来た。前置きも何もない。さすがに速い。
ハンジの元に就く前は、冷静な判断と意外にも速攻で討伐数を上げていた彼である。柔和な顔で即討ちに来る技は、――酒に酔った時は専ら人間相手に発揮されるのだ。
「分隊長が何かされたんですか?」
「……また妙なボケかましてたってだけだ。お前が心配することはねえよ」
「そうだ。相変わらずだ」
ボケかますのは兵長の方では、とモブリットの顔は言いたそうだったが、よく見れば瞼が三重になっている。酔っている証拠だ。漂ってくる酒の匂いも相当強く、ミケは顔を顰めた。
モブリットは素面の時こそ付かず離れずの距離でハンジの才を的確な方向に導く敏腕だが、酒癖が悪かった。
暴れるとか泣くとかではない。ハンジ絡みの話題となるとミケ以上の嗅覚で嗅ぎつけて、ひたすらその会話に混ざろうとするのだ。そしていつのまにか周りを巻き込んでハンジへの愚痴と心配と称賛を熱弁していた。
ミケは以前モブリットに「ハンジのことが女として好きなのか?」と問うたことがあったが、返答は「失礼ですが、ミケ分隊長はお母様を一人の女性として見られたことは? ないですよね? お母様はお母様として敬愛されていますよね? それと一緒です」という淡々としたものだった。
そういうわけで、酔いの行き過ぎが、まったき上司を思う、思って思って慮りすぎる心からの行動であることは皆が知っていたために、過去に女性兵の集まりにモブリットが割って入っていった際も最後はハンジが周囲から詰られていたくらいである。
この席がモブリットオンステージになるのは一向に構わない。むしろいつもはミケとリヴァイが宥め役を買って出ているくらいである。けれど今夜は、リヴァイとハンジの問題に触れられる危険があった。尊敬する上司同士の変態行為など知ったら、彼は首を吊りかねない。
「はは、相変わらずですか。そうですね……と、言いたいところなんですが」
モブリットはてらてらと光る眼球をうろうろと動かした後、膝の上に置いた自分の手を見ながら、非常に言いにくそうに口を開いた。
「あの、最近ハンジ分隊長……お綺麗になったと思いませんか……?」
「……!」
小さく息を飲む音を耳にした瞬間、ミケはリヴァイから目を逸らしていた。圧倒的な強さを持つ戦友の顔がちっぽけな男になってしまう瞬間など、それがどんな表情であれ、できれば見たくはない。
「その、こんなこと言うのもどうかと思うのですが、俺から見ても『何かあったのかな』と思うくらいになられていて……こう、首筋の線とか」
卓に置かれたリヴァイの手の甲が、ぎゅ、と固まった。並んだ関節が白く浮きたち、焦りの色を見せる。モブリットが自分の首から胸までを辿って見せた線は、リヴァイの方がきっとよく知っているだろうものだ。
「なんというか、女性らしく滑らかになったなあと思うんです。食べる量は増減していないのでそこは心配なんですが……。目元なんかも時々、角度によっては俺でもはっとするような色気が……」
実を言うと、ミケも「綺麗になった」というモブリットの言い分に心当たりがないでもない。リヴァイの手前敢えて言うことなかったが、ハンジのまとう匂いは以前とはだいぶ違っていた。食べ頃の果実のように甘さと酸味を備えたそれは、成熟した女の匂いだった。
リヴァイとのことを知った今となってはひたすら複雑である。
「なので、四分隊の若い連中が妙に浮き足立ってしまって……こんなことは初めてなので、俺もどうしたらいいのか」
「浮き足立つ?」
硬質な声が割って入り、ミケとモブリットは揃ってリヴァイへと目を向けた。彼は自分で声を出したことにすら気付いていないようで、食い入るような目でモブリットの次の言葉を待っている。
「え、ええ。やはり女性が上に着くということで舐めくさりやがった態度をとる奴もいれば、熱心に思慕を抱く者もいるんです。崇拝に近いような……最近の分隊長の様子が様子なので、今回は特に顕著ですね」
「それは……大丈夫なのか?」
「まあ、一度壁外に出てあの人を見れば、前者も後者も大体は落ち着くんですがね」
その答えに安心したのはミケのみで、リヴァイはまだ目をぎらつかせている。
「モブリット……〝大体は〟ということは、例外もいるんだな」
うわあ。ミケは肩をすくませた。声音、目、気配。すべてが鋭くなったリヴァイが静かに乱心しているのは一目で見て取れるほどだった。しかしモブリットの視界にはアルコールの膜が張っているらしく、彼は気づかないばかりか「さすが兵長!」と大きく頷く。
「それがですね、熱心なのがいるんですよ! このあいだの野外訓練の時なんて、花を摘んできて分隊長に渡してたんですよ! 俺もうビックリしてしまいました」
「花⁉」
「……ハンジは……アイツはなんて……」
「花を模写するよう課題を出していましたね」
むしろハンジの反応に度肝を抜かれたミケだったが、モブリットがいきなりぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜ卓上に突っ伏したためそちらの方の驚きが上回った。
「最初は恋人でもできたのかと思ったんですが、尋ねても『そんなわけないじゃん』と返されたので……」
ブレードを構えてその場で回転していたモブリットが、突然こちらに飛び込んできた気分である。ミケの背中に冷や汗が浮く。リヴァイは沈黙している。
「壁外では当然ながらしっかりとされてますが、内勤の時はぼうっとしていることも多くて……妙に辛そうな顔をされる時もあって心配なんです。──変な男に懸想して、都合の良い様に扱われてるんじゃないか、とか」
ガタ、と大きな音をたててリヴァイが立ち上がった。その顔はすっかり血の気が失せている。どうかしたのかと眼で問うモブリットに応える余裕もなさそうだった。
「兵長……?」
「あー……いいんだ、こいつはあれだ。待たせてる奴がいるんだ」
「え?」
「モブリット。男と女の色事ってのはな、アレだ。衝突事故みたいなもんだ。気付いた時にはぶつかっている。あれこれ心配したところでなるようにしかならないぞ」
「はあ……?」
「悪い。片付けは任せる」
リヴァイが背を向けた。ミケはよろよろと歩き出す彼に向かって叫ぶ。
「〝部下〟によろしくな」
目の前に散在する机や椅子や気絶者をすり抜けながら、リヴァイは片手を上げた。覚束ない足どりでも、歩みは確実に宴会の外へと彼を運んでいる。
そうだ、そのまま行っちまえ。ハンジの元へ。話はそれからだ。
結局、巻き込まれて振り回されただけの事実に大きく息を吐き、ミケは椅子に思いきり背を預けた。同僚の床事情などを暴露された傷は、残りの酒で癒えるだろうか。
「本っっ当に面倒な奴らだな……」
「ええ。まったくです」
隣に座るモブリットが意外にはっきりした声で賛成する。なんとなく呆気にとられてまじまじとその顔を見つめたミケは、速攻を得意とするこの兵士が、ハンジの変化に一番関係がありそうなリヴァイに直接的な問いをしなかったことに、ようやく思い至ったのだった。