あなたを生む声
名を呼ばれる話
あなたを生む声
名を呼ばれる話
「おはようリヴァイ! いい朝だね」
「あ、」
「明日の夜って空いてる?」
おはようからおやすみまで、二人のあいだで幾度となく交わされてきた挨拶はこうして(主にハンジ側から)一方的に断ち切られることが多々ある。多々あることなので、リヴァイもないがしろにされた自分の返事より先に、乱雑に置かれたトレイのせいで机に散らばったスープの飛沫に注意を向けた。
「おい、こぼれたぞ。汚ねえだろうが」
「あ、ミケもおはよう」
「ああ、おはよう」
リヴァイの正面に座るミケも慣れきった様子で挨拶する。ついでに、特にからかう様子もなくハンジに問いかけた。
「どうしたハンジ、朝からデートのお誘いか?」
台拭きでゴシゴシと机を擦っていた手が、一瞬だけ固まる。すぐ後には何事もなく動かしながら、リヴァイはそうとは気付かれないように神経を尖らせた。周囲の泡立つような騒がしさを意識して削ぎ落とす。
「んー……リヴァイ次第かなぁ」
(簡単に言いやがって)
役目を終えた台拭きを脇に置いて、リヴァイはハンジに顔を向けた。
アーモンドを横にした形の双眸が、冬の弱い朝日を受けてきらきらと輝いている。
開いている時のだいたいにおいて、ハンジ・ゾエの二つの眼球は光を纏っていた。興奮、または疲労・乾燥による涙の分泌で。腫れぼったく下りた瞼や白目に射す赤を見れば、今朝は後者だと判断できた。
「お前……また徹夜しやがったな」
「残念でした。一時間寝たよ」
「会議で居眠りこいたら一時間と言わず沈めてやる」
「おお怖い。やらなきゃいけないことたくさんあるし、胆に銘じておこう」
そう嘯きながらハンジは乱雑に取り上げたスプーンを深皿に突っ込んだ。再びスープが跳ねる。疲れのせいか所作一つ一つが雑になっているようだ。リヴァイは新たにできた机のシミに舌打ちした。
「──それで?」
固いパンをむしるように千切った手の人差し指が、ピン、と伸びてリヴァイを指す。逃げられそうになかった。
「……予定がある」
「そっか」
リヴァイが絞り出した返答に、ハンジはあっさりと頷いた。すぐに興味をなくしたように腹を満たす作業に集中し始める。無言のリヴァイの前で、ミケが首を傾げた。
「明日、二十五日か。何かあるのか?」
「リヴァイの誕生日だよ!」
「おい」
パンを飲み込んだハンジの口が素早く答えた。リヴァイが鋭く視線を投げるも、スープを飲む動作でうやむやにされる。
「誕生日? そうだったか?」
「……紙の上ではな。実際は俺も知らん」
ミケは髭の下で「ああ」と納得の声を漏らした。リヴァイの出自を知っているからだ。
「で、"誕生日"の夜に予定があるのか」
無駄に長くて立派な足を蹴り飛ばしてやろうかという衝動を、リヴァイはすんでのところで抑えた。ハンジがリヴァイを飲みに誘うのも、逆も、業務や他との付き合いがあってそれを断るのも断られるのも、二人にとっては珍しくもないことだ。それが"誕生日"だというだけでこうもおかしなことになる。自分も含めてだ。
こういう時に助けを出してくるハンジが、何も言わずに飯をかき込んでいるのがまた腹立たしい。
「……なんだ、何か仕事があったか?」
「いや、ないな」
南部でも年によっては降雪が見られる冬のあいだ、調査兵団は年末年始をまたいでの調整期に入る。十二月頭の壁外調査を年内最後としそれ以降は控えるので、必然的に遠征に関した仕事は減る。十二月末に数日間の休暇を取る者も多い。それでも幹部は忙しいが、リヴァイの手元には焦げ付いた仕事はなかった。
ミケは遠い目で話を続ける。
「そうか、誕生日か。お前ここに来て……何年目だったか」
「覚えてねえよ」
「水臭いな。言えば飯でも奢っていたぞ」
「いい、構うな。さっきも言ったが、実際のところはわかりゃしねえ」
だからもう、そんなに触れてくれるな──リヴァイの声を聞き取ったのか、ミケは鼻を鳴らしてようやく朝食に戻った。その表情が嗅ぎつけて欲しくないものまで把握しているように見えるのはさすがに邪推か。リヴァイは己を諌める。
十二月二十五日。
調査兵団が持つリヴァイの情報には、この日が彼の生まれた日だとある。
戸籍も何もない無法地帯の地下街で生まれ育ったリヴァイは、自分が生を受けた正確な年や日付を知らない。
リヴァイにこの日を示したのは母だ。
物心ついた頃のリヴァイにとって、十二月二十五日は"母と一日中一緒にいられる日"だった。
その日を迎えると、彼女はいつも「こんな風に寒い日にお前は生まれたのよ」とリヴァイに言い聞かせた。いつもより少しだけ美味しいものを食べさせてくれて、たくさん話をして、リヴァイが生まれてきたこと、その日まで生き延びたことを、母の存在の全てで喜んでくれた。
母と死に別れてから、リヴァイが思い出す彼女の姿は時が経つごとに朧げになった。姿も声も言葉も、分厚い氷の下にあるように曖昧で掴めなくなって、リヴァイ自身の想像が所々に空いた穴を補っていく。それでも、閉じた瞼の裏でその日は何度も繰り返された。
十二月二十五日が『自分のための特別な日』である、という認識は薄い。特別な過ごし方をした日、リヴァイ以外はもはや誰も知ることのない時間を、ただ思い返すだけの日。
これまでの年も、そうやって静かに通り過ぎてきた。
──近頃、とある感情を持て余している。
自分の懐から出した金で、自分で選んだ茶葉を買った時。その茶葉で上手く紅茶を淹れられた時。
安全な家畜小屋に引きこもった奴らから、クソのような鳴き声で同志たちを罵られた時。誇るべき同志たちの命や体を失くして、自分だけは確かな足取りで帰ってきた時。
死んだ母との特別な日を、独りで思い出す時。
声を聞きたい。
名前を呼んでほしい。
リヴァイの平静な感情が何かの拍子に浮き沈みした時、否応なしにそんな欲望が起こる。
ほんの一瞬だけリヴァイを占拠し、無視できない爪痕を残していく。
(……明日も俺は、そう思うのか)
無意識に目をやっていたのか、食事を平らげ席を立とうとしていたハンジがリヴァイの視線に気づいた。
「なに?」
誕生日の夜に誘ったということは、祝うことが目的だろう。が、そこに含まれる感情まではわからない。
胡乱げに問うてくるその顔に、先ほどの質問を深読みできるだけの"何か"は見つけられなかった。
「……食うの早くねえか」
「え、そんなことないと思うけど」
鐘の音が食堂の朝に響く。
ハンジに急かされ、男二人も椅子から立ち上がった。
冷たい空気をさいて会議室へと歩くうち、誕生日のことはリヴァイの頭の隅に転がっていった。
「リヴァイ。こっちへおいで」
懐かしくて、けれど初めて聞くような声がリヴァイを呼んだ。所々が湿気て黒くなった扉から振り向くと、いつもより低い視界の真ん中に母が立っていた。声よりも確信を持って「母だ」とリヴァイにはわかった。細い身体の肌は白く、慈しみの表情を長い黒髪が際立たせている。母は質素ながらも清潔な身なりで、両の脚でしっかりと床を踏みしめていた。
(夢か)
物心がついた頃にはもう、疲れて座っている姿をよく見ていた気がする。
事実よりも"微かに"優しい世界は、リヴァイの願いを反映しているのだろう。"微かに"であるところに想像の限界があった。
「リヴァイ?」
導かれるまま扉からゆっくりと離れ、室外の騒がしさを背に母に近づく。母は腕を広げてリヴァイを迎え入れた。温かい、はずだった。たぶん。
「今日で*歳ね」「おめでとう」「こんな風に寒い日にお前は生まれたのよ」「小さいのにとても温かくて」「大きくなったわ、本当に」「とても嬉しい」「昔はこのくらい……」「……大丈夫、これからもっと大きくなるから」「歯を見せて。綺麗ね。大事にするのよ」「お腹空いていない?」
十二月二十五日。
リヴァイの七度目の誕生日。の、夢。
一年のうちに降り積もった寂しさを払うかのように、誕生日の母はいつもリヴァイをかまい倒す。
「リヴァイ、何か食べる?」
「ねえ、かあさん」
「なに?」
何がキッカケだったのかは覚えていないが、その日、リヴァイの中にはある疑問が渦巻いていた。だから答えを欲しがるまま母に尋ねた。
「かあさんの名前、どうして二つあるの?」
幼いリヴァイの問いかけに、母はなんと答えたのだったか。母が持つ名前の一つは、娼婦として客の前に立つ時のモノだ。リヴァイがそれを知ったのはこの時よりもっと後だった。
「みんな二つもってるの?」
「……みんな、ではないかしら。でも三つも四つも持っている人だっている」
「……?」
当時のリヴァイは理解できないものに対して「いつかわかる日が来る」ことを信じていた。母にそう言われていたからだ。
それにどんな名前でもリヴァイにとって"母"は"母"だった。そしてリヴァイの全部だった。それ以外の何ものでもない。名前だってきっと、十本の指のように簡単に使い分けできるものなのだ。
「おれには二つある?」
「リヴァイにはないわね」
やけにはっきりと否定されたことを覚えている。幼いリヴァイには大きな驚きだった。
「なんで?」
「う〜ん……今はまだいらないから、かしら」
「いついるの?」
「求められたら」
「だれに?」
「それはわからないわね。人に、かもしれないし……状況に、かもしれないら……」
「?」
母はふと固い表情を覗かせた。
当時のリヴァイはこれにも違和を感じたので、今でもよく思い出せる。リヴァイの不安を感じ取ってか、母は「いつかわかる日が来るわ」と微笑みながら囁いた。
「……おれの名前は、母さんがつけたの?」
「そうよ。頑張って考えたんだから」
それはつまり、先ほどの言葉に倣うならば。
「求められた、から?」
──続く記憶がまったくの笑顔だったことに、リヴァイは心の底から安堵した。母は笑い声をあげながらリヴァイを揺すった。
「そう、賢い! リヴァイ、リヴァイ。お前は私の可愛い子! 」
「母さん……くるしい」
この記憶はたぶん、現実に沿ったものだ。しっかりと覚えている部分。自分は母に望まれて、リヴァイという名を与えられた。
体を包む腕に優しく力がこもる。リヴァイは促されるまま目を閉じた。温度も、音も、感触も、確かにそこにあったのだ。
リヴァイが『母さん』と呼びかけるたった一人の。
リヴァイを『私の子だ』と抱きしめる唯一の人の。
再び瞼を持ち上げた時、薄暗い過去の部屋は、朝日を待って白んでいく兵舎の自室へと変わっていた。
「……ああ」
十二月二十五日。
夢の中でリヴァイが過ごした、母との最後の誕生日。
あの部屋よりもずっと生きやすい場所に暮らし、ドブみたいな世界で生き続けるに足る願いを仲間と共有しながら、リヴァイは同じ日を迎えた。なんの不足もない。
なんの不足もなく、
(……やっぱり思うんじゃねえか)
ハンジに会いたかった。
**
「おう、リヴァイ。ちょっと時間くれよ」
執務室に向かっていたリヴァイを明るい声が呼び止めた。
廊下の先に立つ二人の、手を振っているほうの頭を見て、リヴァイは「ゲルガーか」と肩の力を抜く。特徴的な髪型(本人は「リーゼントだよ!」と主張する)は遠目からでも見分けやすい。
近づいていくと、ゲルガーの隣にいるのはナナバだとわかった。日の下などに立つと彼女の色素の薄い容姿はよく捉えられなくなる。彼女がハンジと共にいると、余計にあの騒がしい存在が際立つのだ。
一分隊のミケ直轄である二人が、リヴァイに書類を示した。
「なんだ?」
「昨日ハンジが会議で提案した新しい班編成案。通ったらしいよ」
「お前の班は全部見直しらしいぜ。これ、ウチの隊からの候補者な。目ぇ通しといてくれよ」
渡された書類にミケの署名を確認し、二、三人の兵士の名前を拾って記憶の中で顔を探す。
「随分早いな。助かるが」
「昨日あんだけ熱入れられちゃったからね。タラタラやってたらハンジに怒られそう」
「違いねえ」
ゲルガーとナナバがあげたのは嫌味のない笑いだった。意見の違いでハンジと衝突する場を見たこともあるが、彼らはあの生き急ぎの根底に流れるものをちゃんと知っていた。リヴァイの口からも、ふ、と声が漏れる。
「あ!」
突然、ゲルガーが和やかな空気を切り裂いた。
「お前、今日誕生日なんだって?」
「……ミケか」
昨日の朝食の時から、どうやらミケは世間話としてリヴァイの誕生日のことを言いふらしているようだった。今日ここまでで、部下や同僚にたびたび同じ問いかけをされている。ミケ本人からも、朝一番に銘酒を渡されていた。
「なんで黙ってたんだよ。言ったら宴会でも開いてやってたのに」
「いらねえ」
「リヴァイの誕生日を名目に、独り身の野郎どもが酒を飲んで慰め合う会!」
「ますますいらねえ。ふざけるな」
「より寂しくなるだけでしょ、ソレ……。というか、リヴァイは独り身じゃないんじゃない?」
薄青い目が面白そうに細められるのを見て、リヴァイはいよいようんざりとした。ミケは食卓で交わされる会話の逐一までを世間話と認識しているのだろうか? やはり脚を蹴っておくべきだった。
「随分下世話がすぎる親切じゃねえか……ありがてえことだなオイ」
「おいおい、んな腐んなよ。いい歳の男に相手がいたって何もおかしくねえだろ」
リヴァイが言いたいことはそこじゃないのだが。
「ま、今年は許してやるけど、来年の今頃はわかんねえしなぁ? そんときゃ朝まで騒ごうぜ。独り身連中で」
「絶対にごめんだ」
「ゲルガー、あんたと一緒にしちゃリヴァイに悪いよ」
「んだと?」
始まった応酬に、エルヴィンへの用を理由にさっさと会話を切り上げるかとリヴァイが算段し始めた時、ゲルガーが思いついたように尋ねてきた。
「そういやお前、何歳になったんだ?」
「……繊細」
「あ? 何だって?」
「あーくっだらない。ていうかリヴァイ、用事あったんじゃない? 長々と引き留めて悪かったね」
誕生日おめでとう、という言葉を残し、二人は騒がしく去って行った。なぜだか微妙に寒々しい気持ちでゲルガーとナナバを見送ったリヴァイも、目的地へと足を向ける。
彼らとあんなに遠慮のないやり取りをするようになったのは、いつからだったか。
執務室の扉を叩くまで来ても、リヴァイにははっきりと思い出せなかった。
**
「ああ、リヴァイ。入れ違いになったな」
入室したリヴァイを見てエルヴィンは眉を上げた。室内は程よく温められており、かえって冷えた体を意識する。
そういえば、兵団に来て最初の冬はこの男がストーブを焚いていることに驚愕したのだった。顔色が変わるところなど見たことがなかったし、暑さや寒さなどとは無縁に見えるのだ。ハンジにそう話して「リヴァイも大概だろ」と渋い顔をされたことも思い出した。
「ついさっき部下に使いを出したんだが、次回の壁外調査の班編成……」
「ハンジの案でいくらしいな。一分隊の奴らから聞いた」
「話が早くて助かる。早めに各分隊から選出してくれ。来月の訓練から組んでもらう」
了承の意を伝え、リヴァイの用に移る。人事についての気を遣う内容だった。
リヴァイの簡潔、あるいは足りない言葉を補うかのように、冬の寒風がガタガタと窓を揺らす。
夏ならば太陽も真上にある時間帯だというのに、部屋の外に広がる世界は雪雲に蓋をされて仄暗く味気ない。人間に許された狭い狭い空まで奪われるこの季節がリヴァイはあまり好きではなかった。
灰色が薄く濃く斑らを描く雲よりも、どこを見ても抜けるような青だけの空がいい。
エルヴィンの「検討しておこう」という台詞を目処に、リヴァイの用事も一旦済んだ。他に確認することはあったかと思考を巡らせるリヴァイに楽しそうな声がかかった。
「そういえばリヴァイ、今日は誕生日だったな」
「……もしやこいつが情報源か……」
「なんだ?」
「いや……お前も独り身で集まって酒飲もうってクチか?」
「そんな飲み会があるのか?」
「いい、忘れろ」
今更だが、相手はエルヴィンだ。下世話と紙一重の親切などリヴァイにする人間ではない。エルヴィンが独り身かどうかもリヴァイは知らない。
「ハンジから食事にでも誘われなかったか? かなり業務が重なってたんだが、急いで片付けていたからな」
「……いや」
「そうか?……しまった、サプライズだったかな。聞かなかったことにしてくれ」
エルヴィンは澄まし顔でそう言った。
前言撤回。下世話と紙一重の親切どころではない。目の前の人物は誰の、何を、どこまで把握しているのか、全く底の知れない男だった。
経験からくる勘だが、偶然ハンジの名前を出したかどうかも怪しい。
リヴァイが育った地下では、己の欲望の尾を他人に握られるのが一番危険なことだった。握られた側の人間は子猫のように振り回されるだけだ。噛みつくことも、引っ掻くこともできない。エルヴィンが隠す手元にどれだけの尾があることやら。
調査兵団の一員として心臓を捧げているリヴァイが、エルヴィンが下す団長としての命令に背くことはない。そして背くことがない以上、エルヴィンが持つカードがいつ切られるのか、リヴァイには憶測することもできない。
──例えば、鬱屈した気分のエルヴィンの前にたまたまリヴァイが現れて、焦る姿を見て笑いたい時があるかもしれない。
(……やめだ)
想像するのも不毛な予想だ。ほとんど妄想と言っていい。ハンジの名前を出されたことでリヴァイは確かに少し焦っていた。
とっさに否定してしまったが、ハンジには昨日の朝しっかりと誘われたし、はっきりと断ってしまった。しかも、ありもしない予定を作って。もしや目の下のクマも自分のためだったのかと苦い気持ちになる。
『"誕生日"だからおかしくなっている』のは、実際のところリヴァイだけだ。ハンジは純粋に仲間の生まれた日を祝おうとしてくれたんだろう。その行為に特別なものを見出したがって、けれど折られるだけの期待が怖いリヴァイは、感謝すべき気持ちにすら背を向けてしまった。
(ーー取り戻せるか?)
今から、何食わぬ顔で。仲間の顔で。
ハンジとしてはもう終わった話だろう。弁解するには遅すぎるが、誘ってくれた礼だけでも言いに行こうとリヴァイは決めた。『予定』については適当に誤魔化せるだろう。
「もう行く。お前の部下には手間をかけたと伝えてくれ」
「ああ。それと、リヴァイ」
扉を開けたリヴァイをよく通る声が追いかけてきた。振り向くと、ちょうど雲の切れた間から日が差し込んだところで、柔らかく白い光を背負ってエルヴィンは微笑んでいた。
四方にほとばしるような胡散臭さだ。
「おめでとう。お前が"ここ"にいることを幸いに思う」
「……せいぜい上手く使えよ、団長」
それでも命を預けられるのだから、この男には敵いやしない。
**
「リヴァイ兵長! どうされましたか?」
第四分隊の研究室を訪れたリヴァイに、モブリットがいち早く駆け寄ってきた。私事も含んだ訪問のためなるべく気配を消していたのだが、それでも気づくのだから意外にこの男は恐ろしい。
敬礼を手で制し、リヴァイは用意していた台詞を使う。
「新しい班編成案についてなんだが」
「ああ、第四分隊の候補者名簿でしょうか? でしたら先ほど届けさせました。入れ違いになったようですね」
「そうか……すまない」
終了。
諸々が抜けているハンジの副官が有能で何よりだ。が、リヴァイは退室せざるをえなくなった。
「ーーハンジは?」
室内にハンジの姿は見当たらなかった。昼を過ぎた頃だったので、また遅めの昼食だろうか、と考えるリヴァイにモブリットが困った様子で答える。
「ハンジ分隊長ですが、今日は朝から技術班と部屋に篭っておりまして……」
「それは……数日コースか、いつもの」
「どうでしょう。『みんなの連休のために頑張ってくるからねー!』と意気込んで出て行きましたので、技術班の面々を長い時間拘束することもないかと。代行はディルク分隊長が、主に」
モブリットの後ろでハンジ班の面々が苦笑している。たまに空回りもするが、ハンジの部下への思いはきちんと伝わっているのだろう。
しかしリヴァイの目的は未達成のままだ。業務終了後に私室を訪ねるしかないだろうか。
「わかった、邪魔をしたな。よろしく伝えておいてくれ」
「あ、リヴァイ兵長! 今日、お誕生日なんですよね?」
モブリットの言葉を皮切りに研究室のあちこちから「おめでとうございます!」と祝福の声があがり、リヴァイは思わず目を見開いた。
「ぁあ?」
「ハンジさんから聞きまして」
「『なるべく仕事回さないようにしよ』って笑ってましたよ」
「でも今日も忙しそうですね」
「月末はお休み取られるんですか?」
二、三人の兵士などは近付いてきて、リヴァイの誕生日を糸口に色々と喋り始めた。モブリットも頭を掻きながら参加している。
リヴァイを置いて話が進むところはハンジによく似ていた。リヴァイがそれを止められないところも含めて。
ひとしきり騒いだ後、彼らは突っ立ったままのリヴァイに気付き慌てて姿勢を正した。
「あ、申し訳ありません、好き勝手に……! お前ら、持ち場に戻れ」
「いや、構わん」
不覚にもほうけてしまった。わいわいと祝われるのは初めてだったからだ。ハンジが大げさに言いふらしたことに班員も乗っただけだろうが。
生年月日も一応は個人情報だが、リヴァイ自身が特に重要とも思っていないこともハンジはわかっているのだろう。(そもそもの情報源はおそらくエルヴィンだ)
ミケにバラしたことについては微妙にひっかかるが、こうして気を遣われているのを目の当たりにするとリヴァイは胸がくすぐったかった。
リヴァイの戸惑いを見ていたモブリットが小さく笑った。
「あのですね、兵長が思っている以上に喜ばしいことなんですよ」
「……なにがだ?」
「あなたの誕生日が、です」
はしゃぎすぎた、としぼんでいた兵士たちが皆、その言葉で照れたように笑う。
──血を分けてもいない人間たちが、自分のこと以外で喜びを分かち合う。
地上では普通のことなのだろう。リヴァイには到底馴染まない感覚ではあった。
それでも、なんの裏もなく祝福する言葉を、声を、リヴァイはそろそろ素直に受け取りたかった。
「ああ……ありがとう」
そして案の定、ハンジに会いたくなった。
**
「……リヴァイ? どうしたのさ?」
業務終了後の夜更け、リヴァイはハンジの私室を訪れた。誰何の声もなく開いた扉の向こうで、ハンジが驚きに目を見開いている。
「今夜は予定があるんじゃなかったっけ?」
「あるから来たんだが」
「え?」
(しまった)
いきなり斬り込まれ、組み立てていた順序を自分でぶち壊してしまった。誤魔化すも何もない。
ハンジは戸惑ったように口を開閉させ、けれど何も言わない。リヴァイは策を練るため、とりあえず無言でハンジを見つめた。と、身につけている服が目に入る。シャツタイプの寝間着に白のガウン、どちらも冬の物にしては薄手だった。風呂を使った後のようだし、底冷えのする廊下の気にあてたくはない。
リヴァイはハンジの肩を押して部屋に滑り込んだ。
「ちょっ、せめて入室の許可を取れよ!」
「入ったが、いいな?」
「いや、入る前にだよ……」
「面倒くせえ。やり直してもいいが厚着しろ」
室内には温かさの気配もない。ストーブも冷えたままで、どうせ燃料の管理に無精したのだろう、とリヴァイはハンジを睨みつけた。
「なんで暖房つけてねえんだ。体壊す気かてめえは」
「も、もう寝るつもりだったんだって。どうしていきなり説教くらってるんだよ私は」
ガウンの襟をかき合わせるハンジの姿に、リヴァイも我に返る。
理由も言わず、了承もなしに私室に入り込んで、まるで居座るつもりのように部屋を温めろと命令している。よく考えなくてもまずい言動だった。リヴァイが今するべきは、礼と謝罪をしてさっさと帰ることだ。
ひとつ、深呼吸をする。
「……昨日の朝のことだが」
「あ、うん」
「…………お前、なんでミケに俺の誕生日をバラしやがった?」
「──は?」
口から出てきたのは、脳内で何度も練り直したものとは全く違う言葉だった。焦ってとっさに見つけた引っ掛かりを掴み出した結果がこれだ。どう聞いても問い詰める強さだ。
「お前のおかげで一分隊の奴らに嗅ぎつけられて、俺の誕生日は宴会の言い訳の一つになっちまった。来年から俺はクソみてえな酒盛りを断る理由をいちいち考えなきゃなんねえんだぞ」
「えっ! もしかしてゲルガー主催!? やっぱり捕まっちゃったんだね!?」
大声で笑い出したハンジにリヴァイは血相を変えて詰め寄る。
「やっぱり? つまりわざとってことだな?」
「いや、わざとじゃないんだけど、ミケに言った後に、ああこれマズかったかな〜って思ってさ。ごめんごめん、でももし予定ないんなら男連中の悲しき宴に巻き込まれてやってくれよ。いいだろ、飲むのは嫌いじゃないんだし」
「てめえ……」
ハンジの言うとおり、リヴァイは誰かと酒を飲み交わすこと自体は嫌いではない。理性をなくす飲み方が苦手なだけだ。自分がするわけではなく、する奴の世話を結局リヴァイが最後まで見る羽目になる。
そしてゲルガーはそんな飲み方をする一人だった。むしろ代表者だ。おまけに女が絡むと倍率ドン。
ハンジはわざとではないと言うが、この反省のなさはどうだろう。これじゃあ完全に悪意のある贈り物だ。ヘコませてやらないと気が済まない。
頭の片隅でリヴァイの理性が、言うはずだった礼と謝罪を両手に持って「口喧嘩じゃ勝てねえんだからやめろ」と訴えている。が、その他のリヴァイは戦闘態勢で「なんとかしてコイツを屈服させろ」といきり立っていた。
リヴァイは大きい方の声を聞いた。
「おいハンジ、お前、俺の誕生日のために根詰めてわざわざ時間を空けてくれたらしいじゃねえか。すげなく断っちまって悪かったなぁ? 浮いた時間で早めの就寝か? 万年寝不足のお前にゃちょうどいいか」
「おや、エルヴィンに聞いたのかな。もしかして気にしてる? 大丈夫だよ、私が勝手に祝いたかっただけだから。去年までは知らなかったしね。その気持ちにあなたの意思なんて関係ない。罪悪感なんて微塵も抱かなくていいんだよ?」
「ああそうだな。お前がクソ寒い部屋で一人寝てる時に俺が俺の予定を満喫したって何にもおかしかねえ。俺には関係ねえんだからな」
「そのとおりさ! 誕生日の夜に予定。うん、普通の大人として何もおかしいことはないよ。来年からのことを思えば今日はせいぜい素敵な夜」
淀みなくリヴァイを叩いていた言葉が、ピタリと止まる。
「……を、過ごしてほしいと、思ってたんだけど……」
白熱する口撃が、知らずリヴァイとハンジの距離を近付けていた。触れてもいないのに身体の熱を感じる。リヴァイが感じているということは、ハンジもそうだということだ。
「なんでリヴァイは、ここにいるのかな……」
「──そりゃ……」
ハンジの瞳は、レンズ越しでも眩しいほど光っていた。疲労も乾燥も原因じゃない。リヴァイのせいだ。直接その光を見たくて堪らなくて、リヴァイはいつその邪魔くさい眼鏡を毟り取るかを必死で考えた。
「屈服させろ」という声はまだ聞こえてくる。「ただし優しく」と後ろに続いていたが。理性は沈黙している。
リヴァイはやはり、大きい方の声を聞いた。
二人の体が触れ合う。
ぎこちなく、強く、合わさっては離れる。ハンジは微かに抵抗を見せたが、優しく抑え込んだ。
「おい……俺は独り身の集まりなんざ、絶対に出ねえからな……」
「わ、たしに言っても、しょうがないだろ……」
いいや、ハンジにこそ言わなければならない。
こればっかりはハンジが償うべきだ。
「来年も再来年も、今年も、」
方法は簡単だ。
「お前が予定になれ」
最後に背に回された両手は、間違いなくハンジの答えだった。
『リヴァイを求めている』という、熱と質量を持った答え。
ハンジの手が体を撫でるごとに、リヴァイは存在を確かにした。
「……母さん?」
返ってくるものはない。
その日、リヴァイは己の輪郭を失った。
死ぬ直前の母は、リヴァイに対して頻繁に謝っていた。
何に対しての謝罪なのかは言わなかったが、幼いリヴァイは『二人の時間がそう長く続かないこと』だろうと当たりを付けていた。日に日に肉を落としていく体や濁りを増す咳に歯止めをかける方法など、リヴァイは持っていなくて、──知りもしなくて。
「もし……もし母さんに何かあったら、***さんを頼りにね」
繰り返し繰り返しそう言う母に、リヴァイは「わかってる」と従順に頷いた。けれど、母が動かなくなる日は自分の命の終わりでもあるだろうとぼんやり思っていた。
何度も聞いたはずなのに、母が頼みにしていた人間の名前を今は思い出せない。二人の住処がある地帯で顔を効かせている男だった。母がどうやってその男にリヴァイを頼むツテを作ったのか、考えたくもない。結果的に無駄にしてしまったから、余計に。
人間が群れるのは、そのほうが生き残れる確率が高いと知っているからだ。その重要性を知る人間は信頼や目的で結びついた者同士で固まり、生きにくい世界をほんの少し快適に過ごしている。
口も頭も特別良いとは言えない、発育はどちらかと言えば悪く、力があるわけでもない、おまけに力ある人間に取り入るだけの愛嬌も知らない。リヴァイはそんな子供だった。群れに貢献できるだけの何かを持っていなければ、群れの恩恵を受けて生きることはできない。
当時のリヴァイは当たり前だがそんなことに考えが至らず、のこのこと男の元へ出かけて行った。そして母の名前を出す間もなく殴られて追い返された。痛みで疼く体を引きずって、どうにか死んだ母の元に戻ってきた。
「母さん」
駄目だったよ。話なんて聞いてくれなかった。
歪んだ頬で訴えた言葉にも、何も返ってこない。
わかっている。
母だったものが見える場所にうずくまって、リヴァイはただひたすら自分の鼓動に耳をすませていた。
リヴァイのもののはずなのに、ドク、ドク、と脈打つ音はリヴァイなど知らないとでも言うように規則正しくて揺るぎない。
そのうち、他人顔のそいつは外から聞こえる音に紛れ始めた。
──外に溶け出している。
自分も母と同じように、饐えた空気が満たす世界の中に混ざって、ここに残るのは空っぽの腐っていく容れ物だけになるのだろう。
視界がじわじわと狭くなっていく。死の冷たさと暗さが、漏れ出ていくリヴァイの命の代わりに、容れ物に満ちていく。
小さな容れ物に、リヴァイの中身をとどめることはもう、できない。
リヴァイの輪郭を撫でて、周囲からリヴァイを切り取ってくれていた人は、永遠にいなくなった。
リヴァイはもう、誰かの『可愛い子』ではない。
『リヴァイ』という名前を呼ぶ人間もいない。
誰かにとっての『その人』ではない。
それはつまり、死んでいるのと一緒だった。
「名前は?」
死が蔓延する部屋に、母を"クシェル"と呼ぶ男が現れたのは、それから少ししてだった、ように思う。時間の感覚が曖昧になっていた。けれど声が出ぬほど日は経っていなかった。
男は母だったものに話しかけていた。すでに死んでいる、と伝えると、男は母とこちらを見比べて「お前は生きているほうか」と聞いてきた。
返事はできなかった。
死んでいるのと一緒だったから。
それでも、まだ声が出たことに自分で驚いて、その衝撃は意識を鮮明にさせた。
「名前は?」
男に問われて、死を待って沈黙していた脳が動き始める。
──名前。
名前ならある。
母の付けたものが。
「……リヴァイ」
でも、『母の子』であるリヴァイは、もうどこにもいない。
「……ただのリヴァイ」
リヴァイがそう答えた時の男の表情を、以前どこかで見たことがあった。その表情を見て自分の中に起こった感情に確かに覚えがあった。けれどリヴァイの知る大人の表情なんて、母のものだけだ。
男はどこか母に似ていた。
「俺はケニー……ただのケニーだ」
ケニーについて、接した上で知れたことは多くなかった。
人を躊躇なく傷つけたり、殺す方法を知っている。みだりに使ったりはしない。人より身体能力が高く、リヴァイにもその感覚を強いた。金は持っている。言葉が汚い。歯を大事にしろとうるさい。
母ーークシェルの知り合い。母を『クシェル』と呼ぶ声は特別。ふとした動作が母に似ている。
母は、人の名前は他人や状況が求めた時に付けられるのだとリヴァイに教えた。『オランピア』という名前が『娼婦』として客に求められる時の名前であったように。
人と人の関係が、求めたり求められたりする時に名前を必要とするものならば、リヴァイはケニーにとって『何も求められない存在』だった。
ケニーにとってリヴァイとは何か、あるいは、リヴァイにとってケニーとは何か。共にいるあいだ、そこに言及されたことは一切なかった。
最初こそリヴァイは、「自分を育てて利益になる働きをさせようとしているのか」と漠然と思っていたが、ケニーはリヴァイに何も求めなかった。何かを求めて『リヴァイ』の名を呼ぶことなど、ただの一度もなかったのだ。
「生きたきゃついて来い」
そう言っていつも先を歩いていた。
その背中が消える日まで、ケニーとリヴァイは、『ただの』ケニーとリヴァイだった。
二度と会うことはないだろう今でさえ、二人の間に名前を付けることはできない。
親子でも兄弟でも師弟でも仲間でも、何でもなかった。
何でもないはずのケニーが、リヴァイが生きられるだけの術を教え込んで消えたのはなぜか。後になって、地上ではおかしな二つ名で呼ばれていたことを知り、ますますそれがわからなくなった。
──こればっかりは、いつかわかる日が来るとも思えない。
歳を重ねたリヴァイが地下から飛び出し、想像もしなかった役割を持ってその名を呼ばれ、壁の外を目指すようになっても、あの部屋でケニーに出会ったリヴァイは『ただのリヴァイ』のままだった。
ずっと。
「……リヴァイ?」
呼びかけているくせに届くことを恐れているような、ひっそりとした声だった。けれど発した人間の意図など無視して、その声はリヴァイの胸の底をくすぐるようにさわつかせた。頬に何かが触れる。意識を集中させて指先だとわかった。次に感じたのは寒気だった。背中に鳥肌が立ち、温かさを求めて無意識に腕と足が懐を囲む。
そこに自分ではない肉体を見つけて、リヴァイは跳ね起きた。
「……起きたね」
いつランプが切れたのか視界は真っ暗だったが、眠る前のことを思えばここはハンジの部屋だろう。すぐそばでリヴァイを見るハンジは生肌にシーツをまとい、重ねた毛布をリヴァイと分け合っていた。
「……ふ、」
「リヴァイ…大丈夫? 何かうなされてたけど……」
「服を着ろ、ハンジ」
信じられない。リヴァイもハンジも全裸だった。暖房も付いていない冬の部屋でこれでもかと汗をかいて、そのまま寝ていただと。自殺行為だ。
「服はどこだ……この際床に落ちたのでもいい。はやく、」
「あー……ハイハイ、わかったよ」
ハンジが向けた尻に思わず目を凝らすも、すぐにバサバサと衣服を投げて寄越される。冷えた服に袖を通すあいだも、通してからも、ハンジはずっとリヴァイの顔を見なかった。
「……おい、冷えるだろうが。こっち来い」
「ん」
後ろから抱きしめると、ハンジの身体が僅かに緊張した。リヴァイの中に小さく不安が生まれる。
「ねえ、悪い夢でも見たのかい?」
ハンジが示したのは、拒絶ではなく心配だった。うなされていたらしいリヴァイの様子を窺うように、肩越しに視線を投げてくる。
「ああ……まあ、幸せな夢じゃ、なかったか……」
「うん」
母が死んで、リヴァイも死にかけて、どうにか死ななかった、そんな子供の頃の夢だ。夢にケニーが出てくるのは珍しいことだった。一年も一緒にいなかった男だ。いまやこの兵団の仲間たちの方が付き合いが長い。
ハンジの頭を越えて、冬の夜に沈んだ部屋を見る。カーテンを閉め切った室内は黒より暗い闇で、目が慣れたリヴァイでも物の輪郭をはっきりと捉えられない。すべてがぼやけて、混ざり合って、黒一色の空間。夢の中でリヴァイを飲み込もうとした死が、すぐそばまで来ているような。
「ーー自分の形をなくしちまうような経験は、したことあるか」
「……」
「手や足や目がどこにあるか……生きてるか死んでるか、どこまでが自分なのか……」
「リヴァイは、あるんだね」
「……」
「そんな夢を見たわけだ」
思いがけずたくさんの物を得た今になって、あの時の死がとても恐ろしくなる。
壁の外に出れば、いつだって死ぬことは避けられない現実として目の前に突きつけられるのに。リヴァイが怯えるのは、溶け出して流れていく自我を止めてくれる人間が誰もいなくなることだった。
例えば、世界に残る人類がリヴァイ一人だけになったとしたら、巨人に食われるより先に狂って死んでしまいそうな気がする。考えたくもないが、最悪の事態はいつだって頭の隅に入れておかなければいけない。
背筋を這う震えを払いたくてそっとハンジにすり寄る。と、腕の中で勢いよくハンジが振り向いた。そして存外柔らかい胸にリヴァイの頭を抱え込んでしまう。
「ハン……」
「だったら定義してあげよう」
「は?」
あなたの気分を晴らせるかどうかは知らないよ、という前置きで、唐突に言葉の豪雪がリヴァイに降りかかった。
「あなたはリヴァイ。姓はない」
「……」
「調査兵団の兵士長。類稀なる身体能力を有し、巨人掃討においては一人で一個師団に相当するとも言われている」
「いつも思うんだが言い過ぎじゃねえか?」
「兵団在籍六年目、出身地や経歴等は非公開」
「誕生日はバラされたがな」
「壁外調査においては主に遊撃を担当、巨人討伐数・補佐数ともに多すぎて不明!」
「ざっくりだなオイ」
「趣味は掃除。三度の飯より好き。食べ物の好みはなし。食えるなら何でもいい。ただし好きな飲み物は紅茶。お気に入りは自室の棚の上から二段目右の引き出しに収納。愛飲する銘柄はフィ
「待て待て待て、何で知っている」
「頭の悪さを自称しているけど考えることは好き。常に最悪を想定している。肉体的な適応能力の高さは随一。対してわりと頑固な面がある」
「……」
「言葉は拙い。本っ当に拙い。粗野」
「おい」
「これは学習面で問題があったわけでなく、己の拙い言葉が周囲に与える影響に極端に無頓着・疎いことが考えられる」
「馬鹿にしてんだろお前」
「特にどこぞの分隊長さんに対してもう少し言葉を選ぶ努力をしてほしい。『わかってくれるだろう』という怠惰が見られる」
「……効率いいだろうが」
「まったく良くないね。え〜と、情に厚くて律儀。規則はきちんと守る真面目な人間だし、仕事にも真摯。道徳を欠くような行いはしない。普段はね。非常時はどうかな」
「……さあな」
「目の周り以外の表情筋の死滅が疑われるほど無表情。でもわりとお喋り。付き合い始めは扱いに困る人物だが、一度彼の言動の法則を把握してしまえばこちらのもんさ」
「法則ってなんだ」
「部下思い。兵団内には彼を慕い、彼のようになりたいという兵士が多い。言葉は拙いけど概ね頼れる上司」
「……おい、ハンジ」
「同僚を大事にする。内務でも調査後でも飲み会でも面倒見がいい。仲間への誹謗中傷は絶対に許さない」
「……よせ」
「エルヴィン団長の懐刀。彼の判断を信頼し、命令には絶対に従う」
「やめろ、ハンジ」
止めどなくリヴァイを苛んでいた言葉がぷつりと途絶えた。
リヴァイの激情をぶつけてそれを受け止めた今なお、ハンジはリヴァイを『兵士長のリヴァイ』として語ろうとしている。
堪えられない。
「……お前の言葉で、俺の定義とやらはしねえのか」
「私の言葉?」
「そうだ。お前のだ」
ぐちゃぐちゃとした言い回しでリヴァイを振り回す、めっぽう腹の立つ奴。
本音を叫んで俺を他と区別しろ、浮き彫りにしてみせろと、リヴァイは挑む気持ちでハンジに噛み付いた。
──そうすれば自分は、どうしようもない衝動をハンジのための行いに昇華できる。
リヴァイのつむじにあたる吐息が、不安定に揺れた。
「……私、の」
それきり、何も続かなかった。
言葉尻は掠れて、ぶれて、濡れているようにも聞こえた。
感情豊かなハンジとの付き合いで、リヴァイが初めて聞く声だった。
(──しまった)
失敗した。
期待に膨らんでいた胸に、冷たい線が走る。
「ハンジ」
「えーと……あっはは……」
言い淀んだことが全てだった。
──ハンジはリヴァイに、関係を求められない。
痛々しいほど兵団に身を捧げ、兵士長としてのリヴァイの重要性を強く理解しているハンジにとって、兵士じゃないリヴァイを求めることはそんなにも迷うことなのか。けれど『戦友』や『同僚』だと言いきれるほど、気持ちを捨て去ることもできていない。
動揺するハンジが逃げ出すのではないかと、リヴァイはとっさにその背中に手を回した。先ほどまでリヴァイを撫でていた手も、もう二度と伸ばされないのかもしれない。
「もういい、今は……名前を」
「名前?」
「ーー呼んでくれ」
「……リヴァイの?」
そう、『リヴァイ』という名前。
母から与えられて、一度死んで、何も持たないまま生き返って、置いていかれた名前。
いつの間にか大仰な役職が頭について、気の置けない同僚たちから、有能な部下たちから、命を預けた上司から、呼ばれる名前。
リヴァイにだけの言葉を得られないなら、せめて。
「……リヴァイ」
ハンジは、大切な物のようにその名を紡いだ。
「……もう一度」
「リヴァイ……」
幾度となく呼んだ名前だろうに、舌はおそるおそるだった。
「もう一度だ」
「……リヴァイ」
慎重すぎてぎこちないそれがハンジの気持ちを語っているようで、直接的な言葉よりもずっと心地よい。
何度もねだるリヴァイに、ハンジが苦笑する。
「変なの。名前なんて、いつでも呼ぶのに」
「……わかってる」
一度呼ぶ者を失ったリヴァイにとってそれがどんなに希少なことか、うまく伝えられる気がしなかった。
頭を抱える腕を外して、ハンジを見据える。
逃げられないように。誤魔化せないように。
乱れた髪の頭を掴んで、鼻先を触れ合わせる。
「お前、俺の誕生日に何してくれるつもりだったんだ」
「……普通に、一緒にお酒飲もうと思ってたよ」
「仲間として?」
「……そうだよ」
暗闇でもキラキラと騒がしい目が悲しげに細められた。心臓も身体もこれでもかと自分以外のものに酷使して、それでも心は殺せないことが愛しい。そうだ、ハンジの心は、ちゃんとここにある。
「ハンジ、俺は今日のことを"仲間としての"間違いにはしたくない」
「……」
「けどお前の迷いもわかる」
もしかしたら、とリヴァイは思う。
リヴァイとの間に何の名前も付けていかずに消えた男も、同じだったのではないかと。
求めなかったのではなく、求めることができなかった。
その代わり、思い出したように呼ぶ「リヴァイ」という声に、何かを込めていたんじゃないか、と。
リヴァイは内心で自分を笑った。
それはリヴァイの望みを含んだ、全く根拠のない考えだった。
どちらにしろ、確かめる機会はもうない。
「俺たちは、何にもならない。これからも変わらず兵士だ」
ハンジの顔が、悔しさか悲しさか、とにかく何かでぎゅっと強張った。慌てるな、と噛み締めた唇を親指でなぞる。
「……本当にどうしようもねえ時は、俺の名前を呼べ」
「それは」
「それだけは、俺とお前に許せ」
リヴァイが伸ばした手を、取りたくとも取れない。ハンジのその葛藤を知れただけで、今のリヴァイは満足だった。
ハンジがひた走る道は、リヴァイや調査兵団全員の道でもある。
その足が止まる日まで、兵士としての二人を名前のない関係がつないでいく。
呼ぶ声だけに気持ちを乗せて。
ハンジは唇を震わせて言葉を探しているようだった。二度、三度と口を開き、けれど言うべきことを見つけられずに声を詰まらせる。
その顔を見ながら、今日、過去、リヴァイの名を呼んだ声に思いをはせる。もう思い出す事もできないものを含め、様々な声が雑多で混沌とした世界からリヴァイを切り離してきた。
時に荒々しく、荘厳に、恐怖にまみれ、あるいは汚いもののように、貴重なもののように、甘やかに、優しく。
呼ばれるたびに、リヴァイは生まれてきた。
今も、また。
「……リヴァイ」
ハンジの声が、リヴァイの輪郭を撫でた。
それで充分だった。
二人で祝いの酒を舐め、名残惜しげに肌を離してハンジの部屋を出たリヴァイは、途中ゲルガーに見つかりそのまま独り身の集いに引きずり込まれた。
早朝、修羅のような顔で酔っ払いどもの世話をする兵士長の姿に、無茶な宴会はしばらく控えられたという。
〈了〉
(初出 15/12/31)