Double
同僚の二人が胸のせいでおかしなことになる話
Double
同僚の二人が胸のせいでおかしなことになる話
1.
雨が往けば、春。
壁の内で地に留められていた調査兵たちが、ようやく空の人となる季節。
年度初の壁外調査を目前とするこの時期に、調査兵団では大きな宴会を開くことが慣わしとなっている。財務担当が示した数字を台所担当が足したり引いたりを繰り返して捏ねくり回し、血眼で仕入れを行い、一年で一番豪勢な食事を並べる夜だ。
「胸をいじらせてほしい」
憲兵団や駐屯兵団に比べれば圧倒的に少ないとはいえ、約三百人を有する兵団の大宴会である。団長の挨拶もそこそこにせっかちな者があちこちで軽い悶着を起こし始め、その場はすぐに蜂の巣をつついたような喧しさになった。
ので、
「ごめん、聞こえなかった。もう一回言ってくれないかな?」
リヴァイが非常に思いつめた表情で「相談があるんだが」から続けた言葉を、ハンジはうまく聞き取ることができなかった。二度言わせる手間を詫び、今度はきちんと聞こえるようにと顔を近づける。
(なんってことだ……)
友人が深刻そうに切り出した相談を、ハンジの耳はよりにもよって『おっぱいいじりたいんだが』などと聞き間違えてしまったのだ。吹き出しそうになる口を、常よりさらに重たく沈んだリヴァイの相貌が辛うじて塞ぐ。
知らぬ間に溜まっていたストレスが聴覚を鈍らせたのかもしれない。まさか欲求不満なんてことはないだろうが。今日は早めに切り上げた方がよさそうだ、とハンジは一人頷く。
(ごめんよリヴァイ。貴方の悩みが解決した暁には笑い話にさせてくれ)
ハンジがそうやって必死に冷や汗を鎮める間もしばし逡巡していたリヴァイだったが、やがてハンジの耳元に口を寄せ、より一層低まった声で言った。
「胸を、いじらせてほしい」
「合ってんじゃん」
どうやら、聞き間違いではなかったらしい。
リヴァイの言い分はこうだった。
「お前、去年最後の調査で怪我しただろう」
「……ああ! リヴァイに手当てしてもらったやつね。おかげで痕も残らなかった」
酷い怪我ではなかった。ちょっくら胴体で着地を行ったことにより脇に装着するトリガーホルダーに圧迫された肋が骨折を疑われたとか、そんなところだ。負傷してすぐに拠点でリヴァイに応急処置を受けたが、それだけでもう治療としては充分だったため、年が明けて少しした頃にはもうハンジは傷のことなどすっかり忘れてしまっていた。
「で、それが?」
「……手当ての時に」
「おっぱい出したかな、そういえば」
「……」
「それを『いじりたい』って言ってるんだね、リヴァイは」
「ああ……それだけでいい」
「胸部への接触以外はしないよってことか」
リヴァイの言い分とは言いつつもハンジがほとんどを代弁したが、それはさて置きである。
(『いじりたい』ってつまり、触るってことだよね?)
ハンジはシャツに収まる自分の胸を見下ろした。一応は女であるハンジの膨らんだ乳房を見て「いじりたい」と思ったからには、リヴァイには元々女性の胸部をいじって楽しむという、ちょっとばかし性的な嗜好があったということだろうか。
彼がそんな性癖を持っていたなどハンジはまったく知らなかった。もうすぐ片手では足りない年数の付き合いになるが、一度だって聞いたことがない。性的なことに関しては驚くほど匂いの希薄なリヴァイは、嗜好どころかこれまで女性との噂一つさえ流したことはなかったのだ。
「にしても急に……でもないか。もう何ヶ月も前のことだよね。なんでその時に言わなかったの?」
「言うかよ。言えるかよ」
「いま言ってるのは?」
「…………これでも、わりと悩んだ結果だ」
あの調査の後からだから、ひと冬かけて悶々としていたということか。わりとどころか、ハンジはこれにかなり驚いた。常日頃から『考えるのは俺の仕事じゃない』と公言しているリヴァイが。即断即決によって数多の戦場を生き抜いてきたリヴァイが。
去年の冬は雪も深く、寒さが骨身に染みていつまでも残った。縮こまって小さくなった体に、リヴァイはさらにそんな悩みを抱えて過ごしていたのだ。
そのことを思えば、ハンジとて軽々しく聞くわけにはいかなかった。
(どうしよう……)
かなり常識から外れた頼み事である、ということはリヴァイもわかっているのだろう。言うだけ言ってむっつりと押し黙ってしまった彼の態度を見れば一目瞭然だ。
自分が満足するために女の胸を使いたいと言っているわけだから、そういう仕事に就いている女性に金銭の授受を伴ってお願いするならともかく、この状況では性的侮辱にもなりうる。
しかも、よりによってハンジに、だ。
ハンジとリヴァイは同僚だった。同志で、戦友で、友人だった。お互いにそう思っているだろう、とハンジは思っていた。なのに彼は、そこに性別を持ち込もうとしているのだ。常識以上に、リヴァイとハンジの仲からも大きく外れた相談だった。
考え込んでいたところに、隣に座っていた兵士がよろけてハンジにぶつかった。酒の絡んだ舌で不明瞭な謝罪を受け、ふと辺りを見回す。
少し離れた場所では、ハンジの副官のモブリットが拳を振り上げて何事か熱弁を繰り広げている。彼は酒の席ではいつもそんな調子だった。その向かいで静かに酒を飲んでいるのはハンジと同じ分隊長格であるミケだ。寡黙、という点ではリヴァイと似た気質を持っていると思われがちだが、人が変われば意外とおしゃべりなリヴァイに対して、ミケの沈黙はすべての前にそびえ立つ壁のようなものだった。その他、合間に歳若い兵士たちを挟みながら見慣れた中堅や古参の顔が並んでいる。
今更ではあるが、リヴァイとハンジの話は宴会場のほぼ真ん中、長机の中間の席でするにはふさわしくないものだった。今のところ二人の会話に耳を傾けている輩はいないようだが、話題が話題だけに安心はできない。
そもそも、互いが手に持つ葡萄酒がもう少し減っていたならハンジも酔余の一興として笑い飛ばしていたくらい突拍子のない話だった。
──いや。冗談として笑い飛ばすのは、今からでも遅くはない。
ハンジが「何言ってんの?」と一笑すれば、きっとリヴァイは一言謝罪をして、次の瞬間から何事もなかったように振る舞うだろう。逆に彼に侮辱されたと声を張り上げれば、大きな問題にすることもできるかもしれない。行先がハンジの意思一つに委ねられた境目の状況。それが今だ。
リヴァイはわざとこの時この場で、こんな相談をハンジに持ちかけたのだろうか。あくまでハンジの手中に選択権があることを、ことさら強調するために。
裁きを待つようにじっと目を伏せるリヴァイを見れば、その予想はあながち間違いでもないように思えた。
(侮辱するとか……そういう奴じゃないよな、リヴァイは)
こんな状況になった今この瞬間ですら彼の人となりを疑う気も起きないのだから、答えはきっと、最初から決まっていたのだろう。
「いいよ」
酒で唇を湿らせ、朗らかな声でハンジは重ねた。
「部屋に行こう、リヴァイ」
**
事はリヴァイの部屋で行うことになった。
「……本当にいいのか?」
「いいってば。ほら、ちゃっちゃとやろう」
遠くで雷の転がる音がする。日の暮れた空を覆う雲は、しかし雨を降らすほど重たくはないらしい。窓の外は疎らに薄暗く、漆黒よりはずっと明るい。冬の終わりと春の始まりがぶつかりあい、空気を揺らしているようだった。
丁寧に整えられたベッドを前にしてなんとなく腰を下ろすのを躊躇らっていたハンジに、リヴァイが突然顔を顰めて言った。
「クソメガネ、てめえ随分ほいほいと男の部屋に来たもんだな。こういう誘いに覚えがあるのか」
「は……、! あっのなぁ!」
リヴァイの言わんとするところを理解し、ハンジの怒りはその言い様を火種にすぐに燃え上がる。頼んで来たのはそっちなのに、この後に及んで相手の貞操観念をこき下ろすようなことを言うなんて。
恋人に淑女と娼婦の両方を強いられた女性兵士が「男ってのはこれだから」と愚痴っていたのを思い出し、ハンジはまったくそのとおりだ、と憤った。先刻の信頼ゆえの判断を取り消したいぐらいである。震える拳を抑え、しかし目尻を吊り上げて抗議する。
「そんな誘いには乗ったことないし、リヴァイ以外だったら適当に玉を蹴りあげて手打ちにしてるよ! ふん、蹴りなのに手だってさ」
「……俺はいいのか?」
「そうだよ! この兵団でいっちばん仲の良い友人だもの! それって人生で一番って意味でもあるんだけど! その友人がどうしてもおっぱい弄りたいって言うならそりゃ『どうぞ』って差し出すよ私は。肝心の友人には股の緩い女だと見下げられちゃったみたいだけどね! 帰る」
と、踵を返したハンジの腕をリヴァイが素早く掴む。
「悪かった……訂正する。もう言わない」
「当たり前だばーか! 阿呆の体現者! 壁内一の愚かもの!」
「俺はてっきり、お前は……、」
「なんだよ?」
「いや、なんでもない。悪かった」
「許さない。馬に蹴られて馬糞の山に突っ込め。頭から」
斯様なやりとりも、途中から『どちらがより子どもじみた罵倒を言えるか』というおふざけになるからどうしようもない。終わるころにはベットの上で、二人は座って向かい合っていた。
切々と謝られると大抵の事は許してしまう自分の性格を、ハンジはまあ悪くないと思っている。
「というかこっちも聞きたいんだけど、私でいいの?」
「聞くのが遅くねえか、それ」
「いやリヴァイがおっぱい弄りたいってことで頭がたくさ……いっぱいになっちゃって、聞きそびれたんだよ」
そう多くはないが、兵団内には他の女性兵もちゃんと在籍している。リヴァイと一番親しいのはハンジだろうが、もっと豊かな胸を持つ兵士で、リヴァイが頼めば決して事を口外しない女性だっていたはずである。
「……なんで私なの?」
「『そうしたい』と思うモンだった、それだけだろ」
「んん? そこを詳しく教えてって言ってるんだけど」
「見ればわかる。おら、出せ」
「追剝ぎかよ」
ハンジはシャツのボタンに手をかけた。なぜか指が震えて時間がかかったが、全て外したところで脱ぎ去ろうとするのは止められる。夜はまだ冷える、とつぶやいた後、リヴァイは下着を捲し上げた。
「……ああ……」
二人同時に、ため息を零す。
が、そこに含まれた意味は対になるほど違っていた。わだかまる布をハンジの首の下に留めながら、リヴァイの目は不可思議な色を湛えて、露わな胸に釘付けになっている。
「……これだ」
「はぁ……?」
熱っぽい視線のリヴァイとは逆に、宙に浮かせた手を彷徨わせながら、ハンジは「やめときゃよかった」という思いに襲われていた。おっぱいくらいどうってことないだろう、なんて早計にも程があったと、今頃湧き上がってきた羞恥に唇を噛む。
一言発したまま黙してしまったリヴァイにも不安を煽られ、ハンジは思わず叫んだ。
「リヴァイ!」
「うるせえ。なんだ」
「な、なんとか言ってくれよ。人のおっぱいを凝視しておいて『これだ』だけってことはないだろう」
「……悪くない。一級品だ。そんじょそこらにはねえくらいの胸だ。他に見たことがない」
「やっぱりいい」
「ぁあ゛?」
ハンジは、リヴァイ曰く『一級品』らしい己の胸を見下ろした。
景観を損なう立体機動ベルトの痕。左右非対称の大きさの乳房。腹よりは出ていない程度の、特に豊かでもなんでもない二つの膨らみ。よく見ずとも味気ないおっぱいだ。
不釣り合いな称賛に鼻白んだのもあったが、リヴァイが明らかに他人と自分の胸を比べて言葉を並べたことにも、ハンジはなんとなく苛立っていた。そりゃあ、胸を弄るのが好きな彼のことだ。さぞや百戦ぺろんま、いやぺ練磨だろうが。面白くはない。
「そういえばお前、風呂には入ったのか」
「一応体は拭いたけど……飲んだらすぐ寝たかったし」
「……」
眉をひそめるリヴァイに、「まさかここまできて中止する気か?」と思ったハンジだったが、開いた胸元に急に顔を寄せられ驚きで固まってしまった。
「……⁉」
「まあ、いいだろう」
どうやら匂いを嗅いでいたらしい。触って手が汚れたからといって後で洗えばいいのではないだろうか。
「触るぞ」
「あ、うん」
(で、触るのは触るんだな……)
捲った服を留める役を交代し、リヴァイは自由になった手をそっとハンジに近づけた。
左の乳房のすぐ下、淡く浮いた肋骨を辿られる。何だと思う間もなく両の胸がすっぽりと包み込まれた。意外にも冷たい指が、ふわ、とも、ぷる、とも言えない柔さに埋まり、ハンジはくすぐったさに目を瞑る。肌が静かに粟立った。
「――綺麗だ」
「えっ?」
虚をつかれ、リヴァイを見る。リヴァイもハンジを見る。しばし無言で、視線を繋げ合う。
「この言葉が一番ふさわしいと思うんだが。……綺麗だ」
突然、ハンジの周りの世界がぎゅっと縮まった気がした。リヴァイ以外のすべてが本来の大きさや輪郭を失い、二人から急速に離れて、どこかに消えていく。
「ハンジ?」
「……あ、あー! おっぱいがね、おっぱいが!」
「ああ、そうだ。お前の、おっ……胸が」
知らない速さで動く自分の心臓に驚いたハンジは、大げさに手を振って笑って見せる。
「あははは、照れる、んっ」
体を動かした拍子に、リヴァイの指がハンジの胸の尖りに触れた。思わず高い声が漏れる。
「……そんな声も出るんだな」
嬉しそうに聞こえるのは気のせいだろうか。舐める程度に飲んだだけの酒気に染まったかのように、顔が熱くなるのがわかった。
それからリヴァイがしたのは、丁寧に丁寧に、時間をかけて触ることだった。
包む。撫でる。なぞる。持ち上げる。握る(よりずっとずっと弱い触れ方だ)。
いとも容易く形を変えられ、しかし弾力でもって必ず元に戻る膨らみは、リヴァイの節が目立つ手に余裕を持って包まれるとまるで自分のものじゃないように思える。ハンジは与えられる感覚と実際にされていることを一致させるように、まじまじとその動きを目で追う。
服を脱がせた時の横柄さは何処へやら、リヴァイはあくまで慎重にハンジに触れた。あまりにも恐る恐るな手つきだったので「おっぱいそんなに怖くないよ」と諭したくなるハンジだったが、リヴァイが初めて馬に触れた時のことを思い出し何も言わずに見守ることにした。
ハンジの助けを介さず、四苦八苦しながら馬と接し続けたリヴァイは、のちに戦場で命を預けられる程の相棒を手に入れたのだ。
「ふ……ぁ、」
触れ方が変わり、標的が硬くなった胸の頂点になった。
揺らす。挟む。摘む。擦る。こねる。弾く。少し引っ張って、離す……。
ハンジは息を詰めた。指が動くごとに、身体の中にむず痒さと恥ずかしさが溜まっていく。
置き場所に困った自分の手を、なんとなくリヴァイの腕に添えたのもまずかった。その様は、弄りまわされることをあたかもハンジが望んでいるかのように錯覚させてしまう。
リヴァイのほうも、表情にこそなんの変化もなかったが、息を吸って吐く音が次第に明確になり熱と湿り気を帯びていくのがわかった。肩は呼吸に合わせて大きく上下し、瞬きの回数は明らかに減っていく。
しばらく皮膚と皮膚の触れ合いを続けたところで、リヴァイが若干掠れた声で言った。
「……舐めて、いいか」
ああ、舐めるつもりだったから風呂のことを気にしていたのか。頭のどこかでそんなことを考えながら、ハンジは首を一度、縦に振って答えるだけで精一杯だった。かぱりと開いたリヴァイの口に舌が覗き、こんな色をしていたのか、とわけのわからない感動で震える胸に、ゆっくりと近づいてくる。
「……や……」
リヴァイは意外にも、胸と胸の間、谷間にもならないそこを下から上へと舐めあげた。変に熱を溜めた肌に、それでも舌はもっと熱い。すっかり口に含みやすい形になった乳首にすぐにでも食らいつかれるだろうと思っていたハンジは、驚きから体を丸めた。
と、俯いた拍子にハンジの頬とリヴァイのこめかみとが近づき、引かれ合うようにくっつく。眼鏡が少しだけ押しのけられ、視界の鮮明な部分がズレて遠ざかった。
なぜかそこから、互いに動けなくなる。
「……」
「……」
リヴァイの持つ温度が、ハンジの中にじんわりと広がり、深い場所へと沈んでいく。
「……ハンジ」
「リヴァイ……あ、」
二本の腕が背中にまわり、ハンジをゆるく抱きしめた。リヴァイの皮膚はシャツ越しにも焼鏝のように熱く、かえってぞわぞわと体の震えを誘った。寒さのせいではないそれにぎゅっと唇を噛み締める。
不恰好な姿で裸の胸に頭を収めたリヴァイは、ちらりとハンジの顔を見上げ、それから長い息を吐いた。
「付き合わせて、すまない」
(……呆れた)
思い返せば、ここまでしておいてようやくの謝罪だった。遅いし、そもそも止める気もないくせに。リヴァイもきっと今の今まで忘れていたのだろう。
──そのくらいの加減が、二人にはちょうどいい。
「ねえ……私が夜通し巨人の話をしてリヴァイを離さなかったとき、あなた文句言いながらも最後まで付き合ってくれたよね」
「……ただ座ってただけだ」
「それでも夜通しだ」
「俺は元々、あまり眠らない」
「そうだね。そういうことすら知らない時だった」
そうだ。最初から二人は、ずっとそんな感じだった。
「リヴァイ、貴方にとっちゃ傍迷惑で記憶も曖昧な過去かもしれないけど……私にとっては、かけがえのないことだったんだよ」
リヴァイが求めて、ハンジが応えられることなら、なんだってしてあげたい。リヴァイがそうしてくれたように。結局のところ、それがハンジの行き着いた場所なのだった。
「友達だもの。気にしないで」
旋毛にキスを落としたのは半ば無意識だった。それを合図に、リヴァイがハンジをベッドに押し倒す。ハンジはどうしてか、体の奥深くまで満たされる気持ちだった。