彼の愛は何も知らない
ハンジの尻を叩きながら落ちていくリヴァイの話
彼の愛は何も知らない
ハンジの尻を叩きながら落ちていくリヴァイの話
丸々と、とまでは言えないが、年相応に栄養をたくわえた子どもが笑いながら町中を走り回る姿は、地上に来て幾許か経とうともリヴァイの目を引くものだ。
クソ元気なガキだな、と思いながらなんとはなしにその姿を追っていたリヴァイは、しかし母親と思われる女が登場し、なおかつその子どもを捕まえてしはじめた行為に唖然とすることとなった。
「なんだ、ありゃあ……」
「え?」
数人の女性が井戸の周りに木箱や椅子を寄せ集め、皆で座り込みながら野菜の皮や汚れを取り除く作業についていた。市井のどこででもお目にかかれる光景だ。
が、うち一人が自分の膝に子どもをうつ伏せに寝かせ、その小さな尻を突然打ちはじめたのだ。町を緩やかに流れていたリヴァイの視線はそこに釘付けとなった。
リヴァイの腰ほどしかない背丈の子どもは「母ちゃん! ごめんなさい!」と従順を叫びながら、彼女の手から逃れようと暴れまわっている。母親はその身体を腕一本で抑え込み、続けざまに三回、尻を打ち鳴らした。
「お前は! いつもいつも、イタズラばっかりして!」
「ごめんなさい! ごめんなさい……!」
手と尻が触れ合った箇所から、バシッと軽い音が響く。
肉と骨を打つ感触がどのようなものであるか、リヴァイはよく知っている。「あの程度なら痛みもそれほどないはず」との考えに反し、子どもは母親の手が鳴るたびに顔を赤く歪ませ、小さくて柔そうな手足をぎゅっと縮めている。苦痛を感じている反応だった。
「躾の方法の一つだよ」
リヴァイが思わずこぼしていた疑問を、隣にいたハンジは視線の先と合わせて正しく理解したらしい。聞かずとも答えを返してきた。
「躾だと?」
「あまり見ないであげてくれよ、リヴァイ。肉体的にもだけど、精神的にもかなり痛いんだよアレ」
「……ああ、わざとあんなところでおっぱじめたのか」
「よほどの悪童なんだろうね。私も子どもの頃はよぉく折檻くらったっけな……思い出したら尻が痛くなってきた」
ハンジが顔をしかめ、腰巻きに半分ほど隠された自分の尻を「まだ余韻が残っている」とでも言うように撫でさすった。母子の痛みを伴う触れ合いに奪われていたリヴァイの目が、ほとんど無意識にそちらへ移る。
「……そうか」
兵舎に帰り、ハンジと別れ、非番の日の終わりを迎える頃になっても、リヴァイの瞼の裏には母親が子どもの尻を打つ姿と、ハンジの手が辿る柔らかな勾配が残り続けた。
**
「離せっつってんだよ!」
怒声が響く。
暴れる人間の首根っこを捕まえ、向けられる敵意を軽くいなして自分の思いどおりに動かすことなど、リヴァイにとっては造作もないことだ。
が、相手がハンジだとそうはいかなくなるらしい。
騒動の中心からようやく弾き出したハンジに怒りの矛先を向けられた瞬間、リヴァイの臓腑を凶暴な感情が駆け巡った。ハンジを中心に据えて、視界が急速に赤く縮まっていく。
ぐ、と奥歯を噛みしめ衝動をやり過ごしたリヴァイは、ハンジの兵服の襟を掴みあげると縦に長い体を引き摺りはじめた。目指す先は自室だ。
当然ハンジは暴れ喚いたが、唖然とする周囲が二人を止めることはなかった。
扉を蹴り開け、拘束から逃れようとする身体を中心にして反対側に回り込み、突き飛ばす。
「いっ……!」
派手な音を立てながらベッドに倒れたハンジは身を起こすよりもまず、無茶苦茶に斬りつけるような眼でリヴァイを睨んだ。手負いの野良犬だって優しげに見えるほど、傷つけることに飢えた眼光だ。
「動くな」
片手を軽くあげ反撃せんとする意思を制すと、ハンジはピタリと動きを止めた。あくまでリヴァイの次の一歩を警戒してのことだろうが、そんなことはどうでもいい。
ハンジを見つめたまま、後ろにやった手で鍵をかける。
「……何を始めようっての」
「自分の行動を省みりゃわかるんじゃねえのか?」
「自省の結果〝どうしてアイツの鼻をへし折らなかったんだ?〟って後悔ばっかり湧いてきたよ。ちょっと行ってくるからどいてくれないかな!」
ベッドまで、リヴァイの足で三歩。
開いた距離を一気に詰めるとハンジは目を見開いた。
「何ビビってやがる」
「……ビビってない! どけよ!」
ベッドに乗り上げ、壁際まで後退るハンジに手を伸ばすと、怒りに染まっていた顔が僅かに引き攣る。
「人を痛めつけたいって眼ぇしといて、自分が痛えのはイヤなのか?」
「来るな!」
思わずといった体でハンジが蹴りを繰り出した。リヴァイは焦ることもなく頭を右に傾ける。くたびれた革に包まれた凶器が、ビュッと空気を切りながら耳のすぐ横を通り過ぎた。直撃していればさぞや美丈夫になれたろう。
(……クソが)
余裕はあれど、リヴァイの炎にまた風が吹きつける。
行儀の悪い脚が引っ込む前に、リヴァイはその脛をがっちりと抱え込んだ。そして爪先から膝までを覆うブーツに手をかけると、馬の装備を解くよりも鮮やかにこれを取り去る。抜け殻はベッド外に投げ、もう片方も同じように脚から引き抜いた。
「え?」
瞠目したハンジの微かに蒸れた左右のふくらはぎを肩に担ぐと、リヴァイはそのまま体を引いた。当然ハンジも引っ張られてシーツの上を滑る。
「いって!」
勢いよく倒れた拍子に壁で後頭部を打ったらしい。ハンジは一瞬怯んだものの、どうにもおかしなことになっている状況に気づいて暴れだした。
「やだっ、なんだよ! クソッ!」
とは言うものの、リヴァイには草木がそよぐ程度。
跳ねる両脚を一つに束ね、その付け根の腰ごとまとめて、ハンジをぐるりと裏返す。
「ぅわっ!?」
慌ててシーツについた手が何かを掴む前に、四つん這いの後ろ姿にむかって、リヴァイは手を振り上げた。
──バヂンッ
「っっっ!?」
肉を打つ鈍い音。ハンジの動きが、時間が断ち切られたかのように止まる。
リヴァイの分厚い掌に、懐かしい感覚が広がっていく。久しぶりに人を殴った。殴ったと言っても、急所でもない尻で、かつ致命傷にもならない威力だ。『どれくらいの強さであれば人を昏倒させることができるか』を熟知しているリヴァイだが、今の目的はハンジを黙らせることではない。
さて、と視線を移す。
「……ぁ……えっ……?」
何が起こったのか、ハンジはよくわかっていないようだった。叩かれた姿勢のまま固まり、疑問の吐息をシーツに落としている。数秒して、肩越しにゆっくりとリヴァイを振り返った。
ハンジの表情を彩っていたのは、困惑と疑問と、少しの恐怖だった。
不自由な体勢にめいっぱい首をひねり、目の端まで茶色い瞳を寄せて、自分に起こったことを見極めようと必死にリヴァイを仰いでいる。
その混沌としっかり眼を合わせながら、リヴァイは見せつけるようにジャケットを脱いだ。クラバットを首から抜き、ボタンを外したシャツの袖を肘まで折って上げる。
「動くんじゃねえぞ」
言うと、ハンジの困惑の色が強くなる。
それでもまだ背後を許しているのだから、根本的にコイツは俺を見くびっているのだろう。リヴァイはそう苛立ち舌打ちをする。
暴れ回ったためか、ハンジの腰巻きは尻の途中まで捲れ上がっていた。その使い込まれた厚手の布とズボンの間に徐に指を差し入れ、ゆっくりと上にズラしていく。ハンジの注視を促すように、じわり、じわりと。
眼下に、あの日の丸みが晒される。服一枚に覆われてはいるが、四つん這いの体勢が生地を引っ張り、その真ん中に走る谷間までがくっきりと露になっている。
ゴクリ、とひとつ喉を鳴らすと、リヴァイはそっと手を掲げた。
そして──
──バヂッ
「っ……!」
その尻に叩き込んだ。
先ほどよりもいくらか鋭い感覚がリヴァイの手中に残る。どうやら介する布が少ないほど衝撃は尖り、音も高くなるらしい。
ハンジの尻を包むのは、伸縮性に富んだ分厚い生地の兵服である。
直接人肌をぶちのめした時の弾けるような衝撃はなく、音もそれほど響かずにほとんどが体内に潜って行くようだった。もっと強くしてもいいかもしれない。
「っ、……はっ……」
ふら、と彷徨ったハンジの手が、目の前の壁に縋り付いた。
上半身はかろうじて壁に、下半身は崩れた足のままベッドに預けた姿勢で、一秒、二秒。経過するにつれてようやっと痛覚が働き出したのか、浅い呼吸を繰り返しながら身体を丸めていく。さして厚みもない肩がぎゅうっと盛り上がる。尻には内側を守るようにきゅっと力が入り、高度を下げてリヴァイの視線と攻撃を避けんとしているようだった。
リヴァイは両手でハンジの腰骨を掴むと、自分の真正面に双丘が来るよう無理やり引き上げた。そしてもう一度、手を振りかざす。
「まっ……!」
震える唇がリヴァイを止める前に、縮こまった尻に掌を打ち込んだ。
──バツッ
「ん”っ……!」
(……なるほどな)
コツが掴めてきた。叩いた後に手を離さず触れさせたままだと、衝撃は長く体に留まるらしい。
「リヴァっ、ちょっ……ねえっ」
「なんだ?」
ハンジが、情けなく眉尻を下げた顔でリヴァイを呼んだ。見た目でもわかるほど体を強張らせ、打ち据えられた箇所を手で覆い、冗談だよね? と肯定を期待する瞳をしている。
その問いごと手を振り払い、リヴァイはまた同じ場所を打った。それが答えだと示すように。
──バシッ!
「い”たっ‼」
悲鳴があがる。
「っ……ねえ! リヴァイッ! なん、何してんだよ!?」
「わからねえのか?」
片眉を上げて逆に聞くと、ハンジはぐしゃりと顔を歪ませた。壁に爪を立て、状況から逃れようと身を捩りだしたのを、リヴァイは背筋の真ん中に手を這わせて力を込める。ここを抑えると体は思うとおりに動かなくなる。
「はっ……ま、待って」
腕一本で簡単に止められている事実とこれからのことに恐怖を覚えたのだろう、か細い声でやだ、いや、と懇願し始めたハンジだったが、リヴァイは構わず左右に揺れる尻を横から叩いた。
──バチン
「いたいっ! やだ! リヴァイ! 痛いってば!」
「痛くしてんだろうが」
ヘタレそうになる腰を掴んで戻し、続けざまに二回。
──バチッ、バチンッ
「ひっ、いっ」
「俺がここまでしてやってる理由がわからねえのか? お前はそんなに粗末なオツムだったか、ハンジ。……しょうがねえ奴だな」
リヴァイはそう嘯くと、一回一回を重く体の芯まで響くように叩いていた手を今度は等間隔で振るい始めた。右を打ち、返す掌で左を。リズミカルに、淡々と。
骨を避けて、鍛えられてはいるものの男のそれよりは随分柔い尻の、等しく丸い左右の肉を交互にぶっていく。
──パシッ、バシッ
音と打撃はいくらか高く、軽くなった。
振り下ろした掌を尻肉がぷるりと弾くままに離し、再び同じ軌跡で下ろす。縮まろうとする体の尻だけを何度も突き出させて、リヴァイは掌を振るった。
「……リッ……ヴァイ……! やめろ……!」
いっそ滑稽にも聞こえる響きを繰り返しているうちに、髪の間から覗くハンジの耳端は徐々に赤くなっていった。体は依然強張ったままだが、逃れようとする抵抗は音が鳴るたびに弱まっていく。
リヴァイは手を止めた。肩で息をするハンジに向かって、静かに口を開く。
「あの野郎に何を言われた?」
「っ……は……?」
「安っぽい挑発か? あのクソ野郎の何が、お前をそんなに馬鹿にしちまったんだ?」
ハンジが、はっ、と息を詰めた。
『ハンジ班長が別分隊の男と揉めている』と、分隊長によりも早くリヴァイに報告があったことは幸いだった。ハンジが手を出す前に無理矢理にでもあの場を収め、独房入りを回避させたリヴァイには、事の発端を知る権利があるだろう。
リヴァイの言いたいことをきちんと読み取ったであろうハンジは、けれど素直さとは程遠い。
「……関係ないだろ、あなたには」
硬い声が消える直前、リヴァイは今までで一番強くハンジの尻を打った。
──バヂッ
「ぐっ……!」
喉が詰まったような呻きをあげ、その全身がぎちっと硬化した。体に走る痛みを抑えるためか、強張りは数秒続く。
「おい、まだ終わりじゃねえぞ」
とうとう壁から手を離しベッドの上で丸まってしまったハンジを、リヴァイは軽く叩いて咎めた。が、小さく震えるだけで答えも返ってこない。
一つため息をつくと、ハンジの腹に手を回して下半身を抱え上げる。二人の体温がこれ以上ないほどに近づいた。
脚のあいだにリヴァイの身体が割り込んだとわかった瞬間、上半身をシーツの上で震わせていたハンジがビクッと肩を揺らした。
へたれていた体を起こし、鋭い視線でリヴァイを睨みつける。
「……ねえ、これって何が目的? もしかしてだけど、あなたもあのクソ野郎と一緒なの?」
「ぁあ?」
「あなたも……女のことを、自分の思いどおりになる道具くらいにしか思ってないってわけ⁉︎」
「……なるほどな。それがキレた理由か?」
見せつけるようにゆっくりと手を掲げながら、リヴァイは鷹揚に言った。
「お前にはわからねえだろうな。同僚にこんなことしなきゃいけねえ俺の気持ちなんぞ」
空気を切って、張り手が落ちる。
──バシッ
「っ……!」
「よく聞けハンジ。これは〝躾〟だ」
──ビシッ
「っあ"!」
「俺のためなもんか。兵団のために決まってるだろう」
ハンジの体が、尻を打たれたものとは別の震え方をした。リヴァイの拙い言葉でも意味は通じたらしい。痛みとは違う響き方を期待して、リヴァイは手を止めて一際低い声で言葉を続ける。
「ハンジお前、班長だろう。状況によっちゃてめえの命を預ける上官が、喋るクソなんてせいぜい『珍しい』としか思えない存在相手にかっかと湯気を出してるときちゃ、お前の部下はなんて思うだろうな?」
「……そ、れは……」
「いちいち感情を爆発させてる上司に、着いていこうなんざ思うか?」
「……」
「答えろ」
ひゅっと音をさせて手を振り上げただけで、ハンジは体を竦ませながら声を絞り出した。
「おもっ……おもわな、い」
「……ああ。そうだな」
ハンジの周りに頑に築かれていた壁がはらはらと落ち、心に触れられるだけの穴を空けた。
リヴァイはそう感じた。
「何を言われたんだ」
意識して優しく問う。
ハンジが弱々しく首を振ったので、リヴァイはまた掌で尻を打ち鳴らした。音だけが空気中に放り投げられるような軽い接触を繰り返すと、羞恥に耐えられなくなったのか、ハンジが途切れ途切れに話し始めた。
リヴァイは真っ赤に染まった首筋を眺めながら、揺れがちな声に耳を傾ける。
ハンジの理性を焼き切った侮辱は、ハンジに対してのものではなかった。
ハンジの部下——年若い女の部下——を、性的に貶める言葉だった。
喧騒の中心にいた男の顔と名前を記憶の深いところに刻み、リヴァイはようやく、ハンジから手を離す。
「……ふっ……」
拘束を失い崩れ折れた肢体が、一、二度、腰を中心にしてピクピクと跳ねる。リヴァイを窺いながら起き上がったハンジは、自分を見つめる視線に気づくとさっと眼を逸らし、ぎこちない動きでベッドから降りた。
身を整えるあいだもひたすら顔を背け、リヴァイを見ようとしない。
「歩けるか」
「っ! うるさいっ!」
よろける脚に思わず差し出した手は叩き落とされた。そのままドアに飛びつくと、数秒だけ鍵でもたつくもハンジはあっという間に部屋を飛び出して行った。
リヴァイは一つ息をつき、次は、と考える。
先ほどの私闘について、分隊長のエルヴィンに説明に行かなければならない。どうせもう耳に入れているだろうが。
(……これが落ち着いたら、行くか)
リヴァイの股座はなぜか、緩やかな熱を持っていた。
こういうのは深く考えない方がいい。「収まるまで」と時間を決めて、リヴァイはベッドを整え始めた。
翌日、努めていつもどおりに振る舞おうとするハンジに合わせてリヴァイも素知らぬ顔で過ごした。ただ、演習の際にひっそりと顔を顰め、尻を少しだけ浮かすようにして馬に乗るハンジを見て「力が強すぎたか」と反省はした。業務に響いては本末転倒だ。
ハンジと騒ぎを起こした男はどうやらその後も軽い挑発をハンジに対して繰り返したようだが、あからさますぎるほど冷静に返すハンジの態度に興味をなくしたらしい。成り行きを見守っていた周囲も次第に視線を向けることはしなくなった。
ほとぼりが冷めた頃、男が街中の酒場で騒ぎを起こした。たまたまそこに居合わせたリヴァイが連行したことで内々に処分されたが、以降男の姿は見ていない。少ないといっても数百人を所有する兵団だ、リヴァイやハンジの目が届かないところで働く機会もあるだろう。たぶん、おそらく。
事の顛末を怪しむ視線がハンジからリヴァイに向けられていたが、無視を続けているとやがては逸れた。
そうして、リヴァイにだけわかる程度の緊張がハンジの肩から抜けて、しばらく。
再び〝躾〟の機会が訪れた。
**
「勝手な行動の弁解を聞こうじゃねえか、クソメガネ。場合によっちゃ上に話を持ち込む」
半日以上を壁外調査に費やした、ある秋の日の深夜。誰もが疲労と哀惜で沈黙する時間を、リヴァイとハンジは一触即発の空気で対峙していた。
「弁解? ないよ。好きにすればいい」
椅子に座っていたハンジは、リヴァイを見上げていた視線をふっと外し、尖った声でそう返す。
険悪の理由はそう複雑でもなかった。壁外にて作戦展開中、ハンジが命令を無視して独断で行動したのだ。無謀にも飛び込んだ先には巨人に今にも食い千切られんとする部下がいて、ハンジは己の身を賭け金に、見事彼の命を勝ち得た。
リヴァイがその場に居合わせ、ハンジの〝無茶な〟救助を〝確実な〟に変えられたのは、まったくの偶然だった。ハンジとて実力者だ、リヴァイが居なければ居ないで上手くやりきったかもしれない。
──あるいは、下手をこいて咀嚼されていたかもしれない。リヴァイの知らぬ所で、ハンジの骨と肉と命の絶たれる音が響いていたかもしれない。
起こっていたかもしれない過去に、壁内に帰り着いてからずっと、リヴァイの体内で何かが爆ぜ続けている。
点けたばかりの灯りに照らされて、室内はうるさく感じるほど明るかった。
調査後のハンジはいつもそうだ。沈んだ太陽を追うように、朝まで紙の上を走り続ける。
けれど今夜は違っていた。目でこそ机上の文字を見てはいるが、ハンジの意識は突然部屋にやって来たリヴァイに注がれている。エルヴィンの前で自分の非を暴かなかったリヴァイに不信を抱いているのだろう。
嘘でできた余裕などすぐわかる。言葉と態度を選び、リヴァイはハンジの手綱を握り込んでいく。
「オイオイ……俺がいなきゃ今頃、てめえは巨人のゲロん中でおネンネだったんだぜ。わかってんのか?」
「なんだ、恩を売るために私を助けたの? さぞ高くつくんだろうね?」
「そうでもねえよ。トチ狂った行動の理由が言えるってんならそれでチャラにしてやってもいい」
眦を鋭くしたハンジが、キッとリヴァイを睨みつける。
「トチ狂った? 理由? 『手の届く範囲に助けの必要な人間がいた』。それじゃ理由として足りないっての?」
「てめえの立場をすっかり忘れちまえば、そりゃ十分な理由だろうな」
古びた木枠がガタン、と床に打ち付けられる。ハンジが椅子を倒して立ち上がったのだ。
「ちょうどいい、そのままでいろ」
「は、っ⁉」
リヴァイがそう言い終わった時には既に、ハンジの上半身は机の上に押し付けられていた。怒りに握りこまれた両の拳を腰の部分で束ね、片手で抑え込むと、リヴァイはインク壺や書類をハンジから丁寧に遠ざけていく。
「……‼ ちょっ、なんだよ! なんで片付けてんの⁉」
「ブチ切れるのが趣味な奴に〝躾〟をくれてやるためだ」
「……まさか……!」
そのまさかだ。リヴァイは天板にうつ伏せになったハンジの尻を、おもいきり引っ叩いた。
──バチンッ
「っあ!」
突き出した臀部がきゅと上を向く。張りのある肉に弾き返されたあと、無意識にその曲線に戻ろうとした手を、リヴァイは軽く振って誤魔化した。干上がっていく喉には気づかない振りをする。
「リヴァイっ! これ嫌っ……! 痛いんだってば!」
「アホか、痛くなきゃ意味がねえだろ。死にたがりには足りねえか?」
その言葉を合図に、リヴァイは腕を揮いだした。疲労のせいか抵抗は前回よりも弱く、手の力も自然とそれに合わせたものになる。それでもハンジは充分に痛がった。尻を打つタイミングで身体に力を入れるので、わざとリズムをずらして緩んだ瞬間に掌を叩き込むと、一際高い声で鳴く。
──バシンッ バチッ
「っぅ、あ、いや、だ……!」
殴打を繰り返しながら、リヴァイの意識は次第にぼんやりと浮いていく。目の前には無防備にも尻を晒し、ひたすらリヴァイが与える痛みを受けて甘くも聞こえる声をあげ、全身を震わせているハンジがいる。
ハンジしか、いない。衣服の下で散々リヴァイに甚振られた二つの丸みが、どんなふうに赤らんで熱を持っているのか。
この目と手で、感じたい。
リヴァイの動きが、ふ、と止まる。
「……ぅ、……なん、で……っ」
耳が拾った微かな声に、感覚はすぐさま鮮明を取り戻した。
ハンジの喉が引き攣ったような音を出し、肩はそれに呼応するようにひくひくと痙攣している。ズッ、と鼻をすする気配がして、リヴァイはようやくハンジが泣いていることを知った。
驚いて手を離すとそのままズルズルと机から落ちて床に座り込んでしまう。
「……おい」
「なんっ、なんえ、わたしが悪いの? 助けたいのがわるいの? 見捨てればよかっ、たの?」
「ハンジ」
「リヴァイだったら! 迷わず助けに、いっ、いくじゃないかぁ! なんで、なんでわたし、ダメで、叩くんだよっ……!」
自身を抱き込みながら、ぎゅう、と身体を縮めたハンジの背中に、見たこともない子どもの姿を錯覚したリヴァイは、困惑しながらも屈んでその両肩に手を置いた。
リヴァイが伝わるように願ったのは、心を落ち着かせるだけの温度だった。痛みではなく。
「ハンジ。ハンジ……エルヴィンから話があっただろう。俺たちはいずれ、上に行く」
「っ……あっ、たけど……」
「お前が自分を粗末にすると、俺の……俺やエルヴィンや、お前に期待している奴らの、胆が冷える」
「……でも……っ」
俯いたハンジの、仄かに赤いうなじ。ハンジがしゃくり上げて身を揺らすたび、浮き上がった骨の凹凸に光が遊ぶ。いつの間にか口付けてしまうほどの近さで、リヴァイはそれを見ていた。そのまま囁けば、ハンジが、はふ、と息を漏らす。
「今回は偶然、部下もお前も助かった。運が良かったんだ。次は悪い方に傾くかもしれねえ」
「じゃあ、どうすればいい? どうしたら確実に助けられる? どうしたら誰も……死ななくなる?」
「お前と俺は違う。わかるか? 俺にはない『頭』がお前にはある。考えろ。そのためなら……何でもしてやってもいい」
「……リヴァイ」
リヴァイの手に、ハンジの熱い指がそっと重なる。
(振り向くな)
思っていても言えなかった。まったく逆の願いが、頭の反対側で喚いていたからだ。リヴァイはハンジの手の下から自分のものを抜き去ると、音もなく立ち上がった。え?と動いた茶色い頭をガシリと掴み抑える。
「顔を洗え。とっとと寝ちまえ」
「リヴァイ」
「じゃあな」
そのまま扉へと向かう。部屋を出て戸を閉めようとしたリヴァイは、けれど最後に立ち止まって言った。
「お前がまた同じようなことしたら……わかってるな」
ハンジの返事は聞かなかった。
人の気配を探り、暗所を選びながら、自室への道を急ぐ。リヴァイの口から舌打ちが漏れた。
(クソ。クソ、クソ、クソ)
勃起していた。
信じられない。いつそうなったかもわからず、リヴァイの自覚とともにそこは膨張と痛みを増していっていた。腰巻を引き下げて、何もかもなくなるように祈った。こういうのは深く考えない方がいい。
……考えたく、ない。
その晩、リヴァイは夢を見た。ハンジと交わる夢だ。
肌と肌の間を邪魔するものは何もなくて、リヴァイの全ての感覚が、滑稽なほど必死にすべてを味わおうとしていた。
夢の中でも、リヴァイはハンジの尻を打った。けれど、いたい、と言う声は悦びを含んでいて。奥を許されたリヴァイはそのまま、ハンジの深いところに沈んでいく。
胸が潰れそうなほど苦しい、甘い夢だった。
リヴァイとハンジは、それからも変わらず生き残った。死から逃げきるたび、兵団内でその存在を重く強くしていった。ハンジは明るく取っ付きやすい『外』の顔はそのままに、周りを巻き込むような負の感情を表に出すことは徐々に少なくなっていた。
「上官然としてきたな」
無表情の下で満足げに言うエルヴィンに鼻を鳴らしながら、リヴァイは胸の内でどろりと粘つく優越感をかき混ぜる。
──バシッ バチッ
「ぁっ、ん! リヴァ、イ いたっ、痛い……!」
「痛いか? そうか。だったら何で言うこと聞かねえんだ? 痛いのがいいのか?」
「ちがっ……んんっ!」
「違わねえだろう」
ハンジが『上官としてふさわしくない行動』をするたびに、リヴァイは〝躾〟としてその尻を打ち続けていた。
壁外で巨人の行動に興味を覚え、近づきすぎた。
資料集めに没頭して、食事も摂らずに部屋に籠った。
他兵団兵士の嫌味に、言い返した。
……書類に些細なミスをした。資料室の鍵を返し忘れた。訓練で怪我人が出てその対応に追われ、会議に遅れた。
リヴァイの中で、「そりゃいくらなんでも言いがかりだろう」と囁く声がなかったわけではない。けれど、ハンジの過ちが二人の間に転がってくる時、リヴァイが何も言わずに投げる視線だけでハンジはもう、その掌を受け入れようと身を縮めているのだ。
(こいつが悪い。こいつが、いつまでも手のかかる奴だから)
「……ううんっ! んっ──!」
掌を強く打ち鳴らした下で、尻がきゅうっ、と引き締まる。机に手をついていたハンジは、身体を支えきれずに腕を崩した。そのまま小さな痙攣を二、三度繰り返す。
リヴァイはその様をじっと見ていた。両の手は震える身体を囲うように机の端を掴み、しかし決して、打つ以外に彼女に触れようとはしない。
見下ろせば、末に広がった腰が丸みを描いて足と足の間に戻っていく、その完璧な均衡の尻臀が、すぐ傍にいるリヴァイを誘うように揺れている。ハンジが爪先を突っ張った拍子に、持ち上げられた尻の谷間にふっくらと盛り上がった肉が見えた。そこはどうしたって女の形をしている。
覆う布を全部剝いで、小振りながら柔らかな双丘に手指を埋めて、隙間を割り開いて、先端を潜り込ませたら。
叩きながら熱を上げていく頭で、終いにそんなことを考えるようになっていた。下はとっくに硬く勃ち上がり、湿って気持ちの悪い下衣を越えてハンジ自身を感じたいと、懸命に主張してくる。
呼吸を整えるハンジの背に唇を落としそうになって、リヴァイは辛うじてとどまった。
ダメだ。これは〝躾〟だ。
まったき兵団とハンジのための行為。
女は、ハンジは、リヴァイが満足するための道具ではない。
「……もうするんじゃねえぞ」
そう言うとリヴァイはやはり、ハンジを見ないように、ハンジに見られないように、振り返ることもなくそこから立ち去る。凝った熱を持て余しながら。
**
仕事を終えたリヴァイは、夜半の廊下を自室へと急いでいた。部屋にいれば業務のことでハンジが訪ねてくる可能性がある。二人しかいない室内なら、何かしらの理由があれば 〝躾〟が行える。目的と手段が完全に逆転した思考を走らせながら、リヴァイの歩みは自然と早くなった。
と、階段上の踊り場の丁度見えない位置から、声が聞こえてきた。
「ああ君、ちょっと待って」
ハンジだった。声が適度に固くて明るいので「部下を前にしているのだろう」とリヴァイは察した。果たして、訝しげな兵士の声が返事をする。
「ハンジ班長、どうされました?」
「ごめん、その書類リヴァイの所に行くヤツだよね? 実は一カ所記入を間違えたところがあって、あとで返されるのもなんだし私が届けてその場で訂正したいんだけど。いいかな?」
ドクン、と。心臓が、蹴られたように跳ね上がった。リヴァイは足を止め、ハンジの言葉を反芻する。
「あ、リヴァイ班長。今お部屋に……」
ハンジと言葉を交わした部下が、階段を降りる途中でリヴァイに気づいた。その両手は……空だ。
「ああ……わかっている」
リヴァイは再び歩き出した。
ハンジは扉横の壁に背を預け、リヴァイを待っていた。靴音に顔を上げてこちらの姿を認めると、ホッとしたように笑いかけてくる。
「こんばんは。今大丈夫かい?」
「……ああ」
その手が示した紙束を見ないようにして、リヴァイはハンジを部屋へと招き入れた。
「これ、明日の会議の資料と、班員移動についての承認と、経費の報告書と、」
紙の端を捲りながら、ハンジが連ねていく。
「確認してくれるかな?……リヴァイ?」
差し出された書類の一枚目に、リヴァイが以前にも指摘したことのある表記間違いがあった。その時もリヴァイは、ハンジの尻を打ったはずだ。なのに。
「……ここを見ろ。前に紛らわしい書き方して他班と行き違いがあったこと、もう忘れたのか?」
「えっ?……あ」
ゆっくりと笑みを失くしていくハンジの瞳の奥に、燻る熱を見つけたリヴァイは、そのときようやく確信した。
「お前──わざと俺に、尻を叩かれてたのか」
口にした言葉は、なんとも間抜けに響いた。
感情が湧いてくるはずの場所は空白のままで、何を一番に思うべきかもわからない。こんな事態は想定すらしていなかったのだ。好きこのんで尻をぶたれる奴がいるなんて、誰が思うだろう。
「……どうして」
呆然と問いかけたものの、ハンジがどう答えるのかも、そこからどうなるのかも、漂白された思考では予想もできず、リヴァイは助けを乞うようにハンジを見た。
ハンジはリヴァイと同じように、虚をつかれた表情で立ち尽くしていた。一度口を開き、閉じて、ぐしゃりと掴んだ髪をかき混ぜて。
はあっ、とついた大きな溜め息の後、言った。
「リヴァイってさぁ、馬鹿なの?」
「…………は?」
「ちまちま粗探しして、〝躾〟だなんて言葉を使って人の尻ねちっこく責めておいて。股ぐら膨らませてるのもバレてないと思ってたんだ?」
「──!?」
白だったリヴァイの脳内が血を噴いたように赤くなった。
バレていた。ハンジに、全部。リヴァイが誤摩化していた執着も、醜態も、すべて。
衝撃で声も出せないリヴァイを、ハンジはせせら笑った。
「ははっ、なんだよその顔! 大丈夫だよ、あなたが女の尻を叩いて興奮する変態だなんて誰にも言ってないから! あ、それとも周知の事実だったのかな? 私だけが知らなかった?」
「ってめえ……!」
「っ」
咄嗟に伸ばした手を振り払われ、リヴァイは思わずハンジをベッドに突き飛ばしていた。体は意識せずとも、嫌になるくらい素早くハンジを組み敷いてしまう。
うつ伏せにして、尻だけを高く据えた、リヴァイだけが知る姿。
そうだ、ハンジのせいだ。これが悪いからリヴァイは。
身のうちから激しい感情が噴き出す。
「お前が! お前が無茶無謀やりまくったせいで俺が、どれだけ……! 挙句お前のせいで変態になっちまった! 誰が尻叩いて興奮なんかするかっ、俺だって、こんな……っ」
舌がもつれた。他人をねじ伏せる時はよく回るはずの口が、何一つ意味のある言葉を吐いてくれない。
ハンジだからだ。
おかしな性癖を拗らせたのも、夢の中で交わす熱に焦がれたのも、全部全部、ハンジだから。
荒く息を吐きながら、リヴァイは死にたい気持ちになっていた。こんな形で自覚することになるなんて。
「お前が……お前だって……どうして、わざと……!」
「わからないの?」
細く、小さく、それでもはっきりとその声は発せられた。リヴァイに不当に動きを奪われているはずのハンジが、腰を掴むリヴァイの手を優しく撫ぜる。そこには困惑も、疑問も、恐怖もなかった。
リヴァイが逃げ出したあの日と、同じ熱があった。
「なんで私が、わざわざこんな痛い思いしてたか……本当に、わからないの……?」
指が、リヴァイの節くれだった人差し指を、手の甲を、手首を、愛しむように辿る。ハンジは抑え付けられたまま首をひねり、リヴァイを見上げた。ずれた眼鏡の下からの視線に絡めとられ、身動きができなくなる。
軽蔑に怯えてハンジから逃げ出したリヴァイが、知る由もなかったものが、そこにはあった。
「……ハンジ」
「ねえ、私、頑張っただろう? ちゃんと、上官らしい上官だっただろう?」
声を揺らしながら、ハンジは言った。その頬も耳も首筋も、匂いたつ赤に上気していく。まさか、とリヴァイが震わせた喉は音にならなかった。
「〝躾〟にはご褒美が必要なんだよ……知らないの?」
体の芯が、抑えきれないほど熱くなっていく。無意識に滑らせていた掌でしっとりと尻の丸みを包むと、ハンジは小さく吐息を漏らした。それは高く、甘く、劣情を誘う湿り気を帯びている。
「リヴァイ……おねがいだよ、褒めて……」
眼下の尻が、悩ましげに揺れる。一方的な願望が見せる思い込みではなかった。
ハンジがリヴァイを、確かに己の内側へと誘っている。
なおも動かぬ男に焦れて、とうとうハンジが柔らかなそこでリヴァイに触れた。寒気にも似た快感が脳天を突き抜ける。
「ご褒美、ちょうだいよ」
それは、リヴァイが求めてやまないものだった。
ハンジの許し。ハンジの欲望。
リヴァイにだけ向けられる、ハンジの執着。
「──ああ、好きなだけくれてやる……!」
見つめ返した瞳が際限なく溶けていくのに尻を叩かれて、リヴァイは震える指でベルトを外した。
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