空が、赤い。
血の色だ、とリヴァイは思った。
わかったことはそれだけだった。他は何も──耳や鼻や手や足や肌で感じるはずの何も、脳に伝ってこなかった。
それが一時的なものなのか、これからずっと続くものなのか。それさえもわからない。
雲の陰影、らしきものが見えた。空だと思ったのはそのためだ。空は夕焼けなんかじゃ間に合わないような赤に染まっていた。
やはり、血だ、とリヴァイは思った。
人生で一番多く見てきた赤だ。
ふいに、視界を影が覆う。
名を呼ばれた気がした。
影の中にチカ、と光が瞬いて、なんとなく丸みを帯びたものになっていく。小さくとも喧しく光るそれは、人生で一番多くとは言わずとも、リヴァイがよく見てきたものだった。
(ハンジ)
確信して、そう呼びかける。
ーー安心して 絶対に助けるから
光はそう答えた。
(無茶をするな)
ーーわかってるよ
(うそつけ、この、クソメガネ)
大抵いつも嘘になる。
声に出しても、出さなくても。リヴァイがハンジを止める言葉は、表面だけをつるりと飲まれて、内側の意は汲まれることなく放り投げられた。
いつだってそうだ。ハンジはいつだって、リヴァイの伝えたいことを蹴飛ばした。
瞳と瞳を、あるいは、意識と意識をつないだ線の上で、どれだけのものが行き交ったか。数える気さえ起きない。
けれど、そもそも。
交換した言葉も刹那の次には否定しなければならないような、そういう状況が次から次に生まれるのが調査兵団だった。調査兵の置かれた場所だった。
「ずっと本物だ」と言いきれることなんて一つもなかったはずだ。なのにどうして「自分とハンジは違う」などと思ったのか。
(ハンジ)
光は、今度は答えなかった。
いいや。今までだって、本当に答えていたのだろうか?
リヴァイが聞きたい言葉を、そこに描いただけではなかったか。
そうだとしたら。
(ーーとんだ勘違いだ)
リヴァイは何も知らない。
何も知らなかった。
誰のことも、友と呼んでよかった人間のことさえ全くわかっていなかった。決めつけることで看過してきた。
ハンジのことだって。
感情は。欲求は。もっともっと奥にある、ハンジをハンジたらしめる最初の願いは。兵士のガワを剥いだ、ただのハンジとしての言葉は。
何も知らない。知ってこなかった。
ありもしない疎通を勝手に見出して、それに身を預けていた。投げたものがハンジの手をすり抜けても気づかないふりで、関わることをやめなかった。
やめられなかった。
その結果がこれだ。
肝心なときに、リヴァイの言葉は届かない。
歪な形の何かが、赤一面の真ん中でまたチカリと瞬く。
(……それでも……)
光を宿す眼球が、リヴァイを見返す。
赤と影に占められていた視界が、ついにどっぷりと黒へ沈む。
瞼の裏に恐ろしいほどの無限が生まれ、砕けた脳が止めるまもなく散っていく。今のリヴァイにそれを掴むすべはない。
力も、意気も。ほとんど潰えてしまっていた。
(クソッたれ)
次に目が覚めたなら、この小さくて散り散りで、まったき自分のものだけの感傷はどこかへ消えてしまっているだろう。
そのほうがいい。動きも揺れもなく、透き通った思考でそのときその場の最善を尽くす。差し迫る危険を誰よりも早く察知して、跡形も残さずに排除する。
リヴァイはそうやって生きてきた。選んで、生かしてもきた。
間違っていたと悔いる時期はとっくに過ぎていた。だから進むしかない。
そうでなければ、何も成せない。
意識の最後の一片が消え去る瞬間、黒の濁流の中に、砂つぶのような光が揺れた。
言葉の一つも伝わらない、網膜への焼きつきか、あるいは願望の表れか。
その程度のもの。
けれどそれは、今のリヴァイを導く唯一のものだった。
〈了〉