「よしよし」する話
疲れた彼を彼女がよしよしする話
「よしよし」する話
疲れた彼を彼女がよしよしする話
どれだけ兇悪を煮詰めたような顔であろうとも、その顔の持ち主がまた理性十割の精神をも持ち合わせた男であることは、その場にいる誰もが知っていた。
だから、男にかけられる言葉は一様に彼を労うものだった。
「リヴァイ、今回はご苦労だったな」
「……ああ」
「無事のご帰還何よりです、兵長」
「……ああ」
「疲れただろう。ゆっくり休めよ」
「……ああ」
ソファに身を沈めた瞬間、恐ろしく歪んだ表情のまま全自動で「……ああ」と返答するだけの人形と化した男を中心に、しかし周囲はのんびりと己の仕事をこなしていく。
調査兵団の長・エルヴィン・スミスは、鷹揚な動作で男の持ち帰った中央会議議事録に目を通しはじめた。
第一分隊隊長のミケ・ザカリアスは新兵の評価をまとめた書類に不備がないかの最終確認を終え、エルヴィンの机の〈未確認書類〉の山にそれを置いた。
団長への報告の順番を待つ第四分隊副隊長モブリット・バーナーは、なぜかしきりに背後の扉を気にしている。
緩やかに、かつ否応なく動く360度の真ん中で、疲労の沼に浸かりきった男──調査兵団兵士長・リヴァイは、組んだ腕だけで辛うじて体裁を保つと、その小柄な体躯をソファの背面に深く預けた。
リヴァイが兵士長の仕事について考える時、最初に浮かぶのは『巨人のうなじを削ぐこと』、一も二もなくこれである。
そもそもこの組織に兵士長という役が設けられたこと自体、リヴァイの余人をもっては代えがたい戦闘能力故なのだから当然だ。
しかし万年人手不足のこの兵団で、壁の中でも外でも兵士を統率する立場にあり、ひいては兵団の運営状況を細かく知る立場でもあるならば、それにまつわる仕事を請け負うことになるのも自明の理である。
つまり、兵士長には巨人を屠る以外の仕事も案外多いということだ。
リヴァイとしては、別にそれで不満はなかった。役職と権利を与えられている限りその義務は果たすべきだと常に考えていたし、自分だけが過剰に働かされているとも思っていなかった。
調査兵団の幹部兵は等しく働きすぎの気がある。
そんなわけでリヴァイは、今年度の活動報告と監査のために単独での出張を命じられた。向かうはここより壁を越えた人類の領域のさらなる内側、王都ミットラス。期間は一週間だ。
ところで、三重の壁に囲まれた中央におわします二足歩行の豚たちの仕事とは何だろうか。彼らとの付き合いが数年になった今も、リヴァイにはよくわからないままである。豚は人の肉も骨も食らってしまうというからその類だろうか。
現にリヴァイも、特段良くもない頭と出自を存分に論われ、塵にも満たない矜持を散々貪り食われ、「どうにか任務は果たした」と言えるだけの体でようやく帰還した今である。
要するに、 疲れていた。それもかなり。
決められたことを決められたとおりにこなせばいい、なんてとんでもない。連中はリヴァイにありとあらゆる言葉を投げてきては、彼が失言という名の指を差し出さないかと目を光らせているのだ。
出したら最後、腕まで食いちぎられる。
倒すことの叶わない巨人と同じだ。
クソが。挽肉にしてやろうか。
任務中何度も何度も飲み込んでは腹を下しそうになった罵声を口中で唱えてみるが、それももはや靴の裏にへばりついた馬糞の如く不快さしか連れてこない。
リヴァイはゆっくりと目を閉じると、呼吸を意図的に深くした。
他人のいる場所で視界を閉じることなど常はしないのだが、室内にいるのは長く信頼を置いてきた同士たちだ。彼らはリヴァイの寝首を掻くことも、くたびれた姿を嗤うようなこともしない。
だらしなく足を伸ばし、耳をすませながら、リヴァイはこれから与えられる余暇について思いをはせる。
食堂で軽く何か腹に入れて、自室に戻って簡単に掃除をして睡眠をとるのが順当だろう。それで十分だった。兵舎に響く日常の喧騒を聴覚の端に引っ掛けて、今はただ、深く眠りたい。
「ねえエルヴィン! ちょっとこの案聞いてくれない!?」
リヴァイが願いを唱え終わったタイミングで、その希求をぶち破る大声が部屋全体に響き渡った。
ぐったりと視線を巡らせた先には、開け放たれた扉の前で額を押さえてうずくまるモブリットが一人いるだけで、声の主はとっくにソファの背後を通り抜けてエルヴィンに噛み付かんばかりに肉薄している。
「見てこれ! さっきの図面ね! なんと重さを三割も軽減させられる方法を思いついたんだ! ここをある素材に変えるんだよ! なんだと思う!?」
「なんだ?」
「木だよ木! お願い実験させて!」
「は、ハンジさん……」
「ん?」
息継ぎを狙った声かけはさすがというべきか。振り向いたハンジ・ゾエこそは第四分隊隊長、モブリットの上司であり、彼の次の言葉が「肝心の図面がぐしゃぐしゃじゃないですか!」なところまで含めて、モブリット・バーナーはハンジ・ゾエの完璧な副官であった。
「……あれ? リヴァイ」
ハンジの爛々と輝く目が、不意に疲れきった男を捉えた。入室から数十秒経ってようやくの認知だったが、もはや谷となった眉間の皺を見れば彼の機嫌など瞭然のはずだった。
リヴァイの出張のことは当然ハンジも知っていたので、その口から放たれるのも当たり前のように、労いの台詞なのだと──
「どうしたんだい? 普段から景気の悪いツラがさらに悪化してるじゃないか」
──その場の誰一人、思っていなかったが。
ハンジ・ゾエ。
リヴァイの精神を構成する十割の理性を、ごく稀にそっくりそのまま裏返してしまう唯一の存在である。
「……ああ、俺ァ相当疲れが溜まってるらしいな」
無神経な言葉を受けた当のリヴァイは、意外にも平静だった。顔は歪んだままだったが。「ふーー……」と胃の腑から起きたような長い息を吐きながら、だれきっていた両足をいつものように組みなおし、ソファの上で踏ん反り返る。
「眼鏡がしゃべる幻覚が見える」
「へー。興味深い幻覚だね。眼鏡はなんて言ってるの」
ハンジの返答は雑だった。図案の皺を伸ばすのに夢中になっていたからであるが、視線のかち合わぬ二人の合間には他人が口を挟む余地のない緊張が満ち始める。
「『二、三発ほど自分にかませ』だと」
「ええーっ、物騒!」
「物騒なのはあんたの態度ですよ!」とモブリットの諌める声が上がるが、ハンジどころかリヴァイすらそれに反応しない。ちなみにエルヴィンは自分の仕事をこなしていた。ミケは窓の外を眺めている。
「こんなところで暴れても満足できないと思うし、さっさと部屋に戻ったら? そこで存分にストレス発散すればいい」
「発散相手がいなきゃどうしようもねぇんだが」
「あー残念だなぁ、私に時間があれば相手してあげたんだけど、忙しいしなぁ!」
大げさな身振りでエルヴィンに向き直ったハンジは、彼の手が未だにリヴァイの持ち帰ったであろう紙束を持っていることを認め、少しだけ動きを止めた。視線を横に滑らせれば、己の番を持つ書類の山々がハンジの割り込みを無言で責めている。
「えーっと、エルヴィン」
「なんだ?」
「実験の承認……」
「そこに置いておけ。今日中に確認して研究班と技術班それぞれに通達する。それよりハンジ、」
太陽はちょうど軌道の天辺にかかるところだった。今日中、ということは夕刻や夜も含まれるわけで、承認されたとしても実際に行うのは明日以降になってしまうだろう。
空いた時間の長さを考え始めたハンジだったが、エルヴィンの声にすぐさま呼び戻される。
「お前、今日の午後から明日の午前中は待機時間だっただろう」
「あ」
「ほう」
ハンジのすぐ背後から声がした。確認するまでもない、リヴァイだ。
「いやでも私、通達が……」
「今日中に確認して研究班と技術班それぞれに通達する」
エルヴィンが先ほどの言葉をそのまま繰り返す。
「分隊長、俺がしっかり受け取ります」
「いやそんな、悪いよ、……うっ!」
言い募るハンジの首が突然、ガクッと後ろへ折れた。襟首を摑む男の手に、哀れハンジは撤退を余儀なくされる。
「待ってリヴァイ!」
「なんだ? 五発に増やせ?」
「言ってないし、苦しいって!」
自分より上背のある兵士を片手で引きずるリヴァイに、先ほどまでの疲れは微塵も感じられない。必死の抵抗もまったく叶わないハンジは、さっと道を避けたモブリットに「なんだよその目は!」と悲痛な叫び声を投げるしかできない。
リヴァイの手が扉にかかる直前、エルヴィンが思い出したように顔を上げた。
「リヴァイ、報告書は確認した。行ってよし」
「了解だ」
「順番が逆! うわぁあぁあ……!」
扉横の壁にしぶとく残っていたハンジの指も、すぐに消えた。廊下に響く声もこれに倣うだろう。
やれやれ、と息を吐いたのは誰だったか。その場にいた全員かもしれない。
「……毎回あんな調子なのに、翌日のハンジさんがピンピンしてるのはさすがというか」
「以前尋ねてみたんだが、実際はリヴァイが延々酒を飲んで愚痴を吐いているだけらしい。ハンジは黙って聞いているそうだ」
「いつもと逆になるんだな」
「ああ、それなら平和ですね」
**
日の傾きによって床をくるりと巡る窓の形が、リヴァイは意外と好きだった。
自室のベッドに座り、ほんの束の間その明るさを眺め、それからふよふよと浮いた埃に我に返って掃除に取り掛かるのがリヴァイの余暇の過ごし方だ。
だが疲れきって帰還したはずのリヴァイは、今、窓枠に切り取られた光の真ん中で急き立てられるように手を動かしていた。
「……はっ、」
「ちょっ、ちょっと待ってリヴァイ、ね、先にお風呂に入ろう?」
「いやだ」
言うや否や、リヴァイはジャケットを素早く脱ぎ捨て首を隠すクラバットを乱暴に解いた。そして休むことなくハンジの背後に手をまわし、熱とともに背筋に滑らせたそれを腰布の下に潜り込ませた。
「っこら……! リヴァイ、私が洗ってあげるから……あっ、ダメだって」
「ハンジ……」
説得を繰り返すためかリヴァイの唇を避けるハンジに焦れて、晒された首へと標的が移る。彼は舌でぬめぬめと鎖骨と顎を行き来し、啄むより少し強い加減で遊ぶことを繰り返した。
快感の手前のくすぐったさに、ハンジは身悶える。その間も二本の腕が止まることなく尻を揉むのだからたまったものではない。次第に息を荒げていくリヴァイの双肩に優しく手を添えると、ハンジは渾身の力でその体を引き剥がした。
「っ……おい、」
そして文句が吐き切られる前に、リヴァイの戦慄く両腕ごと彼を抱きしめる。
「あなたの望むことはよーくわかってる。だけど私の言い分も聞いてほしい」
「ヤりながらだって聞けるだろうが」
「それは話す側が無理だと思うんだけど……」
男のあんまりな言い分にさすがに張り手でも食らわそうかと思ったハンジだが、普段我を押し通すのは自分であることを考えるとその気もなくなってしまう。何より、リヴァイは酔漢でもなければ暴漢でもない、ハンジの恋人である。待てと言えば大概は待ってくれるのだ。
急に愛しさを覚えたハンジがリヴァイの頬や額に口付けをし始めると、獣のように牙を剥いていた彼も動きを止め、目を細めてハンジの唇に感じ入った。
「クマが酷いよ。肌もガサガサだ」
「……憲兵ども、部屋の外を一晩中うろついてぺちゃくちゃとおしゃべりしてやがった」
「かわいそうに……さ、湯船で温まろう。あなたが帰って来た時のためにちゃんと浴槽も磨いてたんだよ」
「はっ……殊勝なこった」
先ほどまでの荒々しさを収めた腕が、ハンジをぎゅう、と抱きしめ返す。首筋に必死に擦り寄ってくる頭などは「これは相当疲れているな」と察するに余りあった。ゆっくりとその黒髪に指を通し、ハンジは「よしよし」と彼の後頭部を撫でた。
「……お前に触れている時が、一番安らぐ」
「うん、うん……知ってるよ。すごく嬉しい」
リヴァイの単身での出張は、実はそう多くはない。いつも壁のそばに置いておきたい兵団の意向だった。
そして数少ないその任務のうちのすべてで、リヴァイの疲労の度合いはいちいち凄まじかった。
出自も権威も信仰も、壁外では身に纏う衣服ほどにも役に立たない。あそこで指標になるのは"死なない力"だけだ。だからこそ忘れがちだったが、リヴァイはいつだって自分の過去が調査兵団の重荷になる瞬間を恐れていた。
自身ですら「よくわからないが手に入れていた」という類い稀な身体能力を、例えば「よくわからないが失くしてしまった」時が来たとして、彼はそこでもう、自分の存在価値などすっかりなくなってしまうと思っているのだ。
(そんなわけないのに)
そんなわけあると思っているリヴァイだったので、力が求められない場での振る舞いに神経を尖らせるのも当然と言えた。それをあまり表に出すことはしない彼だから、ハンジも毎回、同僚たちに下手な芝居を打ってまでうんと彼を甘やかしたくなってしまうのだ。
隆々とした背中をゆるく、眠る直前の呼吸の速度で撫でながら、リヴァイの耳元で優しく囁く。
「体を綺麗にしたら、何か食べて、ちょっと眠って、それから色んなことをしよう?」
リヴァイが小さく震えた。ハンジの台詞になのか、うなじを辿る指になのか、それとも耳朶を食む唇になのかはわからないが、密着していたはずのハンジはそれに気づかない。
「今日はリヴァイの好きなところ全部舐めてしゃぶってあげる。陰嚢だけで達するの、好きだよね? 頑張って練習したから期待してて。それから上に乗っていっぱい動いてあげる。リヴァイは寝てるだけでいいから。後ろも使っていいよ」
すぐそばから、ギリ、と奥歯を噛みしめる音がして、ハンジは我に帰った。少しだけ距離を置いてリヴァイを窺うと、その眼に獣のそれが戻り始めているではないか。「下手こいた」と冷や汗が背中を伝う。
「あっ、……えっと、さっき言ってたよね、二、三発だっけ?」
執務室での真意を隠したやりとりを思い出しながら、ハンジは焦り顏でそう問うた。
「最低五回だ」
「ごっ……」
喉の奥で何かが詰まるような音が出たが、愛しい恋人が身も心も疲れるばかりの出張から帰還して、なにより自分も心待ちにしていた時間だったことを思えば、反論は溶けて消えていく。むしろ五回かそれ以上、これから一日をかけて自身を翻弄するだろう衝撃のことを考えると、ハンジの体はそれだけでもう一度目を数えそうになった。
「……うん! わかった。いっぱいしよう」
リヴァイの腕がハンジの腰を引き寄せ、近づけた顔を軽く右に傾けた。彼の望むことはよーくわかっているので、ハンジもそれに応えて目を閉じる。
結局労いの言葉がその口から出ることはなかったが、細胞の一つ一つ、そしてハンジの全てがリヴァイを癒すために喧しくざわめいていたのだから、まあ、同じことだった。
それからの二人が、何をどれだけこなして、いつ自失したかは不明である。
翌日自分たちの残した惨状を目の当たりにしながらも、恋人たちの時間を堪能したリヴァイとハンジは、大変元気に出勤したのだった。
〈了〉
(初出 19/07/18)