今にも落ちそうな空の下で
高みへ落ちていくリヴァイの話
今にも落ちそうな空の下で
高みへ落ちていくリヴァイの話
耳の横を吹き抜けていく風に、リヴァイは刹那、息を止めた。地上で二十四時間を過ごす生活に放り込まれて一ヶ月。鼻から吸う空気に腐敗の気配がないことを、リヴァイの感覚器官は未だに常のものとして受け入れられないでいる。
そして馴染まない体のせいなのか、一ヶ月を過ごしたにもかかわらず、リヴァイの存在もまた調査兵団の群集から浮いたままだった。
地下から共に来た仲間たちは、壁の外で早々に死んでしまった。
彼らは何よりも肥え太った金持ちどもの足下から這い出ることを望んでいたので、天井も壁もない、腐った臭いがすることもない場所で死んだことを悲しんで悼むべきなのか、いまだにわからないままだ。
背中を任せていた仲間を失ったという事実はあくまでリヴァイ一人だけのもので、自己の感情に沈み込むことも得意としない思考は、たった独りになった今を〝昔に戻っただけ〟としか捉えられないでいる。
「……なあ、」
それが自分に対する呼びかけだと判断したリヴァイは、声の主を素早く振り返る。そう歳も変わらないだろう兵士がリヴァイに向かって手を挙げていた。
「組まないか? 対人格闘」
リヴァイがほうけているうちに、どうやら訓練が始まっていたらしい。訓練場のあちこちで兵士各々の足さばきによる砂埃が舞い上がっている。
「……服が汚れるな」
「はあ?」
意図せず思ったままを口に出してしまったリヴァイに、男が呆れたように眉を跳ねあげた。そして肩を落とす。別に断ろうとしたわけではない。すぐに意思の不疎通を察したリヴァイがなんと弁解するべきか考えあぐねているあいだに、男は口を噤み体を斜めにして、そこから立ち去ろうという意思を見せた。
しかし、その肩がぐらりと傾ぐ。
「ねえ二人とも! 対人やらないの!? じゃあリヴァイ私とやってよ!」
男の大きな体を押しのけるようにして、喧しい声とともに別の兵士が現れた。同時に乱入者を見やったリヴァイと男は、やはり同時に顔を歪める。眼鏡と鷲鼻と、それらに隠れがちな均整のとれた眼が特徴的な女は確か、
「ハンジ、押すなよお前!」
「え? ああごめん、君大きいからどいてもらわないとリヴァイが見えなくて」
──そうだ、ハンジ・ゾエ。喧騒から遠巻きにされているリヴァイに何かと声をかけてきて、そのくせ悪気もない顔で悪どいことを言う、気遣いのなさを躊躇なくぶつけてくる女。
一気に二人分のうんざりした表情を引き出したハンジは、しかしまったく構うそぶりもなくリヴァイに言った。
「ねえリヴァイ、いいだろう? 私と組んでくれないかな? 君と闘りたいんだ」
「おいハンジやめとけって……」
「なんで? やっぱり二人でやるの?」
「そうじゃないけどよ」
「二人同時にでいい」
互いを見合っていた二対の瞳が勢いよくリヴァイに向き直る。片方は困惑、片方は興味に彩られて。
リヴァイと二人が等間隔の距離で立ち会うと、その陣形は三角形を描いた。ハンジ曰く「彼の体躯のせいで動きに支障が出る可能性がある」ということだったが、要するに体がデカいのでリヴァイに肉薄する際にぶつかるかもしれないということだろう。
空に駆け上っていた声の数多はいつのまにか耳に届かなくなっており、リヴァイは二人から視線を外すことなく自分たちへの注目を察した。少しだけ辟易する。
「先手は君からでいいよ」
「同時じゃないのか?」
「まさか。ぶつかるじゃないか」
「それ二人で仕掛けるって言わなくないか……?」
肩を落とす男に同情しつつ、リヴァイは両足をずらして立つと重心を爪先に移動させた。阿呆なやり取りを交わしていても兵士二人だ。油断はしない。果たして、その判断は正しかった。
男の姿が消えたかと思うと、一瞬のあいだにリヴァイの目前に迫っていた。リヴァイはほとんど無意識に腰を捻り、男の向かって左側に体を滑り込ませる。胸のすぐそばを、襟を取ろうとした男の右手がひゅっ、と鋭く掠めていく。リヴァイは空気を割いた腕が引っ込む前に男の肘を弾いた。
広い背中が体勢を崩す。
男の視界から完全に外れたリヴァイは、無防備なうなじに裏拳を叩き込もうと勢いよく右腕を折り畳んだ。己の拳が左耳に触れる。
と、影が視界の隅を走った。
ハンジだ。
そう認識するのと同時に、リヴァイは体を沈ませながら振り向いていた。ハンジは先に対峙した二人のさらに斜め後ろにまわりこみ、リヴァイが攻撃に転じた瞬間の首を薙ごうとしていたらしい。横に突き出された腕が見目にも大きな力を伴って頭の上を通り過ぎる。
「あれっ……」
渾身の一撃を外して無防備になったハンジの腹めがけ、掌打を叩き込もうと指を固める。微かな焦りが、ちり、と胃を焼いた。
「参った!」
勝敗を決めたのは、地に膝をついた男の声だった。途端、リヴァイも解放を求めて縮まっていた筋肉から強張りを消し去り、力を収める。
けれどハンジだけは自らが生んだ勢いを殺すことができなかったらしい。静かに立ち上がったリヴァイの目の前で「うわ!」と倒れ伏し、盛大に砂塵を巻き上げた。おおよそ訓練された兵士が起こしたと思えない惨状に思わず目を眇める。
「ハンジお前ふざけんなよ! 俺のこと囮にしただろ!」
のろのろと起き上がるハンジに男が叫ぶと、周囲に満ちていた緊張が解けていくのがわかった。リヴァイの予想どおり訓練中であるはずのほとんどの兵士が手を止めて三人に目を向けており、特にハンジには呆れたような視線が集中している。
「え、でも囮にしなきゃ二人で仕掛けるって言わなくない?」
「成功しなきゃ意味ないだろ!」
「やるまで成功するかわからないだろ。それよりリヴァイ! ありがとう! やっぱり敵わなかったね!」
敵う気なかったんじゃねぇか。
そう突っ込む前にハンジが立ち上がって笑いかけてくる。砂でうっすらと汚れた眼鏡を見ながら、リヴァイは「そういえば点呼以外で名前を呼ばれたのは久しぶりだ」と頭の片隅で思った。
「じゃ、次はあなたが仕掛ける番ね」
「……は?」
「対人格闘訓練なんだから交代で仕掛け合わなきゃだろ。ねえ! 君もやる!?」
「馬鹿。お前の餌にされるなら御免だ。二人で勝手にやってくれ」
「下手こいて怪我すんなよーハンジ」
男の周りで小さく笑いが起こり、彼が歩き去ると次第にそれも薄まって消えてしまった。どこか揶揄のこもっているような視線の壁がようやくなくなったので、リヴァイもそうとは気づかれないように息を吐く。自分が浮いている存在だと自覚はあるが、見世物にされたいわけではない。
「そういうわけでリヴァイ。私一人で受けるからよろしく」
「……怪我するぞ」
「いいよとは言わないけど、敵を倒す訓練なのに手加減に苦心するなんておかしいよね」
「……」
なんとなく会話が噛み合っていないことはわかったが、既に位置についたハンジは何を言っても聞きそうになかった。どうしたもんか、とリヴァイは考える。
己の力を制御できる自信があるとはいえ、全力を出すよりも加減することの方が幾らか神経を使う。その点ではリヴァイも普通の人間と変わらなかった。石を壊さないように打つ力と粘土を壊さないように打つ力は違う。対象によって必要な力はまったく違ってくる。
そしてリヴァイは、ある程度か完全かの違いはあれど、今まで壊してもいい対象しか知らなかった。男で、さらに鍛えられた兵士を軽くいなす程度ならまだしも、女となるとほとんど初めての手合わせとなる。こうして配慮を考えてはいるものの、先ほどの組手のように敵意を持って背後に立たれればそれも抜け去ってしまう。あの時も、男の止める声がなければハンジは医務室送りになっていただろう。
仕方がない。なるべく体に触れないようにするか。
リヴァイは予備動作もなく地面を蹴った。滑るようにハンジに迫り、先刻の男と同じように兵服の襟に両手を伸ばす。ハンジの目はリヴァイを捉えられていなかった。このまま掴み上げて足払いをかけ、地面に落とす直前で止めればいい。リヴァイがそう断じた瞬間、目を見開いたハンジが両腕を胸の前に構えた。襟をつかむはずだったリヴァイの手は、しかしその手首を囲んでしまった。
「っ」
ハンジは"掴まれた"という感覚にほとんど反射で応えたらしく、リヴァイを見据えたまま腕を強く動かした。
右腕を右後方へ。左腕を右上方へ。前に踏み出していたリヴァイを、自らの体の横に引き込むように。リヴァイの類い稀な動体視力はハンジの動きを把握してはいたが、それが何を意味するのかという判断にはすぐに繋がらなかった。ハンジが右に体を捻る。引き込まれるとばかり思っていた力の中にその流れを後押しするような突き放す力を感じ、リヴァイはすんでのところでハンジの腕を離した。そして近いほうの手でその襟首を捕まえた。
「!」
投げられる動きに逆らわず、空いた手をついて後頭部が地面に触れるように前転する。もう片方の手にハンジの体重がかかっていたせいか、リヴァイは受け身をとり損ねて仰向けに転がった。襟を掴まれたままだったハンジも真横でおかしな倒れ方をしたらしく、ぐえっ、と妙な声をあげて地面と接触する音があった。しばらく、砂の細かな粒だけが辺りを覆い尽くす。
二度、瞬きを繰り返したリヴァイの視界に、不意に枠のない空が広がった。
青空という言葉も、青という色も知っているつもりだったのに、その時のリヴァイは、目の前に現れた光景がどちらにも当てはまらないものだ、と確信した。
リヴァイから空まで、途方もない距離があった。
色ではなく光があった。
高い、と表現するはずの天を、けれどリヴァイは、深い、とだけ感じた。
落ちてしまいそうだ。
「リヴァイ」
恐怖にも似た感情に底を与えたのは、砂まみれの顔で微笑むハンジだった。ハンジは上からリヴァイの顔を覗き込み、リヴァイの見開いた目を見てさらに笑みを強くする。
「……ふふ、ふふふ」
怪しく肩を震わせはじめた姿に、リヴァイはハンジを避けながら即座に起き上がった。
「いよっし! 通じる! 通じた! リヴァイに通じた! 私の理論は間違っていなかった!」
爆発の予感を得たリヴァイの勘も間違っていなかった。握りこぶしを作ったハンジが体を曲げてほとんど吠えるように叫びをあげる。一度は離れていた周囲の視線が、その狂態にまた一瞬で壁を作った。
「今まで収集した個体値にそれぞれ当てはめられるかな!? 変換できる!? いやする! 必要ならもっと集めよう!」
一人で宙に何かを書き始めたハンジに、リヴァイは何と声をかけるべきか迷った。立ち竦んだまましばし考えるも、ハンジはますます自分の思考に沈んでいく。他人がいる場所でどころか、自分しかいない部屋でさえ内側にこもることをしないリヴァイにとって、その姿はほとんど異様とも思えた。
「ほっとけ。いつもああなんだ」
少し離れたところからそう声があがり、視線を横にずらす。先ほどの男だった。
「周り巻きこんどいて、いつも最後は一人で走りだすんだよ。意味わかんないだろ」
「……いつもか」
「いつも。そうだよな?」
男が同意を求めて背後を振り向くと、そばにいた数人が肩を竦めた。言い過ぎではないらしい。リヴァイに話しかけてくるときに爛々と輝いていたハンジの瞳は、どうやら状況次第でどこにでも、いくらでも見る先を変えられるようだった。
じっと黙り込んでいると、訓練の終了を告げる鐘が鳴った。男がリヴァイを促すように「……なあ、」と声をかける。偶然にも、最初に話しかけてきた時と同じ調子で。
「お前死ぬほど強いくせに、手加減は下手だな。服が汚れてるぞ」
男が続けたのは、少しだけ角を失くした言葉だった。
**
気配を消して入口に立ったにもかかわらず、室内にいる者のほとんどがリヴァイに気づいた。
調査兵たちのこういうところが慣れないと思う。地下にいた人間たちよりも圧倒的に目の粗い警戒心でいながら、地下にいた人間たちが女や金や酒を得たときに緩ませる空気を持つことがない。
相手が持つ意思に合わせてある程度緊張をコントロールしているリヴァイは、彼らの前でどういう態度をとるべきか決めかねていた。
「誰か探してんの?」
談話室は調査兵団の中で性別・階級を問わずに開かれている部屋の一つだ。いくつか置かれたソファを制していた女性兵の集団から気の強そうな一人がリヴァイに問うてくる。室内に飛んでいた話声が、少しだけその音量を下げる。
「……ハンジ・ゾエはいるか」
「ハンジ?ーーあれ、いないね」
「あの子ここで寛ぐなんてするの? 見たことないけど」
「今日午後の訓練も失敗ばっかだったから、班長に絞られてんじゃないかな」
次々とあがる返答はしかし、ハンジの行方を知らせるものではなかった。リヴァイは無言で頷いて一応の感謝を示すと、彼らに背を向けて心当たりへと歩き出した。いくつか視線が追いかけてくるのを感じたが、その意味を探るとこはしなかった。
「おい」
「んっ!?」
薬臭さが鼻につく。地上でのその臭いは清潔と癒しを表しているはずだ。リヴァイはゆっくりと体の力を抜き、暗闇で動きを止めた影をひたと見据えた。
「盗みか?」
「ひ、人聞きが悪いな。担当兵士不在の場合は記名さえすれば許可済みの医療品を持ち出せるんだよ?」
「灯りもなしに文字が書けんのか」
「……」
影が諦めたように肩を落とす。リヴァイは過たずそのそばに近づくと、影が手に持っていた物々を取り上げた。
「あっ」
「貸せ。俺がやる」
「……灯りもなしに?」
どうやらやり返しているつもりらしい態度に、喉がくつと鳴りそうになる。衝動と、それを押し込めることすらも無意識で終わらせたリヴァイは、何も言わずに医務室を出て影を──ハンジを外に促した。
そばの窓の近くに移動し、「見せろ」と一言命じる。今夜は高く昇った月を使って検分してみれば、渋々と晒されたハンジの両手首は赤く腫れ上がっていた。折れてはいないようだが、五つの軌跡は確かめるまでもなくリヴァイのものだ。やはりな、という気持ちの裏に言いようのない苦味が混じる。
「……台帳にさ、一応怪我の箇所や理由も書かないといけなくて」
「ああ」
「私こういう怪我の常習だから、あんまり目をつけられたくないんだよね」
「盗みのほうが問題だと思うが」
咳払いが起こる。リヴァイは薬を染み込ませたガーゼで手首を覆い、上から包帯を巻き始めた。やり方なんてわかりもしなかったが、何も言われないので問題はないのだろうと判断する。
「あの……訓練の時はごめん」
「ーーなにがだ」
ハンジが零した謝罪に素直に驚く。そうするつもりはないが、少なくともリヴァイの口から出たほうがまだ自然な台詞だと思ったからだ。
「馬鹿みたいにはしゃいじゃったから……私いつもそうなんだ。感情が高ぶると周りが見えなくなっちゃって、あなたに恥をかかせるようなことをしてしまった。ごめん」
「恥なんてかいてねぇよ」
本心だった。リヴァイの恥の範囲は意外と狭い。
一応は荒くれた世界を生きてきたという矜持も持っていたが、それが壊されるのはきっと死ぬときだと思っているくらいだった。
今のリヴァイの心中を占めるのは、自分の背中を汚させた技に対する驚きと、訓練の時と違って嫌に大人しいハンジへの違和感だけだ。
「そう……うん、そうだね。あなたは恥なんてかいてないか。恥じゃないもの。私がすべきは謝罪じゃないね」
されるがままに治療を受けていた手のかさついた皮膚が、リヴァイの手の甲に触れる。
「ありがとうリヴァイ。あなたのおかげで道が一つ開けた」
「……道?」
「試したかったんだ。自分の力に頼らず、相手の力を利用して完全にその動きを制する技。東洋のジュウジュツって言うんだけど、相手の力が大きければ大きいほど制する力も強くなるんだって。昔の文献に笑い混じりに書かれていたものだったからできるかどうかも半信半疑だったんだけど」
あの聴衆とリヴァイを前に、ハンジは半分しかない自信で勝負を仕掛けてきていたらしい。あまつさえ、その勝負に勝った、と。
「私のお粗末な技がリヴァイの力に通じた。異常とさえ言える力に。思い描いていた仮説が正しいと証明されたんだ」
腹立たしくも少しだけ目線の高いハンジが、なんの揶揄いもなくリヴァイを見下ろして笑う。
輪郭が薄闇に溶けて、月の側にある頬と瞳だけが静かな光を貯めていた。まさしく夜に身を置くその姿の背後に、リヴァイはなぜか、あの深い空を見る。
「……でもこの手首、咄嗟に手加減してくれたんだろう? おかげで致命的な怪我には至らなかったよ」
否定も肯定も難しく、かろうじて沈黙で答える。組み合う前は確かに手を抜こうとしていたリヴァイだが、ハンジの意外な動きを前にはそれは叶わなかった。握った手が意外な頼りなさを伝えてきたから、ギリギリの際で骨を折り潰すことをしなかっただけだ。ハンジはリヴァイの気まずさを知ることなく喋り続ける。
「そもそももっと上手く動けば腫らすことさえなかったんだ。実戦に直接影響するようなことではないけど、この失敗も活かせるんじゃないかな……」
「実戦だと?」
「そう。巨人を前にしたとき」
リヴァイは不意を突かれて固まった。たかが人間同士の取っ組み合いを、あの巨人との戦いに──活かす?
「消化器や生殖器の有無こそ違うけど、関節や筋肉……巨人の体組織はほとんど人間と一緒だと言われている」
痛むはずの手首を動かし、握る、開くを繰り返しながら、ハンジが輝く目で語る。
「予備動作。体重移動。彼らが軽く手でなぎ払うだけでも私たちは簡単に殺されてしまう。回避は重要だ。けれど、逆に力を利用できれば? 互角以上に戦えるんじゃないかと私は思うんだ。今日だってそう。あなたはべらぼうに強い力を持ってるけど、私の誘導で体勢を崩した。まあ完璧とは言い難かったけどね」
訓練場に響いたものとは違う熱情が、しんと静まり返った兵舎の壁や床や天井にぶつかり、リヴァイに降ってくる。
深い空は今や、ハンジの中にあった。
「ベテランの兵士はそれを感覚でやってのけてるんだ。けれどそれも、ひっどい経験の上にほんの一部がようやく手に入れるものだ。それらを並列化すればもっと軌道の幅も増えると思わない? 新兵の死亡率だって下がるかもしれない。あるいは、巨人を封じ込める兵器だって……!」
包帯を垂らしたままのハンジの手が、リヴァイのいくらか分厚いだけの同じものを握る。咄嗟のことで反応もできず、リヴァイはただ目の前の光景を、ハンジを見つめ返すことしかできない。
「リヴァイ、あなたの異常な力は巨人のそれに通じる。巨人討伐にはもちろんだけど、防衛や回避を講じるにも必要不可欠なんだ。確信がある。だから協力してほしい。仲間が死ななくなるなら私はなんだってしたい。してみせる」
馬鹿げた話だ。リヴァイの一部はそう思った。
協力を仰いでいるように見せて、ハンジはその実リヴァイに『自分の理想のために力を費やせ』と強いていた。断ったところで今日のように体良く使われるのだろう。なんて強欲なやつだと呆れ返る。
けれどそんな一部を除いたリヴァイの大部分は、この強欲な女の感情に飲まれかけていた。いや、もうほとんど飲まれていると言ってもいい。己の感情に沈み込むことを得意としないリヴァイの空虚は、もうとっくにハンジの深みに落ちてしまっていた。そして否応なく暴力的な熱に満たされていく。
馬鹿げた話だ。リヴァイはやはりそう思った。
ハンジに乞われたとき、あまりにもあっけなく生まれた願いが、それはそれは馬鹿げたものだったからだ。
「ちょっと。何してんの」
廊下の先から飛んできた声に、二人は同時に互いから遠のいた。焦りを殺して目をこらすと、談話室でリヴァイに話しかけてきた女性兵が立っていた。ゆっくりと近づいてきたその姿にわずかな緊張を感じ、思わず眉を顰める。
「ハンジ、もうすぐ消灯時間だよ。珍しく部屋にいないと思ったら……別んとこで規則破んないでよ」
「あーごめん、すぐ戻るよ」
「当たり前でしょ。で、なにその包帯?」
「えっ、あっ! 新手のオシャレかな!?」
女の棘に引っ張られるように背を向けたハンジだったが、やはりまたリヴァイに目を戻す。ハンジの肩越しに女の鋭い視線を感じ、ああ、緊張は自分へのものだったのか、とリヴァイはようやく気付いた。
最初からそうだった。リヴァイが囮役の男の項を打った後ではなく、打つ前に仕掛けてきたハンジも。ハンジが打たれる前に降参を叫んだ男も。ハンジを探すリヴァイの後を、こうして追いかけてきた女も。
遠巻きに視線を投げてくるだけに見えた兵士たちの、ハンジを許容する言葉も。彼らを死なせないために「なんでもしてみせる」と言いきったハンジも。
おそらくここは、リヴァイが思うよりもずっと、背中を預けてもいい人間たちがいる場所なのだろう。
「おやすみ、リヴァイ」
ハンジは最後に笑ってようやく帰路に着いた。後姿を見ながら、そういえば、と思い至る。
地上に来て初めて、リヴァイはその乾いた大地に背中を許した。生まれて初めて、視界のすべてを空で満たした。
そしてその空に強引に割り込んできたハンジを、その笑顔を
──もう一度見たいなどと、馬鹿げた願いを抱いてしまったから。
空はただ、深さを増すばかり。
〈了〉
(初出 19/03/07)