成る成らぬは
目元でさえ知れない、という話
成る成らぬは
目元でさえ知れない、という話
目が赤い。
まったくもって脈絡のない気づきだった。
動きも揺れもなく、しんと透き通っていたリヴァイの思考は、その瞬間から風に巻き上げられた埃のようにあちこちへ散りはじめた。
ハンジの目が赤い。
異様に。不自然に。
白目と下まぶたの粘膜の部分を充血させながら、ハンジは机を挟んだリヴァイの真向かいに立っていた。両側に並んだ兵士たちの顔と比べても瞭然のその色づきは、どう見ても寝不足と疲労によるものだ。
(……なにやってんだコイツは)
内心溜息をつきながら、リヴァイもまた、赤い目が向かうところへと視線を落とす。
一週間後に控えた壁外調査、その作戦見積のために、分隊の兵士が集められた場でのことだ。
リヴァイのもっとも信頼する仲間たちが、壁外を駆けるにはいつだって心許ない地図を囲み、団長キースが示した状況判断と任務をもとに口々に意見を交しあっている、まさにそんな時のこと。
集団の先鋒を任されているこの分隊にキースが下した命令は『前進』の一言のみで、これは前回の壁外調査とまったく同じものだった。もっといえば、前回どころかキースの前代、前々代以前から与えられ続けている命令でもある。
単純にして困難なこの任務こそが、調査兵団と人類が負けっぱなしであることの証明なのだ、と。
そう言っていたのは誰だったか。
「提案があるんだけど」
分隊長のエルヴィンが地図上の森から平野に至る道を指した時、角ばった声が割り込む。案の定、眼光どころか顔面をギラつかせたハンジのものだ。
「聞かせてくれ」
「私を森に残してくれないかな」
「却下だ」
赤い目とともに、周囲の視線が一斉にリヴァイへと集まる。リヴァイも自分の口から出た言葉に驚いたが、時間を置いたところで結局一蹴していただろう。
「リヴァイ、まずは話を聞いてくれ」
「聞く価値もない。壁外で単独行動だと? 自殺願望でもあるのか。立体機動装置も馬もてめぇに一騎使うんだぞ」
「手間暇かけた無駄だ」と斬って捨てると、ハンジのこめかみにじわりと汗が浮く。
「死ぬつもりなんてないよ。あなたが納得する作戦も今すぐに説明できる」
話しながら、リヴァイに向いていた瞳が徐々にエルヴィンへと移っていく。
「実は今、技術部に対巨人兵器の試作品を作ってもらってるんだ。カルトロップっていう足止めのもので、調査日までに出来上がるそうだから実際に使用して効果を確かめたいんだよ。隊や班に迷惑はかけないし、他隊には気づかれないようにする。検証後は森に潜んで帰還する隊に紛れるから、」
「ハンジ。俺はその兵器開発の報告を受けていない」
「……ああ、それは後でやろうと思ってたんだ。うん」
リヴァイは舌打ちを飲み込んだ。
技術部に顔のきくハンジは、こうして認可の外から兵器の話を持ち込んでくることがある。費用も自費で賄っているらしく表に出るまでは議論の的になりにくい。
「検討するまでもねぇ。使いたきゃハンジが団長に許可をもらってくればいい。認が下りねぇならそもそも必要ねぇモンだってことだ」
「そんな……あの人がそういうものにあまり良い顔をしないって知ってるだろ?」
時間をかけて巨人を見極めようとするハンジに対し、キースは「巨人は速やかに討つものだ」と考えている。"あまり良い顔をしない"どころか、ハンジの求めはいつも『臆病者の姿勢だ』として切り捨てられていた。
「どうしてもってんなら、俺も残る」
「は、」
再び自分の元へ戻ってきた眼を、リヴァイは強く睨み返した。
(馬鹿はやめろ。考え直せ)
視線が質量を持っていたなら、リヴァイのそれは鋭く尖ってハンジをその場に刺し止めていただろう。
およそ万全な状態とは言いがたい目元が、見えない剣戟を感じたのか、ぎゅっと歪む。
ーーわかったよ
両眼が、声なき声を返す。
「あくまで提案だから、判断はエルヴィンに任せる」
ハンジはそう言うと、審判を待つように顔を伏せた。
**
違和感がある。
先ほどの会議から続く、散り散りの思考の一つだ。
「あ、リヴァイさん」
資料室の扉を音もなく開けたリヴァイに、いちはやく気づいたのはモブリット・バーナーだった。
両腕を紙の塔で塞いだ彼や周囲の兵士たちが、敬礼のかわりに踵を揃えて姿勢を正そうとするのを手で制し、「ハンジは」と短く問う。
「いつもの所に。重要な件ですか?」
「いや……」
リヴァイが何かを言う前に、モブリットは「班員たちに少し休憩をとらせます」と言って背を向けた。人払いの必要な話をするつもりはなかったが、せっかくの配慮を無下にもできない。遠ざかる足音を耳にしながらリヴァイも奥へと進む。
扉にこそ『資料室』と掲げられているこの部屋は、実際にはハンジと、ハンジが率いる班の執務室として使われている。
やたらと本などを溜め込み、憲兵に知れれば牢に入れられるような情報までも部屋に溢れさせていたハンジは、同室の兵士の訴えと本人の希望とで特別にこの部屋を与えられた。室内整然はもっぱら副官のモブリット以下班員が管理し、清掃はリヴァイの役目になっていた。
「クソメガネ」
本棚の迷路の最深部。人の目線の少し上に作られた窓の手前に、部屋主の定位置はある。
小さな書き物机の上と周りに紙や書や何かの金属片をばら撒きながら、ハンジは頭の後ろで手を組み、背筋を伸ばして椅子に座っていた。リヴァイの呼びかけに、しかしその背中は動かない。
「オイ」
「さっきのエルヴィンの答えってさ」
横着だ、と思った。せめて片目だけでも振り返って来訪者に応えるべきではないのか。
ハンジのそういった態度は日常のあちこちで見られるのに、今日は少し鼻につく。
「『今はまだ早い』って言ってたけど、そういうことだよね」
「どういうことだよ」
「明確に時期を図ってるってことだろ。中央から次期団長に推されてるって噂、やっぱり本当なのかな」
「周りが騒いだところで席がなきゃ座れねぇだろう」
「キース団長から『譲る』って話が出てるかもしれないじゃないか。死んで退くよりずっといいし……私には、エルヴィンが兵団を率いる姿が見えるようだよ」
なぜここでエルヴィンやキースの話になるのか。リヴァイは理解しかねて片眼を眇めたが、こちらを見ないハンジには届かない。
違和感の正体はこれだった。
ハンジは基本的に、納得できないことがあれば食い下がってくる性分である。
状況や立場を弁えないわけではないので、その性分はもっぱら近しい人間ーーリヴァイやモブリット、エルヴィンなどーーに向けられたが、そういうときのハンジはいつも、面倒だとは思えど雑に扱おうとは思えない熱や凝りを持っていた。
強い眼光で相手を貫き、時には危険な距離にまで肉薄し、「教えて」「なぜ」と捉えて離さない。そして疑問が解消されれば、滞っていた流れが通ったかのようにまた邁進しはじめるのだ。
けれど今のハンジにその清涼はない。
燻っている。固まっている。
一目でそうとわかるくらいに。
なのに、原因を作ったであろうリヴァイを見ようともしない。
ついさっき飲み込んだ舌打ちが、今度は盛大に響き渡る。
先の会議での却下を、リヴァイは間違ったものだと思っていなかった。どんな作戦を描いたところで無事に帰還するのは難しい、危険を顧みない非現実的な考えだ。いくら反芻してもその結論に辿り着く。
現に、エルヴィンは提案を却下した。
ハンジもリヴァイの睨みに返したではないか。
"わかったよ"、と。
「ーー不満があるなら言え」
「え?」
「耳に入れるだけだ。聞きはしない」
ようやく振り返ったハンジは、しかしリヴァイの予想に反して「まったく心当たりがない」という顔をした。
「不満? なに? あれっ、そういえばリヴァイ何の用で来たんだっけ」
目元は相変わらず休息の足りない腫れを保ったままだが、持ち上がった瞼には覚醒があった。リヴァイを捉える瞳にも陰ったところはない。違和感の原因は、どうやら先ほどの件とは別のところにあるらしい。
聞こえるように溜息をつき、手に持っていた決裁書の束を渡す。ハンジが頭を掻きながらそれを受け取ると、リヴァイは適当に置かれていた椅子を引き寄せ腰を落ち着けた。横柄に足を組んでみせたのは雑な扱いへのちょっとした抗議だ。
「随分寝ぼけてるな」
「ごめんごめん、考え事しててさ。モブリットかと思っちゃったよ」
「どこで判別してんだお前は」
「どこでって、」
ハンジが書類をめくる手を止め、ぼんやりと、景色を眺めるような目でリヴァイを見る。
「……ほら、リヴァイは見た目の印象が人より強いし」
「待て。どう言う意味だ」
「そういえば、人間が情報を判断する基準って八割が視覚によるものなんだって。目が見えないだけでそれほどのものが遮断されてしまうんだよ」
話を逸らしたのか、単に別の思考へ足を踏み入れたのか。ハンジはリヴァイの見た目の話をあっさりと捨て置き、頭の中の遠くを見ながら話しはじめた。
「ミケなんかは例外だろうけど、確かに匂いや音だけで対象を正確に捉えるのは難しいね。気配を潜められちゃ正体も掴めない」
ハンジは一つ息を吐き、書類を机の上に置いた。空いた手でゆっくりと眼鏡を押し上げ、目頭を揉みはじめる。
その動きは徐々に鈍くなり、掌が顔半分を覆い尽くしたところで完全に静止した。
口以上に真意を知らせる場所が、とうとう、リヴァイの目の届かないところへ行ってしまう。
「もしも視力を失ったら、こんなふうに世界の八割を失ったのと同じになるわけだ」
「……二割で問題なく生きている奴もいる」
「その人は兵士かい?」
「……」
(一体なんだってんだ?)
何度目かの疑問が湧く。ハンジに掴みにくいところがあるのは常のことだが、それはどちらかといえば"捕まえられない速度で動いている"、というような意味だ。今日のように、その場に留まっていながら気配だけがフラフラと揺らいでいるのは稀だ。
違和感はもはや、はっきりとしたつかえとしてリヴァイの胸にあった。大していい働きをしないと自負している脳が、それでも、ハンジの言葉と行動とを繋げて現れるものを確かめようとする。
「ハンジ」
なるべく冷静に響くよう、声を抑える。
「疲れたのか」
必要な言葉を抜かした自覚はあった。が、それで十分だろうとも思った。肉体だけの疲労ならリヴァイは言及しないし、ハンジもさっさと解消しようとするはずだ。
「まさか」
果たして、目を隠したままの口が笑う。
「あなたが加わってから、調査兵団は確実に前に進んでいる。途中で降りるなんてありえないよ」
「『負けっぱなしだ』と言っていなかったか」
そうだ、"あれ"はハンジの言葉だった。
「うん。でも勝負までの間隔は短くなった」
言いきりながら、ハンジはたった二割の世界に留まったままだ。その頑なさがますますリヴァイの眉間を歪ませる。
弱音の一つでも零せば、いや、縋る目を見せさえすれば。リヴァイも「そうか」と頷いて、檄を飛ばすなり仲間として肩を叩くなりができるだろうに。
何も難しいことじゃない。
硬貨の大きさほどもない眼球に映ったわずかな陰りに気づいて、ここまで来たのは他でもないリヴァイだ。ハンジは口で言わない言葉を目に浮かべ、リヴァイだけがそれを違和として掴んだ。
他人には捕まえられない速度でも、リヴァイなら捉えられる。
ハンジが、視線を返しさえすれば。
組んでいた腕をほどく。衣擦れもさせず、無音でハンジの暗闇に手を伸ばした時だった。
「リヴァイがいる」
目元を覆う掌を剥ごうとした指は、けれど、触れる前に止まってしまった。
「……なんだ?」
「瞼の裏。リヴァイの残像が映ってる」
「残像?」
「ほら、あなたって見た目の印象が人より強いし」
「……そんなにか」
「そんなにさ」
ハンジの口角がゆるく上向き、ふ、と息を漏らす。
「ーー網膜に、焼きついてるよ」
日に焼けた手の下で、閉じた両目が笑みを浮かべる、錯覚。
知らずに浮いていた尻を、リヴァイはやはり静かに座面に戻した。再び腕を組み、足も組み、時間をかけて背もたれに身体を預けていく。
ハンジはなおも暗闇の中だ。
その輪郭から滲んだ疲れは全身に重さを与えていて、一朝一夕で生まれたものではないとわかる。そしてそれはハンジだけのものではなかった。
肩から背にかけての冷たい倦怠感を溜息でやり過ごし、リヴァイは目を閉じた。
薄暗い視界の中で散り散りの思考の一つを手に取る。
近頃、キースから分隊への当たりが目に見えて強くなった。『前進』のみを命令しつづける彼に疑問の声が上がりはじめ、反対に実績を積み上げる分隊長への支持が高まっているのが原因だろう。
エルヴィンは上申を抑えなくなった。キースは語気を荒げることが増えた。会議が長引くことも多くなった。
ハンジは「あの人の責任の重さを考えれば当然だよ」と庇うが、リヴァイもそれに反論する気はない。と同時に、兵団内外の空気が彼の退任を望むものへと変化していることも察していた。
次の代が来る。キースを慕っているハンジですらそれを感じている。
エルヴィンが頭になれば、ハンジにも、リヴァイにも、こうして眼を閉じる時間は二度と来ないかもしれない。
停滞など、少しも許されないかもしれない。
(……それでも)
目を開けて、ハンジを映す。
「オイ。俺はもう行くぞ」
「うぇっ!?」
なるべく声を小さくしたつもりだったが、ハンジは身体を大きく跳ねさせた。反動で動いた椅子が音を立て、部屋の入口近くからこちらを窺う気配が起こる。
焦った様子で瞬きを繰り返すハンジを一瞥しながらリヴァイは立ち上がった。
「ああびっくりした……あ、もういいの?」
「用は済んだからな」
「そう。まあ、来た時よりかは元気になったみたいでよかったよ。かなり陰気な面構えしてたからね」
そう言って笑うハンジを、リヴァイは思わずまじまじと見つめる。
「……お前、今日は徹夜するんじゃねぇぞ」
「いつもしてないって。昨日は……ちょっと睡眠時間が短かったけど。あなたこそ夜は早めに部屋に帰りなよ。いつも遅くまで動き回ってんだから」
倍の口数で言い返されては黙るしかない。自覚を得た今なら尚更だ。
(鏡に向かって話してたわけか、俺は)
ハンジの目に異常を見たリヴァイ自身、無意識に正常から遠ざかっていたのだろう。ハンジの停滞を整えるつもりがかえって自分の襟を正す結果になっていたらしい。
ずいぶん面倒な過程を辿ってしまった。が、一晩充分に寝て過ごすよりは効率が良かったようだ。
椅子の上で大きく伸びをするハンジを横目に、リヴァイもなんとなく肩の力が抜けた気分になる。
「あ!」
と、ハンジが声をあげる。
「ちょっと待ってリヴァイ、さっきの試作品のことだけど」
「……なんだ」
「あなたの言うとおり、やっぱりアレは使用方法に問題があったよ。考え直して正解だった」
なんとなく流れを察知して身構えたリヴァイに、ハンジがさらに続ける。
「複数の棘を持つ金属の塊を巨人の進路に蒔いてその場に留める仕組みなんだけど、痛覚のない彼らにどれだけ有効か知りたかったんだ。けどそもそも巨人の移動を制限できないかぎり踏ませることすらできないかもしれない。だからねえ、何かいい案はないかな?」
「は?」
「いっそ網に棘を張って地面に張り巡らせるとか。いや、それでも使う場面が限定されるか……」
会議中に訴えた『考え直せ』はあくまで無茶の話だったのだが、どうやらハンジには違う伝わり方をしたらしい。
(何が"わかったよ"だ)
うんざりするも、ぶつけられる熱はやはり雑に扱おうとは思えないもので、リヴァイは諦めてハンジに向き直る。
レンズの向こうに据えられた目は、ところどころを赤くしつつも、頭蓋の中のめまぐるしい思考を見せるガラスのように透き通っていた。表面に溜まる光は網膜を細かく焼くようで、きっとしつこく像が残るのだろう、とリヴァイは思った。
瞼を下ろした世界で、ハンジはリヴァイを見つけることができるのだと言う。
たぶんリヴァイも同じだった。
兵士としてのハンジの像は、網膜を通じて思考を侵し、やはり兵士としてのリヴァイが進む道を指さすに違いない。
もしもこの先、岐路で迷う時が来たら。迷うことが許されたなら。ハンジの姿は当然のように瞼の裏に浮かび、リヴァイに何かを示すのだろう。
そうして、目を開けて。
視線を交わしさえすれば。
"わかっている"と返す目に、己とハンジの成すべきを信じることができる。
爛と輝く光に、リヴァイは密かに、そう安堵した。
――とんだ勘違いだ。
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