「結婚してくれ」と願う話
結婚について非生産的な会話をする話
「結婚してくれ」と願う話
結婚について非生産的な会話をする話
1.
「結婚してくれ」
粛々と業務をこなし、自室に戻り、身体が許すまま机に向かい、突然意識を失い、起床の鐘によって目を覚ましたハンジが顔をあげた瞬間。
背後から聞こえてきたのは、あまりにも簡潔な求婚の言葉だった。
「は?」
振り返った先で、ハンジがこの世で最も想う男が膝まずき右手を差し出していた。
見つめ合うハンジと彼──リヴァイの間を、鳥の声が跳ね回った。
六月半ば。晴朗、早朝。
室内唯一の窓から、黄と白の薄布を幾重にもかけたような朝日が入り込む。空気はどこまでも柔く、肺いっぱいに含めば光の粒子ごと四肢五指に染み渡っていく。
はずだったのだろう、たぶん。
残念ながら、音もなく立ち上がったリヴァイがヒトだと認識できる限界の形相で「なぜ起きた……」と呟いたために、殺気に満ちた室内でそれは叶わぬこととなった。
「え? え?」
起き抜けに殺意を向けられたハンジは当然狼狽えた。壁外でも稀にあるか否かというほどに。だが同時に、歴戦をくぐり抜けてきた優秀な脳が意識の下でリヴァイの言動を反芻しはじめる。
『なぜ起きた』? 自然現象だ。むしろなぜリヴァイがここにいる?私が起きてはマズいことをしていたのか。立ち上がる前の姿勢に関係がある? 潔癖のリヴァイがわざわざ土足で踏み荒らされた床に膝をつき右手を差し出し、何か言って──
「『結婚してくれ』?」
「黙れ」
かろうじて返したハンジに、飛んできたのは冷たい一閃だった。
常であれば、リヴァイのこのような異常な行動に対してハンジは根気強く、または適当に意味を見出そうとしただろう。常であれば。起き抜けでなければ。ということで、彼の暴言はまっすぐハンジを苛立たせた。
言うに事欠いて、『黙れ』。
朝っぱらから人を惑乱させて、説明もなしに言及はするなと。
よく見てみれば、リヴァイは早朝にもかかわらず皺を伸ばしきった兵服をピシリとまとい、一分の隙もない佇まいである。目の下の隈は相変わらずだがいつもより顔色も良い。
対してハンジはといえば、寝癖と涎と隈と頬の痕とそもそも疲労にまみれた面貌はぐっしゃぐしゃで、服だって昨夜のままのよれっよれだった。
今さら過剰に気にするわけではないが、いくら互いの部屋に入り浸っている仲でだって遠慮というものがあるだろう。
ハンジの中の苛立ちが燻り、ぶすぶすと音を立てはじめる。
「ちょっと……黙れって何だよ。そっちこそ朝からなんなわけ?『結婚』って言ったよね? そうじゃないなら何?『決闘』の言い間違い?」
「けっ……」
とう、と口の中で潰しながら、リヴァイの目が横に泳ぐ。狭い部屋なので視線の先にはベッドぐらいしかないのだが。
「……決闘も、してもいい」
「は? やだよ、やめてよ」
冗談じゃない。何考えてるんだ。
関わる人間全てから「生き急ぎ!」と指差されてきたハンジだが、別に好きこのんで身を削る行いをしているわけではない。そこに手に入れたいものがあるから、そう多くもない己の資源を差し出しているだけである。
リヴァイと決闘して得られるものなんていくら多くても赤字が出るだろう。勿論鼻血も出る。
「まさか飛びかかって来るつもりじゃないよね」と咄嗟に怯えたハンジに、しかし当のリヴァイはくるりと身体を翻して背を向けた。
そして言う。
「悪かった。邪魔したな」
「……え!? いや、謝罪じゃなくて理由が、」
「黙れ……」
小柄でありながら強靭な背姿が、そのまま振り返ることなく足早に部屋を出て行く。遠ざかる靴音に声が混じっていることに気づいたハンジは、彼を追う代わりにそっと耳を澄ませてみた。
「クソが……なぜ起きた……」
「自然現象だよッ!」
いつのまにか朝食の時間が迫っていた。
**
「おはようハンジ。朝から機嫌悪いなー」
見た目も食感も石のようなパン、いやもはや何かの粉を水で練ったものを喉の奥に押しやろうと奮闘していたハンジは、かけられた言葉に目を丸くした。顔を上げた拍子に塊を詰まらせ、むせながら挨拶に応える。
「"汚え"」
震えるハンジの前に腰を下ろしたのはミケとマレーネだった。片方がさらりとついた悪態は、先ほど会った男の口調によく似ていた。と、マレーネが平坦に呟く。
「あーなるほど、リヴァイが原因ね」
「えっ?」
「大方そうだろうと思ったけど」
「なんで、」
「まあそんなことはいいんだけど、昨日はどうして宴会に来なかったの?」
『そんなこと』で済まされた事案を深く追及したいハンジだが、この雑さこそ仲間同士が見せ合う親愛の証でもあるので飲み込むことにする。
それよりも気になることがあった。
「宴会?」
「すっごく楽しかったよぉ。久々に旧一分隊の面子が揃ってさ。ハンジにも来てほしかったな」
「ああそっか……昨日だったっけ」
この場にいるハンジ、ミケ、マレーネは、元は同じ分隊の出身である。調査兵団史上類を見ない生存率を誇ったその分隊──通称・旧一分隊──は、今や構成員だった者のほとんどが役職付きだ。
昨夜は、その古巣の仲間が集まる宴会だったのだ。
「来て欲しかったって……よく言う。君ら散々『酒の席の雰囲気壊しまくり!』って私のこと貶してたくせに」
「えーそんなこと言ったっけ? ミケ、記憶ある?」
「そんなものはない」
「即答するなよ……」
いくらなんでも雑すぎる。
周囲の雰囲気に合わせられない性格について、ハンジにも自覚はあった。が、旧一分隊と言えば大抵の異質は笑い飛ばして酒とともに流し込むほど変人密度の高い集団である。和を乱す行動をしたところで、それが命に関わらなければいちいち気にも留めない。
ハンジの昨夜の不参加の理由は、単に『前回壁外調査における全隊の聴取内容を地図に反映させたい』という個人的なものに過ぎなかった。
同じく旧一分隊出身で宴会に参加する予定だったリヴァイはこの理由に大層不満を垂れ、昨日もハンジが部屋に戻る直前まで──
「ーーあ」
そこで、閃く。
「どうしたの?」
「うん……ちょっと聞きたいんだけど」
「リヴァイがらみか」
ミケが鼻を鳴らしながら言う。先程からちょくちょく察しのいい二人だ。
「どうしたんだハンジ。リヴァイと何かあったのか?」
いつからそこにいたのか、ハンジの右隣にはこれまた馴染みのディルクが座っていた。斜め前ではナナバが静かに茶を飲んでいる。改めて、ハンジは昨夜宴会に参加したであろうメンバーにぐるりとまわりを囲まれている状況だった。今朝は少しばかり鈍さが過ぎるようだと頭をかきながら、その原因である男の名前を口にする。
「あのさ、昨日の宴会の時リヴァイに何かあったの?」
「何か?」
「もっと具体的に言ってよ」
「リヴァイ? どうしてそう思ったんだ」
「そもそもなんの話」
「いや、あー、えっと」
次々に突っ込まれ、早朝のアレをどう伝えたものかと戸惑う。ハンジとてリヴァイの行動の本意を掴めていないのだ。
「実は、今朝、リヴァイが私に……」
「プロポーズしようとして失敗した」
濁った語尾を潰すように、場の真ん中に声が降ってきた。皆の視線がその発生源に集まる前に、声の主がドカリと椅子に腰を下ろす。
「あ、リヴァイ」
困惑の元凶であるリヴァイが、何食わぬ顔でハンジの隣に座っていた。
「おはよ」
「ああ」
「今日は遅いんだな」
「洗い物があった」
ぽつぽつと転がる挨拶を適当にいなし、彼はそのまま少ない所作で朝食に手をつけ始めた。
ハンジは静かに混乱した。洗い物とは恐らく先ほどの床に膝ついた時の汚れのことだろう。
それはいいとして、今の発言はなんだ?
『プロポーズしようとして失敗した』?
では今朝のアレは、やはり「結婚してくれ」で間違いなかったということか。それならそうと言ってくれればよかったのに。どうして一方的に殺気をぶつけられる羽目になったのだろう。
難解な部分など微塵もない彼の言葉を、しかしすんなりと受け取ることができない。思わず自失したハンジに代わって、口火を切ったのはディルクだった。
「で、プロポーズって? どういうことだ?」
面倒見がよくリヴァイやミケよりも歳上のディルクは、こういうときも臆することなく先陣を切っていく。しかし対するリヴァイは、「ぁあ?」と怪訝な顔でそれを受け止めた。
「どういうことも何も……テメェらが『ハンジに求婚しろ』と捲し立てたんだろうが。言われたとおり寝こけるクソメガネ相手に"練習"してたら起きやがってこのザマだクソ」
「……え?」
珍しく長く話したと思えば流れるような狂態と悪態とを無表情で吐いたリヴァイに、その場にいたハンジ以外の全員が固まった。
「みんなが、何、『私に求婚しろ』? リヴァイにそう言ったって?」
説明を求めて一人一人の顔を飛び石に視線を移していくも、頷く者はディルクを含めて皆無。
「いや……昨日は……」
「飲みすぎたから覚えてないな」
「えー言ったっけ? ミケ、記憶ある?」
「そんなものはない」
「雑すぎるだろッ!」
ハンジもさすがに声を荒げた。
要するに、脳にアルコールがまわった輩たちの酔言だったわけだ。
街で結婚式を見かけただとか、六月の花嫁は幸せになれるだとか、そういう何気ないことをきっかけにした悪ふざけ。
平謝りする皆に対してリヴァイが「行動に移したのは俺だ。責めやしねぇよ」と意外にも淡々と返し、事態は無事に収束した……かと見えたのも、つかの間。
「で、プロポーズはどうするの?」
ナナバが掲げた次なる話題に、ハンジは飲んでいたスープを盛大に噴き出した。それを見たリヴァイが鼻の頭に皺を寄せるが、他の者は構わず話題に加わりはじめる。
「なあリヴァイ、今朝の失敗したっていうプロポーズだけど、ハンジに断られたってことか?」
「いや……返事の前に意味がわからんとキレだした」
「寝起きだからな」
「ちゃんと教えたとおりにしたの? 身綺麗にして、膝をついて手を差し出して」
「ナナバ、そこはアンタが昨夜散々練習させてたじゃない」
「てめえら覚えてるじゃねえか……」
唖然とするハンジを残したまま、話は先へ先へと進んでいく。
「お腹空いてる時が一番成功しやすいと思うよ。頭が上手くまわんないし」
「だったら疲れた頃も狙い目だね」
「ハンジの部屋は向こうのペースに持ち込まれるんじゃないか?」
「夕食時、食堂だな」
「お前らの判断に任せよう」
結局朝食の時間いっぱいを作戦会議に充てた彼らは、呆然とするハンジを急かす余裕さえ見せつつ席を立った。満足感をたたえながら去っていく各々に後を追うハンジの中で急速に焦燥が膨らんでいく。
「ちょ……リヴァイ、ちょっと待って」
思わず発した制止に、早朝はハンジの声を捨てていった背中がゆっくりと振り返る。その表情は相変わらず渋い。
「なんだ」
「あ、えっと、さっきの、」
「……ああ。混乱させたことは謝る。できれば忘れろ」
それ、『できれば』と『忘れろ』が殺し合ってない?
ハンジが突っ込む前に、リヴァイが話は終わったとばかりに立ち去る素振りを見せる。
「待った待った!」
「まだ何かあるのか」
むしろなぜもう何もないつもりなのか。どこからどう斬り込めばいいのか考えあぐねたハンジをしばらく見つめた後、リヴァイが俯きがちに、ポツ、と呟いた。
「次はトチらねぇ」
「え?」
「お前もマシな了承の仕方を考えとけ」
「あ……うん」
リヴァイは「もうすぐ朝礼だ。行くぞ」と促しながら、ハンジを待つことなく食堂から出て行った。赤く染まっていた彼の耳の、残像だけをその場に残して。
ハンジはようやく合点した。
つまり、リヴァイは照れていたのだ。練習の段階で身支度まで完璧に整えておきながら、肝心の台詞を寝起きのハンジに聞かれてしまったために。
尚且つ彼は、失敗を早々に糧へと変え、今晩仕切り直しをする、と言っているわけだ。
(なんだ……そうだったのか)
ハンジは一つ頷き、それから慌てて歩き出した。
こうして、異常な朝はようやく日常へと収束していったのだった。
**
「分隊長、食堂に行ってください」
モブリット・バーナーはハンジにとって、声の調子から言外に含まれるものを察せられる程度には付き合いの長い部下である。
彼の発する「ハンジさん」が単に「食事をとってください」や「寝てください」の懇願から来るものならハンジは無視をするのが常だった。それを理解するモブリットも、いつも最低五回は無意味な呼びかけを繰り返している。(リヴァイには「お前ら賢いのに阿呆なのか?」と失礼なことを言われた)
だが今回は例外だ。ハンジは早々に部下を振り返った。
そこには、机にかじりつく上司のために灯りに火を入れ、食堂に夕食を取りに行っていたはずのモブリットが手ぶらのまま眉を下げて立っていた。
「誰に頼まれたんだい、モブリット」
「少なくとも、俺が逆らえない方々です」
分隊副隊長の階級も、諍いを避けようとする彼の人柄の前では途端に意味を失くしてしまう。複数からの圧力なら尚更だ。
ハンジはゆっくりと腰を上げた。
「しょうがないなぁ……」
「何かあったんですか」
「聞いてない?」
「ええ、とにかく呼んで来いの一点張りで」
「うーん、私どうやら結婚の申し込みをされるみたいでさ」
「は?」
「まともな了承の仕方を考えとかないといけないんだよね」
「は?」
それまで憂いに彩られていたモブリットの顔が漂白した布巾のように表情を落っことす。本当に意表を突かれたときの反応である。
「結婚ってそういうものでしたっけ。あっ茶番ですか?」
「うんうん、それが正しい反応だよね」
食堂──おそらくはリヴァイと愉快な仲間たちが揃う場──に向かうため、ハンジは歩き出す。すれ違いざまにモブリットの肩を叩いたのは感謝の意だ。
「ハンジさん……よくわかりませんが、物は壊さないでくださいね」
「善処する。君は? 行かないの?」
「俺はしばらくして行きます」
「賢明だね」
モブリットはハンジにとって、声の調子から言外に含まれるものを察せられる程度には付き合いの長い部下であった。
1 2