間違える話
色々と間違えてしまう二人の話
間違える話
色々と間違えてしまう二人の話
「忘れてくれ」
聞かなかったことにしてくれ。
「昨日の……私が"ここ"で言ったこと」
お願いだから。
一晩かけてじっくりと積み重ねた高さから、ハンジはいとも簡単に人を突き落としてみせた。
両手で覆われた顔は言葉以外のことを伝えるつもりはないらしく、なのに俺は、掛け布団から飛び出てやたらと白く光るくるぶしを見つめたままハンジのさらなる弁解を求めていた。
——与えられることは、ついぞなかったが。
「リヴァイ」
足音だとか、衣摺れだとか、もはや言語ですらない音さえ拾おうと必死に震えていた鼓膜は、肝心の声に触れた瞬間、息絶えたように動きを止めた。
「リヴァイってば」
「……聞こえている」
「嘘だ。五回も呼んだのに」
(ホラ吹きやがって)
横目で睨んでやると、倍の苛立ちで睨み返された。ただでさえ馬鹿みたいに強い眼は、いかついゴーグルを通すともうどうしようもなく煩くなる。瞼裏に残るほどに。
何も言わず視線を戻した俺の不躾を、ハンジはため息一つで見過ごすことにしたらしい。
「次の調査の、あなたの班編成のことなんだけど」
「文句はエルヴィンに言え」
「あなたがウチの分隊から選んだ……あの、彼ね。視力が少しよろしくないんだ。本当に少しなんだけど。暗い所だと見え辛いみたいで」
思考はすぐに次回壁外調査の予定進路を辿る。通常の道程とは別に、迂回路の確保のために森を抜けなければならない場面があったはずだ。
ハンジに向きなおる。
「そいつの調書にゃ目のことなんて記載はなかったぞ」
「検査じゃ問題がない程度なんだ。本人からの申告もなし。だからこそ問題がある。……ちょうど、葉が生い茂る季節だろ?」
その"視力が少しよろしくない"兵士は、巨人の研究が主なハンジの隊に属しながら『功を急いでいる』という印象を抱かせる奴だった。わかりやすい数値としての評価を求めているといえばいいか。最近子どもが産まれた、と誰かに聞いた気もする。
この兵団で名を挙げたところで死ぬ機会に死なせる機会が上乗せされるだけだが、士気が下がるようなことを敢えて言う奴もいなかった。
「文句じゃないから、あなたに伝えた」
ハンジはそう言い残すと、物見台から飛び降りガスをふかしながら兵士たちの元へ戻っていった。
「まるで気を引きたいガキだな」
反対側からミケが飛んできて言った。「交代制かよお前ら」と毒づきたくなったが、実際交代制だ。立体機動を伴う訓練の場合、全体の統括とは別に一人以上は兵士たちのすぐ側で監督しなければならない。ミケはハンジが戻ったのでこちらに来たのだろう。
「何かあったのか」
暗に「おしゃべりに来ただけなら失せろ」と伝えるが、ミケはこちらを見ながら「問題なら今まさにここで起こってるだろ」と鼻を鳴らす。
「ハンジのこと、無視してやるなよ」
「喫緊の用かそうでないかくらいわかる」
「そりゃあな。お前とハンジの付き合いだ」
「妙な言い方をするな」
「話をそらすな」
突然、むなしくなる。
『気を引きたいガキ』が、気を引き続けることはできないと知った時のように。
ミケは察しているのだろうか。
ハンジが俺の名を呼び重ねるたびに、その声に上擦りと焦りが増していくことを。
俺が、爪の先で軽くひっかいた程度のそんな露出を「聞きたくない」と拒みながら、同時に必死でかき集めてもいることを。
「……ほどほどにしておけよ」
的外れな助言だと思った。ミケは俺とハンジの間に、一か十かの諍いを見ているらしい。
俺にとって物事は、突き詰めれば有りか無しかにしか分かれない。零か一だ。そしてハンジにとってあの夜は零になった。
ただの間違いになった。
俺を置きざりにして、ハンジがそうしてしまった。
**
「お前、いつも昨日みたいになるのか?」
兵服にベルトを這わせていた背中が、振り向こうとして動きを止めた。結局そのまま淀みなく作業に戻る。
「さあ? お酒飲んで気持ちよくなっちゃったから、そのせいじゃないかな」
強張った肩はおそらく、「忘れろ」と願ったにもかかわらず昨夜のことに言及した俺を責めていた。
早朝の分隊長の部屋から私服の兵士長が顔を出したとして、あとから兵装した部屋の主が出てくれば『仕事の話をしていた』と誤魔化せるだろう。そう提案したのは俺だったが、それで納得する奴も極少数だろうと思っていた。
たった一晩の放置で皺だらけになった寝巻きに言い訳は効かない。
ーー仕方がない。長い夜だった。
「クソメガネ、てめぇはもう酒を飲むな」
「ええ……付き合いでも?」
「飲むなら俺を呼べ」
部屋の前でこんな会話を始めればもう誤魔化すもクソもないのに、ハンジはそのことに全く気づいていなかった。
誤魔化す気なんて俺のほうには欠片もない。そのことにさえ気づいていなかった。
「……えっと……。それ以外じゃ、呼んじゃダメなの?」
殺してやろうかと思った。
それなりに長い付き合いだ。興味を惹くことや親しい相手にはことさら繕うということのできないハンジに、苛立つ場面なんてこれまで何度もあった。
それでも、殺してやりたいと思ったのは初めてだった。
「忘れろ」と俺にほざいて夜を拭い去ったくせに艶めいている唇にも。俺より背丈があるくせに、伏せた顔の眼だけで下から窺う器用さにも。春の草のように茂って光る睫毛にも。何かの花の蕾めいた目元の色にも。
ただひたすらに怒りが募った。
殺してやる、このクソ女。
裸にひん剥いて全身を舐めしゃぶって、泣き叫んで乞うまでさせて、イきすぎて呼吸が飛ぶまで抜かずに責めて、どこもかしこも俺でいっぱいにしたまま殺してやる。
本気でそう思った。
隠しそびれた殺気を感じとったのか、ハンジが慌てて目を逸らす。その唇が薄く開き、顎の下で喉が動いた。
昨夜はあんなに柔らかかった舌——あんなに、あんなに一人の男への情に濡れていた舌は、きっと今、ハンジの洞の中で昨日の欲を乾かしきろうとしている。それを自分のものと綯い交ぜにして、もう一度溶かしたい。
衝動を握りつぶし、俺は部屋を後にした。
殺してしまう前に口付けたかった。
だから俺は、一生ハンジを殺せないのだろう。
**
間違いになった夜から七日が経った。
ハンジに無言の情をかけられ死ぬ機会から一時的に遠ざけられた兵士は、何も知らないまま相も変わらず功名を求めている。
あの女ときたらそんなことばかりだ。
常人にしてみれば気まぐれのような匙加減で、やわくてぬるくて、もう一度口に入れたくなるものを他人にぶん投げておいて、後のことは綺麗さっぱり知らんふりをする。
気づいて味わった側は、もう二度と戻れないのに。
「リヴァイ」
一度目で振り向く。
二度呼ばせることはもうしていなかった。それがハンジの願いどおり、忘却にたどり着く最短の道だと思ったからだ。
だというのに、このクソメガネ。
「私は今夜お酒が飲みたい」
「……ぁあ?」
「私は今夜お酒が飲みたい」
一度言えばわかる、との返答を飲み込み、代わりに胡乱な目で答えてみる。ハンジは窓の外の楡の木に視線を投げ、俺のほうを見ようともしない。
「今夜、お酒が飲みたい」
「……」
「……お酒、飲みたいんだけど」
「わかった」
殺してやりたい。
ハンジを散々啼かせてヤり殺した後、自分で自分を縊り殺したい。
たった一週間しかもたなかった。
「忘れてくれ」と言われて、口付けたい衝動をぶっ潰したあの瞬間からずっと、頭をもたげそうになる妥協や期待を何度も殴りつけて抑えてきたはずだった。なのにこのザマだ。
今夜、ハンジの部屋を訪ねて。
招き入れられたら。扉に鍵をかけたら。ハンジが隣に座ったら。その距離が拳ひとつ分もなかったら。グラスの縁を唇が滑ったら。舌が見えたら。体のどこかが触れ合ったら。
五秒以上、見つめあったら。
俺はきっと「忘れるから」と懇願して、約束も何もない関係を望んで、拒まれて無理強いして、あるいは受け入れられて、一晩で終わる幸福に浸って、あげく脳死する馬鹿野郎になるのだ。
その時を思って、身体中が疼く。
俺はとっくに死にかけだった。
**
事が意外なほうに転がっているらしいことを知ったのは、栓も開けていない酒瓶を前にハンジがこちらを睨みつけた時だった。
「一週間で二十一回」
「は?」
「あなたが私の呼びかけを無視した回数」
「……ああ」
確かにそのくらいはあったかもしれない。わざわざ数えていたことに驚くも、ハンジの固く締まった頬が無視への怒りだけでそんなことをしたわけではない、と主張している。
「信じられない。私、忘れてって言ったよね」
熱を帯びる語気とともに、その首からジワジワと赤色が昇ってくる。
俺はまた激しい苛立ちを覚えた。
全身を使って思わせぶりなことをしてくるくせに、このメガネは自覚もないのだ。どうして忘れられない俺を責められる。
「なんの話だかわからねぇが……どうしたんだクソメガネ。随分溶けた顔してんじゃねぇか」
「……! とぼけやがって! もう!」
ハンジはそう叫んで髪を掻きむしると、部屋の奥の、ソファの陰に隠れていたベッドに駆け込んだ。
大きく響いた軋みはあの夜の初まりと同じ音で、シーツの上でうつ伏せになったハンジの曲線は服をまとっているにもかかわらず、あの夜よりもさらに淫らだった。
気づいた時には、膝がベッドの縁に乗り、ハンジの肩に口付けていた。こんなにも記憶に穴が空く興奮など、俺は他に知らない。
「ハンジ……こっち向け」
「……やだ」
「向けって」
息で繊維を通り越し、ハンジの肌を舐めるように、少しずつ唇をずらしていく。
「俺は忘れようとしたぞ。お前がそうさせなかったんだろ」
「都合の悪いことは人のせいかよ」
「そうだ。お前が悪い」
勘違いするような声で俺を呼ぶから。呼ばせていたのは俺だが、今だって俺を拒まない。背中の緩やかな坂の途中でひときわ飛びでた骨を噛むと、泣き出す前のような声が聞こえた。
じくじくと熱されつづけた油に、とうとう火種が舞い込む。
「ハンジ、」
肩を掴んで裏返し、強情な体に跨る。逃すつもりがないのを足まで使って示す。
「……その目、やめてよ……」
ハンジが悔しそうに瞼を下ろして言った。
「忘れようとしたなんて、嘘だ。だってあなた、わざと数を合わせただろ」
「……数?」
シャツを引きちぎろうとしていた手が止まる。やはり止まってから引きちぎろうとしていたことに初めて気づいたが、それは大したことじゃない。
「あのあと、いきなり素っ気なくなって、部屋にも来てくれないし……そのくせ意地の悪いことして」
「素っけ……、へや?……は?」
「リヴァイ、」
誰にも解くことができないと錯覚するほど握られていた手が、柔らかくほころぶ。そして俺の頭を引き寄せた。
俺は死にかけで、やはり馬鹿野郎だった。
湧き上がった疑問も上昇するまま天井に放って、望みのすべてを果たすことに夢中になった。
けれどハンジを殺してやることだけは、どうしてもできなかった。
**
「……三十三回、だったか?」
「うううううんんんんんんもおおぉ!」
ハンジが聞いたことない類の奇妙な叫び声を上げた。丸まった背中にシーツを被せ朝日から隠すと、その塊は閉じた世界でますます奇怪に唸りをあげた。
それなりに長い付き合いでも、知らない一面などいくらでも存在する。
当然、伝わらない本意もいくらだって存在するだろう。俺はその可能性をすっかり忘れていた。
とっとと気づくべきだったのに。
「なあ。三十三で合ってるよな」
「うるさい! 知らない! なんで数えてるんだよ馬鹿!」
「あ? 一回ごとに奥を突い、」
「くあぁあああクソ! 変態!」
「てめぇだって数えてたじゃねぇか」
二十一、と指摘すると唸りが止まる。
「そっ……それはだって、リヴァイが……」
途端にくぐもる声に耳を傾け、辛うじて「一回言うごとに、キ、すしてくるから」と聞き取った俺は、胸のどこかで小さく起きた爆発に押されて「ハッ」と息を吐き出した。
それはベッドの上で芸のないことをする自分への嘲りと、そんなものを大事に数えていた健気な女への熱だった。
が、ハンジは何を勘違いしたのか眉を釣り上げながら起き上がる。
「なんだよ! つまりあなたが無理やり言わせたってことじゃんか!」
「ああ? どうしてそうなる、お前俺が何かする前から中も外もしがみついて『リヴァイ、好」
「黙れ」
ハンジの目に不穏な光が走る。レンズ越しでないにもかかわらず瞬くそれに、俺は口を閉じた。まだ死にたくなかったからだ。
そうはいってもだ。命を惜しんだところで俺の一部は何度だってハンジという人間に殉ずることができるのだから、まったくもって救えない。
「忘れて」
「……またそれか」
「〝ここ〟で私が言ったこと、全部、忘れて。忘れろ」
これだ。これがまずかったわけだ。
〝ここ〟と指されたのは、七日前と昨夜、我を忘れたハンジが馬鹿の一つ覚えのように俺への言葉を叫び続けた"ベッドの上"のことだった。
「忘れろ」というのは即ち、ハンジの口から際限なく溢れていたとある言葉のことだったのだ。
その数、二十一回。
次いで昨夜、三十三回。
しかし〝ここ〟と指されたベッドは、投げつけられる叫びに俺が狂って限界まで揺らして汚したところでもあった。俺にとってはひたすら〝ハンジと通じた場〟だった。
だからすれ違いが起こってしまった。
この一週間、ハンジの中で連綿と続いていた関係を無しにしようとしていたのは俺のほうだったということになる。
ハンジがいちいち腹の立つ煽りを働いていた意味も今なら理解できた。なんのことはない、そのまま受け取ればよかったのだ。
思考がミケの「ほどほどにしとけよ」の真意にまで及びそうになったが、無理やり断ち切った。誰も幸せにならない予感があった。
「……クソ」
どうしてこんな腑抜けの馬鹿を演じてしまったのか。
いつ何時も最悪の事態を想定しようとする頭がそうさせたのか。そもそもハンジに他人を掌の上で転がす器量なんてない。そんなことのために余力を残す奴じゃないとわかっていたはずなのに。
「酒も、関係なかったな」
ソファテーブルに置かれたまま、床を通して伝わる振動に一晩耐えていただろう酒瓶を眺める。
「えっ、あっ? 昨日、わたし……」
「飲んでねぇよ。一滴も」
「くうううぅぅぅ!」
「鳥かお前は」
よくよく思い返してみれば、一週間前のあの夜。
二十一回にのぼったらしい言葉の一回目を、ハンジはあのソファに座ったまま俺に寄越した。それに俺は言葉でないもので答えた。
あの一回目だけは、ハンジでさえ「忘れろ」とは願っていなかったのだ。
「でもこれではっきりしたよ……リヴァイの無視の回数はやっぱりわざとだったんだ」
「どうしてそうなる」
「だって昨日もねちねち数えてただろ。このスケベオヤジ」
「違う」と否定しようとして黙る。誤解を与えたままでいたとして、失うものはなんだろうか。特に思いつかない。逆に無視を繰り返した本当の理由を話したとして、得るものはなんだろうか。それも特に思いつかない。
むしろ利用する方法を思いつき、俺はハンジが横目でじっとりと投げてくる責めを甘んじて受けることにした。別に復讐のつもりはない。
「そうだな。お前の言うとおり俺はねちねち数えるスケベオヤジだ」
「いや開き直るなよ」
「で、どうするんだハンジ?」
「なにが」
「お前これから俺と寝るたびに『昨日みたいになる』んだろ? ねちねち数えた俺は何を同じ数だけ返せばいい?」
「ばっ……」
愉快な気持ちで覆いかぶさる。それを許した時点でもうほとんどを許容しているのだと、ハンジもわかっているのだろう。覗いた肌は素直に赤かった。
「……同じ数だけ、忘れてよ……」
「いいだろう。忘れてやる」
俺の一部はハンジのために何度でも死ねた。そして軽率に甦り、ハンジを殺したいとさえ願った。
まったく救いようのないことだが、ハンジがそれを知る必要はない。どう伝えたところで、誰にとっても、俺にとってすらも間違っていることだとわかっていたからだ。
そうやってクソみたいな本音を隠した上で、俺がハンジに望むのは至極簡単なことだった。
「忘れてやるから、何度でも言え」
〈了〉
(初出 18/12/01)