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「断る」
食堂は人口密度に比例して蒸せ返るような空気だった。その真ん中、一つだけ人に避けられた卓に腕組みをして座るリヴァイを前に据えて、ハンジは静かにそう言った。
喧騒が次から次へと泡立つ周囲にもかかわらず、リヴァイは机を挟んで椅子に腰かけたハンジの第一声を正確に聴き取ったらしい。限界まで目を丸くし、反応することさえ忘れて固まっていた。腹にたまった熱がふと緩むような、あどけない表情で。
(だからって手加減なんかしてやらないけど)
視線をずらす。リヴァイの背後の卓には今朝の一同が並んで座っていた。彼らにはハンジの短い拒絶が届いていなかったようで、それぞれが"興味津々"を顔に貼りつけてこちらに釘付けになっている。
「……おい、クソメガネ」
不測の事態にぶち当たろうと、瞬時に体制を立て直せるところはやはりリヴァイだ。彼はいまだ目を丸くしたまま、それでもしっかりとハンジを見据えている。
「『断る』とはなんだ。俺はまだ何も言ってねえぞ。『断る』もクソも何に対してだ」
「『結婚してくれ』に対してだよ。決まってるじゃないか」
(「ーー結婚?」)
背後を通り過ぎようとした女性兵の集団から、思わずと言ったように囁き声があがった。
(「ねえ、ハンジ分隊長いま結婚って言ったよね?」)
ハンジは構わずさらに続ける。
「なんか変だってずっと考えてたんだ。ねえ、どうして『ハンジ・ゾエは当然リヴァイの求婚を受けるだろう』と思ってるんだい?」
ハンジの声は基本的によく通る。長台詞になると尚更だ。分隊長と兵士長が睨み合う空間を異様に思い、注意を向け始めていた辺りの鼓膜を、その台詞ははっきりと震わせた。
(「……やっぱりプロポーズしてる!」)
(「待て待て、なんか雲行きが怪しくないか」)
(「まさかハンジさん、断ってる? 兵長のプロポーズを?」)
相対する二人に割り込まない程度の声量で口々に囁く彼らは、けれど揃いも揃って惑乱を深めている。
夕飯時の賑やかさが次第に個人的な問題に染められていく焦りを感じながらも、ハンジはリヴァイがゆったりと姿勢を崩す様をじっと見つめる。彼は、フー……と細く、長い溜息を吐き、何でもないことのように言った。
「さて、どうしたもんか」
泰然とした彼の低音は、ハンジの聴覚をあっという間に占領した。周囲が急激に遠ざかっていく。
──こっからが勝負だ。
リヴァイが顔をわずかに下向けながら、普段よりさらに角度のきつい上目遣いでハンジを睨めつけた。
「ハンジよ……てめぇまさか、ここじゃ到底食えない飯の出る場所で、指輪でも差し出しながらやれとでも言うんじゃねえよな?」
ハンジもハンジで、その凶悪な視線に怯むことなく上向けた顔から冷たく彼を見下ろす。
「だったらどうだって言うの? 調査兵の安月給じゃ無理だから諦める?」
「よせ。俺相手に駆け引きなんざするな」
ハンジの頬に、ピリ、と傷を生まない痛みが走った。微動だにしない表情筋の下でリヴァイが気色ばんでいるのだ。
「クソが。俺と夫婦になりたくねぇならハッキリそう言えばいいだろう。別に怒りゃしねぇよ」
普段と何一つ変わらない佇まいのまま、眼前の男は殺気のみでできた刃を振りかぶっていた。
怖い。ハンジはそのとき初めて、リヴァイの力の誇示を真正面から受けていた。深い沼に足を捕られて沈んでいくような、根源的な恐怖を感じてしまう。
「リヴァイ、あなた何もわかってないんだね」
けれどここにいるのはハンジ・ゾエだ。切れば刃が落ちてくる糸のような雰囲気だろうと、納得いかなければ切ってみるのがハンジという人間だ。
「頼むからこれだけは肝に命じておいてくれ。あなたが夫になるなんて、私の人生で一番の幸福に違いないよ」
「そりゃ光栄なこった。で? その一番の幸福を蹴り飛ばしてんのはどこの誰だ?」
「……残念ながら」
肩を竦めただけで、リヴァイはハンジが言いたいことと、明確には言えない気まずさを察したらしい。その額から唇までが、硬く歪む。
「この奇行種が。とことん男の面目を踏みつけやがる」
「ーー面目?」
リヴァイが吐き捨てた不満に、順を追って理解させようと目論んでいたハンジの感情が突然沸点に達する。
かつて彼がこんなにもハンジの意思を理解せず、沿おうともしないことがあっただろうか。いや、ない。
だからこそ、絶対に退けない。
「ああそう……リヴァイは自分の面目が保たれれば相手のことはどうでもいいんだ?」
「なんだと?」
「あなたはあくまで自分の矜持と結婚するわけか。結婚したい相手のことは二の次なわけね」
「オイ。んなことは言ってねぇだろうが」
「じゃあ今朝のは何だよ!」
ハンジは体内の熱を爆ぜさせるように立ち上がった。膝裏に蹴られた椅子がすっ飛んでいく。
「……今朝?」
「自分だけ完璧に整えた姿で、他人の部屋に勝手に入り込んで、あまつさえ寝起きの浮腫んでぐっちゃぐっちゃな顔を暴いて、勝手に求婚して勝手に断られて勝手に凹んで、勝手に解決して帰って行った! ほら、二の次じゃないか!」
突然の剣幕はハンジ自身にも多大な疲労を与えたが、そこまできてようやくリヴァイの顔に焦りが見えはじめる。他人には「気のせいじゃない?」と言われてしまうくらいの微細な変化だが、ハンジにはわかる。彼は確実に狼狽えている。
「なにを……部屋も寝起きも勝手も今さらじゃねえか」
「そうだね。あなたにとってはね!」
「そりゃ、お前なら、と……」
省略が甚だしいが、おそらく「お前なら」の後には「どんな姿でも気にならないから」と「言わなくてもわかるだろうから」が続くのだろう。それはリヴァイの繕いようもない本音だった。そびえ立つ怒りの前では鼻息にも等しいはずのその身勝手さが、けれども、燃えさかるハンジの炎にそっと身を潜り込ませてくる。
それだけでもう肩を怒らせたままにできなくなるのだから、惚れた弱みとはこういうことなのだろう。
はあ、と一つ吐いた息が、怒りの温度をも一つ下げる。この身は鉄芯で立っているに違いない。呆れるほど熱しやすく冷めやすいんだもの。ハンジはそう思った。
「"私なら"。そうだね、私も同じだよ。あなたなら、リヴァイなら。心底好いた相手なら、寝起きだろうが裸だろうが、糞の途中だろうがセックスの途中だろうが、背中で聞くことになろうが、きっとどんな求婚だって受け入れられる」
「だったら、」
なぜ。どうして。
その問いかけのあまりに無垢な響きが伝えるものに、ハンジは祈るように目をつぶった。
お前が腹かいてる理由はなんだ?
俺の何がお前をそこまで怒らせた?
わかるように教えてくれ。
(……いつもの、言い分だな)
ようやくだ。ようやくリヴァイがそれを口にした。
そう思ってしまったら、膨張して爆発寸前の熱だろうとなんだろうと、あっという間にハンジの中から消えていってしまう。
余計な意地を全て剥いで、二人はようやくそこに戻ってきたのだ。
「だって……」
喉が震える。意図してのことではなく、昂ぶっていく気持ちを抑えられなかったからだ。
「だって、リヴァイ……私のこと置いていった」
「……は?」
ハンジの口から出たのは、それまでの勢いをすっかり失くした、掠れた声だった。
「私のこと、置いてけぼりにして、二人のことなのに一人で決めようとした……」
──たった、それだけのこと。
それだけのことで、ハンジは怒っていた。そしてその根底には、怒り以上の悲しみが流れていた。
「プロポーズって、結婚のためのものだろう? 結婚は一人でするものではないよね?」
「……当たり前だ」
「あなたのやり方は勝手で、一方的だった。気持ちを問われているのは私のはずなのに、あなたは私のことを置いてった……今朝の、部屋でだって。食堂でもそうだ!」
リヴァイを焚きつけ、ハンジを囲んでその意思の介在しない議論に盛り上がっていた仲間たちが、二人の幸せを願っていたのは確かだろう。説明されずともわかっている。
けれどあの時、ハンジは過去のことを思い出した。異端視され、話に耳を傾けられることもなく、遠巻きにされていた過去のことを。
「どうして最初から私が怒って突っ撥ねた理由を私に聞かないんだよ? どうして私の選択を他人に委ねるのさ。リヴァイが結婚したいのは誰なの?」
「他に誰がいるってんだ」
つまり、ハンジしかいないということだ。そうでないと困る。
「だったら……」
ハンジは思わず俯いた。一言では形も表せない感情のせいで、みっともなく涙を落としそうになる。それきり何も言えなくなった。
「ーー悪かった」
気づいた時には、リヴァイが今朝と同じ唐突さでそばにいた。立ち竦んでいたハンジの横に片膝をつき、けれど今度は硬く握り締めた拳に優しく手を伸ばしてくる。ハンジをまっすぐ見上げながら。瞳には先程までの刃が残っていたが、その鋭さは今、彼の中で彼自身の胸に突き立てられているようだった。
ハンジはますます悲しくなった。
「ああ、リヴァイ、ごめん、ごめんね。こんなふうに喚きたてるつもりはなかったんだ……」
「わかっている」
自分の夫の位置を望んでくれる人がいるなんて、しかもそれがリヴァイだなんて。これ以上の喜びなど地上から巨人がいなくなること以外にない。夢現の狭間に問われてもそう答えられる。
なのに、ハンジ・ゾエときたら。
置いて行かれたことに腹を立てて、それを台無しにしてしまった。どうしても譲れなくてリヴァイに恥をかかせてしまった。自分が子供のように頑是ない理由でごねていることなど、最初から分かっていたのだ。
やるせなさに項垂れるハンジの手を、しかしリヴァイが大きな掌で宥める。
「ハンジ。全くもってお前の言うとおりだ。俺は自分のクソの通りの良さしか考えていなかった。なあ、契りたいお前の腹の具合も探らねぇまま、どうして夫婦になれるってんだ」
「リヴァイ……」
立ち上がった彼がハンジの眼鏡の下から丁寧に目元に触れ、睫毛を濡らすものを静かに拭い去る。
「やっぱりあなた、私の一番の理解者だ」
「何も理解できてなかったじゃねえか」
「そうじゃないよ……私のことを理解しようと、一番心を砕いてくれるのがあなたってことだよ」
「ハンジ……」
二人の手が、硬く絡み合う。
それは、今朝からの不和が、ようやくピタリと重なったことを示していた。
**
「済んだのか?」
永年の氷に閉ざされたような呪縛じみた空気を破ったのは、あまりにも簡潔な確認の言葉だった。
リヴァイとハンジに留められていた百余の瞳が、一斉に食堂の入口へ向かう。
「エルヴィン団長……!」
声の主こそは、現在の調査兵団団長、旧一分隊の分隊長にして昨夜の宴会の主催者、そして今朝から所用で中央に出かけていたエルヴィン・スミスだった。
彼の一言によって、時計の秒針さえ動きを止めていた空間が動きだす。
外套を脱ぐ姿に何人かの兵士が近寄り、空いている席に促す。が、エルヴィンはよりによって幹部兵が黙して座す机に腰を落ち着けた。背後のリヴァイとハンジには目もくれず。
「ミケ、状況の報告を」
「リヴァイとハンジが仲違いして仲直りした」
「そうか」
ひとつ頷いたエルヴィンが食堂をぐるりと見渡し、「各自、食事に戻るように」と声を張る。困惑の中にあった大勢の兵士たちは、未だ微動だにせず熱視線をぶつけ合っているリヴァイとハンジを横目に、とりあえず日常に戻り始めた。
「それで、仲違いの原因はなんなんだ」
それまで目線すら動かさなかった四人が、エルヴィンのその言葉にぐたりと肩の力を抜いた。それぞれが椅子の上で体を緩ませる。
「すまん。俺が調子に乗って煽るようなことしたんだ」
最初に口を開いたのは、やはりディルクだった。一人で罪を被るような物言いにマレーネが慌てる。
「違う違う! 昨日の宴会で! 酒が入ってみんなで悪ふざけしちゃったんだよ!」
「リヴァイに『ハンジにプロポーズしろ』って発破かけたんだ」
「ハンジの気持ちを考えずにな。で、二人が言い争いになった」
「なるほど。悪質だな」
ばっさりと切り捨てたエルヴィンに、四人がそれぞれ「だって」と口端を曲げる。
「昨日のリヴァイ、本気でウザかったんだ」
ナナバが吐き捨てるように言った。
「そうそう。何の話題を振ってもぜーんぶ宴会に来なかったハンジのことに繋げてさ。なんで駐屯兵同士の不倫のスキャンダルがハンジのことにすり替わるかな」
昨夜は珍しく脱衣ポーカーに興じて同僚を裸に剥いていたエルヴィンは知る由もないだろう。リヴァイのその場に存在しないハンジへの絡み方は、酒に酔ってもいないのに執拗だった。そして恐ろしいことに、リヴァイとハンジが立場を入れ替えたとしても同じだったと予想がつくのだ。とにかく互いの口から互いの名が出てきて喧しい。
きちんと二人が揃えばベッタリ引っ付いているので、逆に安心して放置できるくらいだった。
「あの二人の仲も……もう随分になる。いい機会だからきちんとすべきだと思った」
「ま、今だって実質夫婦みたいなもんだがな」
「……"仲"?……"随分"?」
エルヴィンがすいと顔を上げる。四人が四人とも、彼が拾った言葉に首を傾げた。
「いつ頃からかは覚えてないけど、長いよねあの二人」
「気づいたらくっ付いてたよな」
「新兵にも大体入団一ヶ月で知れ渡るね」
「互いの匂いが移ったのはリヴァイの入団からすぐだった」
「……」
しばし真顔で沈思黙考していたエルヴィンは、それから背後の席のリヴァイとハンジに体を向けた。二人はいつのまにか並んで席に座り、食事をとっているところだった。
目線と手の動きはそれぞれトレイの上の食事に集中しているが、肘が触れるほど近まった距離が傍目にも鬱陶しい。うんざりするナナバやマレーネを置いて、何食わぬ顔で夕食をとる彼らにエルヴィンが問いかける。
「リヴァイ、ハンジ。お前たち"恋仲"だったのか?」
「ーーえ?」
その問いは当のリヴァイとハンジだけでなく、ようやく日常を取り戻していた周りの兵士たちの注意をも引いた。大多数は「何言ってんだこの人」という意識とともに。
リヴァイが、は、と息を吐き出し、ハンジが笑う。
「違うよ。そんなわけないだろ」
「んな仲になってりゃ真っ先にお前に言う」
「そうだよな。いや吃驚した」
「ーーえ!?」
朗らかな回答に、衝撃をうけた声がいくつも重なった。なのにエルヴィンもリヴァイもハンジも納得したように食事に戻ろうとしている。
「ちょっと待て! リヴァイどういうことだ!」
ディルクが思わずと言ったように立ち上がった。やはり、椅子が背後に飛んでいく。
「あ? なんだ、うるせぇな」
「うるさかったあんたらが言うな! ハンジ! あんたリヴァイと寝てんでしょ!?」
「寝……バッ、大声でなんてこと言うんだよ! そんなことしてるわけないだろ!?」
「だってお前ら、夜に部屋を行き来して……」
「なんでそれがイコール寝るなんだよ! 普通にお酒やお茶飲んでおしゃべりするんだって! そんな、ふ、不埒なことしないし……っ!」
頬どころか肌という肌を真っ赤に染め、ハンジが慌てふためき反論し、リヴァイがじっとりとした目でそれを眺める。ちくはぐなその様子に嘘は見られず、四人の幹部兵は元より周りの兵士たちも唖然と二人を見つめた。
「じゃあなんでリヴァイは恋人でもない相手にプロポーズしてんの?」
一人だけ椅子に尻を落ち着けているナナバが、さらに言い募ろうとしていたマレーネを抑えて冷静に言った。受けたリヴァイも、冷静にそれを吟味する。
そして疑問に眉をひそめた。
「……? エルヴィン、恋人じゃなけりゃ求婚しちゃいけねえ法律でもあるのか」
「そんなものはない」
背中でそう答えたエルヴィンは緩慢な動作でスプーンを口に運んで目を閉じた。そして「昨日は飲みすぎた」と小さく呟く。よく見れば胃腸のあたりを掌で押さえてまったき己の感覚に沈んでいるらしい彼の肩越しに、リヴァイとハンジも元どおりに席に着く。
「驚いた。そんなふうに見られてたなんてね」
「勘違いに先越されたのは癪だが、結婚すりゃ問題ねぇんだろ? いずれお前の腹の調子を見てプロポーズする。ケツ洗って待ってろ」
「ふふ。ケツじゃなくて首だよ、リヴァイ」
カップを持ち上げた二人が、絶妙なタイミングでその縁を合わせる。いつか交わす祝杯の真似事のように。
ディルクは遅くなった食事をとるために厨房に向かった。ミケは手元の白湯で唇を潤した。マレーネは机の下の祝杯用の酒を持ち出し、ナナバは食堂の入口でモブリットとすれ違った。
その他大勢の兵士たちも、ようやく明日へと続く夜に身を浸しはじめた。
調査兵たちは基本的に、日常における大小の事件に対して感情的な反応が雑である。映像としての記憶ですらじきに霞んでいくだろう。
ただ、その夜のリヴァイとハンジの記憶が霞むまで、しばらくの間は誰も彼もが臭いものを嗅いだような顔で仲睦まじい二人を見ることになった。
その心中で、願うこと曰く。
「もうとっとと結婚してくれ……」
〈了〉
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(初出 19/01/18)