夜半。
リヴァイの自室にぼそぼそと話し声が落ちる。
「ほんっと……よく直後に動けるよね……」
「鍛え方が足りねえんだろ、お前は」
「ぐっ、腹立つ……」
寝台にうつ伏せで呻くハンジを見て、リヴァイの脳裏にふと蘇るものがあった。
そういえば。
「一度だけ……ヤッた後に眠りこけた事があったな」
「えー……昔の話? 私それちょっと聞きたくないかも」
ハンジは何を想像しているのか、肩越しに振り向いた顔を盛大にしかめている。
なんだこいつ。嫉妬してんのか。
リヴァイは大変愉快な気持ちになった。
「教えてやろうか」
「あなたねぇ……」
「お前と初めてやった時だ」
ハンジが息を止めた。
「……それは……」
「気が付いたらボロボロで朝になってて、隣でクソ汚れたお前が気絶してた」
「誰のせいだよ」
「俺の精だ」
さしものハンジも顔を上げて張っ倒すぞコイツ、という目をしていたが、寝台に沈んでいる今なら問題はないだろう。むしろ張っ倒せるぐらいになれ、とリヴァイはさらに挑発する。
「ぶん殴り合いみたいに始まったが、アレは……滾ったな」
寝台にもつれこんで完璧に組み敷いてやっても、睨みあげてくるハンジの瞳はいささかも怯まなかった。
リヴァイが一人で気持ちを拗らせておっ勃ててるだけの現状に心底腹が立って、あの眼鏡を……ハンジの心を覆う憎らしい眼鏡を毟り取ったのだ。
露わになった瞳にほんの少しの不安を見つけてリヴァイはひどく興奮した。彼女が本音で喘ぐようになるまで攻撃の手を休めなかった。
ハンジの裸は美味かった。
漏れ出る心をすすって、喉を潤して。
シーツの上を散々びしょびしょのぐちゃぐちゃにした二人の意識は、夜半のとある時点で突然世界から離れた。
「その顔やめて」
「どんな顔だ」
「心底楽しいって顔! 絶対してる! 恥ずかしいんだよ! あなたを埋めたくなるだろ!」
「お前が埋まるんじゃないのか」
案の定枕に顔を埋めてジタバタと暴れ出したハンジの尻を叩き、暴れる余力があるなら、とリヴァイはのしかかった。
「あれは悪くなかったが……二度はできねえな」
ハンジの背中を舐めながらリヴァイは呟く。
二人を取り巻く状況は、刻一刻とその重みを増していた。ついこの間のような激情のままの行為が、今はもう許されない。
「私だってあんなの、今後はごめんだよ……」
「……じゃあ、余所見すんじゃねえぞ」
「よそみぃ?」
腕の囲いの中でハンジがくるりと向き直った。微かな驚愕と多分な愉快をその顔に見て、リヴァイは舌を打ちそうになる。
「ええっ? もしかしてあんなことしたのって嫉妬のため? しかも現在進行形で私が他の男にうつつを抜かす可能性を」
「だまれ」
「わかった、今後二度とリヴァイとは口をきかない」
「おい、ハンジ」
淡々とリヴァイを押しのけたハンジは、寝台の端まで転がり背を向けてしまった。
肩が震えている。おまけに何かを堪える声。
笑ってんじゃねえよ。
完全にふざけた空気になったこの状況から、さあどうやってぶち込むまで持っていくか、とリヴァイは自問する。
彷徨わせた視線に、机の上で大人しく畳まれている眼鏡が滑り込んだ。
「はっ」
小さく漏れた笑いの色は嘲りだ。
他の男だと。生温い。
仮にそんなものが間抜け面を晒して出てきたところで、リヴァイの敵ではない。相手とて、ハンジを本気で手に入れたいのであればリヴァイにかまけている場合じゃないのだ。
リヴァイの恋敵は、ハンジ自身の中にある。
人類だ。
人類の自由への解放。その意思。
時には唾を吐き石を投げる、守るべき"人類"のために、ハンジは心臓を死の穴の上に垂らし続けている。
調査兵団の兵士のほとんどはそうだが、イかれている。ハンジはその中でもとびきりだ。
そしてリヴァイは、その狂いきった女の全部が欲しかった。
リヴァイが欲しがってる分だけ、ハンジにリヴァイを欲しがってもらいたかった。
ハンジの欲望が欲しかった。
愚かな願いだ。巨人だってそっぽを向く不味さだ。
案の定ハンジは、そんなリヴァイの願いなど蹴散らした。
こんな風に睦み合う今も、踏みにじり続けている。
リヴァイはリヴァイの安寧を守るためにこの女の腕から飛んでいく。
けれどハンジ・ゾエはそうじゃない。
躊躇もせず飛び出した先で、一度もリヴァイを振り返らない。その温度を思い出しもしない。
生きて戻ってきてリヴァイに縋り付かれて、その時やっと二人の関係を思い出すのだ。
ハンジの身体の奥の奥まで占領して、朝を迎えたハンジと対面して、リヴァイは初めて絶望した。
熱狂の夜がまぶしい光の前に雲散した。
この女は自分の物にはならない。
そして開き直った。
この女は、誰の物にもならない。
巨人が駆逐された世界が来れば、あるいはハンジはリヴァイの元に堕ちてくるかもしれないが、リヴァイは曖昧なものを見るのが苦手である。来るかもわからない未来を一心に見続けることは難しい。
そして今、触れられない物の一番傍に自分がいたい。
ハンジが帰ってきて思い出す最初が、リヴァイであってほしい。
リヴァイは眼鏡を手に取った。
結局、これがあってもなくてもハンジはハンジなのだ。
感情を抑えても理性をまとっても本音を零しても、その本質は変わらない。
ハンジがハンジを保つために必要な道具だというなら、それでいい。
破れ傷だらけの仮面だっていくらでも被ればいい。
リヴァイの前でだって被っていればいい。
そうやって、ハンジが堕ちない限り。
曖昧な未来以外に余所見をしない限り。
壁の中だけの恋人に微笑む限り。
出来の悪い仮面で自分を守る限り。
リヴァイはずっと、彼女に一番近い外側にいる。