親愛なるクソ眼鏡
ハンジの眼鏡にまつわる三篇
親愛なるクソ眼鏡
ハンジの眼鏡にまつわる三篇
「おい……何だその顔」
「え?」
何だと言われても。
リヴァイの声から訝しさを感じ取ったハンジは、その顔にも怪訝さが表れているのだろうと想像する。
だが心当たりはない。
「ん? わたし変な顔してる? どんな?」
「俺みたいな顔だ」
「うおおヤバい!」
リヴァイなりのジョークに一応慌ててみるも、冷静に考えてみてもやはり可笑しいことなどない。
ハンジは改めて不思議に思う。
この男の鉄のような表情を持する顔の中で、一番目を引く特長といえば眉間の皺だ。あとは瞳の色、三白眼、隈、薄い唇くらいか。
ハンジの、というか人間の眼や唇の形がいきなり変化することはないし、昨晩はたっぷりと睡眠も摂った。(さらに言うとハンジの隈など今更だ)
だとすれば眉間の皺だ。
リヴァイが言うのはこれだろうかと見当をつける。それならば答えは出ている。
見えないのだ。ハンジは眼が悪い。
裸眼であれば視界がぼやけて、物と物の輪郭が曖昧に滲んでしまう。物への距離だって朧げにしか測れない。
もしその状態で目の前のものを見ようとすると自然、瞳に入る光の量を絞ってなんとか像を結ぼうとしてしまう。
結果、眉根が寄る。リヴァイ状態である。
では、常にハンジの目元に鎮座して彼女の世界を明瞭にする眼鏡はどこかと言えば、今は机の上だった。
「いや私、いま裸眼だし?」
今この瞬間ハンジの両目が裸なことも、その視力についても、それこそ今更な話である。
特にこの男にとっては。
まだ大して長くもない関係だが、片手の指で足りないほどには今夜のように裸で抱き合っているのだから。
**
初めてリヴァイと身体を重ねた日に、ハンジは学んだ。
──いや、"重ねた"なんて温いものじゃなかった。あれは性交を言い訳にした決闘だった。
少なくともハンジにとっては。
互いが互いの胸倉を掴み、歴戦の兵士である二人が壁外ですら久しく見せることのない歪んだ表情、絡む視線は相手を喰い殺さんばかりにギラついたもので、偶然にもそこに居合わせた者がいれば青い顔で大声で人を呼んでいたであろう。
だというのに競うように押し付け合っている腰は溶けるように熱くて、硬く勃ち上がったリヴァイの分だけハンジの柔らかい部分は押し負けていた。
「ハンジ。怪我したくなかったら大人しくしてろ」
「いいねえ、怪我させてみてよ! 仲間にはお優しい兵士長様!」
茹だった頭でハンジの言葉を受けたリヴァイは、かすれて上擦った声で辛うじて「妬いてんのか?」と囁いた。
囁いた言葉を自分で聞いて、その理性もぶつりと切れた。
──かくして、戦場はベッドに移る。
話がズレたがとにかくまさに喰い合いを始めんとするその時、ハンジの眼鏡はリヴァイによって毟られ放り投げられたのだ。それはもう憎々しげに。そしてそのまま数時間放置された。
翌朝、というにも早い時間、痛みで呻くハンジの声に尻を叩かれ、リヴァイは薄暗い部屋の中を眼鏡を探して歩き回った。
全裸で。噛み跡と引っ掻き傷と鬱血痕が斑な姿で。
棚の下で見つかった眼鏡は、楕円のガラスの右下が少し欠けていた。
おまけにそこを始点としてレンズの真ん中にヒビが走っていた。元々レンズが金属のフレームで縁取られていない型だったので、無防備で華奢なガラスはリヴァイの作法に耐えられなかったらしい。
目の悪いハンジにとって眼鏡はまさしく生命線。
手を伸ばせる範囲の内側にあるものが何なのか、敵なのか、味方なのか。区別がつかないのは大変まずい。
リヴァイがおずおずと差し出した彼女の一部(負傷)を検分したハンジは、案の定ブチ切れた。
全裸で。歯型と手型と所有印が鮮やかな姿で。
説教と逆ギレから第二回戦が勃発し、眼鏡は翌日やっと修理に出されることになった。
しばらく兵舎では、朝から晩までゴーグルを装着した不機嫌な分隊長の姿が目撃された。
とにかくそういった理由から、ハンジはリヴァイと褥を共にする時は眼鏡の行方に気を付けるようになった。
私的にリヴァイと過ごす予定の時は事前にテンプルをつなぐバンドを外し、二人きりになった時に"そういう空気"が立ち込めるのを察すれば、素早く眼鏡を外し丁寧に畳んでハンジの手が届く一番遠くに置く。
準備万端だ、さあ来い。
が、その一連の動作に白けたのかなんなのか、すぐにリヴァイからハンジの眼鏡に手を伸ばすようになった。
初めての時のことなどなかったかのように、優しく、甘く。
そもそもリヴァイの嗜好がぶつかり合うような接合なのかと思えば、ハンジが落ち着いた気分の時は泣きたいほど緩やかに揺らすだけの夜もある。そんな交わりでも火傷しそうなほど身体は熱くなるのだ。
まだそう多くもない重なりの中で、二人は"この相手だとわりと何でも気持ちいい"という認識を色濃くしている最中である。
話は戻る。
今夜は比較的穏やかな始まり方だった。
ランプに火を灯したばかりのハンジの部屋にリヴァイが訪れ、鍵を閉める音に振り向いた彼女を背後から椅子ごと抱きしめた。眼鏡を外し、寝室には鍵をかけろという囁きをハンジの口内に吹き込み、片手はもう熱い乳房を服の上からなぞっている。
眼鏡が無事に机の上に置かれるのを気配で察したハンジは体を回してリヴァイを受け入れた。
唇がくっつく度に二人は体温を上げ、その口よりよっぽど器用なリヴァイの手はハンジを裸に剥いてそっと寝台の上に横たえた。
いつもより少しだけ明るい室内に、ふと気になってハンジはリヴァイを見上げる。
──どんな表情をしているのかな。
ぼんやりと霞んだ夜の男の、その顔を見つめる。
で、先のリヴァイの発言である。
**
「眼が悪いのは知っている……が、その顔は、何だ」
だから、何だってなんだよ……。
いよいよリヴァイの声が困惑を纏い始めたことに、ハンジもつられて焦ってしまう。
さて、必死に頭を巡らせる。今日は"今更"じゃないことがあっただろうか?
特に思いつかない。
けれどリヴァイの声音に混じった不安を散らしたくて、ハンジは切なる気持ちでその頬に手を伸ばした。
今はハンジにしかわからないだろう彼の表情、その頬の強張りが緩みやしないかと──
「……ああ」
「あ?」
そうだ、これだ。
今日はいつもと違って、見えないものを見ようとしたのだ。
ランプの温かい光に浮かんだ、ハンジを溶かそうとするリヴァイの、その表情。
「……私も余裕が出てきたってことかなぁ」
「おい、何の話だ」
今日までのことを逐一覚えているわけではないが、リヴァイとの行為が始まってから終わるまで、ハンジも感情と快感の昂りについていくのに精一杯だったのだろう。
兵団内で誰よりも背中を預けられる同胞だったリヴァイに、ハンジは身体の中の一番奥をも許した。
リヴァイもまた彼の一番弱いところをハンジに差し出した。
その腕が世界のどこよりも安心する場所だと感じ始めた矢先の今日だ。
こなすのに必死だった行いに、相手の反応が気になる程度には慣れたということか。
「あなたも今になって気付くなんて……意外と緊張してたのかな?」
「だから、何の話だと、」
「私を抱いている時のあなたの顔が見たくなっちゃったのさ。ごめんね? 眼を細めるのが癖になってて」
「……全然見えねえってことか?」
リヴァイはどうやらハンジの言葉である程度を理解したらしい。鼻が触れ合う距離に顔を近づけ、榛色の瞳の陰影を見つめる。
「ん〜、この距離ならわかるよ、っふ」
ハンジの言葉を飲み込んで吐息と唾液を混ぜ合わせた後、リヴァイは寝台から起き上がった。
「? リヴァイ?」
「おら」
戻って来た彼が手に持っていたのはハンジの眼鏡だった。手渡されたそれをハンジは反射でかけてしまう。テンプルエンドを両耳の上に乗せ、パッドをしっかりとした筋の鷲鼻にあてる。
「どうしたの? 今日はもう、しな」
明瞭になった視界でハンジが最初に捉えたのは、半分勃起したリヴァイのリヴァイだった。
「でゅっ……!?」
「ハンジ」
シーツの上に投げ出されていたハンジの膝が突然、リヴァイの手に掬い上げられた。
抵抗を考える前に押し上げられた両膝は再び寝台に倒れたハンジの肩に軽く触れる位置で固定される。
苦しい。ついでに恥ずかしい。
「うぐっ、ちょ、リヴァ……イイィ!?」
すっかり失念していたがハンジは全裸だった。秘所にも隠すものなどない状態。そこに、リヴァイの熱い舌が伸びる。
「なにっ……なにしてんだよ!?」
「続きだが」
「え、このまま……?」
抗議を置いてきぼりにした行為にそこはすぐに潤み始め、ふさわしい水音が続く。
ハンジは堪らず逸らした顔をシーツに埋めた。と、波打つ布に押し付けられた眼鏡がカチャリと音を立て、ズレる。
──なんか気が散る。
「…………んんんっ!」
「おい、余所ごと考えるな」
「はっ 馬鹿……いきなり、あ!」
特に敏感な膨らみに吸い付いたリヴァイはハンジをいじめる舌に指も加えたらしい。バラバラと動くそれはハンジを簡単に崖の上へ追い詰めていく。ひとりで走り出す身体に、ハンジは必死で制止をかけようとした。片肘で体を支え、元凶を止めるべく手を伸ばす。
──が、脚の間にふてぶてしく収まる黒い頭を見てその手は大きくぶれて空をきった。
リヴァイが。
あのリヴァイが。
ハンジに淫らに触れている、姿。
蠢く舌までくっきりと認識した瞬間、ハンジの脳は甘い衝撃に襲われた。
「ふぅ、ん……っ!」
脳髄からくだる熱と下から這い上る快感が、背筋をクンッとしならせる。
震える腹や汗ばむ肌に何を察したのか、リヴァイが動きを止めた。言葉がなければ滑らかな舌が、淫らでびしょ濡れなそこから離れる。指は隙間でうごめいたまま。空いた手はけして滑らかではない腿の肌をしきりに彷徨っていて。
汗ばんだ額、薄く赤らんだ目元、半開きの唇と、全き欲望に占拠された瞳が、…リヴァイの全てがハンジに向けられている。
ハンジは息を詰まらせた。
「ちゃんと見えるか?」
リヴァイがどんな顔で、ハンジを抱いているのか。
ああ、よく見えるよ。
ハンジの腹の奥が抑えきれない悦びに鳴く。
「……クッソ恥ずかしい」
「そう言うな。中は凄く、」
「うるさいだまれ」
なんだこれ。恥ずかしいな。恥ずかしい。
自覚できるほど温度を上げる頬を手で覆い、指先にあたる眼鏡にハンジは我に返った。
滲んだ輪郭に線を与える道具。ハンジの生活になくてはならない眼鏡だが、今この時はその限りではない。
リヴァイの局所的な表情を窺いたかった欲望は、当の彼が律儀に果たしてくれた。というか果たしすぎて悶死しそうになっている。……今後は裸の時の発言に気をつけなければ。
とにかく今ここからの安心安全な行為のために、ひとたびこの子とはオサラバしよう。
眼鏡に手をかけたハンジの手はいきなり腰を引かれたことでまたも盛大にぶれた。シーツの上に転がった裸体も再びリヴァイに折り曲げられる。
「っだぁ!」
「挿れるぞ」
「え!? 待って待って、ぇあっ、は……」
驚いたハンジの目に、手を添えられたリヴァイの根が、ゆっくりと己の谷に飲み込まれる映像が入ってきた。
濡れきって媚びた色の柔肉に、硬くて赤黒く太ったそれが徐々に、徐々に。目と中で捉えるそれはいっそ暴力的なまでに鮮明だった。
「あ、ぁ……」
「……ハンジ、きつい」
「ばか! 本当にばか……」
中ほどから根元までを一気に押し込めしばらく馴染ませると、リヴァイはハンジを揺らし始めた。
肉を打ち粘液をかき混ぜる、なんとも卑猥な音が響く。
リヴァイはハンジと目を合わせたまま両手で肌をくすぐり、乳房の頂点を嬲り、ハンジの胸に吐息を落とし、必死にリヴァイの身体を這うハンジの手指に喉を鳴らしてみせる。
全部、綺麗に見えてしまう。
ハンジの身体はそれに否応なしに歓声を上げ、中のリヴァイを抱きしめた。
次第に遠慮のなくなってきた抽送を全身で受け止めるハンジは、過ぎた快感に体をくねらせ、先へ先へと突き上げられ、また引き寄せられ、シーツの上でもがくように踊る。
眼鏡も合わせるように顔の上で踊った。鼻にピタリと添っていたパッドはとっくにそこから浮いていて、緩く耳に引っかかっただけの眼鏡は上下左右にカチャカチャと忙しなく揺れている。
ハンジの視界もブレまくりである。
不安定な世界で見るしっかりとした輪郭のリヴァイはそれはそれは楽しそうな顔をしていて、なんだか悔しいハンジは喘ぎ声の合間に彼を詰ることに懸命になった。
「なに、その、顔……っ」
「何って、なんだ。お前を抱いてる顔だが」
「……楽しそう」
「あ?」
さして親しくもない人間ならわかるまいが、リヴァイのこれは愉悦を極めた表情だ。ハンジの私室の塵芥を完全に駆逐した時の、いやそれ以上の顔をしている。
「はっ。そういうお前とヤッてると……なんだ、いい気分だな、ハンジ」
「はぁ、なんで……?」
「お前の、眼鏡の有り無しで気分が変わる、あれだ」
面倒な癖つけやがって、忌々しい。
熱い息と吐き出された言葉に、ハンジはギクリと体を強張らせた。リヴァイが呻いたが知ったことではない。
──バレていたのか。
すでに裸眼の姿を見せているのでやはり今更だが、ハンジは眼鏡の着脱で感情をある程度制御している。
考えることも気にすることもあちこちに溢れている世界は、レンズ越しでない時だけは不鮮明で、曖昧だった。
世の中の色々な物を明らかにするその道具がない時だけ、外側の何ものも満足に掴めないハンジは、逆に自分の内側を素直に見つめることができる。
誰にも知られないところで眼鏡を外して露にする心は、ハンジだけの秘密。
けれど──。
「……この、クソメガネが」
リヴァイが呟く。情事の場にはいささか感傷的すぎる声で。
彼にはその機微が知られていたのだ。
しかも今、こうして眼鏡をかけているはずのハンジは、建前も素もないほどリヴァイに翻弄されている。
境界を溶かしたリヴァイはそれを喜んでいる。楽しんでいる。
先刻よりもよっぽど強い羞恥がハンジを襲った。
「……っ! だから、キツイと……」
「知らない! 知るもんか!」
「お前の体だろう、が!」
「ぃっ、ひんっ」
畳んだハンジの体をリヴァイが上から叩くように攻め始め、揺れはより勢いを増した。
ああ、結局今宵も激しく時が過ぎる。
リヴァイはハンジを暴きたかったのだろうか。初めての夜のように、余すところなく。
強烈な恥じらいの渦の中に確かに歓喜も見つけたハンジは、ひとまずその気持ち良さに抗うのをやめた。
ギシギシと簡素な寝台が軋む。壊れればまあ新しいの買えるしな、くらいに開き直っている二人には忠言にもならない。
二人の確実に削り合う攻防に、ハンジの眼鏡はもう眼鏡として正しくない位置までズレていた。室内の光を受けてガラスがキラリキラリと瞬く。
リヴァイは腰の動きを緩めながら、ずり落ちた眼鏡をそっとかけ直した。
そのまま二人、見つめ合う。近づく。
下半身を繋げたまま唇を合わせようとして、眼鏡が邪魔だなと同時に動きを止める。
「……ねえ、眼鏡とらない?」
「ちっ……却下だ」
「なんでさ! もう十分だろ! そのこだわりは何⁉︎」
代わりのようにハンジの薄い皮膚をなぞる指は切実だった。ハンジとてリヴァイの唇がほしいのだ。はあ、と両の口から漏れる溜息にはたっぷりと色がのっている。
けれどリヴァイは笑った。至極わかりづらく。
「……てめえの常日頃の『私事なんぞ知りません』って顔をぐずぐずにしてんだと思うと、なあ?」
なあ? じゃない。下を硬くするな。
鼻白んだハンジはそれでもリヴァイの「舌を出せ」という言葉に従い、唾液が垂れるのも構わず突き出した舌同士を擦り合わせ、リヴァイに熱く見つめられ、拍を合わせて突き上げられて、リヴァイの名を呼びながら呆気なく達した。
痙攣するハンジに大変満足したリヴァイは、膣奥をしつこく捏ねまわした後ハンジから出て行き、力の抜けた細い手を借りて蜂蜜色の腹に欲望を吐き出す。白く粘ついたそれは胸にまで跳ねた。
呼吸を整える汗まみれの肢体、を汚すとろりとした粘液。
眼鏡ごしに蕩けた瞳をして指でそれを掬うハンジに唇を落とした後、リヴァイがボソリと一言。
「……次は眼鏡にかけるか……」
**
「リヴァイ、あなたって私なんか目じゃないくらい変態だね。いや、悪趣味」
「馬鹿言え。男は誰でも変態だ。性的に」
「一般化するな! 誰でもなもんか!」
「なあ、まずは咥えてみねえか? 眼鏡のままで」
「何が"まずは"なの? しないよ?」
「その眼鏡が好きになれそうな気がするんだが」
「ならなくていい」
リヴァイはまたしばらく「クソメガネ」と呼び続けた。