特別な日に
特別な日に出会う二人の話
特別な日に
特別な日に出会う二人の話
1.
男が〝その日〟のことを思い出したのは、コンビニエンスストアの陳列棚に並ぶホールケーキを見た時だった。
LEDの光を受けてつやつやと煌めく緑の箱に、でっかい黄色の筆記体で『Merry Christmas!』と書かれているのを目にして、「そういえば今日はクリスマスだった」からはじまり、思考がぼんやりと「クリスマスは俺の誕生日と同日だった」へ移っていく。
そして最終的に「三十年前の今日、俺は生まれたんだった」へと落ち着いた。
十二月二十五日は男の誕生日だった。
指と掌に挟んでいたおにぎりが滑り落ちそうになり、慌てて胸に抱え込む。視線を感じて目をやると、レジカウンターの向こうから初老の店員がじっとこちらを伺っていた。
クリスマス当日の、しかもあと一時間ほどで日付も変わろうかという時間帯に売れ残ったホールケーキの行く末を案じているのだろう。
(買わねえぞ)
眉間に皺を寄せ伝えてみると、それを察したらしい店員も興味を失くして視線を逸らしてしまった。
ビルの一階にあるこのコンビニは、今夏、弁当屋チェーン店に変わって新しく入ったばかりの店舗だった。過去の売り上げ実績データなしの状態でおおよその販売個数を予測し搬入したクリスマスケーキが期待どおりには売れずに余ってしまったのだろう。ここは繁華街も近く、ビジネス区のほぼ中心に位置する場所だった。少し歩けば高級菓子店もあるし、わざわざコンビニでケーキを買おうという客もいない。
クリスマスケーキは残り三つ。売れ残りを探して駆けこんでくるギリギリランナーがいればもしかしたら捌けるかもしれない数だ。
まあ、足りないよりは余るほうがいいだろう。三個なんて大した損失でもないし。心中でそんな、慰めともつかぬことを呟きながら、男は清算を済ませて外に出た。
今日、男に生まれた日をともに祝ってくれる人間はいなかった。
両親は子供の頃とっくに他界していたし、育ての親は他人の誕生日をいちいちスケジュール帳に書き込むような人間ではなかった。というか電話が繋がらない。ひと月として同じ番号だった時がない。
比較的交流のある友人たちのことを思い出したが、誰も彼もクリスマスに予定を入れていそうな人種ばかり。
男の恋人は──春の大型連休の繁忙にかまけていたら、いなくなっていた。
こまめに祝い事などをチェックしていそうな部下たちは、もう四時間も前に男自身が「とっとと帰れ」と会社から叩き出した。
というわけで目下、誕生日どころかクリスマスをともに騒ぐ人間は誰もいない。
寂しくはない。
そもそも、就業時間を過ぎても大量に残ったままの仕事に追われ、誕生日のことなどすっかり忘れていた。
部下の顧客情報登録ミスから始まった情報事故案件に、別案件のクレームの謝罪文送付先相違が発覚、部下が顧客とのやりとり中に発火して炎上、やっと鎮火させたところに先方に頭を下げて行った日程変更にミスが見つかり、男はおよそクリスマスとも関係がない諸々の事情で残業を余儀なくされた。
天を仰いで生まれただろうこの日を、男はなるべく地面と頭を近づけ、謝罪を口にしながら過ごしたのだ。
今日起こった出来事は、わざわざ今日を選んで起こったわけではない。
別の日にだってミスは起こったし、重なったし、男が長時間の残業をすることなんで当然何度もあった。
言ってしまえば、男の両親がこの日を狙って男を仕込んだわけでもなければ、男が望んでこの日に生まれてきたわけでもない。
男は十二月二十五日という日付になんの感慨も抱いていなかった。
そういうわけで、喜びも悲しみもなく、自分が生きるのに手を貸してくれた人々に少しのあいだ感謝をして、男はたった一人で歳をとった。
(歩くか)
タクシーは少し先の繁華街に集中している。カレンダーでは休日の今日、それもこんな時間帯にビジネス街を流す運転手もいないだろう。
転々と続く街灯が、冷めた色の石畳を浮かび上がらせる。
そこにゆっくりと一歩を踏み出したとき、男の目の前にひらひらと、白い粒が落ちてきた。
(——雪だ)
気付いた瞬間、足は来た道を引き返していた。
コンビニの入口の前で、片手にホールケーキが入るだけのビニル袋を下げた青年とすれ違い、男はその革ジャンに包まれた背中を凝視した。嫌な予感がする。
半ば駆け込む形で入店すると、先ほどの店員が「いらっしゃいまーせー…?」と曖昧な声をかけてきた。ケーキの陳列棚に近寄るのを見て、ようやく再来店の客だと気付いたようだ。
疾走もむなしく、陳列棚にケーキはなかった。
「ぁあ!?」
おかしい。男が退店した五分前、そこには三箱分のケーキが並んでいたはずだ。八つ当たりに近い眼差しで店員を睨むと、彼は肩を竦めた。たった五分の間にギリギリランナーが三人も駆け込んできたということだ。景気のいいことでなによりだ。
思わず頬を歪めた男の胸を、店員の申し訳なさそうな表情がするりと過ぎ去っていく。
背中を優しく叩くような「ありがとうございました」の声を受けながら、男は再び冬の夜に身をさらした。
スマートフォンのマップアプリで近隣のコンビニを検索する。今いる地点を中心としてちょうど東西南北の位置で四件のコンビニが建っている。それぞれまでの距離はバラバラだ。
それだけを確認すると、男はまず自宅とは反対の方向に進みだした。
(こうなりゃしらみつぶしだ)
十分前までは関心もなかったケーキになぜいきなり執着を覚えたのか。
正直、男自身もさっぱりわからない。
とりあえずはケーキ。それだけだった。
ふわふわした黄色い生地に白くて甘くて冷えると若干硬くなるクリームが載っているのでもいいし、薄く焼いたクレープ生地とクリームを交互に何枚も重ねているようなのだって構わない。干上がった池の底みたいな表面に粉が吹いたチョコレートケーキだって、チーズの表記があるのに砂糖の味がするチーズケーキだって、果物の甘煮を「とりあえず載せてみた」とばかりに盛っているタルトだって。
「なんでもいいからケーキを手に入れなければ」という焦燥の原因を探るのは、手元に目的のものを収め、いざフォークでつつくことになってからでも充分間に合うだろう。
男の足はいつの間にか、夜のビル街を駆け抜けていた。
結果から言えば、辛くも勝利だった。
四件目の西にあるコンビニに辿り着いた時、男は「強盗と間違えられるかもしれない」と自覚できるほど切羽詰っていた。なんせあと十五分で今日という日が終わってしまうというところでまで来ているのに、戦果はいまだゼロだったからだ。
おにぎりとお茶はビジネスバッグに詰めた。たぶん潰れている。
男の形相に身を竦ませた髭面の店員を素通りし、男はデザート棚の前にまろびでた。もはやクリスマスケーキには期待していない。
カッと開いた三白眼でコンマ二秒、右から左に陳列棚を舐める。
そして──それを見つけた。透明なプラスチックの中で、燦然と光る、
「……ケーキ」
それは、男の片手から少しはみ出す大きさのブッシュ・ド・ノエルだった。小さなマジパンのサンタとソリが載っていて、トナカイなしに己でソリを引こうこするサンタの根性が哀愁を感じさせる。
「ありがとうございましたー」
充足。達成感。
最後の店舗でクリスマス仕様とはいえちょっと豪勢なケーキを購入できるとは。駆け回った甲斐があったというものだ。お値段以上のものを手にした男は、今度こそ帰宅すべくコンビニを出た。
ちょうど通りの先に停止するタクシーを見つけ、めずらしく上向いたままの気持ちで歩き出したときだった。
「えっ?」
「は?」
ドッ、だかドスン、だか。
強打の音が体全体に響く。
尻から広がるじんとした痺れに我に返ったときには、男は地面に尻餅をついた姿で遠ざかっていくタクシーを見ているところだった。
「ったー…あっ!? すみません大丈夫ですか!?」
言われてやっと、男は自分が視界外から体当たりを受けたことを知った。そうとわかれば体も痛みを訴えだす。とりあえず、謝罪を繰り返していることからぶつかってきた張本人であろう人物を見やった。
女だ。
化粧気のない顔や、どう見ても「とりあえず防寒だけして出てきました」という風体をしたその相手に、男はただ「女だ」と、それだけをまず思った。
「あのすみません、どこか怪我とか」
「……ああ? ああ、いや」
「えっ、どっち!?」
自分と同じく道路に座り込んだ女に、どうやら自分だけが惨めに転げたわけではないらしいと判断した男はしっかりと立ち上がって見せた。
「なんともない」
「ああ、そう……よかった……」
心底、というふうに安堵する女へ手を差し出す。が、気付かなかった女は自分でさっさと立ち上がった。さりげなく手を隠し、男はまじまじとその全身を眺めた。
背が高い。
女は男より十センチは高い身長を持っていた。
そして改めて見ると、男が辛うじて《女》と判断できるタイプの人間だった。
唇に化粧はなし。髪もざっくばらんに後ろでまとめて結っただろうもので、実用性第一のなんの遊びもないマフラーを特にひねりもなくぐるぐると首に巻きつけて、着ているコートは分厚い生地の膝まであるもの。よく見たら男物だ。下は黒のチノパンにスニーカー。
普段化粧の有無と服装だけで性別を見極めているような男が、《女》だと一瞬で断じる事ができたのが不思議なくらいの様相だった。
髪が長く、ズレた眼鏡も女性向けの細めのデザインだから、まあ……と自分を納得させようとした男は、そこで女が持つ綺麗な形の眼と鼻に心を奪われた。
眉間を始点にして左右に、均等に伸びる眉筋、下に降る鼻梁の線は強くて美しい。男を捉えてパチパチと瞬く眼の淵には、緻密な計算の上で配置されたかのような睫毛が生えている。
横顔などはさぞ絵になることだろう。
男の胸が、不思議と高鳴る。
女はそんな何かの高まりにも気付く様子はなく、男が落としたビジネスバックを拾って土埃をはたいた。そして辺りを見回し、ある一点で、ポカン、と間抜けな顔をした。
男も倣ってそちらを見る。
「あ」
「あああぁぁ!?」
ブッシュ・ド・ノエルが、変わり果てた姿で道に散らばっていた。
「あっ、あああ! えっ、すみませんこれケーキ、」
「ケーキだ」
「うわああぁ! ごめんなさい! 買いなおします!」
「最後の一個だった」
「え!? あっじゃあ他のコンビニに」
「どこも探して、これが最後の一個だった」
女の顔に絶望が広がっていく。
対して、男の心中はケーキを損なったことになんの荒れも起こさなかった。寒空の中をあんなにも駆け回った原因のケーキへの執着も、女に指摘されるまで忘れていた。
夜道で青ざめて大騒ぎをする女をなんと落ち着かせるべきかと考えながら、とりあえずは一番遠くまでぶっ飛ばされていたマジパンサンタを拾い、ビニル袋に入れる。土に汚れた彼だけは少し可哀想だった。
「本っ当にごめんなさい……! 寒かったからあったまろうと思って、全速力で走って来ちゃって」
「いい。弁償も必要ない。それより深夜にあまり出歩くな」
「ですよね、こういうことも起こっちゃうし」
そういう意味ではないのだが。なんとなくズレた女だ。
道を汚すケーキを囲んで女と二人、どう片付けたもんかとしゃがみ込んだとき、女が心底申し訳なさそうに言った。
「でも本当に、お金だけでも払わせてください。せっかくのクリスマスのケーキを……こんな」
「ああ、クリスマスじゃなくて誕生日だから買ったんだ」
男の口から無意識に出た言葉に、大胆にもケーキの残骸をわしづかんで袋に入れようとしていた女の手がピタリと止まった。男の胸を高鳴らせる眼が、大きく見開かれたまま男を捉える。
「……今日?」
「今日」
「……どなたの?」
「俺の」
「……!!!!」
「叫ぶなよ」
女は汚れた手と驚愕に満ちた顔のまま意味の分からない動きで宙をかき回した後、はっと何かに気付いて男に向き直った。
「あの、お誕生日、おめでとうございます」
「は……」
十二月二十五日は、男の誕生日だった。
今日起こった出来事は、わざわざ今日を選んで起こったわけではない。
男は十二月二十五日という日付になんの感慨も抱いていなかった。
喜びも悲しみもなく、自分が生きるのに手を貸してくれた人々に少しのあいだ感謝をしながら、男はたった一人で歳を、
「特別な日に体当たりかました挙句、ケーキ駄目にしちゃったけど……」
——とることには、ならなかったけれど。
「いや……ありがとう」
じわり、と男の胸に染みた何かを、けれど盛大にぶち破ったのはやはり女だった。
「あっそうだ!」
低い甘さを持った声が、突然明朗に輝く。それは眠った街路にしんと響いた。
「うちにホールケーキがあるんだけど、よかったらこれから食べに来ませんか? それがいい! そうしよう!」
「は?」
「実は焼いたばかりなんだよ、ケーキ! スポンジを焼いてコッテコテのクリスマスデコレーションで飾るっていうのをずっとやってみたくてさ、今日やっと叶えられたんだけど、いざ完成品を目の前にしたら一人で食べる量じゃなくて……家はこっから歩いて十分くらいだし、あっ走れば三分だけど。暖房もつけたままで来たし」
「はあ?」
「ロウソクもお酒もつまみもあったはず! 材料のあまりで誕生日用に作り替えちゃおう」
女の突拍子もない提案は、男を素直に驚愕させた。そして女の提案以上に、一瞬でも「悪くない案だ」などと考えてしまった自分自身に男は二の句も告げなくなった。
「じゃあ行きましょうか」
返事も待たずに立ち上がった女は、おそらく自覚がないまま腕にしっかりと男のビジネスバッグを抱え、迷いない足取りで歩き出した。男は後を追うほかなくなってしまう。
「いやオイ、ちょっと待て……アンタは、どこかに用があったんじゃないのか?」
「あ」
女が振り返る。男が続けて「バッグ返せ、俺は帰る」とでも言えば、女は今度こそ十二月の寒夜に消えて行くはずだ。そしてもう、二度と会わない。
男は口を閉じた。
今夜、雪を見てコンビニへ引き返した時と同じ強さで「そうすべきだ」と思った。
「そうだコンビニ……で何か買おうかと思ってたけど、もういいや」
「目的もなく来たのか?」
「そうそう、なんだかじっとしていられなくなっちゃったんだよ。……ほら、この、」
指先が天を指し、散らつく白を愛おしむように撫でる。
「雪を見たら、さ」
女は笑っていた。
男がすべてを受け入れざるを得ないような、そういう笑みで。
日付も変わる直前。
立ち止まることなく通り過ぎるつもりだった男の『特別な日』は、そういうわけで、奇妙に鮮烈に飾られることになった。
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