2.
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「えっ?」
「は?」
ドッ、だかドスン、だか。
強打の音が体全体に響く。
倒れたのは相手だけだった。リヴァイの肉体は出会い頭の衝撃にもびくともせず、ちょうど腹の位置へとぶつかりそうになっていた〝何か〟さえ手で防いでいた。
燃料節約のために極限まで灯を絞られた廊下は、けれどリヴァイにはあまり障害にならない。今夜は特に明るかったので、足元でうずくまる人間の特定も可能だった。ので、思いきり舌を打つ。
「いってて……あー、ごめんよ。暗かったからよく見えなくて……ん?」
見上げてきたのは、リヴァイが脳内で密かに『クソメガネ』と呼んでいるハンジ・ゾエだった。
ハンジはぎゅっと目を細めた後、ようやく暗がりに聳え立つ壁をリヴァイだと認識したらしい。カーテンを開けるように表情を明るくさせたと思うと、立ち上がってさらにしっかりと笑んでみせる。
「やあ、こんばんはリヴァイ。今夜も寒いね。どこかに用事かい?」
「……床に転がってんのはお前のものか?」
「え?」
向かってきた意識を逸らしたのは半ば防衛本能によるものだ。『正面から受ければ最後だ』。ハンジに対する時はいつも、リヴァイの理性からずっと外れたところでそう叫ぶ声がする。
「あ」
思惑どおりに視線を移したハンジは、その先で動きを止めた。両手大のバスケットがひっくりかえり、中にあった何かを床の上にこぼしている。ぶつかった際にリヴァイの防御を受けたのはアレだったようだ。
「あー…」
ハンジがバスケットのそばにしゃがみこむのを、リヴァイは何も言わずに見ていた。市井の女よりは随分厚く大きく、それでもリヴァイのよりは頼りない手が何かの上を彷徨うあいだ、すぐにでもその場を離れようとしていた両脚はなぜか少しも動こうとしなかった。
「なんだ、それは」
おまけに、ハンジに倣ってしゃがみこむなどしてしまう。
「ケーキだよ」
「ケーキ?」
リヴァイは耳を疑った。二人の膝の先で無残に潰れているのはどうやら食べ物で、しかも聞き間違いでなければ、市井じゃ滅多にお目にかかれない代物らしい。
「あれ、リヴァイはケーキ知らない? まあ、あまり流通もしてないもんね。小麦粉と卵と砂糖とバターを混ぜて焼き固めたお菓子のことだよ」
ハンジのズレた説明が追い討ちをかける。ほとんどが市井を通り過ぎて中央に流れていく、おまけに冬季は特に手に入りにくい材料によって作られたもの。それが、駄目になってしまった。今しがたのリヴァイとの接触によって。
「……」
沈黙するリヴァイを置いて、ハンジは崩れたケーキを鷲掴み「あーあ、グチャグチャだ」とバスケットに入れなおしはじめた。下を向いた顔は垂れた髪に隠され、暗さよりも何よりもリヴァイの目を眩ませる。
「弁償する」
「えっ?」
ようやく口から出たのは、考えて考えて考えた末の結論だった。
「それなりにしたはずだ。払う」
「いやいいよ別に、不可抗力だし。私が夜目もきかないのに、」
「そりゃてめえの言い分だろう。俺の気が済まねぇんだよ」
ハンジがリヴァイを見る。瞠目は驚きのためだろう。レンズの屈折を境にひと回りほど小さくなった眼が、なのに全身を包むかのようにリヴァイを映す。
「なんで謝ってるのに上からなんだよ?」
「別に上も下もない。貸しを作りたくないだけだ」
「はあ、貸しね」
自分の物言いが柔和からは程遠いものであることはリヴァイにもわかっていた。そのせいで招いた挙句、力でねじ伏せてきたトラブルもいくつもある。ハンジは怒るだろうか。リヴァイの胸中にかすかな不安が生まれ、生まれたことに自身で動揺する。
「あのさぁ、これ君にあげようと思ってたんだよね」
「あ?」
ハンジはリヴァイの不遜な態度など意にも介さなかったらしい。どころか、収まりかけた動揺に蹴りを叩き込むようなことを話しはじめた。
「ほら、このあいだ私が、食堂で他班の奴らと喧嘩しちゃった時にさ」
「……?」
「一触即発みたいな空気になったのを、リヴァイが『うるさい』って一喝して止めてくれただろ。アレがなかったら確実にみんな懲罰房行きだったから」
正直記憶にない出来事だったが、ハンジがいるところに騒ぎがあるのは日常茶飯事だ。黙って続きを待つ。
「お礼になにかしようと思って、……行商人に仲良しがいてたまたま材料が手に入ったから。厨房も空いていて……」
喉が詰まったような音がして、ハンジはそれから何も言わなくなってしまった。リヴァイはしばし考えを巡らせ、俯いたままの頭に声を落とす。
「……つまり、これはお前が、俺に作ったと」
「そう、なんだけど……でもよく考えたら、親しくもない人間の作った食べ物なんて気持ち悪かったね。何考えてたんだろうな私は」
「いや……地上ではそういう礼の仕方をするんだろう」
「あはは。優しいね君は」
思わず、と言った様子で吹き出した横顔を、リヴァイは探る目つきで眺める。別にその内心を知りたいわけではなかった。無理に手を入れて掴まずともハンジは隠そうとしないだろう。掌握したいのは、そんなあからさまな感情を受けて象られる己の輪郭だった。
「じゃあ、今度君の知ってるお礼の仕方を教えてよ。それで再挑戦するからさ」
リヴァイの願いも虚しく、ハンジはケーキの残骸をまとめると夜を感じさせない機敏さで立ち上がった。
「いい? 弁償はなしだ。もともと君にあげるはずのものを私の不注意でダメにしたわけだからね」
「それは……」
「あまり遅くまで出歩いていると見つかって班長にチクられるよ。じゃあ、おやすみ」
「待て」
考えるより先に、という行動がある。そうやって脳を通さず行われてきたわずかな機会において、リヴァイはこれまで、大抵後悔したことがなかった。今回だってきっとそうだ。
「落とし前をつけろ」
「……ん?」
立ち止まり、困惑を見せるハンジに、舌がまわるままにぶつけていく。
「お前の『もともと俺に渡すものだったから弁償する必要はない』の言い分によるなら、そのケーキは俺のものだということだな? だったらお前の不注意で俺のものを駄目にした落とし前をつけるべきだ」
ハンジは呆気に取られた様子だった。当然だ。さっきまで過失を償うと言っていた男が、天と地がひっくり返る主張をし始めたのだから。しかしリヴァイの予想に反して、——いや、予想通りというべきか、穴だらけの論を吟味したらしい顔が目を輝かせる。
「へえ! すっごい屁理屈! さすがゴロツキって感じだ」
「……言うじゃねぇか」
「それで、その〝落とし前〟って何? 私を引き止めて要求なんてした時点で、君の抱える厄介ごとは『私を助けた』以上のものになってしまうけど」
一歩、リヴァイに近寄った肉体は、凍える夜にふいに現れた小さな火種のように、成長する熱を持っていた。リヴァイの腹の底がざわめく。
厄介ごと、そのとおりだ。しかもハンジはそれを自覚している。なのにリヴァイの身のうちに生まれた喧騒は忌避するどころか、日の当たる世界じゃ到底通らないような理由を捏ねてそれをこの場に止めようとしている。あまつさえ、
「また作れよ……それ」
そんなことを願うのだ。
視線で示した先には、小さなバスケットを棺にしたハンジのケーキが眠っている。謝礼とか、気持ちとか、損得なしの、リヴァイに向けられたものを込めたものが。
「それが〝落とし前〟?」
問いかける声音は、子どものすべてを理解した母親のように甘かった。無性に腹が立ったが、腹を立てている今この瞬間を亡くしたくないと思う己もいる。もうなにがなんだかわからない。
「こんなものでよければ……」
ふ、とほころぶ顔に思わず目を奪われるが、幸いなことに、それは一瞬だけだった。柔らかく緩んだ笑みを、当のハンジが苦いものに変える。
「お安い御用だよって、言いたいところなんだけどね。あいにく材料が手に入りにくくて」
「揃ったらでいい」
「あと、あのー、金銭的にも問題が」
「負担しろなんて言わねぇよ」
「うーん」
破格の条件のはずなのに、ハンジは首を傾げて動かなくなった。「歯切れが悪いな」と舌打ちをしようとして、やはりこのケーキが自分のためだというのは方便だったのではないかと疑いが思考を掠める。だが、その方便でハンジが何を得るというのか。
「正直に告白すると、」
悪い予感に引き寄せられたかのように、低まった声が言う。しかしリヴァイは、ハンジの一挙手一投足によって与えられる大小の緊張を前に、疲労を通り越して慣れはじめている自分を感じていた。
「なんだ」
「お礼とかケーキとかは、その、目的のための手段だったというか」
「はっきりしろ。今さら何言われたってどやしたりしねぇよ」
「……うん」
こういう断じ方をされて、なぜか嬉しそうに頬を染める人間の心のうちを理解するのは難しい。難しいが、理解できなかったとしても、知らないまま遠ざけられることはないのだとリヴァイは安堵した。それがどういう意味の安堵なのかまでは、まだ考えたくない。
「リヴァイと仲良くなりたくて、話題になるかと思って作ったんだ」
「仲良く?」
「そう。食べてるあいだは一緒にいて、話ができるかなって。だからまあ、目的は達成できたようなものなんだけど、」
明け透けな好意に呆気に取られていると、ハンジが言葉をぶつ切り、くしゃん! と大きなくしゃみをした。たしかに、底冷えも甚だしい夜の廊下で疚しいこともなくこれだけ会話ができたのなら、顔見知り以上の仲ではあるかもしれない。
「部屋に戻るぞ」
「っん゛、うん」
「そいつのことはまた追って決める」
「作りなおしの件は継続なんだ?」
自分は報われる保証のない情をいくつもかけておいて、返ってくることに驚くハンジはずいぶん呑気だ。いや、そもそも自分の投げたものをリヴァイが受け取って投げ返してきているのだと、気づいてもいないのだろう。
リヴァイは策を巡らせた。そうして、歩き出した背中に当然のようについていく自分と、それを疑問にも思わないハンジを俯瞰して、妙案を思いつく。
コイツに対価の考え方を教えてやろう。部屋の前にたどり着いて、もしもハンジがリヴァイの行動を「送ってくれたんだ」と受け取ったなら、返礼をひとつ望もう。そんなことを繰り返していけば、あるいは、できたばかりのこの細い繋がりを行き交うものが増えるかもしれない。リヴァイの衝動がもたらす結果だって、きっと早くその姿をのぞめるだろう。
「あ、雪」
前を歩いていたハンジが、小窓の前で足を止めた。いつのまにか積もりはじめていたらしい。空を覆う雲や宙を流れる粒、地面を覆う白までもが妙に明るく、暗夜にいたリヴァイの目を焼いた。振り向いたハンジも、眩しそうにこちらを見る。
「来年さ」
「あ?」
「雪が降るころに、また作るから」
ケーキのことを言っているのだとすぐに気づく。
「そんなにかかるものなのか」
「それもあるけど、やっぱりいきなり知らない奴が作ったものを食べてもらおうなんて無茶無謀が過ぎたと思うから」
「だから?」
ハンジは唇をまっすぐ引き結んでいた。けれど、ここにいてその視線を繋ごうとしているかぎり、綻びがまた与えられることをリヴァイは知っている。
「来年までにもっと仲良くなって、そしたら一緒にケーキを食べよう」
「一年待たせる分の〝落とし前〟は?」
早速あらたな対価を持ち出してみれば、ハンジは、ぶは、と吹き出した。震える肩を見て、「ほらな」と優越感に似た何かが胸に満ちていく。
「じゃあ、ははは、毎年作るからそれで許してよ」
毎年、と紡ぐ約束が、どれだけ酷薄を孕んでいるのかなんて、ハンジはリヴァイよりもずっと深く知っているはずだ。
「……逃げようもんなら壁外まで追いかけるが、俺は」
「リヴァイが言うと冗談の度合いを軽く越すんだよなぁ」
それでも、心から信じるように笑っている。
「約束するよ。雪が降ったら、二人で食べようね」
なんてことない日々のなかの慎重に過ぎ去るだけだった夜を、こうも簡単に『特別な日』にしてしまったのだから、そんな馬鹿みたいな約束をこれから先、ずっと、ずっと覚えていたとしても。
「——しょうがねぇな」
そう、仕方がないことだ、と。
はるか遠くまで来た男は、今、たしかに思うのだった。
〈了〉
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(初出 21/06/03)