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車を飛ばして訪れた隣町で、リヴァイは情報集めのためしばし時間割くことを余儀なくされた。なんせ相棒ときたら、曖昧な噂だけを頼りにリヴァイを動かし、確実な情報──例えば店の場所などだ──の一つも知りはしなかったのだ。
そうして、何人かに首を傾げられながらもようやっと行き着いた場所に、“バー”というにはいささか雑な構えでその店はあった。
看板を彩る電飾は落ち着いて酒を飲みたい人間には眩しすぎる気がしたし、提供する酒の名一つ掲げていない入口は初めての人間を拒んでいるようで、けれど半地下にある開きっぱなしの扉から馴染み客の騒ぐ声が聞こえてくるわけでもない。
ちぐはぐの部分がそれぞれに溶け出して、大通りから少し入っただけの店の存在を薄くしているようだった。
リヴァイは一瞬だけ動きを止めたものの、階段を下って店の中に足を踏み入れた。
外からも伺えたとおり、店内は無音だった。
入り口前に据えられたアジア風のパーテーションを抜けると、すぐにバーカウンターの煌めきに目を奪われる。並んで光るグラスと煮詰めすぎたコーヒー色の天板の清潔さは、一応、リヴァイが一目で気に入るものではあった。
店全体はそう広くもない。リヴァイの部屋の二つ分程度といったところで、丸テーブルに椅子二つのセットが四つ、部屋の隅に古びたピアノが、体一つが行き来できる程度の間隔で配置されている。フロアの照明はかろうじて手元が見えるかというほど絞られており、カウンターのみがショーの舞台のようにライトで照らされていた。
リヴァイ以外の客はいないようだった。
「いらっしゃい」
すぐ近くから声がした。明朗で、闊達として、酒の場からは地球と月ほど距離がある、そんな印象のもの。
声の元へ目を向ければ、人工的な薄闇の中、テーブルに座る影がひらりと手を振った。
「……店の人間か」
「そうですよ」
「なぜカウンターに立ってないんだ?」
「この店、お客さんが来るまでは準備中なんですよ。あなたが来たので、今から開店」
随分のんびりした店だ。店前の閑散の理由がわかり、リヴァイの肩の力が抜ける。
「料理はマスター担当なんだけど、彼もまだ来てなくて。お酒は……飲まれませんよね」
「俺が下戸に見えるのか」
「酔っ払って車に乗る人には見えないかな」
椅子を引き、声の主と机を挟んで向き合いになるかたちで座る。
「車に乗る人間には見えたわけか」
「階段を降りてくる時ポケットが重たそうな音してたから。車のキーかな、と」
なるほど、およそ店員らしくない態度の店員は、耳と察しがイイようだ。
のらりくらりとした言動と曖昧な輪郭をとらえようと、リヴァイは目を凝らす。
一番最初に視線がいったのは眼鏡だった。
細い楕円型のフレームがレンズ(厚さ的にガラスだ)を囲み、アーモンド大の眼を遮って少しだけ遠くしている。
鼻梁は光の当たり方で中腹が少しだけ高めになっていることがわかった。どうやら鷲鼻気味のようだ。両の口角が頬に埋まった唇は、その表情を常に微笑んでいるように見せている。
年中顰め面のリヴァイとは真逆といえる顔立ちだった。
年の頃は──正直あまり自信はないが、リヴァイより五つほど下に見える。
たおやかとは言えない肩がそれでも細く感じられるのは、シャツの上からでもそうとわかるほど骨が張っているからだろう。肉が薄いらしい。後頭部で雑に括られた髪といい、先ほどの言葉遣いといい、女の身体の上から中性的な装いを身にまとっているような人間だ。
そう、目の前の店員は、女だった。
女に対して誤解を生むような不躾な視線を投げる趣味はない。が、どうしてかリヴァイの目は、その店員にぴたりと吸いついた。唇だとか鼻だとかのパーツにではなく、存在そのものに引き寄せられて。
「……あの、ご希望を聞かないと何も出せないのですが」
店員がきまり悪げに口を開いたことで、リヴァイはようやく我にかえる。誤魔化すためにさらに三秒ほど見つめ、視線を外して店内を見回した。
「……他に従業員はいねぇのか。マスターはいつ来るんだ?」
「彼のタイミングで、かな。私でよければ、ご注文をお聞きしますよ」
「不眠症を治療するバーテンダー」
「え?」
店員はフレームからはみ出すのではと思えるほど目を丸くし、パチパチと数度瞬かせると、身体を引いてヴァイの全身を眺めた。
「あなた、眠れないの?」
「それを『おかしい』と思わなくなるくらいには」
「……そう。ここに助けを求めて来る人たちはいつも怠くて辛そうだったから、あなたは違うと思っていたよ」
「まさか……お前が噂のバーテンダーか?」
店員──バーテンダーは頷き、人好きのする笑顔を浮かべた。
**
カウンターに移動した店員に合わせ、リヴァイも背の高いスツールに腰をおろす。
照明の下に立ち、リヴァイよりも上背のある体でまっすぐに客に向かう女の姿勢は、その存在をますます夜の酒場から遠くしていた。
高い頬骨や鼻、首筋、襟ぐりから覗く鎖骨などは日光を溜め込んだ明るい色をしていて、太陽が昇ってからベッドに潜る人間にはどうしても見えない。
「『バーテンダーは男だ』と聞いていたんだが」
「ああ、たまに間違われるんだ。特に問題はないから黙ってるんだけど」
「次からは教えてやれ。問題ないどころか早急に眼科に行くべきだ」
彼女はリヴァイの言葉に一瞬呆けたものの、咳払いをするとぎこちなく口を開いた。目線は外れたままだ。
「えっと、何か飲む?」
予想外の反応に、リヴァイも少しだけ尻が落ち着かなくなる。そんな態度を取られるとは思っていなかった。
カウンターに置かれた、店の情報が記載されたカードが目につき、手に取ってもてあそぶ。昼間はカフェのようなものもやっているらしい。
それならば、と問うてみる。
「紅茶はあるか? 種類は何でもいい」
「紅茶ね。えーっと、確か新しいの買ったばかりのはず……」
棚に伸ばす腕もやはり日に焼けていて、おまけにうっすらと筋をまとっている。ジムで鏡に向かいながら鍛えるような見た目重視のそれではない。
夜の人間とは思えないナリ。口説き文句はかわせず、酒場での紅茶の注文を当たり前のように受け入れながら、カウンター内の品の場所については覚束ない。
「……バーテンダーは副業か」
しかも、身内の繋がりの副業。確信を持って尋ねると、バーテンダーは訝しがることもなく、むしろ嬉しそうに笑う。
「よくわかったね! 本業は学生。院で考古学の勉強をしているんだ……あなたはもしかして、探偵さん?」
「似たようなもんだ」
「秘密なんだね、了解」
彼女は笑みを浮かべたまま「これでいいか」と適当なティーポットを見繕い、ぽかりと開いた口に茶漉しを置いて奇妙なパッケージ缶の茶葉を入れ、そこに火にかけていた湯を注ぎ込んだ。
どこか他人とは思えない動きだ。
何気なく視線を滑らせた先でふと、その両の手が目に入る。
細長く、それでいてところどころに硬い皮膚を持つ深爪気味の指。清潔だが手入れのあとは見当たらない甲。決して美しいとは言えない己の手を、店員は少しも恥じることなく操っている。
それは『自分のしていることが好きだ』という言葉なき主張だった。
「……どうして考古学を?」
「ん? ああ、うーん……上手く言えないんだけど、昔から“今ここにいない人”に惹かれるんだ。古い物を見ると、それを手にした人たちのことを考えずにはいられない。だからかな」
「今、ここにいない……」
「私も質問していい?」
二人の間に、なんてことはないアールグレイの香りが漂う。
店員は滑らかな琥珀色で満たしたカップをリヴァイの前に置くと、湯気の向こうからリヴァイを見つめた。
「眠れないのには理由があるの?」
低めの声が一層低くなり、しかし心地よさを保ったままで耳に触れる。それはリヴァイに、扉を開けた先で突然春の暖気に包まれたような、柔らかな脱力を与えた。
「……夢を見る」
「夢ね……どんな?」
問いかける形であるのに、その声はもうなにもかもを知っているようだった。巨人のこと、壁のこと。町のことも、人のことも。夢の中でリヴァイを呼ぶ、死にゆく人間たちのことも。
「でけえ裸の巨人が……あちこちを闊歩してる。俺は背の高い木や家屋の間を跳び回って、そいつらとなぜか剣で戦っている。文明の利器もクソもねえ」
「自力で跳び回ってるの?」
「いや……腰につけてる装置で」
「ずーっと跳んでるの?」
「ずっとだ。目が覚めるまで、ずっと」
バーテンダーの声に後を追われると、夢は像を結ぶ前に曖昧になった。リヴァイが糸を紡ぐ先から彼女の手によって解かれていく、そんな錯覚が肌に触れる。
「──よく、人が死ぬ」
「……うん」
「俺と同じ格好した奴らが、何人も巨人に捕まって……」
「……」
「弄ばれて……喰われて、俺はそれを見ながら……探して……」
「無理しなくてもいいよ」
「いや……違うんだ。そうじゃない」
先日、夢の分析に溺れていた時のあの空気が、リヴァイの周りに満ちていく。
そうだ、リヴァイはいつも"何か"を、あるいは"誰か"を探していた。
目まぐるしく変わっていく外側と静かな内側を引き連れて、夢の中で必死に"それ"を探している。どんな姿形をしているのか、どこに在るのかもわからない。
ただ、間をおかず切り替わっていく周囲とは違って、それはいつもリヴァイのすぐ近くにある気がしていた。おぞましく、残酷で、惨たらしいばかりの夢を見続けるのはきっと、手の届く範囲にあるはずの"それ”を見つけられないからなのだろう。
リヴァイはずっと、そのために悪夢を飛んでいたのだ。
「不思議なことにね」
目前に相対していながら、女の声は唐突に思えた。なのに、現から離れつつあるリヴァイの体を、地面に戻すものでもなかった。むしろ、どこかに連れ立つように手を引く心地のものだ。
「『眠れない』と言ってここに来る人たちは、みんなあなたと同じ夢を見てるんだ」
「……ああ」
その言葉に、リヴァイは会ったこともない彼を思い出した。
ブレスカ・バーナー。
壁と巨人の絵を描き続けた男。
彼も、夢の中で何かを探していたのだろうか。死ぬまであの世界を描き続けた彼は、それを見つけられたのだろうか。
それから、彼。
ブレスカの絵画に描かれた強い怒りを噴く子供の姿を、『古い友人』だなんて称していた老人──アルレルト卿のことも。
「死後はリヴァイに絵を譲る」だなんて言い出したのは、もしかしたら、リヴァイが感じた哀しい共感を腹に隠していたからなのかもしれない。
「不特定多数の人間が同じような夢を見る。あるいは、同じ記憶を持ち、それが夢に影響しているのか」
バーテンダーは顎に手を当て、己の思慮を漏らす。
「みんなあなたと同じように『空を跳んでいる』と言っていた。壁は? 夢に出てきた?」
「……ああ」
「そう、あなたも見るんだね。みんなも同じ壁を目にしたそうだよ」
夢の中で遭遇する状況は様々だ。
けれど、共通して人が死ぬ。
必ず、助けられない。
恐怖に竦んで。間に合わなくて。
「私はね、なんだかそこに、罪悪感があるように思えてならないんだ」
「──罪悪感?」
肌に沿って流れていた水が、突然、弾けるが如く。
それまで胸に渦巻く感情を汲み取り、優しく撫でてくれていたはずの女の言葉が、急にリヴァイから離れていく。
「目を覚ませば触れられる形で幸せがあるのに、みんな自分を咎めるようにその夢を見ているんだ。もしかしたら、過去に夢の中の世界で実際に生きていたことがあって、その時の罪悪感を昇華できなかったんじゃないかって」
──待ってくれ。
遮ろうとした声は、けれど喉の奥底で冷たい塊になった。溶かそうとカップに伸ばす手が震える。
リヴァイは確信した。
この女は知っているのだ。悪夢に襲われなくなる方法を。
そしてそれは、リヴァイが求めていることではない。
リヴァイが求めるのは、悪夢が消えることではないからだ。
「俺は……」
喘ぐように吐き出したリヴァイの言葉に、女はゆっくりと頷いた。微笑んで告げた声は、リヴァイの真意を知っていただろうか。
「あなたはもう、知っているはずだよ」
その世界に、苦しみ以外のものがあったことを。
体が動かなくなる。
リヴァイが覗き込んでいるのは、紅茶の揺れる湖面なのか、女の瞳の鏡なのか、あるいは混じり合った何かなのか。わからないまま、リヴァイはそれに飲まれていく。
聴覚だけが、優しい声を拾い続ける。
「今夜、あなたはまた夢を見る」
けれど、それはいつものものとは違う。
あなたは誰かと道を歩く。
誰かと冗談を交わす。
頬をきる風で季節を知る。
日の当たる石壁に背を預けて、少しだけまどろんでみる。
腕を高く掲げて、誰かと乾杯をする。
あなたは、血よりも濃い絆を大勢の人々と結び、同じ願いを分け合う。
生きていることを感謝される。
あなたの助けが、誰かを生きながらえさせる。
亡くすことを悲しみ、恐れる。
その気持ちを、誰かと共有する、
隣にいる誰かを、大切だと思う。
大切だと思われる。
誰かに願う。願われる。約束をする。
そして。
そして目が覚めたら、すべてを忘れている。
大丈夫だよ。
悪い夢は消えていく。
「おやすみなさい」
──いい夢を見てね。
その囁きに、リヴァイは。
崩れ落ちるようにスツールから離れ、そばにあった丸テーブルに手をついた。そして、よろめきながら店の出入口へと歩き始める。
逃げるために。
椅子を蹴倒し、弾みでつんのめり、そのまま走り出す。
喉の奥が激しく痛む。
呼吸もままならない。
もつれる足で地上へと続く階段を駆け上がり、誰かにぶつかり、あとはひたすら、車まで走り続けた。
「また客を泣かせたのか?」
リヴァイと入れ替わりに、鼻の下に髭を蓄えた巨躯の男が店に現れた。男は店内をぐるりと見渡し、倒れた椅子とずれたテーブルを見て溜息を吐く。
「すぐそこですれ違ったぞ。大の男をあんなに泣かせて、お前って奴は……ハンジ?」
カウンターに突っ伏する彼女の様子がいつもと違うことに気付き、男は気色ばんだ。顔を覆う手や肩が細かく震えている。
「ハンジ、どうした! 何かされたのか⁉︎」
「兄さん……わたし」
濡れて、掠れた声で、彼女は言った。
「ずっとあの人に……『おやすみ』って言いたかった気がするんだ」
**
息が苦しい。
口を覆う手が濡れたことで、リヴァイは自分の涙腺がいかれてしまったことにようやく気付いた。
涙が、次から次へと溢れてくる。
ヘッドライトが照らす夜道も、震える手がきるハンドルも、汚れたアパートの外観も、すべての輪郭は決壊し滲んでいた。
部屋に着く頃には呼吸も満足にできなくなり、水をかくように室内を進むも、伸ばした手がソファに届く前に意識が途絶える。
叫び出したい、暴れまわりたいほどの衝動を抱えながら、リヴァイは深い深い水底に放り込まれた。
『──リヴァイ』
『母さんのお願い、聞いてくれるね』
『アイツがお前に望んだことなんて、大したことじゃなかったろう』
『けれどべらぼうに難しいことだ』
『お前はきっとここで終わる奴じゃないよ』
『知りたければ来い。自分で確かめろ』
『帰る場所ないの? じゃあ、ここで生きなきゃね』
『ちゃんと喰えって! もたねえぞ!』
『馬鹿、こぼれるこぼれるっ‼︎』
『ああ、おかしい』
『助けてくれ!! リヴァイ!!』
『あなた強いんでしょう。どうして彼を助けてくれなかったの』
『お前がいてくれてよかった』
『壁を越えて、森を抜けて……あの地平線まで思いっきり……』
『兵長!!』
『うわぁ、掃除の甲斐がありそう』
『兵長でもそんな冗談を言うんですね』
『この人いつもこんなじゃない?』
『風が暖かくなってきたね。春の匂いがするよ』
『雨ですよ、兵長』
『正直に言うと、勘だ』
『知ってる。それでも私たちは信じてきた』
『美味しいね』
『綺麗』
『あなたと見られて良かった』
『……寝てるの?』
『……どんな夢を見てる?』
『心臓を捧げよ!』
『ありがとう』
『──リヴァイ』
『柄にもないこと言うんだけど』
『私のお願い聞いてほしいんだ』
『長生きしてよね、あなたは』
お前に嘘をつきたくなかったから、俺は気休めの言葉さえ返せなかった。
吹けば飛ぶ塵みたいな安堵でも、ただ頷くだけで与えられるなら俺はそうすべきだったんだ。
だって結局、後悔した。
ついに終わるってところで、よりにもよってお前のことを考えた。
ちったあ笑わせてやればよかったと。その努力をすればよかったと。
正直だろうと嘘つきだろうと、結末が同じなら約束でもなんでもくれてやればよかったんだ。
最後の最後で、なんの感慨もなく通り過ぎてきた人生を少しだけ振り返って、そうして結局、お前を探してしまうなら。
──『そして目が覚めたら、すべてを忘れている』
うるさい。
うるさい、うるさい、……
誰のつもりでそんなこと言ってんだ。誰も彼も、俺やお前じゃないくせに。
他人に言われて昇華できるような罪悪感なら、死体と一緒にとっくに風化していたはずだ。
──『大丈夫だよ』
嫌だ。そんなこと望んでいない。
忘れたくない。
忘れたくなんか。
──『おやすみなさい』
お前の息の根が止まる瞬間に、目を合わせて、大丈夫だから、と。
安心して眠れ、と。
頷いてみせたかった。
約束を果たしたかった。
それだけでよかったんだ。
それだけで。
……ハンジ。
「リヴァイ! 起きろ!」
最初に呼び覚まされたのは耳だった。
もう五年近く相棒の席を任せている男の、初めて聞く焦り声に応えようとしたリヴァイは、激しい違和感に眉をひそめる。
体が動かない。床に接着剤でとめられているかのようだ。
おまけに、視界が一向に開けない。
「……目が、」
「お前な! 無事なら『無事です』と言え! なんてザマだ顔も汚ないし! 訴訟ものの汚さだ!」
頭に内側から槌でガンガン殴られるような痛みを抱え、目はなぜか開かないし、傍に立つ男はとても喧しい。
リヴァイでなくても機嫌の悪くなる朝だ。
「おい……水よこせ」
「あーわかったわかった、注いできてやる、どんどん飲め。お前大丈夫なんだろうな? 何度も電話したんだぞ、出ないから来てみればくたばってるし、ほらリヴァイ、」
相棒はリヴァイの体を乱暴に引き上げソファに放り投げると、縁から大量の水を零しながらコップを差し出した。それがすべて動揺からくるものだとわかっていたので、リヴァイも舌打ちに留める。
ぐっと呷った液体はすんなりと喉を通りはしなかったが、最終的にリヴァイと相棒が落ち着くだけの役割は果たしてくれた。
「おいなんだ……目が開かねえ」
「おお、凄いぞリヴァイ。昔見たなんとかって土偶みたいな顔をしている。目ヤニもすごく汚ない。泣いたのか?」
「あ?」
目が腫れるまで泣いた経験など記憶の中には存在しないリヴァイは、初めての痛みと不自由に少しだけ驚いた。
そうして昨晩の、他人から見れば大泣きをしていただろう自分を思い出そうとして、気づく。
思い出せない。
昨夜出かけたはずの場所で目にしたはずの、その光景を。昨夜出会い、話したはずの人を。言われたことを。ここに帰ってきて、見たはずの夢を。
リヴァイは夢で、確かに誰かと言葉を交わした。誰かに笑顔を向けられ、誰かに感謝され、何かを望まれたはずだった。
それなのに、リヴァイに大切なことを囁いたはずの誰かの姿は、そこだけが白く切り抜かれたようにどうしても思い出せない。
「なんともないのか? 依頼が来てるができそうか? 朝食おごれよな、ビックリさせやがって」
「……」
「おい、返事しろって。なんなんだ、大丈夫なのか?」
「……ああ」
毎夜毎夜リヴァイを飲み込んでいた水は、全てを、リヴァイが探していたものすらも溶かして、涙として出ていってしまった。
悪い夢の気配は、枯れていた。
もうどこにもない。
どこにも見つからない。
「大丈夫だ」
誰かの、顔も声も思い出せない誰かの、願いどおりに。
リヴァイの新しい夜は、そうやって始まったのだった。