Scent of Light
『Scent of a Woman』パロ。盲目の軍人と少年と出会の話
Scent of Light
『Scent of a Woman』パロ。盲目の軍人と少年と出会の話
大講堂の扉を抜けた瞬間、初秋の生ぬるい風が頬に触れた。色褪せはじめた草木の香を含むそれに、全身に走っていた緊張がするすると解けていく。
州内、どころか国内でも有数の名門校の敷地に満ちる格式ばった空気に、やはり自分などはうまく馴染めなかったようだ。知らぬうちに強張っていた背を、リヴァイは空を仰ぐようにして小さく伸ばした。
周囲には興奮の混じる喧騒が満ちていた。己の靴と杖が鳴らす音だけでもよく磨かれているとわかる石畳を、人にぶつからぬよう気配を避け、慎重に進んでいく。
すれ違うそばから、いくつもの声が遠慮がちに追いかけてくる。
──さっきの人だ。ほら、演説の……。
──校長のあの顔ときたら! 気味が良かった。
──本当に、まったく目が見えないんだな。
「リヴァイ兵長!」
「……アルミンか」
背後から飛んできた若々しい声に比べて、低まった応えのなんと老いたものか。
この若者の未来の輝きが奪われなかったことに、リヴァイは改めて安堵した。
普段から素行の悪かった生徒が、校長を相手に些細ないたずらを企てた。いたずらが仕掛けられる場に偶然居合わせたアルミンは、クラスメイトに頼まれるままそのことを黙っていた。
聞けば、始まりはそんな瑣末なことだったらしい。
やんちゃ盛りが集まる男子校では大騒ぎする程でもない事に思えるが、名門の看板を掲げる故か、学校長はそのちゃちないたずらに大層激怒した。
挙句、アルミンに対して「犯人の名を吐かねば退学処分を与える」と命じたのだ。
アルミンは悩んだ末に黙秘──学校を去ることを選んだ。クラスメイトへの情と、約束を違えることを良しとしない自分の正義に準じて。
問答無用で断行されるはずだった退学処分が、夏の休暇の間にどう話が変わったのか、校内公開審議にまで持ち込まれたのは不幸中の幸いと言えるだろう。
当のアルミンは裁きを黙って受け入れるつもりだったため、「犯人の名を言え」という再三の命令にもけっして口を割ることなく、自分を弁護することもなく審議の日を迎えた。
ちょっとした劇場のような大講堂で、全校生徒を前に一方的な吊るし上げを受ける覚悟で臨んだ彼は、その場に突然『保護者』として登場したリヴァイが弁を振るって生徒や保護者たち聴衆を味方につけ、ついには処分を取り下げさせてしまったのだから、さぞ驚いたことだろう。
友を守るため、そして友を守ると決めた自分の正義を貫くために退学も辞さないという姿勢のアルミンに対して、若者を育てるべき学校がするのはその尊厳と未来を叩き潰すことなのか。その選択の尊さに目を向けて、愛情を持って彼を見守ってはくれないか、と。
上手くもない口上で、柄でもない事を言った自覚は十分すぎるほどあった。あったが、それはリヴァイの本心でもあった。
結果的に上手くいった今となっては、周囲の目がどれだけリヴァイの盲目の足取りを追おうとどうでもいいことだ。
再び歩き出そうとするリヴァイの腕を、アルミンは何も言わずに並び支えてくる。
夏のひと月の間を、彼はそうやってリヴァイの目になって過ごしてくれた。身辺整理の手伝い役として募集したアルバイトにアルミンが恐る恐る訪ねてきた時には、こんな付き合いになるとは思いもしなかった。
けれど、それも今日で終わりだ。
正門にタクシーを待たせている。乗りこんだら契約期間は満了だ。
二人で、ゆっくりとその瞬間を目指す。
「僕……なんとお礼をすればいいか」
「バイト代だの一部だとでも思え。偏屈で手のかかるオヤジの我儘に一ヶ月も耐えたんだからな」
「……こんなの、貰いすぎです」
湿り気を帯びた言葉に、リヴァイは逆に「過ぎるものか」と答える。
リヴァイにもアルミンと同じく、友情に準じて黙秘を貫いた過去があった。
軍に在籍していた頃の話だ。
事件に巻き込まれたリヴァイは視力を失ったが、それでも、無実を訴える友人のために口を閉ざした。連日行われる半ば脅しのような尋問も、植物のように黙して耐え忍んだ。それが己の正義だと信じていたからだ。
けれどそんなリヴァイに与えられたのは、他でもない、庇いきった友による手酷い裏切りだった。事件の責任を一手に被せられ、醜聞と形ばかりの『退役』の文字、そして少しの退職金だけを与えられたリヴァイは、ひとり暗闇の中に放り出された。
残りの人生を、なんの輪郭も結ぶことのない無の中で孤独に生きなければならない。
リヴァイが絶望し続けるには、充分な理由だった。
自分を救うのはきっと、いつか酒を飲みすぎて酔いのまわった夜に銃を取る手なのだと。その引鉄を引く音なのだと。
ほとんど動くことがなくなった表情の下で暗澹を深めながら、ずっと、そう信じていたのだ。
──なのに。
『あなたは、まだ生きなくちゃいけないんだ』
こめかみに当てた銃口の冷たい感触。リヴァイの絶望を見抜いたアルミンの悲痛な声。リヴァイは今も、あの時の記憶をすぐそばに感じることができる。
『……俺に、惨めったらしく生き続けろと言うのか』
『そうです』
視力を亡くしてから、リヴァイは他人の視線というものをより強く感じられるようになった。暗闇の中で小さな光が瞬くような、そんな気配があるのだ。
アルミンの光はそのとき、しっかりとリヴァイを見据えていた。
『あなたは僕が今まで出会った中で、一番美しいタンゴを踊る人だった。フェラーリの運転が上手だった。失敗するのが怖い、と怯えていた女性に、ダンスの楽しさを教えてあげたことを覚えていますか? 街中を僕と車で走り回ったこともちゃんと覚えていますよね? あの瞬間でさえ、死ぬことが最上の喜びだったんですか?』
──いいや。
楽しかったさ。幸せだった。
世間知らずで無垢なこの少年が驚くような楽しみを、もっともっと教えてあげられたらと、そう思ってしまった。
死ぬのを惜しいと感じる自分が怖くなるほど、リヴァイはあの時、確かに未来を見ていた。
『これから何度だって、そんな瞬間がやってくる。あなたは……足が絡まっても、這ってでも、その幸福のために生きなくちゃいけないんだ』
それは理屈も根拠も不足した、頑是ない子どもの主張だった。そのくせ、こめかみに刺さる金属の冷たさを一瞬で溶かしてしまうような、そんな熱さを湛えていた。
ついさっきまで死のうとしていたくせに、リヴァイは思わず笑い出しそうになった。
暴力的に純粋で、底抜けに貪欲で、──うるさいほど眩しい。
リヴァイがかつて持っていたものを、そしてとうに失くしてしまったものを、アルミンはすべて持っていた。そのすべてで、リヴァイに生きろと縋り付いた。
若く、希望に満ちた未来を持つ存在。
彼の前途に暗い影を落とすのは、リヴァイの本意ではない。
アルミンの言葉を信じて、現れるはずもない『幸福』を待ちながら生きることが、たった一人の若者の喜びになるならば。
それこそが生きる目的になり得るのだと思えた。
「この先ロクな事もないだろう男に散々『足掻け』と言っておいて、お前が諦めるのは筋が違うだろう」
「……」
空気が揺れたのはアルミンが笑ったせいだろう。見えないリヴァイにすら遠慮をするように、この少年は音も立てずに笑う。
触れる腕は衣服越しにも温かい。そして細く未熟だった。けれどその腕の持ち主は、その体の内側に信じがたいほどの情熱と強さを秘めている。
両親を早くに亡くしたアルミンは、老いた祖父しか頼れる者のない状態で生きてきたという。バカ高い学費を必要とするこの学校に入学できたのも、ひとえにその優秀さのためだったらしい。
苦学生として、ステージの違う金持ちの息子たちばかりの中で人一倍努力してきた彼が、理不尽にも己の正義と自分の人生を秤にかけられ、前者を貫いたゆえに不当な扱いを受ける。
そんなことは、到底許されてはならない。だから、リヴァイは力を尽くした。
自分の過去を投影していたことは、必ずしも否定できない。アルミンのために動き、なんとかその目的を果たした今、あれだけリヴァイを苦しめていた傷はうっすらと形を見せるだけになっている。
「お前の言うとおり、俺はもう少し足掻く。……だからお前も、歯ぁ食いしばって生きろ」
この少年はこれからも、何度だって困難な道に直面するのだろう。自分の正義を信じて足を進めた場所が荊だらけのことだって、何度もあるのだろう。
それでもどうか、自分の選択を後悔する日が来ないように。
強く、強く願う。
リヴァイの抱える暗闇の向こうには、確かに光があった。アルミンはそう教えてくれた。これから先もリヴァイが決して見ることの叶わぬその光を、信じて生きるくらいはいいだろうと、淋しくとも涼やかな希望を教えてくれた。
二人を繋いだ友情は、確かに互いを生かしている。
アルミンが、不意に腕を引いた。リヴァイはわずかばかりつんのめり、「オイ」と非難めいた声をだす。
「……あの、あの僕、実は話さないといけないことがあって」
「……? どうした」
「兵長に、会っ、」
その時、ひときわ強い風が吹いた。
夏の盛りを過ぎた木々が一斉に葉を落とし、二人の足元にからからとそれらを流していく。悲しくも優しい音に混じって、リヴァイの耳に届くものがあった。
「──アルレルト君!」
足音と、気配。そして女の声。
リヴァイの全天に広がる闇に、未知の何かが差し込む。
「ゾエ先生……!」
リヴァイに添うようにして丸まっていたアルミンの背が、一瞬でまっすぐに伸びるのがわかった。喜色が弾けるような様子を訝しむ間もなく、二人の前に誰かが立ったのを感じてリヴァイは顔を上げた。
「アルレルト君、まずはおめでとう。優秀な生徒が学校に留まる結果になって本当に嬉しいよ」
突然現れたその人物──アルミン曰くの『ゾエ先生』は、どうやら、退学処分騒ぎの際にアルミンを擁していた側の教師陣の一人らしい。
偽りのない喜びに溢れた響きは、リヴァイの頭より10cmほど高いところから聞こえてくる。近付いてきた靴音はハイヒールのものではなかったから、生来の背丈なのだろう。
「先生が審議に持ち込んでくださったからこそです。校長と大声で議論していたと友達から聞きました。……審議を開く代わりに、僕が退学になったら一緒に解雇されるはずだった、と……」
「なんだと?」
驚き、思わず横から口を出していた。ではこの教師の働きで、リヴァイはアルミンを助けることができたということか。
「ちゃんと策はあったんだよ。使う機会がなかっただけで。……アッカーマンさん、あなたが彼を救ってくださったから」
女の目がリヴァイを射抜いた。
そう、見えずともわかった。他人の視線が自分に向くことを、こんなにも強く感じたことがあっただろうか。あるいはそれは、リヴァイの視覚以外のすべてが、視線を向けるその人へと向かっている証拠かもしれなかった。
「あなたの反対演説、本当に素晴らしかった! 論旨を決して違えず、けれどその場のすべての人の感情を飲み込んで導いて……とても感動しました」
素直な賛辞を与えられ、リヴァイは返しに詰まった。皮肉を吐くときばかり滑らかな口は、しかし今日は女の言うとおり、大勢の意を手にするために酷使された後だった。疲れからかいつも以上に回らなくなっている。
「いや、こいつ……アルミンの言うとおり、先生のおかげで……」
「……なんだか、さっきと別人みたい」
嫌味のない微笑が起こり、リヴァイの耳をくすぐる。釣られて起こった胸の騒めきに意外な気持ちでいると、アルミンが誇らしげに後を引き継いだ。
「先生、リヴァイ兵長はスミス長官やザックレー大統領の護衛として、会見の場に居合わせたこともあるんですよ」
「え⁉ 本当に⁉ なるほど、堂々とした語り口はその時の体験をもとにしたのかな」
「……オイ」
「あっ申し遅れました、わたくしハンジ・ゾエと言います。政治学を担当している教師です」
「……リヴァイ・アッカーマンだ」
反射のように前に出た右手を、女の手がしっかりと掴む。リヴァイがその臆面のなさに驚く前に、ハンジは滑らかな肌を離し、声色を落ち着け「本題に入りますね」と話題を切り替えた。
忙しない女だと少し呆れる。
「アルレルト君、今後の君の処遇についてだけど」
「……はい」
今後の処遇。今日の審議は、あくまで『罰則として退学処分は妥当か否か』という議論のためのものだった。
アルミンがクラスメイトの非を隠匿したことについては、別で処分が行われるということである。
「君の行動の是非については、私個人からは何も言うことはないよ。一度友達を守ると決めたからには、それが世間一般的には間違いであっても貫くんだろう? 君は自分の正義のためならどんなに苦しい道を選ぶことだってできる。その強さには敬意を示すよ」
「あ、ありがとうございます……」
どうやら彼女は、直截な言い方で人の意表をつくのが得意のようだ。
「一旦は退学処分が無しになったので、決定次第私から伝えます。まあ、もともとの原因である生徒の代わりに吊るし上げられたんだし、あれでお釣りがくるとは思うんだけどね。いずれ保護者団体から学校へ経過報告の求めがあるだろうから、校長も二度と下手な手は打てないよ」
どこかひっかかる物言いに、リヴァイは眉をひそめる。
そもそも、この審議の結果によって論点は『アルミンを処分するか否か』から『退学は処分の重さとして適当か否か』の方にすり替わった。校長としては退学をちらつかせて犯人の名を吐かせようとしたところを、まったく意図しない収束になったわけだ。
ハンジが審議を開くよう働きかけたというが、学校に息子を通わせ多額の寄付もしているという資産家がこの騒ぎを聞きつけ、審議が公開で行われることを望んだという噂も聞いた。ただの噂だ、と頭の隅も留めなかったそれが、急に色濃くなって疑惑の一部を埋める。
意図せずその戦いに参入することになったリヴァイが、結果として資金源である保護者と生徒の反対を煽り校長の処断を却下させることにはなったが、しかし──
「……ゾエ先生よ、さっきの"策"ってのは……」
演説の直後の割れんばかりの拍手と校長への野次を思い出す。自分の言葉が通ったにしてはいやに聞き分けのいい聴衆だと思ったのだ。
席についていた者、特に保護者たちは、そもそも事前にハンジの側についていたのではないか。リヴァイが登場しなければハンジがその代わりを務めていたのではないか。
口を出してきたという資産家の息子は、もしかして今回の件になにか関係があるのではないか。
あの場で吊るし上げられていたのは、本当は誰だったのか……。
リヴァイの疑問を察したのか、ハンジはからからと笑ってそれを遮った。
「駄目ですよ、アッカーマンさん。暗躍は目に見えないでいてこそ。それに、アルレルト君の覚悟とあなたの演説が、あの場において何よりも素晴らしかったことに変わりはない」
リヴァイの口端から、く、と笑みが漏れ、横にいたアルミンが息を飲んだのがわかった。顔に出るほど愉快な気持ちになることは滅多にないので仕方がないだろう。
全盲のリヴァイの前で"見えないでいてこそ"などと口にするとは、よっぽどの無神経か、目が見えないことを微塵もマイナスだと思っていないかのどちらかだった。この女に関しては言わずもがなだろう。
結果的にリヴァイが表に立ち多数の視線を受けたことを思えば、ハンジの暗躍との対比も面白く感じられる。
ハンジ・ゾエという女は、まっすぐ伸びていく光のような性質を持っているかと思いきや、暗がりに身をひそめて謀計をめぐらす性格もあるらしい。
矛盾しているようでひと続きのそれは、厄介といえば厄介な質だった。
男子校に勤める女教師にしては、アルミンにも、もちろんハンジにも教師と生徒以上の緊張は見られないところからしても、性別を超越したところで尊敬の座に置かれていることはすぐに知れた。
総じて、変な女だな、とリヴァイは興味を抱く。それは多分に好感の含んだものだった。
「ああっと、ごめんなさい。お帰りになるところだったのに長く引き留めてしまいましたね」
「……いや、話ができてよかった」
終わりが彼女からもたらされたことに少しの落胆を感じながら、リヴァイはアルミンの手を叩き、再び歩き出そうと促す。が、叩かれたアルミンはその場から動こうとせず、代わりに捲し立てるように話し出した。
「あの、先生! リヴァイ兵長の現役時代のお話をもっと聴きたくないですか。僕も一部を話してもらったんですけど、とっても興味深かったですよ。特に『コラボの名簿』にかかわる各国との情報戦についてなんて、」
「! おい、アル」
「ええ⁉︎ ちょっ、なんだそれ⁉︎ あります、もちろん興味あります! アッカーマンさんが嫌でなければ是非! 時間はいくらでも作りますから!」
それは極秘だろうが、と言いかけたところを、ハンジ・ゾエが勢いよく喰らいついてきた。
空いた手を突然両手で握りこまれぎょっとしたのもつかの間、自然と近づく体から微かにたちのぼった香りに意識を奪われる。
「……マ・リベルテ?」
「えっ?」
目が見えなくなったリヴァイに、慰めのように与えられたのは残った感覚の鋭敏化だった。元軍人という過去から人を識別する情報を自然と記憶してしまう性質も持ち合わせていたリヴァイは、ハンジから香る匂いと、とある香水を頭の中で結びつける。
マ・リベルテ。
レディスとして銘打ってはいるが、最後までドライでハードな香りを貫く様はいかにも片意地が張っていて、まったく可愛げがない。
そう、知り合いの調香師が言っていた代物だ。
ハンジから香るのは、その突き放した様相に肉体の甘さが加わったものだった。リヴァイを、どこか放っておけない気持ちにさせる。
「ええ、祖母の形見なんです……もう廃盤になってしまったのに、よくご存知で」
「たまたまだ。……似合っていると思う」
可愛げのない、ともすればオヤジ臭い、などと称されていたそれが、他人と不思議な距離の取り方をするハンジがまとうと途端に妙な魅力を讃えるようだ。
記憶の奥深くに、すぐに染み込んでいくのがわかった。
「……覚えたから、これでいつでも貴女がわかる」
心中で呟いたはずだったそれが、いつのまにか口から出てしまっていた。
リヴァイの手を握りこんでいた指が小さく震えたことでようやく失言に気づくが、もう遅い。戸惑いを表すように、ハンジの手は恐る恐る離れていく。
後悔しかけたリヴァイに、しかし小さくかけられた言葉は意外なものだった。
「えっと……あの、よかったら途中までご一緒しても構いませんか? 西棟の所までなので……」
「あ、ああ……それはもちろん。アルミン」
「はい!」
随分明るい返事だ。溌剌としたそれは、その場に揺蕩う微妙な空気を楽しんでいる様子さえ感じられる。彼にそっと腕を支えられ、反対側にハンジを連れて、リヴァイはまたゆっくりと進み始めた。
「……ところで、"兵長"という呼び名には何か由来があるんですか?」
アルミンがたびたび口にする呼び名に、ハンジは耳聡く気がついていたらしい。気恥ずかしさから舌打ちしたくなるのを抑え、リヴァイは顔を動かしてアルミンがいる方を示す。
「俺が元軍人だと知ったら、こいつが勝手にそう呼び始めた」
「ええ、僕が勝手にそう呼んでいます」
「それはまた……でもどうして兵長なの?」
答えまでにはしばし間があった。逡巡の沈黙ではない。どちらかと言えばこちらをじっと窺う静けさであるということを、過去に同じ質問をしたリヴァイは知っている。
「……強いて言えば──」
不思議なもので、その答えを聞くたびに、見たこともないアルミンの泣き出す直前のような顔がリヴァイの暗闇に浮かぶのだった。
「ただの、郷愁です」
**
別れしなにハンジと連絡先を交換し、リヴァイとアルミンはようやく正門にたどり着いた。
ハンジがいなくなった瞬間、今日までの習慣に倣ってアルミンがすぐにでも口を開こうとするのを、リヴァイは「言わなくていい」と止める。
「身長170、赤褐色の髪」
言いながら、黒地のキャンバスに像を描いていく。線が繋がるそばからその絵は光を放つようだった。
「……美しい茶色の目」
「凄い! そのとおりです。あと、細いフレームの眼鏡をかけています」
「そうか。……悪くない」
アルミンの笑い声が、辺りに朗らかに響く。
「リヴァイ兵長はタンゴが上手だって、伝えておきますね」
「ああ?」
「教えるのも凄く上手だって。……きっと知らないだろうから、ハンジさん」
そんなこと知る由もないだろう。おかしなことを言うアルミンに「ゾエ先生だろうが」と訂正を投げると、彼は何も言わず、楽しげな吐息を空気に溶かした。
随分と待たせてしまったタクシーに乗り込み、ドアを抑えたままリヴァイは尋ねる。
「乗っていくか」
「いえ、エレン……友達の家におじいちゃんを預けているので、迎えに行きます」
「そうか」
一ヶ月間の賃金の振込を約束し、リヴァイは扉を閉めた。運転手に行き先を告げ、もう一度窓の外のアルミンに顔を向ける。
彼の気配は相も変わらず、ちかちかと眩しかった。
「……この先ロクな事もなさそうだって、まだ思いますか?」
胸ポケットにしまったメモのことを言っているのだろう、とすぐに知れた。からかいの空気を嗅ぎ取り、咳払いでそれを散らす。
「どうだかな。少なくとも、あの時死んでりゃ俺はここにいなかった」
「僕も、この学校にいられなかった」
アルミンが言うその事実だって、元を辿れば彼の説得の結果だった。
たったひと月で随分と変わってしまった、己のことを思う。
リヴァイが進む先は、これからも黒を煮詰めたような暗闇の中だ。それだけは変わりがない。
けれどそこに、リヴァイは光の匂いを感じたのだ。その軌跡を追いながら生きることに、以前のような絶望を感じることは、もう二度とないだろう。
「気が向いたら、また会いに来い」
「ええ、絶対に。……先生と一緒に尋ねます」
車が静かに走り出した。
背後で小さくなっていくだろうアルミンの姿を、脳裏に思い描く。
これからリヴァイに降り注ぐ幸福を、そのさまざまを示すように、その光景はいつまでも光り輝いていた。
〈了〉
(初出 19/03/07)