The Awakening Drug …原作/薬さえ燃やす情の話
The Awakening Drug …原作/薬さえ燃やす情の話
「信っじられない!」
咆哮、蹴りが飛び、扉がやぶられる。
壁にぶち当たった豪奢な戸板が勢いをそのままに跳ね返ってきたが、反撃を受けたのはハンジではなくハンジに引きずられていたリヴァイだった。半身に与えられた衝撃と痛みに「もう少し穏便にやれよ」と呆れはしたものの、口を挟むことはしない。
皮膚の裏で、熱嵐が吹き荒れていた。咎める気など端から飛ばされていく。脳が膿むような感覚をどうにか払いのけながら、リヴァイは辺りを見回した。
火光も、人気もない部屋だった。
最低限整えられたベッド、ソファとローテーブルが鎮座しているだけで、来賓用でないことが見てとれる。てっきり控室に連れて行かれるのだと思っていたが、ハンジはどうやら、リヴァイに起こった有事を誰の邪魔も入らない場所で収めようとしているらしい。
そう理解した途端、己の意思の下にあるはずの肉が、またズシリと重くなる。
「座って」
ソファまで引き連れられ、断る余地もなく背を押された。
座面に倒れ込むようにして体を落ち着けたところで、喉に何かが軽く触れて息が通りやすくなる。襟がゆるめられたのだ。付き人のように手を焼かせている現状が腹立たしい。一人でこなせると思っていた自分はどこに行ったのか。
「リヴァイ、水だよ。飲んで」
憤怒と、精一杯の気遣いとを含んだハンジの声は、激しさと柔らかさのないまぜの末に甘く掠れていた。耳朶を丁寧になぶられている気分になる。暗闇に浮かぶ扉は閉まりつつあった。
(よせ)
胸の内に叱咤を響かせ、ハンジの手から水差しを引ったくる。加減もなくあおった液体がかえって喉を塞ぎ、溢れたぶんが顎を伝った。
「大丈夫だから。慌てないで、ゆっくり飲むんだ」
〝大丈夫〟がまさに少しずつ削られていくそばから、ハンジが蜜を流し込んでくる。
「気分はどうだい? 苦しくない? 横になる?」
「いや、いい」
リヴァイの横に膝をつき、こちらをじっと窺うハンジの上目は、当然ながら異変を察知するためのものだった。
「いつもと違う光景だな」なんてことを感じているのもきっとリヴァイだけで、小さくてどうしようもないその齟齬に指先がピリピリと痛んだ。
(よせ。変な気を起こすな)
ハンジは純粋に、一人の仲間として、リヴァイのことを心配しているのだから。
「飲んでからどれくらい経つ?」
その証拠に、リヴァイの意識が正常に近いと見るや、ハンジの声に固さが戻った。兵士然とした空気を受けて、汗ばんだ背の一部にも冷たい針が通る。それは決して落胆などではないはずだ。
「二十分……ほどか」
「どうしてすぐに吐き出すなりしなかったんだい? 口に入れた時点で気づいていたんだろう?」
問責の口調ではなかったが、責められている気分になる。
「大したモンじゃねぇ、と、やり過ごせると判断した」
嘘ではない。
逐一説明する気もないが、実際、リヴァイの体に入り込んだのは大したものではなかったのだ。
鼻腔を抜ける酒気に違和を嗅ぎとったリヴァイは、それでも、一旦は舌上に留めた液体を飲みくだすことにした。
得体の知れない何かに対峙したとき、それが危険か否かを下す線はいつだって、自身の経験と知識、そしてそれらを集積した意識下の反応——人によっては勘だなんていわれる感覚——を基準にして引かれるものだ。
その時のリヴァイが掬いあげたのも、記憶のどこに照らし合わせても「害はない」と言いきれる、劇薬や毒物に遠く及ばない所謂〝お遊びのための薬〟で、吐き出さずに飲んだのもそのほうが体裁を汚さないだろうと判断してのことだった。
食道が焼けるような不快を感じだが、理性でそれを下して『自分にそんなものを飲ませた輩の意図に警戒を働かせるべきだ』と切り替える。
メインホールの中心にはうるさいほどの火が灯され、リヴァイはその只中にいた。壁際の光量とは夜と昼ほどの差があり、太陽に晒されたリヴァイと違って、暗がりから飛んでくるいくつもの視線は持ち主の姿を明かすことはない。
全身におびただしい数の、好奇の杭が刺さっていた。己の一挙手一投足に隠れる場所がないことなど、知らされる前からわかっていた。
だから、選ぶ道はひとつ。
半分ほど減らしたグラスを何食わぬ顔でおろし、ホールの右から左までを素早くさらい、敵を見極める。すべきことはそれだけ。討つ討たぬは選択の範疇の外。論じるのはリヴァイではない。けれど万が一刃を振るえと命じられた時、その先に正しく対象を据えていなければならない。
嘘はなく、間違いもない行動のつもりだった。
「大したものではない、ね」
膝に触れられ、暗い部屋へと揺り戻される。
ハンジがリヴァイを下から覗き込み、額に張りつく前髪をそっとかき上げた。乱暴につかむ掌よりも、皮膚をそっと撫でるだけの指先や頬に触れる吐息のほうがよっぽど痛みを与えるのだということを、どこか他人事のように受け止める。
「で、君のその鋭い見立てでは、あの酒に入ってたのはどういった類いのものなんだい?」
「……巷じゃ、媚薬なんて名付けられて遊びに使われるもんだ」
ハンジが気色ばむ。
「そこまでわかってたのに、自分のことより私を止めることを優先したんだ? あんなに必死で、怖い顔で?」
怖い顔、だっただろうか? どんよりと重たい頭を傾け、記憶を探る。
あの時、空間を平らな目で撫でたリヴァイが一番に捉えたのは、敵でも、敵になり得る人間でもなく、仲間であるハンジだった。
ぎこちなく上がった口角。目の下に走った皺。動きの少ない周囲に比して派手な身振り手振りは常よりさらに大袈裟で、ハンジが居心地の悪さを感じているのが離れた場所にいてもわかった。
同じ境遇に置かれているという妙な意識とともに、胃に溜まっていた熱の塊が、ねっとりと下に落ちていったのを覚えている。
おぼろなのはそこからだ。
誰かが、ハンジにグラスを渡した。テーブルに置かれているものとは違って、薄いピンク色の液体が中を満たしていた。リヴァイは一度手元を見下ろし、それからまた、ハンジを見た。
『飲むな』
いつ距離を詰めたのか。どれほどの大きさで制止の声を上げたのか。どれだけの力で、ハンジの腕を掴んでしまったのか。
グラスが砕ける音、立ち昇る酒気。冷たい何かが手を伝う感覚に我に返ったリヴァイが、自身の起こした衝動と行動に驚くまでに、恐ろしく長い時間を要したように思う。けれどハンジが目を見張ったのは一瞬だった。瞳が煌めき、すぐに光の反射の向こうに消える。
『ああ! よろけてこぼしてしまった!』
いかにも演技じみた台詞だった。その自然を装う必死さに、リヴァイの腹の中で後悔が膨れ上がる。気づいてくれるなという願いは生まれる前から死んでいた。
『ありがとうリヴァイ、危うくこんな衆目の前でみっともなく倒れるところだったよ! やっぱり体調が悪いときに無理をするものではないね』
言うや否や、ハンジの腕が肩に回り、リヴァイに体を預ける姿勢をとる。反射で支えた腰は思いのほか細く、どうしてか服越しにも熱い。近づいた体からは、皮膚のあちこちに汗を噴かせるような、そんな香りがした。
『君の親切を無碍にしないためにも、少し休ませてもらおう』
テーブルに置いてあった水差しを「お借りしますね」と軽やかに持ち上げ、ハンジは出口へと顔を向けた。
リヴァイも引きずられ、同様にホールの外へと連れられていく。
ようやく不快な白昼から遠ざかれるというのに、リヴァイの足はその場にとどまりたがった。暗夜は危険だ。熱源がすぐそばにあって、自制を溶かしていく状況では特に。
足裏が床から剥がれることを拒否しようとした、その時、耳元で空気の潰れる音がした。肩のそばにあった手が、ぐ、と拳を作るのを感じ、リヴァイは顔を上げた。
そうして、見てしまったのだ。ハンジの横顔を。
ひどく張り詰めていて、強張ってもいて、見目にも激しいとわかる感情をたたえていて。それでも、おそらくはリヴァイのためにすべてを抑え込んだ横顔を。
頭蓋の中が、激しく茹だった。痛々しくて、己の目さえ潰す眩しさを持つ怒りが、焼けそうなほど強くて甘いそれが、他でもないリヴァイのために火をあげていた。
今この身をまわる薬が、もしもあの時あのまま、ハンジの口に入っていたなら。眼前に立ち上るこの激情はどこへ向かっていただろう。
きっと、その火の軌跡のどこにも、リヴァイはいさせてもらえなかった。
(最っ低のクソ野郎だな、俺は)
「……ごめん」
ハンジが囁いた。
「矛先を間違えちゃいけないね。憎むべきは君に得体の知れないものを盛って見せ物にしようとした連中と……私の注意不足だ」
「『テメェの尻拭いもできないマヌケな同僚』も足しとけ」
「多すぎるよ」
「だったら一つに絞れ……そうだな、〝連中〟が一番いい。的は多いほうが当たりやすいからな」
「何の話だか。……わかったよ」
研ぎ澄まされ、行き場をなくしていた鋭さが、ふ、とわずかに削れる。
「助けてくれてありがとう、リヴァイ」
リヴァイは何も答えなかった。守りたかったのは、傷つけるのが自分だけであってほしいと願ったからだ。この感謝に応えられる図太さがあれば、あるいは、リヴァイの苦痛も軽くて済んだのかもしれない。夢想でさえ胸糞悪くなる。
「薬は? 抜けてきた?」
「……ああ」
「そう。ならひとまず、ここから穏便に立ち去る作戦でも考えようか」
柔い言葉と裏腹に、ハンジの眼に宿る光は険しかった。険しさがわかるほどそばにあって、リヴァイの額を、眼球を、吐息を、背筋を、肺を、腹底を舐めていた。
自分のものでない肌を探す掌に、そこにあるどうしようもない我欲に、リヴァイは必死に爪を食わせる。
欲情を生み出す薬なんてありはしない。自律神経に作用して〝元からあるもの〟を増幅させることはしても、仮にその過程で作用の多寡が人格を壊すことはあっても、ないものを生むことはできない。リヴァイの出自はそれを嫌というほど教えてくれるところだった。
見立てが鈍ったのは、ひとえに、この胸に仕舞いこんだモノのせいだ。
「リヴァイ」
ざらついた金属の煌めきを瞳に湛えて、ハンジがリヴァイに微笑んだ。
「いつか絶対仕返ししてやろう。——私、今夜のこと一生忘れないから」
「……そうか」
沈まぬ炎が、リヴァイのために燃えている。
良薬は苦いものだという。だとすれば、悪い薬は甘いのだろうか。
それならわかる。この甘さが欲しいばかりに、リヴァイの理性は予測もしないところで擦りきれていく。
けれど、苦しくなるほど知ってもいる。まっとうでない兵士などハンジは道連れに選ばない。この甘さを欲するならば、理性を保たなければならない。保ちつづけなければならないのだ。
リヴァイにはそれが、誰にもたらされる毒よりずっと恐ろしい。
〈了〉
(初出 21/04/13)