理解、分析、再放置 …原作/ハンジ班が上司たちのこと大好きで且つ放任してる話
理解、分析、再放置 …原作/ハンジ班が上司たちのこと大好きで且つ放任してる話
『観察は面で捉えること』とは、我らが分隊長ハンジ・ゾエの言葉である。
個々人の出生、教育、価値観、好悪などのあらゆる主観的要素がもたらすバイアスを排し、ただひたすら冷静に、眼前の事物を面で捉えるべし。さすれば大なる面には細なる点が浮き上がり、我々に最短で多くの事実をもたらすだろう。
そういう教えのことだ。
ところで、その時の俺がハンジ分隊長を止めるよりも早く肩の力を抜いたのは、なにも先の教えを遵守したからだけではなかった。
「ありがとおおぉリヴァイいぃぃ……!」
分隊長に甚大な勢いで抱きしめられ、肩に顔を埋められてキツく密着されている彼こそは、調査兵団が誇る一個師団相当戦力・リヴァイ兵士長――危機察知能力や反射神経においては兵団内外にも右に出る者がおらず、また分隊長と長く背中を預け合う昵懇の人だったからである。
室内のどこかからこちらに向けて「ぎゃっ」と驚愕の声が聞こえてきたが、大方、分隊長と兵長の絆を知らない新参たちのものだろう。
「オイ……ところ構わずベタベタしてんじゃねぇよ酔っぱらいクソメガネが」
頭部に回された腕と押し付けられた肩のせいで口のほとんどを覆われながらも、兵長はしっかりと分隊長に言い返した。
リヴァイ兵長の口の悪さといえばその高名に負けず劣らず有名で、『クソメガネ』もまさにな言い草ではあったが、彼が宴席の賑やかさを抜け出して巨人捕獲作戦予算確保の失敗に消沈する面子をわざわざ見舞いにきたのは明らかであること、そして分隊長曰く「言い回しが独特で面白いよね。悪口? まさか、彼にとっちゃ挨拶みたいなものだよ!」とのことだったので、円卓を囲む巨人研究班のメンバーも腹を立てたりはしなかった。
事実、「酔っ払いクソメガネ」と放られた分隊長は嬉しそうに顔を上げた。眼鏡がずれているところからも抱擁の勢いが相当だったことがうかがえる。
「うっふっふ、ごめんごめん。嬉しくってつい」
思わず、といったふうに笑みをこぼしながら体を離した分隊長は、俺たちにぎこちなく酒を勧めていた先ほどと打って変わって、あちこちからこわばりが抜けてふにゃふにゃとしていた。感激からか潤んだ眼を細め、耳まで真っ赤に染めて、頬を緩めた表情はさながら耕したばかりの土のようだ。反対に兵長のお顔はギュッと渋くなる。
「チッ……あっというまに元に戻りやがって。もうしばらくしおらしくしていたらどうだ」
元に、と言うには少し軟派だが、これも分隊長の精神の快復を喜ぶ言葉なのだ。
「どうせ巨人なんか掃いて捨てるほどいやがる。一晩かそこら落ち込んだところで、お前らの取り分も減りやしねぇよ」
「そう、そうなんだよ! だからこそ我々に立ち止まってる暇なんてないんだ! うん、君の言うとおり!」
分隊長はそう叫ぶと、机の上に置いてあった酒瓶を手に取って直に口をつけた。瓶底が天井を向く。最近は見なかった飲みっぷりだ。
「ッあー! 美味しい!」
「溢れてるぞクソメガネ」
「落ち込んでたらこうやって慰めに来てくれて、みんなが気負わないように冗談も飛ばしてくれて、りばいは本当に優しいねぇ……」
兵長の頭に分隊長の手が伸びて、さらりと黒い髪を撫でる。慈愛をにじませるような指先だ。かと思えば今度はカッと眼鏡の奥の目を開く。
「あなたのそおぉいうところが、ほんっとうに大っ好きなんだよ私は!」
「デケェ声出すな」
「いや、私だけじゃないな。みんな好きだよね!? みんなりばいのことダーイスキだよね!?」
分隊長に同意を求められ、班員たちは粛々と頷く。照れ臭いが、実際のところ兵長は頼り甲斐があって好ましい人だからである。
「もちろん君たちのことも大好きさ! 優秀で有能で個性的で、私にはもったいないよ!」
「えー私も分隊長のこと大好きですよ〜」
「俺も」
「僕も」
「俺もっス」
「ありがとぉ〜!」
緩んだ言葉が飛び交う。実際のところ、俺たちは皆分隊長のことが大好きである。少なくとも、この人を先頭に戴いて雲をかき分けるような巨人研究に全てを捧げられる程度には。
「……そのくらいにしておけ。明日になって後悔するのはお前だぞ」
危うげに握られていた酒をするりと抜き取り、兵長が言った。この人は暴力的な方法でなくとも他人を御すことができるのだと、こういう些細な動作で実感する。
「体のことまできづかってくれる……やさしい!」
あ、と思うまもなく、分隊長がまた兵長に縋りついた。妙齢の男女が密接する姿は一見ぎょっと目を剥くものだが、酒席のたびの光景ともなればもう慣れたものだ。今度は「ヒュウウ」とかなんとか黄色い声が背後で上がり、あれは古参の方々だな、と苦笑いする。俺たちもめいめい酒で口を湿らせる——はずだったのだが。
「ん、」
「は」
「え?」
一瞬だった。眼前の光景に、あまりにもさりげなく〝もう慣れたもの〟からの逸脱が紛れ込んだのは。
その場の全員が、一斉に動きを止める。
「……あ」
分隊長が、目を正円に近くして、兵長からわずかに顔を引く。
「ごめん……」
口を抑えながら。その所作と表情だけで、俺たちが目撃したものは酩酊による幻覚などではない、と証明されたようなものだった。
対して、兵長は。
眉間に深く皺を刻み、ギリギリまで目を細め、唇を硬く結んで押し黙っていた。左のこめかみに青い筋を立てつつ。
「ひっ」と小さな悲鳴が聞こえた。先ほどまで揶揄いや驚愕で沸いていた俺たちの周囲が、ざ、と雨が降ったように熱を覚ましていく。
無理もない。どう拝んでも兵長の相貌が示すのは憤怒である。数多の目にはきっとこう映っただろう。『酔ったハンジ分隊長が誤って兵長の頬にキスをして、彼を怒らせてしまった』と。——だが。
チラ、と隣に目配せすると、ニファと、その向こう隣に座るケイジが同じように視線をよこしてきた。反対側からはアーベルのため息も聞こえた。小さく頷きあい、俺たちは何事もなかったように酒をあおった。
『観察は面で捉えること』とは、我らが分隊長ハンジ・ゾエの言葉である。我々分隊長麾下は常にその教えの元に対象を観察し、観察し、観察してきた。細部は肝要だが、そこにこだわってはいけない。分隊長の唇が兵長の頬にぶつかるという〝点〟が鮮やかに生じた時、二人を総括する〝面〟では一体何が起こっていたか。
兵長の手は素早く動き、分隊長の腰を掴もうと開いて、けれど宙にとどまった。兵長の目は大きく開き、瞳を激しく揺らがせ、接近した分隊長の顔を凝視してやまなかった。兵長の口は隙間をつくり、傾き、何かを招くように舌を見せた。
そう、兵長は分隊長からのキスというトラブルに対して、その類まれなる反射神経を駆使し、完全に受け入れ態勢を取っていたのだ。それらの受容が意味することなど、いい大人である俺たちが察せないはずはない。
「すけべ」と隣でニファが小さく呟いたのを、まあまあ、と顔の動きで諫める。兵長だけに責を負わせるのはあまりにも可哀想だ。
なんせうちの分隊長、少し飲み過ぎたところで精々声が大きくなる程度で、他人に抱きついたり「好き」を連呼したり、ましてや過ちなど起こしたことはないからである。兵長が相手のとき以外は。
長く背中を預け合ってきた昵懇の二人が、果たして、互いのそんな不自然に気づかないことなどあるだろうか。
「あー、うーん、えっと。はは、調子に乗ってしまったよ。ごめんねリヴァイ。ごめん」
「……別にいい。それよりお前、もう今夜はしまいにしろ。これ以上滅多なことをされちゃかなわねぇからな」
ようやく適切な距離へと戻った二人は、陽気をまとっていた先ほどとまた打って変わって、互いを見ることなくボソボソと囁き合う。
「そうだね、もうそろそろ戻るとしようかな……まだ眠くはないけど」
「部屋で何かするつもりか」
「はは、バレたか。次の予算案でも練ろうかなって考えてたところ」
硬い、どころか遠征前のような血気迫る表情を並べ、卓の上に視線を注ぎながら瞳にだけは甘さを忍ばせて会話をする二人は、俺たち以外が見れば『兵長に説教される分隊長の図』になっているのだろう。俺たちに至っては『緊張に巻き込まれた哀れな部下たち』になっているのかもしれない。
その内実が『相手の気持ちを探りあうもどかしい攻防とそれを見守る愉快な仲間たち』であるなどとは、きっと思わないはずだ。気づいたのは俺たちだけ。分隊長の教えを守り、その眼差しを追い、時には猪突猛進の被害を食い止め、分隊長に害をなす者を敏感に察知して対処してきた俺たちだけなのである。
「部屋まで送る」
「え?」
「おぼつかねぇ足で倒れて頭打たれたり寝ゲロで窒息されても目覚めが悪いからな」
でも、と慌てる分隊長に兵長の眼光が刺さる。これに怯えない人間は兵団内でもわずかだが、分隊長はそのわずかの中に堂々と立っている。どころか、今の分隊長の眼に浮かぶのは。
「ほ、ほら、他の席のみんなも君と飲みたいんじゃないの? 行かなくて大丈夫?」
「あ? ガキじゃねぇんだ、テメェの飲む場所くらいテメェで決める。……それとも何か、そりゃ俺に失せろって言ってるのか」
「そんなわけないだろ! 独り占めしちゃ悪いなぁって思っただけだよ! そっちがイイなら、私も、その、助かるし……」
「……フン」
視線の交わりが増えてきて、「あ、これはそろそろ、むしろとうとう離席する空気だな」と察する。隣でまたニファが「すけべ」と呟いた。たぶん今度は両者に対してだ。
分隊長、兵長。
俺たちも積年の想いの行先が幸多からんことを望んではいますが、差し当たって明日に響くことだけはしないでほしいとも願っております。まあ心配はいらないだろうけど。
どうあっても、彼らは俺たちが絶大な信頼と信用を置く人たちなのだ。
片手に応援を、もう片手につまみの揚げ芋を取りながら、俺は明日からの分隊の動きをあれこれと考え始めた。
調査兵の時間は瞬きのように過ぎていく。
理性も本能も賢しらも愚かさも、お利口に収めている暇なんて、まったくもってないのである。
〈了〉
(初出 21/09/11)