無駄であるべき話 …原作/互いに与える不要の話
無駄であるべき話 …原作/互いに与える不要の話
自然界において、力学的エネルギーが働く際には同物量の資源が必要となる。
いわゆる質量保存、物質量保存の法則だ。例外もいくつかあるが(巨人の存在なんてまさにそれだ)今日の自然科学においてこの考え方はおおむね主流と言えるだろう。
私はさらに、この法則が人間の精神活動にも当てはまると思っている。感情の動きからはじまり、注意を傾ける、場の空気を読む、はては他人の感情まで慮るなんてことに対しても、人は意識的か無意識的かにかかわらずいくらかの資源を割いて臨んでいるからだ。
資源には限りがある。
当然、それを〝割かない〟という選択肢も生まれる。有限なる時間と労力をいかに使うか、我々は常に悔いなき選択をしていかなければならない。
「なにかあった?」
努めて軽く、誰にとってもさして問題ではないような調子で、私は目の前に座る男に問うた。
「なにか?」
男は、努めてかどうかはわからぬが軽く、誰にとってもさして問題ではないような調子でそう返した。
返したはいいが、テーブルを挟んで私の真向かいに座っておきながら、椅子に横座り足を組み、肘ついた手に紅茶のカップを持ったまま、視線を明後日の方向へ投げてこちらに寄越そうとしない。
これが知らない男だったら「あんまりテーブルマナーに興味がないんだな」で終わる話だが、この男がリヴァイであればそうはいかなくなる。
彼は、死亡率の高さのせいで『墓所待合所』だなんて揶揄されるこの調査兵団で、私がもう五年も付き合いを続けている縁深い同僚だった。
そのリヴァイはといえば、テーブルマナーに興味もなければ、理由がある場合を除いて話しかけてくる知己を前にあからさまに「お前と話す気はない」なんて態度を取るような……取っておきながら話しをするというトンチンカンなことをするような人間でもない。
五年の付き合いが告げている。これは『俺はお前に思うところがある』のポーズだ。
「もしかして、私が君に何かした?」
原因を探るべく、まずは一番可能性が高い予想をぶつけてみる。すると、リヴァイがこちらを一瞥し、また向こうを向き、それから大きな舌打ちをした。
解釈が難しいが、これはおそらく苛立ちと逡巡の表れだろう。
どうやら予想のとおり、不遜な態度の一端は確実に私が担っているようだ。
だが表立って責めるほどのやらかしをしたわけではないらしい。だからといって彼一人で収められるほど単純な話でもないようだ。そうでなければ、そっぽを向きながら私の前に居座るチグハグな行動など、彼は彼自身に許さないはずである。
顎に手を添え、リヴァイを見据える。しばし沈黙を続けた後、私は言った。
「理路整然としてなくていいから。君の中でままならないことについて、最初から説明してみてくれないかな」
彼の真っ直ぐに結ばれた口が解けるまで、そう長くはかからない。
これは二人で何度と繰り返してきた溶解の手段だったから、私もよく慣れたものだった。
リヴァイがまた私を見て、そっと瞬きをした。
**
四日前のことだ。訓練場に向かう渡り廊下を歩いている最中、リヴァイは林の木陰で若い兵士たちが談笑しているのを見かけた。
彼らは上官であるリヴァイの存在に気がつかなかったが、リヴァイもリヴァイで彼らの和やかな雰囲気を壊すつもりはなく、そのまま過ぎ去ろうとした。
看過と無知が保証する平和な時間だ。けれど、それは結局叶わなかった。
「ハンジ分隊長ってさ、距離が近いよな」
リヴァイが足を止めてしまったのは、聞こえてきたのが私の話だったからだろう。
部下たちの風紀を敏感に察知するのも上司の務めである。
そう考えた彼は私の分隊長としての評を危ぶみ、気配を隠して彼らの死角へと近づいていった。
「ア〜、たしかに夢中になると顔近くなるわ」
「よく見ると、こう……目とか大きくない? 俺ちょっとドキドキしちゃうんだよね」
わは! と彼らのあいだに笑いが起こって、リヴァイは正直なんに対しての笑いかわからなかったそうだが、それでも良くない話だと判断したらしい。陰から出て行って適当に蹴散らすことを考えたが、続く話がその足をさらに縫いとめた。
「あとさぁ、結構触ってくるじゃん! 肩とか腕とか組んでくるし。あれやめてほしいよなぁ」
「わかるわ。てか胸とか当たってるときない? 気づいてねぇのかな」
「直属の部下とか大変そうだよな……あんま言いたかないけど、ムラッとくる……」
リヴァイが黙って聞いていたのはそこまでだったそうだ。
ここまでを聞いた私は、咀嚼を示すように、しっかりと頷いてみせた。
突然現れた兵士長に、若い兵士たちはそれはそれは泡を食ったことだろう。彼らの話題に罪だと断じられる要素はなく、リヴァイもその場で「休憩か?」と訊ねるだけで終わったということだが、それでも気の毒なことだった。
己が少々気まずい話題の中心に据えられていたことについて思うところもあったが、実をいえば初めてのことでもない。
若い兵士のなかには、有り余る力を性的な欲求に変換させる者もいる。数度の壁外調査をこなして自信と余裕が身につくころであり、大きなエネルギーが彼らの中に渦巻いているのだ。
ただ、それらのほとんどは日々の密なる激務の中で磨耗していき、あぶれた一部も相互監視のもとで身勝手を制御される。
数ヶ月も経てば、あとに残るのは経験と技量、仲間への信頼と絆だけになる。見境のない衝動ではなく、意思を持った誠実になっていくのだ。
私を初めとした多くの女性兵士たちが仲間内の軽い猥談の対象になってきたが、問題が表面化したことは全くといっていいほどなかった。
こういう話が私のところまで上がってくること自体が久しぶりかもしれない。
そもそも思い返してみれば、リヴァイからこの手の話題を振られたことはあっただろうか?
わかりづらくも戸惑いに留まった表情を見るに、もしかしてリヴァイは、仲間が性的に消費されている現場に初めて遭遇し心を痛めているのだろうか?
「それで?」と次を促してみると、普段よりもさらに何かを滲ませた眉間が、重々しく動く。
「釈然としねぇ」
「何か引っかかることがあるんだね」
「お前、本当に部下に笑われるほど他人にベタベタと触ってんのか? 俺には……覚えがねぇんだが」
「正直に言うと、意図的にやってる」
「なんだと?」
リヴァイの眉尻が少し上がった。それは相手に説明を求めるときの所作だが、返答次第では叱ってやる、といういささか感情的な意味を持つものでもあった。
けど、嘘をついても仕方がない。
私は私の持つ短所や不足をよく知っている。そうして、その短所や不足が稀に、長所や充足になりうることも知っていた。
弱い。柔らかい。脆い。臆面もなく晒したそれらを前に、大抵の人間は衝動を押しとどめる。
振り払えない。強くできない。悪い人になれない。そこにわずかにでも甘さが見えれば、私は私の欲を押し通すためにその一瞬を逃さない。長い目で見れば、きっと他人の信頼を朧にしていく効率の悪い生き方なのだろう。長い目で見れば。
「わざと触ってるってことか」
「しかも、シナ作ってね。……私なりの処世術のつもりなんだ」
「処世術?」
「そうすれば相手をさっさと懐柔できる。こともある」
どうしてか、リヴァイの眉間が急に平らになった。目元の影は薄く、額や頬はほの明るい。彼が顔を上げて正面からこちらを見たからだとわかってはいたが、どうしてかそこに、霧が晴れていく景色を幻視する。
「なるほど。道理でな」
「なにが?」
「俺のことは触ってこないわけだ」
一瞬、冗談でなく脳の動きが止まってしまった。数秒かけて、リヴァイの得意げな返答の意味を理解する。途端、当然のように重ねていた視線がとんでもなく恥ずかしいもののように色を変える。
確かに私は、リヴァイのことを触らない。
腕を少し伸ばせば触れられる位置で、けれど彼は、彼の領域を崩されることなく私に相対している。私に、顔色など観察されて。ご機嫌など窺われて。気遣いを感謝までされて。自由で忌憚のない振る舞いを、この先もずっと願われたりしながら。
今この瞬間、今日だけじゃない。ずっとそうやって相対してきたのだ。長いあいだずっと。
それは別にいい。事実だから。
それよりも、テーブルについてからのリヴァイの不可解な態度、その理由が、まったく予想もしていなかった方向から明かされたことに私は面食らっていた。
要するに? 私がリヴァイ以外の他人に与えているものを、自分だけは受け取ってないと感じていたから、『思うところがある』ポーズをとってたってこと?
「アハハ……」
じわじわと感じはじめた汗が不快で、それ以上に、満足そうなリヴァイの顔を見ていると胸の中がひどくむず痒くなった。
彼にしては珍しい様相だが、心地いいものかといえばまったくそんなことはない。
頬や耳が熱い。はなはだ遺憾である。
「あなたってば、そんなことで機嫌が良くなるの? 存外馬鹿だねぇ」
などとからかいをぶつけてみても、その場の浮ついた空気は変わらない。
「俺はお前にとって、安く扱われる人間じゃねえってことか」
「そこは……否定しないけど。あなたを大切にしてるのは私だけじゃないんだし」
だからそんなに嬉しそうにするなよ。
「稀代の生き急ぎが立ち止まって手間暇かけるような玉ってわけだな」
「っそんなことは一言も言ってないんだけどなぁ!?」
「光栄だな、ハンジ」
「ねえ、ちょっと」
結局その日、リヴァイはずっとご機嫌だった。反対に、嘘偽りのない事実を喜ばれているだけの私はなぜか無性に恥ずかしくて、不機嫌な顔を覆い隠すことができなかった。
有限なる時間と労力を、さして重要でもない、どちらかといえば無駄な理解と認識の共有に割いてしまった今日このごろ。
まあ、後悔はしていないんだけどね。
〈了〉
(初出 21/03/02)