恋のバカ騒ぎ …スクカ/恋にはしゃぐ二人の話
恋のバカ騒ぎ …スクカ/恋にはしゃぐ二人の話
「『パリ、テキサス・チェーンソー』」
「却下」
「『ローン・オブ・ザ・デッド』」
「却下。……なんでそうエグそうなモンばかり選びやがるんだ」
スマートフォンを操る手が止まり、ハンジが不満の目を向けてくる。
「どれも純粋に作品として評価が高いんだよ。適度にパニックシーンもあるし、絶対盛り上がるって」
「しかしお前……」
キッチンから香るビザやポテトの気配、テーブルの上に並んだ色とりどりの菓子の甘さなどは、果たして、フィクションとはいえ人体が破壊される映像と相性がいいのだろうか。
映画といえばスクリーンに観に行くものという印象があるリヴァイは、そもそも家で、大勢で、飲み食いをしながらの鑑賞がどのようなものなのかイマイチ掴みきれない。
今年のハロウィンは休日だった。
門の開かない職場のことも今日だけは忘れよう、仮装して集まって馬鹿騒ぎをしようなんて提案をしたのはエルヴィンで、一も二もなく賛成したのはハンジである。
最終的に五人ほどで集まることになり、観賞用の機材や料理の調達は他のメンバーが担当になったため、場所はリヴァイが提供することになった。
午前中に掃除をした家の中は、秋の均一な光のなかで優しい眩さを称えていた。明朗そのもののリビングやキッチンに吸血鬼だの魔女だのが歩き回るさまは少し滑稽で、今日までハロウィンのお祭り騒ぎに縁のなかったリヴァイは、体のどこかになんともいえないざわめきがあるのを感じていた。
いや、正確にいえば。
特に手入れもされていないだろう指が、ディスプレイの中に広がる映画配信サイトをゆるゆるとさまよっている。覗き込むふりをしながら、リヴァイの関心はずっとその指の持ち主にあった。
黒のVネックにベージュのスラックス、それに見覚えのある白衣(絶対学校で使ってるやつだろ)を羽織ったハンジは、顔や首や腕に皮膚の継ぎ接ぎを模したペイントを施し、頭に大きな釘が刺さったように見えるカチューシャをはめていた。
本人曰く『フランケンシュタイン』に出てくる怪物のコスプレらしい。
「……リヴァイ、手」
ふと、小さな声が聞こえた。見下ろすと、己の手がいつのまにかハンジの腿の上にあった。
キッチンに背を向けたソファに座っているため、二人の姿は他の仲間に見えようもないが、ハンジは気が気でないらしい。
「ちょっと。みんながいるんだけど」
こういう時はリヴァイを見ようとしないハンジだが、わざとかどうかもわからない乱れ方をした髪の毛の合間から可哀想なほど赤くなった耳がのぞいていれば、リヴァイとて簡単に引くわけにもいかない。
「いなくなった後ならいいのか?」
「現在進行形でやらしいことしてる手の話をしてるんだよ! 話をそら、っあ……」
弾力のある腿をひと撫し、指をするすると内側に滑らせる。ひくりと弾んだ肩は怯えのそれではない。
恋仲になって一ヶ月以上が経つ。友人の期間はその十何倍もあって、片思いの苦悩はそれよりわずかに少ない程度。ハンジがリヴァイの家に来たのは初めてで、積年の希求が自分のテリトリーでくつろぐ様を見せられれば、それがたとえ仮装姿だったとしても、気を逸らせない男などいないだろう。
皮膚を揉むように指先を動かすと、ついに横目で睨まれた。
舐めしゃぶった飴玉のように濡れた瞳が、ハンジのなかで暴れまわる嵐を如実に伝えている。その色はきっと、リヴァイの目に浮かぶのと同じものだ。
「……悪かった」
あっさりと手を引っ込め、リヴァイは何事もなかったように座り直した。自分のスマートフォンに意識を集中させながら、俺の理性は思っていた以上に脆かったらしい、と冷や汗をかく。ハンジの「ばか」という弱々しい罵倒に内心でも謝りながら、リヴァイは目についたパッケージを適当に指さした。
「これはどうだ。『死霊の』……阿波踊り?」
「本編のほとんどが女の人の裸踊りだけど」
「は?」
「リヴァイ」
硬い声に鼓膜を叩かれ、気まずい思いでハンジを見る。むっすりと膨らんだ頬に責められ、リヴァイは無表情で姿勢を正した。
「今日に限っては、悪戯をする前に必ず言うことがあるよね?」
言われたことの意味を考え、「今日に限っては」にようやく思い出す。
「……〝トリック・オア・トリート〟?」
「正解」
と、ハンジがテーブルの上にあった、カボチャの形のプラスチックの菓子入れに手を伸ばし、山盛りのセロファンから一粒をつまみあげた。音を立てて包装を剥ぎ、中からホワイトチョコレートを取り出す。そうして、片手に小さな白を持ったハンジは、もう片方の手でリヴァイの肩を押した。存外強い力だ。
「? なん、」
音もなく押し倒される。背中が掛け布も何もない座面に沈み、胸はハンジの柔らかさに押しつぶされた。
「……」
我に帰ったときには、油脂のべとつきと、ハンジの舌が口の中を占拠していた。リヴァイは与えられた菓子を味わいながら、のしかかる体を抱き返す。さらに無茶苦茶にしようとする腕はなんとか抑えた。ソファの背の向こうでは、折り重なって隠れる二人のことなど露知らず、仲間たちが料理づくりに励んでいる。どうやらケーキも焼いているらしく、デコレーションについて熱い義論が起きている。
「……お前は、言わないのか」
唇を離した隙間で、リヴァイは声を潜めて囁く。
皮膚の下をとろ火で焼きあいながら、それでも、二人の意識はギリギリで二人きりにはなれない。
それでいいのかもしれない。他人の気配に跳ねる心臓も、名残惜しいと感じる寂しさも、秘密の関係がもたらす幸せの一つなのかもしれない。いや、周囲にとっては甚だ迷惑だろうが。
「トリック・オア・トリート」
ハンジは薄く微笑んで、胸が痛くなるような甘い声で言った。安価な菓子の香りが鼻をくすぐる。どうしようもなく蠱惑的だ。
「あいにく何も持ってねぇんだが」
「じゃあイタズラだね」
リヴァイの下唇をちゅ、と吸ったあと、ハンジが耳元に口を近づけてくる。リヴァイは聴覚に全神経を集中させた。
「今日、身体中にツギハギのペイントをしてきたんだけど。一箇所だけ『リボン結び』を描いたところがあるんだ。……どこだと思う?」
「どこって……」
ハンジが顔を上げる。
ニンマリと上がった口角に釣られて、その横を走るペイントの線を追うと、糸で縫ったように描かれた線は細い首筋をつたって、——Vネックの服の下へと続いていた。
「……オイ」
「はい、私のイタズラおしまい!」
「オイコラ待てハンジ」
「リヴァイ、ハンジー! 映画選びは終わったー?」
止めようと掴んだ腕が明るい声に遮られる。
仲間の一人がキッチンから顔をのぞかせた。座り直したハンジが何食わぬ顔でそれに返す。
「ぜんっぜん! 今七十年代まで遡ってるんだけどアジアホラーも捨て難くて、」
「あーはいはい! あと三十分で始めるから早くね」
「了解!」
口元をぬぐい、考えるそぶりに移った女は、すでに先ほどの粘度を全身から綺麗さっぱり洗い流している。リヴァイもそれとなく後頭部を整え、悪魔のような所業に刺された心臓を落ち着かせようと努めた。が、体のほうはともかく、頭のほうは無理だった。
思考の一部はハンジの『リボン結びの場所』に占拠され、除こうとすればするほど強く大きくなっていく。きっと正解がわかるまでそこにあり続けるのだろう。
(そういうイタズラもあるのか)
夜までの時間を数えつつ、けれどリヴァイは愉快な気持ちだった。
視線でもキスでもなく、求めた気持ちが掌の中にある。許し合う仲に生まれるぶんには、どうやら、菓子もイタズラもずいぶん甘いらしい。
はじめての知見を抱えて、リヴァイのハロウィンは始まったばかりだった。
〈了〉
(初出 20/11/01)