明日も今日と同じ未来 …パラレル/ともに年を越す話
明日も今日と同じ未来 …パラレル/ともに年を越す話
このまま出たらどんな顔をするかな。
一瞬でもそう思った時点で、スイッチはたぶんもう、半分くらい入りかけていたのだろう。結局「水が垂れて怒られるかも」とおさめた好奇心は、反動のためか清潔な寝巻きを着込ませ、髪の水気を取らせ、肌に化粧水を染み込ませることまでさせてようやくハンジをリヴァイの元へと解放してくれた。
「おかえり」
「……ああ」
リビングに出てそう声をかけると、買ってきた惣菜をテーブルの上に並べていた彼がふ、と顔を上げる。そうして、少し驚いた表情でハンジを見つめた。
「なに?」
「いや……今日は帰るの早かったんだな」
時計を見る。短針と長針はそれぞれ八を指していた。忙しい時期のハンジは帰宅が日付を超えることもあり、眠りの浅いリヴァイを起こさないよう別室で休んでは出勤することを繰り返す。
ここ数週間もそうだったので、あらかじめ送っていたメールや玄関の靴、付けっぱなしだった暖房や灯りを見たところで、生身のハンジが現れるまではどこか実感が湧かなかったのかもしれない。食卓の彩りに手を貸しつつ、ハンジは「なるほど」と一つ頷く。
「大晦日だから、さすがにね」
「お前とお前の職場に歳末の感覚があったのか」
淡々と、嫌味でもなんでもなく、むしろ喜色をにじませながらリヴァイが言う。冷蔵庫を開けてビールを取り出そうとしていたハンジは、少し考えてから、指が触れる先をスパークリングワインの瓶に変えた。本当は年が明けてから飲もうと思って買ってきたものだ。けれど。
「認識はしていたさ。でも身体的な感覚でいえば、お正月の明日も昨日の今日と同じ未来なんだ」
たとえば、お気に入りの酒を共に口にするときのような。
リヴァイと過ごす時間がもたらすあらゆる多幸において、年末だとか年始だとかの外的な要因はあまり影響しないのだ。そう続けようとしたハンジだが、「ああ」と帰ってきた声を聞き、空になったトレイを洗う背中を見てなんとなく口を閉じてしまった。
部屋着に浮く肩甲骨が、「お前の言いたいことはわかっている」とでも言うように細やかに動く。揃いのワイングラスを棚から取り出したハンジは、一足先に椅子に座ってその傲慢を眺めながら、彼にならそう思われてもいい、という贅沢をそっと噛み締めた。
**
一年の終わりに艶と光るシャワーコックは、リヴァイの清掃への執念がもたらした賜物である。湯を弾くタイルにカビや水垢の類が蔓延している様子もなく、浴室内はこの物件を購入した十ヶ月前と変わらず美しいままだ。
リヴァイはぼんやりと輪郭の霞むそれらを眺めながら、湯船に深く身を沈め、清潔が保たれた満足よりも不潔に煩わされない安堵から、ほう、と息を吐いた。昔は自身のこの神経質に悩みもしたが、「ちょっと不潔の許せる範囲と許せない範囲をリスト化して分析してみようよ」などと奇特なことを言い出したハンジのおかげで、現在では性分のひとつとして付き合うことができている。そのリスト化作業がそのまま〝深いお付き合い〟に発展したことを思えば、そう悪くないものなのかもしれないとさえ思う。
濡れた髪をかき上げ、目を閉じると、ちゃぷちゃぷと遊ぶ湯の音がいつかの囁きを連れてくる。
『あなた、ほんっとうに私の汚れが一層癇に触るみたいだね』
つらつらと並ぶ〝許せない汚れ〟を指して、隣の女が、心底おかしそうに笑う。
数十秒前に磨いたばかりの眼鏡は、またたく睫毛の動きをはっきりとリヴァイに伝えてくれた。
何にも邪魔されることなく。
『……ああ、そうだ。——少しも許せない』
リヴァイが自分の中にあった決定的な感情を自覚したのは、まさにその時だった。
「ふー…」
再び、胃の腑からゆるやかに安堵がのぼってくる。毎日細々と掃除を重ねていてよかった。久々にゆっくりと二人きりで過ごせる時間を、ハンジ以外の神経に触れるもので消費したくない。
風呂に入る前に「年越しソバを作るよ!」と意気込んで台所に立っていたハンジを手伝って、さっさと後片付けを済ませて、あとはテレビでも見ながら静かに新しい日を迎えよう。
ハンジにとって同じ未来であるらしい今日と明日は、リヴァイにとってはまだ、きちんと握り込めているかも曖昧な日々なのだ。
「聞いてくれリヴァイ! 私はとうとう、家庭で簡単に手に入る材料で美味しい蕎麦つゆが作れる黄金比を突き止めたんだ! 自信を持って言えるよ、これはすごく美味しい。でも驚くことに、リーブス食品が出している麺つゆと味がよく似ているんだ」
「そうか……お前は自力で美味い麺つゆの配合を編み出したんだな」
ピカピカのレンジ台を背景にお玉を振り回しながら力説していたハンジも、リヴァイが茹でた麺をザルにあげると、シンクからあがった湯気に意識を奪われて口を閉じてしまう。
それを横目で見ながら流しっぱなしの蛇口の水で麺を洗うリヴァイは、ツルツルとした感触に指を滑らせ、「こんなに食えるのか?」と疑問を覚えた。
「うん。やっぱり美味しい」
香りたつ蕎麦つゆを小皿に注いだハンジが、それを唇の前で傾けて満足そうに頷く。ハンジは意外にも料理が好きだった。料理が、というより、二つ以上の物質が合わさって起こる化学反応が好きだった。
物を食べること自体は『摂取』と呼び下げてもいいくらい頓着してこなかったようで、二人で食卓を囲むようになって初めて「『食事』というものは極めて社会的な行為なんだね」と感動していたくらいだ。
リヴァイもハンジに会うまでは同じようなものだった。だからこそ、目の前の光景が不思議でならない。
「お前、年越しにちゃんとソバを食う人間だったんだな」
つゆの材料、蕎麦束、まな板に乗った伊達巻やネギの微塵切りはハンジが買い揃えたもので、「身体的な感覚で言えば同じ」などと言っておきながら同じなりにしっかりと年末らしい準備をしている様は、ハンジが言うところの〝極めて社会的〟な行為そのものだ。
「感心した? ちゃんと歳末に則った行為だろう?」
得意げに返すハンジに対して、リヴァイは年越し蕎麦どころか元旦の御節料理に因んだものさえ用意していなかった。その不始末が、今になってわずかに苦く迫ってくる。
初めて二人きりで越える、十二月三十一日。
けれど、なのか、だから、なのか。どうやらリヴァイは、今日まであえてそれを意識しないよう行動していたらしい。
明日もただ、当たり前のように一日を始めるのだ、と。当たり前のように始めることを、二人の当然にしていくのだと。そう考えて区切りを作ることを避けていた己を見つけ、途端、その狭量に恥を覚える。
「なんてね。去年までは蕎麦なんて、作るどころか食べもしてなかったよ」
内心ごと俯いたリヴァイの隣で、透き通った琥珀色の熱をかきまぜながらハンジが言う。
「そうなのか?」
「そうだよ。リヴァイも知ってるだろ。縁起が良いとか験を担ぐだとか、そういうのとは無縁の生活だったじゃないか」
「験を担ぐ?」
「知らない? 年越しに蕎麦を食べる意味。〝来年も『そば』にいられますように〟って……」
見えない指が触れて誘われたかのように、リヴァイの顎が持ち上がった。
視線の先には、部屋の外ではほとんど見られない、髪を解いた横顔がある。そうして、つるりと光る頬が、硬くて柔そうな耳が、リヴァイの視線を一人占めする重たい睫毛を持つ目元が。優しい赤に染まっていく。
「……ハンジ」
「まあ諸説あるらしいんだけど。あ、味見する?」
「するから、こっち向けよ」
火を止めて、少しだけのけぞった体を引き寄せ、下から唇に吸い付く。
「んっ」
ハンジの薄い皮膚の表面からは、芳しい出汁の余韻が感じられて、リヴァイは味比べでもするかのように歯列の隙間に舌をねじ込んだ。背中に手をまわし、ハンジの上半身をこちらに被せるようにぐっと密着させ、下から口内を掻き回す。
「っ、……急に、」
息継ぎと疑問を持って開く唇に、下品ではない忙しさでキスを送り、ぎゅう、としがみつく手と鼻にかかった声を免罪符にしてひたすら吐息を絡ませる。そのうち、肩のあたりを掴んでいたハンジの指が解かれ、リヴァイの頭にかかった。髪に差し込まれたそれは後頭部をかき回し、頬を包んで固定し、二つの洞を深く繋げようとする。
バチン。と、大きな音が体内に響いた気がした。背筋に痺れが走り、下腹で兆していたものが後戻りできない熱を持つ。戯れで終わってもよかったキスが、その瞬間、行為の初まりのためのものに変わる。
「ん……ふゅっ!?」
太腿の裏と腰に手を回し、リヴァイはハンジを抱え上げた。キッチンからリビングに移動し、離れた口の端から垂れる唾液を舐め取りながらソファまでたどり着く。柔い革張りの座面に縦長い体を下ろすと、そのままゆっくりと押し倒した。
覆いかぶさる胸に弱々しくハンジの手が触れて、迷いを表しながらさまよう。
「……りばい、」
「嫌か」
小さく左右に振れる頭を掴み、また、隙間に舌を潜り込ませる。
少しだけ顔を離すと、たっぷりと潤んだ眼がリヴァイを誘うように揺れた。
「嫌じゃ、ないよ、ないけどさ」
「どうした?」
うかがいながら、服の裾から手を潜らせる。すべらかな裸の腹を撫で、臍のふちを摘むように撫でると、ひく、と腹筋が縮んだ。構わず上に登っていく。
「目が怖い……ギラギラしてる」
はあ、と小さく息を吐いたハンジが、リヴァイが何か答える前に舌を出し、濡れた唇をなぞるように動かした。
勘違いなんかではない。恐れるようなことを言いながら、ハンジの全身はとっくの昔に溺れる気で染まっていた。その誘惑にしゃぶられたリヴァイも、細胞まで赤くなる錯覚に突き落とされ、剥ぎ取るように己の衣服を脱ぐ。
前髪の先にキッチンが見えて、リヴァイの脳裏に一瞬だけ『ソバ』の像か浮かんだ。が、腰にまわった長い脚に引き寄せられ、求められるままに肌を重ねれば、その色姿も急速に小さくなっていく。ピカピカの部屋と、ソファと。リヴァイだけのハンジと。「明日もそばにいたい」というリヴァイだけのものではない願いは、なるほど明日だろうが今日だろうが、どこにおける未来でも同じ幸福に違いない。
年のまたぎも遥か遠く、ひと繋ぎの日々の一つを大切に過ごした二人は、翌朝伸びきった蕎麦を静かに啜ることになったのだが。それもまたひとつの、今日と同じ未来の話だった。
〈了〉
(初出 20/02/27)