ハウス! …転生/犬リヴァイと人間ハンジの話
ハウス! …転生/犬リヴァイと人間ハンジの話
雪の街からやってきた恋人は、この国にあまりいい感情を抱いてないようだった。臭いが、食事が、衛生が、昼と夜の温度差がと重ねたあとで、旅行の楽しみが萎んでしまった空きを埋めようとしたのか、借家にたどり着いた途端早々に私を押し倒した。
どこかで爪が床を蹴るカツカツという音がして、「何?」と体を起こした彼に「近所にたむろしてる犬が入って来たのかも」と返した時、彼の後方に四肢動物のシルエットと、雨季の空みたいな色の瞳が浮かびあがった。
恋人はサンタクロースだったんだろう。
私に〝運命の出会い〟というプレゼントをくれたのだから。それ以降会っていないから、正確には元・恋人だけど。
あれからちょうど一年が経つ。
「リヴァイー、いるー?」
扉を開け放し、廊下を二歩で進み、リビングに飛び込む。空間をぐるりと見回し、セパレーションで仕切っただけのキッチンやダイニングを覗き、覗き、気配を感じて振りむく。
先ほど高速で駆け抜けた廊下の途中にある、電気の消えた洗面所から彼がゆっくりと現れた。
黒の短毛で全身の筋肉を覆った、青灰の瞳が美しい彼。家に出入りする野良犬ことリヴァイである。
近づいてきた彼の垂れ耳に「ただいま」とキスをすると、彼は私の首に甘えるように歯を触れさせた。
「大好きなバフの干し肉を買ってきたよ。一緒に食べよう」
リヴァイは私から少しだけ距離を取り、まず手を洗え、と顎で指し示した。
東南アジア某国。この地にルポライターとして赴任して一年半。その半分以上に、付かず離れずのリヴァイの姿があった。
どこに行くにもトコトコとついてきて、いつのまにかいなくなってて、だけどここに帰ってくると部屋の隅に寝そべっている。
路上育ちなのに随分綺麗好きで、お風呂にやたらと入りたがって、私がゴミを始末しないとじっと恨めしそうな目で見てくる。紅茶の香りがとても好きだ。私が撫でると憮然とするくせに、やめると寂しそうに佇む。私が寝ているときだけ右肩を甘噛みして、左眼の瞼に鼻先を押し付けてくる。夜は私の隣で、自分が間違った場所にいるかのようにぼんやりとしている。
地元の人も彼がいつどこから来たかわからないと言うので、私は自分が彼と出会った日を勝手に誕生日にしていた。彼にも確認したら「フン」と鼻を鳴らしたのでいいよってことなんだろう。
「はいこれ、誕生日プレゼント」
特注の犬用ケーキに豚と水牛の干し肉を用意して、私はリヴァイにプレゼントを差し出した。見上げてくる目が説明を求める。
「これはね、土地と住居の権利書。つまり、家を買ったんだ。あなたのために」
国境を越えて数千キロ先の距離にある故郷の、静かで広くて何もない田舎の家を、私は彼のために購入した。
「この町も国も嫌いじゃないし大好きだけど、『あなたに会うために訪れた』という感覚がどうしても抜けないんだ。一年経ってもそう。だからもうそろそろ、私の飼い犬になって一緒に暮らしてほしい」
彼は私をしばらく見つめていた。そうしてようやく、長い舌を出してペロリと唇を舐めてきた。
彼からの初めてのキスだ。
「愛してるよ、リヴァイ」
イ、の形に引いた口の、右端を何かが落ちていく。指で触ったら涙だった。あれ? と慌ててぬぐったら、かえって流れるものが止まらなくなる。
目に痛みもないし、異物感もないし、なのにあとからあとから湧き上がって、べしょべしょになった手を見ているうちに胸が圧迫されたように苦しくなる。
なんだっけな、これ。知ってる感覚だ。
思わず俯くと、リヴァイがつむじに鼻面を押しつけてくる。心配してくれてるんだ。安心させるために顔を上げて、優しい優しい虹彩に語りかける。
「大丈夫、どこも痛くないよ。なんだろうね、おかしいね」
彼のきちんと揃った瞳を正面から見て、私は思い出した。そうだ。この苦しみは、リヴァイに初めて会った時と同じものだ。
苦しくて苦しくて、涙が溢れて、無我夢中で彼に駆け寄った。抱きしめたら苦しみはそのまま安堵と幸福になった。
初めて会ったのに、「やっと会えた」と。
強く、強くそう思ったのだ。
あの時と同じようにリヴァイを抱きしめ、首に頬を擦りつける。彼は耳を舐めてくれた。可愛くて我儘で、いつまでも私を縛ろうとしなかった、大好きなリヴァイ。
**
両親の遺産を全て預けていたトレーダー兼友人兼雇い主に、「家を買うからお金が要る。派遣先も変えてほしい」と頼むととても驚かれて、リヴァイとのことを話すと納得された。彼は祝福と共に、その青く賢い眼で私に念を押した。
『愛と家は呪縛なり。お前にそれを負う覚悟はあるか、ハンジ?』
——ねえ、リヴァイ。
あなたへの愛を囁くたびに、そこに責任が生まれるんだって。あなたの存在が私の枷になって、私の存在もまた、あなたを雁字搦めにするんだって。大声であなたを愛してるって言うたびに、この両手はあなたの重みでいっぱいになって、あなたの一生が終わるまでそばにいないといけないんだって。
それって、なんて幸せなことなんだろうね。
「愛してるよ、リヴァイ」
今度こそ。
あなたは私の、終生の家。
〈了〉
(初出 19/12/25)