抱きしめる話 …原作/頭と体で確かめる話
抱きしめる話 …原作/頭と体で確かめる話
こんなにも生きることを望まれる環境で、自分を死なせようとする奴の気が知れない。
端的に言えば、ハンジのことだ。
正確に言えば、別に自殺を図っているわけでもない。
疲れを溜め込んだ結果、死にそうになっているだけだ。要するに馬鹿だった。
「賢いのは頭だけか」
「……え……なに?」
なに、じゃない。ノックの音も聞こえず、鍵を外されたことにも気付かず、背後に立たれて声をかけられるまで存在を認知すらできないのは相当だ。俺は叱りつけるつもりで、傾いだままのハンジの肩を掴んで顔を上げさせる。
そして息を詰まらせた。
「あ、リヴァイ」
酷い顔だった。色という色も、柔らかさも、熱も、光も、すべてが失われた面だった。
これは〝いつもの〟疲労ではないな、とすぐに異変に気付く。
匂いがしないのだ。風呂に数日入らない時の獣くさいそれだけでなく、そもそもこいつが持っている体臭さえも。
部屋に据えられたソファには仮眠の跡があったし、食事をする姿も夕方見かけた。普段の生活をなぞりながら、それに救われることなく今に至っているということだ。
俺は舌打ちした。
「……賢いのは頭だけだったか」
「〝賢い〟って頭以外にある……?」
「普通の人間は無理してりゃ体が悲鳴をあげるもんなんだよ。お前の体は馬鹿だ」
「そう?……困ったね」
虚ろな目がゆらゆらと彷徨い、立ったままの俺を見る。椅子に座ったハンジの目線はちょうど俺の胸の辺りだった。
ハンジはしばらくそこを眺めた後、覚束ない声で言った。
「リヴァイ……抱きしめていい?」
ハンジが時折かます突飛など、もう随分と慣れたものだった。俺には到底理解できない思考の迷路を、ハンジは自分にだけ解読できる地図を持ってずんずん進んでいく。一足も二足も先にたどり着いた出口からその風景を叫ばれるようなもんだ。そう、慣れたもの。
「いいぞ」
底なしの馬鹿の体に賢い頭が指示を出してようやくたどり着いた答えが「抱きしめていい」だったのだろう。断る理由なんて微塵もなかった。
「ん」
「んんん」
両手を軽く広げると、メガネを外したハンジが胸筋の合間にぼっすとぶつかってきた。クラバットとベルトを解くべきだったかと一瞬考えるが、背中に回った腕が衣服越しにも冷たくて何も言い出せなくなる。
はあ、とハンジがため息を吐いた。硬いばかりのこの体から何を得られるというのか。俺にはさっぱりわからない。わからないといえば、自分の両手の置き場もわからない。ハンジに聞いてみることにした。
「俺も抱きしめたほうがいいか」
「……ううん。そこまではいいよ」
茶色い頭がグリグリと動く。言われたとおり脇に垂らした腕は、それでもしばらくはそわそわと落ち着かなかった。
「ありがとう! だいぶ楽になったよ」
時計の秒針が二週目を迎えた頃、ハンジは先ほどよりは幾分ましな面で離れていった。その変わりように素直に驚く。
「こんなので楽になるのか?」
「人の体温と心音には精神を落ち着ける効果があるんだってさ。悪かったね、こんなこと頼んじゃって」
「そう思うんなら二度と死人みてえな顔するな」
ハンジは笑っただけでうんとは言わなかった。嘘をつかないことで誠実さを保ちたいのか、腹の立つことだ。自分を生かす努力にかける誠実さはないくせに。
部下が何人も死んだ。
ハンジが考え、エルヴィンが採用し、俺が先導した作戦でだ。
悔いだとかなんだとか、言葉で言い表せる浅さにはもう浮かんでこない感情を、俺たちは毎日毎日なんとかして飲みくだしている。
「……悪かったとは思ってるから」
「示さなきゃ意味ねえんだよ」
そんなやりとりを最後に部屋を後にした俺は、ハンジが胸に埋まる間、落ち着くことのなかった腕のことを少しだけ考えた。
**
「やあリヴァイ。お疲れさま」
ノックをすると、珍しいことに出迎えがあり、比較的明るい表情を浮かべたハンジがそこにいた。
天候に恵まれ、死傷者を出さないことに重点を置けた今回の壁外調査は、前回の地獄を塗り重ねたようなそれに比べれば被害も少なく終えることができた。
事務仕事に追われる幹部を尻目に他の兵士たちは調整日を満喫しているが、塵ほどの恨みごとも湧いてこない。
ハンジが確認すべき書類を渡したあとも、俺はなんとなくその場にとどまった。貧しいランプの灯りが照らす顔が、またもや死者の国に迷い込んでやしないかを確認したかったからだ。
「今日はマシだな」
「? ああ、死人みたいなツラ? そりゃあね。疲れてはいるけどあん時に比べりゃかなり元気だよ」
「疲れてはいるんだな」
そこで、ハンジの顔がニタァと歪む。
「心配してくれてるんだ」
「気付いたら壁内で死にかけてる馬鹿だぞ。心配しすぎてどうなる」
「じゃあ、また抱きしめてもいい?」
意外な申し出だった。このハンジという人間はとにかく変な奴だが、すすんで人に迷惑をかけようという輩ではない。自分で「悪かった」と言っていた行いをまた繰り返すことは珍しい。
「構わねぇが」
今度はクラバットとベルトを外す。ハンジの眼前にシャツに覆われた胸を広げると、その頭はまた躊躇なく突撃してきた。
「んんんん……ぶ厚い」
「かてぇだろ」
「硬くてこそ」
こいつは何を言ってるんだ?
前と同じように背中に回った腕は、けれど今度は温かい。だからだろうか、俺の口もするするとよく回った。
「硬いほうがいいのか」
「ぶ厚いのもね」
「だったら、エルヴィンやミケも抱きしめがいがあるだろうな」
「あっはは、腕が回らなさそう!」
回す予定があるのか。
「モブリットくらいがちょうどいいか」
「うーん、立っても座ってもちょうどよい位置にならないかも」
立ったり座ったりで試す気なのか。
腕は、ハンジの吐息を感じた瞬間からずっと落ち着かない。
「ミケには女がいる」
「うん?」
「エルヴィンは上司として、モブリットは部下として、お前にこんなことはさせないだろう」
俺は何を言ってるんだ?
あの三人がハンジに許さないことを、だったらどうして俺は許してるっていうんだ。答えを探して見下ろした先で、ハンジが合わせるようにこちらを見上げていた。
「知りたい?」
「――何を」
「どうして、こんなことを、」
しているのか。させているのか。
知る前に、俺の腕はハンジを抱きしめていた。
その体を囲い込んで、強く、強く力を込める制御不能の両腕に、俺はそこでようやく自分が求めていたものを知った。
ハンジが、ああ、と声の混じったひどく悩ましい息を吐いて、それから言う。
「リヴァイの心臓、ずっと、すごくドキドキしてる」
今も、あの時も。
それも初めて知ることだった。
どうやら、俺が賢いのは体だけだったらしい。
〈了〉
(初出 18/02/18)