【温かい手】 …原作/シガンシナ戦直後
【温かい手】 …原作/シガンシナ戦直後
「いてっ」
瓦礫を避けた先で小石を踏んでしまい、ハンジの身体はバランスを失った。
慌てて伸ばした手が辛うじて顔と地面との衝突を防いだが、したたか打ち付けた膝に思わずうなり声が上がる。
「ハンジさん!? 大丈夫ですか!?」
「平気平気、ちょっとよろけちゃって」
跳んできたジャンが差し出した手をゆるく制し、ハンジは立ち上がって埃を払った。
ぼやけて、おまけに片側が塞がった最悪な視界でも、自分を見る人間がどんな表情をしているかくらいはわかる。ジャンが中途半端に皺をよせた額で表すのは負い目だろうか。歪んだ口元には気遣いと不安が見え隠れしている。
「ジャン、悪いけどこれ持って先に上へ行っててくれないかな。水はアルミンとサシャに優先的にね」
これ、と示した袋には、微々たるものだが食料が入っている。現在の『調査兵団』の——今はもう両手で足りるほどの数の——胃の足しになるくらいはあった。
「え、でも……ハンジさんは?」
「このまま捜索を続行するよ。はぐれた馬とか、狭い場所に入り込んでるかもしれないし……」
努めて明るく言いながらも、ハンジは内心「もう少しマシな言い訳しろよ」と自嘲していた。
倒壊した家々を抜ければ、平野には遠く広く、仲間たちの死体が転がっている。馬も人も血と肉をまき散らし、辺り一帯は死の匂いしかしない。
生きているものの音など、どこからもしないのに。
ジャンもそれをわかっているのだろうが、しばし逡巡したあと一度だけ頷き、荷物を受け取ってハンジに背を向けた。後方で二人を待っていたフロックに声をかけると、壁に向かってアンカーを射出して壁上へと登っていった。
一人残されたハンジは、ゆっくりと歩き出す。転んで怪我をしないように。すでにボロボロで使えない状態だとしても、今のハンジは調査兵団の大事な頭数の一つだ。
左手がズキズキと痛むので見下ろすと、先ほど地面についた掌から血が滲んでいた。
「ああ……」
状況が落ち着いたせいだろうか。小さなその擦り傷から次第に体中へ、眠っていた痛みが広がっていく。ハンジは半壊した家の壁に背を預け、一つになった瞼を下ろした。
塞がった左眼が脈を打つ。
痛みを感じているはずなのにピクリとも動かない眼球は、果たして再び日の光を見ることはできるのだろうか。
(静かだな)
超大型巨人が暴れた後だというのに、荒廃した街は沈黙していた。生存者捜索のために皆でシガンシナを飛び回っているはずなのだが、瓦礫が吸収しているのか全く音もない。
生きていることを叫ぶ人間が誰もいない、たったそれだけで、ハンジの周りは時が止まったかのようだった。
あるいは、ハンジはすでに死んでいるのかもしれない。
ハンジだけが死んで、死の世界で一人さまよっているのかもしれない。
(……その方がいいな)
部下たちも、同僚も、同僚の部下たちも、新兵も、モブリットも、エルヴィンも。
冷たい肉になったハンジのためにしばし悲しんで、けれどまた先へ進んでいく。そうだったら良かったのに。
けれど、鼓動に合わせて鈍く痛む身体が、傷口に溜まってとうとう流れ出した左手の血が、ハンジの愚かな願いを否定していた。
生きていることは痛い。
不便で不自由で汚くて、何をするにも限界があって、常に次を考えなくてはいけない。その延長線上にある死だって、尊いものになるはずもない。
だったら私たち、一体何のために呼吸しているんだろう。
「ハンジ」
呼んだ声に、けれどハンジは目を開けて答えることはしなかった。
自分を〝ハンジ〟と呼ぶ人間はもう、調査兵団には一人しかいない。いなくなってしまった。目を開けて彼を見たら、きっと弱くてみっともないところをぶつけてしまうだろう。
何も映さず、何も発しない今の状態が、ハンジが自分を保てるギリギリだった。
足音がハンジの傍まで来て、左手に触れた。
固くて、かさついて、火で炙ったかのように熱い皮膚を持った彼は、ハンジの掌が血で濡れていることに気付いて舌打ちをしたが、解くことはしなかった。
「……行くぞ」
引かれるまま壁から背を離し、目を開ける。
片目で見る世界は相変わらず平面で、歩き辛く、そして色がない。
いびつに削り取られた左側のせいで、何も言わずにハンジの手を引く彼の姿は見えない。ハンジの左手から徐々に冷たさを奪うその熱い皮膚だけが、痛いほどに存在を主張している。
引き摺られる身体はボロボロで、状況だって最悪で、顔を上げる気力だって塵ほどしか残っていない。
生きていることは痛い。
不便で不自由で汚くて、何をするにも限界があって、常に次を考えなくてはいけない。
(——けど、温度がある)
彼と自分を繋ぐ温さが、ここからどうにか歩き出すために必要なもの、辿り着いた先に何かを約束するものに思えて、ハンジは縋るようにその手を握った。
〈了〉
(初出 18/02/18)