【キス】 …原作+巨中/交差する小さな恋の話
【キス】 …原作+巨中/交差する小さな恋の話
無防備に反応してしまったのは、彼女の問いの内容が青空から降る雨粒のように突飛なものだったからかもしれない。それとも、問う声があまりにも切なる響きを有していたからだろうか。
「適した年齢?」
「そう、キスするのに適した年齢。知ってますか?」
なにを、と歪みそうになった口端が、聞かれたことを精査し始めた脳に止められる。キスするのに適した年齢。そんなものがあるものか。
「例えば……結婚できる年齢は決まってますよね?」
「まあ、そうだね」
「性行為も、できる年齢というより、しちゃいけない年齢は決まってますよね?」
「え、そう?」
「? 法律で決まってますよね?」
「えっと、まあ……そうだね」
「じゃあ、キスっていつからしてもいいんだろう……」
それは私の相槌に対するさらなる問いではなかった。ひたすら、ひたすら自分の中で反響を繰り返す疑問が漏れいでたものだった。そこに幾度となく為された質疑を感じ見た私は、逆に自分の問いを彼女にぶつけてみることにした。
「キスしたい相手がいるのかな?」
「私はそんな不埒なことしないもん」
「しないけど、したい相手はいるんだね?」
「……」
正直な子だな。
そこで初めて、私は隣に座る見ず知らずの少女の輪郭を捉え始めた。たまたま行きあっただけの人間に、こうも無防備に自分の全身を満たすものを明け渡せるなんて。
愛らしく思う気持ちと、とても珍しいことに、どこか意地の悪い気持ちを抱く。
「相手は男の子?」
「……答える義務はない、です」
「うん、ないね。君の判断に任せよう」
「……男の子。隣に住んでる」
「好き合ってるの?」
「たぶん……ううん、わからない。何も言わないし」
「キスしたいんだね」
「……うん」
「キスに適した年齢かぁ。私にもわからないな」
「それって、答えはないってことですか」
そうだね。転がすように返した言葉は、彼女の中にではなく眼前の夕日に消えていった。
もうどれだけのあいだここにいるのだろうか。水の音がする、顔を洗ってくるよ、と、大事なゴーグルを置いて道に迷った愚かな私は、こうして路傍の石に腰を下ろし、光と色と音でしか認識できない世界で彼を待っている。
ほうぼうに伸びた草にいずれ侵食されそうな、馬がかろうじて通れるだけの土の道。背高の雑木。名前も欲しがらない花々。私と彼女の声。
リヴァイは血相を変えて探しているだろう。大声で彼を呼ぶ気は、いつのまにか隣に座っていた彼女の存在に立ち消えてしまっていた。
少女めいた誰かは言う。
「あなたは、キスしたことあるんですか?……答えるかは自己判断で」
「あるよ。激しいのを。いつもね」
「いつも激しい」
「そう。いつ死ぬともしれないから」
ふふ、と彼女が笑った。だから私は優しい気持ちになれた。
背後に下りた幕が誰の合図でかふとした拍子に上がって、そこに広がる死の闇に引きずり込まれる。そんな日常は笑える話であるべきだ。それが一番いい。
「焦らなくていいんじゃない? 君たちは。明日も明後日もその先あるんだから」
「……別に、焦ってないです」
「そう? 行動の限界を探しているのは焦っているからではなくて?」
「それは……」
「まあいいや。たくさん悩んで、たくさん自分を引き止めて、いつか『あ、今だ』って思う瞬間がくるよ」
「なんか適当だなぁ」
「そりゃあ他人事だし。君だってこんな奴の言うことバカ正直に信じるつもりもないんだろう?」
「……ふふ、なんかあなた、知らない人じゃないみたい」
「あれ、もしかして私たち知り合いだったかな」
「ううん。そんな変な格好してる人、わたし知らないよ」
「あ」
覚めた瞬間は、たぶん二人同時だった。
「……呼んでる」
「奇遇だね。私も呼ばれたよ」
「あっちから声が聞こえた!」
「私はあっち。じゃあ、ここでお別れだね」
立ち上がった視界に、彼女はあまりにも小さかった。私は知らず繰り返していた。きっとそれが、一番の願いだった。
「焦らないで。明日も明後日もその先も、君たちにはあるんだから」
「……あなたにも。あなたたちにも、ね」
背を向けて歩き出した瞬間、彼女の気配は山の端に消えゆく夕日よりも遠くなった。
二度と昇ることもないだろう。予感があった。
リヴァイの声がする。私を呼んでいる。ハンジ、と。
彼と会えたら、優しいキスをしよう。私はそう思った。
次の瞬間も、明日も、明後日も、その先も。死も。何もかもを忘れた優しいキスを。
逸る唇で、私は私の彼を呼んだ。
〈了〉
(初出 18/02/18)