二番目の男 …原作/栄光の二番目の話
二番目の男 …原作/栄光の二番目の話
適当に流されるだろうと思っていた問いかけに、存外ハンジは真面目な顔で答えた。
「うーん、欲しい物はたくさんあるんだけど……」
意外だった。
例えばこの執務室の机の上ひとつ取ったって、今しがた持ち込んだばかりの書類と兵団支給のペンがあるだけで、見渡しても私人としてのハンジを見つけることは叶わない。物を持たない奴は欲も薄いのだと思っていた。
「いやいやいや、そんなことはないよ。挙げたらキリがないくらい色んなものが欲しい。あの『海』に浮かべたって手狭になるくらいさ」
「なんだ、お前……随分と欲深い奴だったんだな」
「無欲は罪だよ、リヴァイ。何も欲しがらない人間には何も成せない」
走り出そうとするペン先が、それでも目の前に立つ俺を慮ってか宙をうろついている。
ハンジは二つ以上のことに同じだけの力を注ぐのが苦手だった。
一つにかかりきりになって適当になってしまうもう片方に、今は俺を置いておきたくないということだろうか。
そう考えると、首の裏にかすかに痺れが走る。
「だったらとっととその欲しいものとやらを言え。都合してやる」
己でもふさわしくはないだろうと思う言いザマではあったが、ハンジはさして気にした様子もない。共にいた時間と経験と、その指が捲る紙束に記された日付が質問の意図を正確に伝えるだろう。
だから、ハンジにはその言葉だけで充分なはずだった。
ペンを置きながら、ハンジは言った。
「欲しいものはたくさんあるけど、〝君から私に〟貰えるものは、一つもないんだよ」
……共にいた時間と経験をもってしても、俺にとって、ハンジの言葉が不十分な時は多い。
求める前に補足が飛ぶ。
「私たちはもう、髪の毛一本だって自分のものじゃないだろう?」
ハンジは二つのあいだで迷うことをやめ、意識の全てを俺に向けていた。奇人だ変人だと指差されても流す表面で、相手の中にある自分の印象を探る怯えだって、こいつは決して忘れたりはしない。
片方だけの瞳には、その怯えがあった。
「……自分を騙すズルさすら持たねえのか、」
お前らは、揃いも揃って。
続けようとして飲みこんだ言葉が、胸を苦く塞ぐ。
ズルくさえいれば死ななかっただろう男を見送ったときでさえ、こいつは隣にいたというのに。
無欲が罪なら、無欲を騙るのも罪だ。
己に無欲を強いることだって。
勝手に走り出した憂いを、しかし明るい声が遮った。
「欲深い奴だからねぇ、私は」
釣り上がる口角は自嘲の証だ。笑みの先が親しい者の証でもある。
「今、一番欲しいもののために……そのためなら何だってする」
壁一面に貼られた地図の中には、百年間ずっと朧げであった海岸線が太く確かな線を描いている。余白を埋める情報に「もう充分」の限りはない。
そこまでくれば、〝一番欲しいもの〟など、俺でなくともわかることだった。
「だから、」
だから。
「だから……」
今は、君も、私も。
「だったら」
きっと続くであろう言葉を、待つことはしなかった。どうせ不十分だからだ。
「保留だな」
「……保留?」
用事が済んだことを悟り、踵を返す。適当に使いを頼んでいた副官も戻ってくる頃合だろう。
扉の前で振り向くと、珍しく意味を汲み取れない様子のハンジがこちらを見ていた。補足が必要らしい。
「お前と俺が、そっくりお前と俺自身のところに帰ってきたら、また同じことを聞いてやる。精々もたもたしねえように考えておけ」
ハンジは目を見開いた。それから、俺以外の誰も知らない笑い方で答えた。
「うん。二番目に欲しいものは……もう随分前から決まってるから、たぶん大丈夫だと思うよ」
自分の印象をその瞳の中に探ることなど、俺には必要ない。
もう、随分前から知っている。
扉が閉まる直前、鼓膜が小さな囁きを拾う。ガキが悪戯を隠したときのような、可笑しみの潜むものだ。
「……〝君〟にそれを叶えられるかは別だけどね」
(馬鹿な奴)
長いあいだ——本当に本当に長いあいだ、一番を譲り続けていた男にとって、それはあまりにも容易い願いなのだと。
早く、ハンジに教えられる日が来ればいい。
踏み出した足は軽く、いつかのその日に繋がっているはずだった。
〈了〉
(初出 17/09/11)