とにかく君に恋してる …原作/関連するものすべて、な話
とにかく君に恋してる …原作/関連するものすべて、な話
「〝君の瞳に恋してる〟ってのはどういう意味だ?」
ハンジは咽せた。
ページをめくる時以外は静物と化していた身体を、ついには折りたたむところまで。
それほど激しく咽せた。二人が並んで座るソファも、ハンジに合わせてギシギシと軋んだ。
「なぜ咽せる」
「だっ……て、」
リヴァイが厚みのある手で震える背中を宥めたおかげでようやっと息を整えたハンジは、不思議な気持ちで彼を見つめた。
短くない時間を共に過ごしてきたはずなのに、この男にはこうして未だに驚かされることばかりである。
「まさかアナタ、昨日の夜の歌とも呼べない歌のことを言ってるの?」
「お前の言うのがゲルガーがいっとう声を張り上げてたやつなら、それだ」
皆で兵服を脱いで繰り出した街の、ぬるい熱気をまとう酒場。
陽気な呑んだくれどもが濁声で織りなし始めた古き歌謡。赤ら顔のゲルガーが煩く音頭をとり、科をつくり、終いには泣きながら歌い終えた愛の唄のことである。
酒を飲むリヴァイの全てを見渡す静かな瞳は、わりと何も見ていない。
耳を澄ますように微かに首を傾けていても、実はあまり聞いていない。
グラスを傾ける彼との話の噛み合なさに初めてその緩みを知った時、ハンジはひどく驚いたものだった。
そんな男が、である。
酒の席で聞き流されるもの第一位の『情緒不安定なゲルガーの歌』を、あまつさえ巷の男と女が歌う甘ったるい恋歌の歌詞を頭に残し、その意味をよりによってハンジに問うてくるなどと、誰が思うであろうか。
「気に入った人間の眼球を集めるってことか? そんな奴がいるのは知っているが」
「流行ってたまるかそんな歌」
やっぱちゃんと聞いてなかったわ。ていうかそれ変態だわ。
ハンジは観念した。未練がましく紙の間に挟んでいた指を抜いて、重たい本は机の上に。
リヴァイに向き直って、わざとかしこまった口調で初めてみる。
「いいかい? 〝瞳に恋してる〟ってのはさ、言葉そのまんまの意味ではないんだよ」
「ほお……?」
「相手の瞳から眼が離せない、さながら瞳そのものに恋をしているよう。恋をして意中の相手に夢中になっている人間の様子を、うまく言いかえているのさ」
なるほど、ひねってんだな、なんて心得たように頷くリヴァイが面白くて、ハンジの口角が無意識に上がってしまう。こうやって命に絡まないことでハンジが適当なことを言って、リヴァイがわかったような顔で収める。温かくてくすぐったい、ハンジが秘して大切にしたい時間だった。
「そうそう……あとは、ちょっとずれるけど投影とか、かな?」
「投影?」
「うん。ある存在に強い感情を持っていると、その存在を示唆する物にすら同じような感情を抱いてしまうということだよ。この歌詞の場合は……瞳の色とか、かな?」
「……具体的に言え」
「巨人が憎けりゃ人の裸だって憎くなる。そんな経験がアナタにもあっただろ? それと同じで、」
「ねえよ」
「え、ないの?」
途端に現れた眉間の皺で、ハンジは自分が間違えたことに気付いた。
今の例えはハンジにこそしっくり来るものの、そんなに共感を得られるものではなかったらしい。
「うーん……」
難しい。
今のような『巨人』や、彼が「豚ども」と呼んで憚らない『貴族』への"嫌悪"を例えに出した場合、珍しく良さそうなリヴァイの機嫌が不味くなる可能性は高い。
では、大切な存在への好意を引き合いに出すとしたら?
彼と家族の話はしたことがない。なんとなくやめておいた方がいいだろうと判断できるくらい、二人のあいだで話題にならなかった。
そうなると……、
「──好きな人を連想する物を見ると、ドキドキしない?」
「……物は物だろう」
(だめか)
愛だの恋だの、とっても個人的な経験に基づく感覚の話をリヴァイとしようだなんて無謀だっただろうか。
「本気でわからない」という顔の彼に淋しさを覚えてしまい、覚えた己の身勝手さを自嘲する。
リヴァイとハンジしかいない部屋の、けれどサラリと乾いたままの空気が、ふわふわと浮かんでいたハンジの心を少しだけ落とした。
やめようやめよう。この話は終わり。リヴァイには悪いが、経験しないと理解しにくい心の動きである。
はぐらかして散らしてしまおう。
「……実を言うと私ね、紅茶がとっても好きなんだよ!」
「は?」
ハンジがことさら明るく告げた台詞にリヴァイは眼を丸くした。
その驚愕の表情も初めて見るものだった。低い声で「初耳だ」と呟きが漏れるなんて、さらに。
話の急な転換よりもそこに心底びっくりしているらしい。
……だってリヴァイ、貴方は紅茶が好きだろう? と続けようとした女々しさを叩き潰して、ハンジは図々しさを押し出しながら続けた。
「ねえ、紅茶が飲みたいな。淹れてくれない?」
「……しょうがねえな」
小さく舌打ちをして立ち上がった彼が顰め面で手を伸ばしたのは、普段滅多に開けることのない戸棚の、値が張る紅茶葉の缶だった。
向けられた背中を見ながら、ハンジは思う。
眼が離せなくとも、離さなければ生きていけない。
ハンジと、ハンジが見つめてしまうリヴァイは、そういう場所で生きている。
生きのびて、彼の新しい何かを知るたびにリヴァイに惹かれて。けれどリヴァイにだけ視線を据える勇気は持てないから。
彼にまつわる全てに恋してしまいそうで、少し怖かった。
**
「あちっ」
「んな急いで飲むからだ」
「紅茶は熱いうちに飲めってどこかの誰かに言われたからねー。ああでも駄目だ、熱い」
ふう、ふう、と息を吐く少しだけ尖った唇に目が行くのは、リヴァイにはもうどうしようもないことだった。諦めるくらいにはこの情に身を焼かれているが、鈍で純な女が知ることはない。
他のどんなものでも代わりにはならない。
生身のハンジだけを追っていく気持ちを、どうしてこいつは少しも気付かずにいられるのだろう。
強気に部屋に連れ込んでやることといえば並んで読書だし、何かしら適当に(巨人以外の)話題をふってみても、結局全てがハンジのペースになってしまう。
……けれどハンジは、紅茶がとても好きだという。
初めて知る話だったが、悪くない。そう思うと鼻腔を満たす香りが甘くなるから不思議だった。
揺れる琥珀色に口付けるハンジに意識を奪われる。
カップの縁に吸い付く柔さが目の奥を熱くして、リヴァイは内心慌てた。
気を紛らわせるようにつと動かした視線が偶然、ハンジの眼鏡を捉えた。紅茶の湯気にあてられてレンズの汚れが浮かび上がっている。
カップが机に置かれた頃合いでリヴァイはハンジから眼鏡をむしり取った。バンドが後頭部にひっかかり髪の毛を引っ張ったらしいが、知ったこっちゃない。
「いって‼︎ 何するんだよ!」
「黙れ。なんだこの汚れは。この状態で過ごすお前が信じられない」
ハンジが装着するには心もとない気もする繊細な作りのそれを、リヴァイは懐から出したハンカチでそっと包んだ。表面を吐息で曇らせ、強くも弱くもない力で滑るように汚れを拭っていく。
レンズに皮脂汚れの凭りもなくなると、今度は弦を磨き、鼻当ての部分を布の角で擦る。
リヴァイは無意識に集中していた。
立体機動装置の点検をする時と同等か、それ以上に。
壁の外から戻ったハンジの血と泥で汚れた手を、優しく拭った時のように。
そこで、はた、と気付いた。
「……」
「……んー? どうかした?」
「……なんとなくわかったぞ」
「何が?」
「そういう意味だとな」
〈了〉
(初出 17/07/31)