もの食う人々 …原作/一緒にご飯を食べる話
もの食う人々 …原作/一緒にご飯を食べる話
ハンジにとって、食べることは失うことだった。
したいことがある。大量に。
考えたいこともある。膨大に。
ハンジは、ハンジ自身の欲求を正しく捉え、それらを満たすためだけに走りたかった。だから一日だって食事を抜かすとしくしくと腹を鳴らし、ついには体全体を使って空を訴えてくる食欲というものが大嫌いだった。
つねに走り続けなければ存在価値のない自分を、引き止め、座らせて、無理矢理ものを食わせようとする。
そうする時間だって惜しいのに、だ。
睡眠はまだいい。元々眠ることにあまり時間を必要としない体質だったし、熱中すればある程度は無視できる。
眠った後の記憶の定着率も良くて、行為の還元をすぐに感じることができる。
なのに、『食事』ときたらどうだ。
時間も食料も労力も失って、後に残されるのは腹が満ちて頭も身体も鈍重になった、ただの動物だ。
ハンジにとって、食べることは失うことだったのだ。
ずっと。
「見るな」
ハンジの視線に堪えかねたのか、リヴァイが顔を上げずに言った。
周囲の喧噪に紛れるほど小さな声だったが、正面からリヴァイに目を据えていたハンジには難なく読み取れた。
創業からこれまで昼夜問わずに油を染み込ませてきただろうテーブルは、飴色に光りながら白いプレートに飾られた料理を引き立てている。
例えそれが、芋を捏ねくりまわしたものでも、野菜の切れ端を放り込んで賑やかにしただけのスープでも、焼きたてのパンでも。
リヴァイの前に広がるいくつもの円はどれも輝いて見えて、ハンジは思わず目を細める。
「おい、ハンジ。見るな」
「どうして?」
再びかけられた台詞にリヴァイの戸惑いを感じ、ハンジは頬杖をやめて問いかけた。
「気になるだろうが」
「不快だったかい?」
「そうじゃない」
パンをちぎり、スープに浸し、よく汁気をきって、速くも遅くもない手際で口に運ぶ。目線は食べ物に固定されているが、その意識は常に外に向けられている。
食べ方ひとつ取り上げてもお行儀がよくて隙がないな、と一連の動作を追っていたハンジは、次のパンの欠片を掴むはずの指が眼前に迫ったところでようやくリヴァイと目を合わせた。
「おわ」
「やめろって言ってるだろ」
「なんだよ、やっぱり嫌だった?」
「そうじゃないと言っている。お前も食え」
言われて初めて、自分の前に並んだ料理を見る。
カトラリーも指も白い皿の縁も、まだ少ししか汚れていない。リヴァイが減らした量と比べても、随分長く目の前の男に夢中になっていたようだ。正しくは、食べる姿に。
苦笑してスプーンを取ったハンジに対し、リヴァイは腕を組んで背もたれに身体を預けた。
「あれ、もう食べないの」
「食べるが、休憩だ」
「なんだよそれ、仕返しかい?」
薄い色の目にハンジを映しながら、リヴァイがゆっくりと瞬きをする。
青とも灰ともわからぬ色の中でこれから自分がものを食べるのだと思うと、ハンジは途端に面映くなった。
「見るなよ」
「聞こえねえな」
「ばーか」
捏ねくりまわされた芋をすくって口に入れ、咀嚼し、飲み込み、リヴァイを見る。
リヴァイも、ハンジを見ていた。
──とても、とても穏やかな顔で。
自分が彼を見る目も、もしかして、こんなものだったのだろうか。こんな風に、彼を見ていたのだろうか。
「……どうして見るんだよ」
そう思うと、聞かずにはいられなかった。
「俺は食うことが嫌いだった」
リヴァイはぐるりと視線をめぐらせた後、まるでハンジには話していないかのように語りだした。そのやり方は彼が照れている時のものだ。ハンジはきゅっと膝頭を揃える。
「生まれたところじゃ、小指の爪程度の食い物ですら奪い合いだった」
「腹が減るたびに思ってたのは『食いたい』じゃなかった。『食わなくてよくなりたい』だった」
ハンジもそうだった。
理由はだいぶ違うけれど。
ずっとそう思っていた。
「食うことには相変わらず慣れねえが」
また二人の目線が合う。今度はおそらく、絡み合う、の方が正しい。
「お前が食うところは、悪くない」
リヴァイはそう言って口を閉じた。
「それって好きってことだろ?」
「……」
「聞こえないよ」
ハンジは少しだけおおげさにパンを掴むとリヴァイよりもいくらか雑にちぎってスープに放った。
黄金の湖面に完全に沈む前に底の野菜くずと一緒にスプーンですくいあげ、わざとらしく口を開けて飲み込む。
「お前は……照れるとすぐ雑になりやがる」
「……」
「聞こえねえな。おい、俺だけ明かすのはフェアじゃねえだろう」
その声色が彼にしてはえらく素直に楽しさを出していたので、ハンジはスープをじっくりと味わうことにした。
(あなたが喜ぶなら、私は食べることを好きになるよ)
ハンジが見つめる理由を伝えたなら、彼は食べることを少しでも好きになってくれるだろうか。
ハンジのために、食べてくれるだろうか。
そうだったらいい。
自分のために欲を満たすことが難しい、そんな二人にはきっとピッタリな方法だ。
美味しい、とこぼした声に、リヴァイがそっと目を細めた。
〈了〉
(初出 16/08/09)