【振り向いて】 …原作/顔を合わせたら最後、な話
【振り向いて】 …原作/顔を合わせたら最後、な話
さあ振り向いて。
片時も目を離さないで。
ヒトの頭部ほどもあろうかという眼球が、右から左の順に、緩慢にハンジを映した。
頭上に生い茂る葉の重なりはいくつも光の筋を取りこぼし、二対の瞳のあいだに横たわる地面をまばらに照らしている。
その距離、約三メートル。
巨体が揺れた。黄色い乱杭歯がカチリとうち合わされ、重量詐欺の足裏が草を踏みなおす。満杯の皮袋よりも歪に膨らんだ腹が、ゆっくりと振り返り、とうとうハンジの視界に姿を現した。
そうだそれでいい。
こっちを向いて。完全に。
意識のすべてを私にくれよ。
射出。巻取。噴射。
立体機動にまつわるあらゆる音が、ハンジと、ハンジが対峙する巨人の周囲を激しく旋回する。
「——…!」
名を象る叫び。悲壮と焦燥。ハンジから生じる以外のものは、その瞬間、すべてが膜を隔てた場所にあった。
巨人が地面を蹴る。死と同義の一撃が肉薄する。
応えるために、ハンジは全身に力を漲らせた。
壁外拠点の夜は、ともすれば兵舎でのそれよりも明るく騒がしい。可視範囲を広げるための大きな火は一晩中絶えることなく、兵士たちは厳密に定められた休憩時間に追われて慌ただしく寝床を出入りする。
「リヴァイ!」
追いかけた背中は、呼びかけにも歩みを止めなかった。ハンジもハンジで、特段気にすることなく彼の背後に続く。無視ではなく相手の出方を窺っている反応なのだと、リヴァイのそういう性質に兵団内でいち早く馴染んだのはハンジだった。
「……何か用か」
わざと黙ったままでいれば、意外に短気な彼が結局は先に口を開いてしまう可笑しさにも、ハンジはもう、胸の内で密かに微笑むことさえできるのだ。
「今日は助けてくれてありがとう。君が来てくれなかったら、私は今ごろあの子の胃袋の中だったろうね。泳ぎは得意じゃないから助かったよ」
リヴァイは振り向くことも止まることもせず、ただ拠点の最も外側にある見張り場を目指していた。遮蔽物のない平原に向かって開かれたそこは、精鋭の兵士たちが代わる代わる、朝まで緊張を繋がなければならない地点だ。
「お前を助けたつもりはない」
「うん。でも、結果的にね」
「そうじゃねぇよ。お前、わざと下に降りたんだろう」
下。つまり、地面だ。
調査兵が巨人を前にして靴の裏を土で汚すことは、即ち死を意味する。
敢えてそこに踏み込んだ愚行を言い当てられ、ハンジは前触れもなく頸動脈に触れられたような気分になった。
数時間前、捕食者の目の前で身を竦ませた部下を救出するために、ハンジは自らを危険に晒した。その目論見をリヴァイは正確に汲みとり、雷に似た速さで巨人の前に躍り出た。
横たわる場所までも計算され、刃の旋回とともに皮を剥がれ、じっくりと削がれて無力化された巨体は、倒れ伏してまもなく空気に溶けた。
部下は助かり、彼の刃が閃いた時点でハンジもまた「役目は済んだ」と思考を切り替えていた。
しかし拠点に帰投したハンジを待っていたのは、腹心の班員たちによる涙交じりの「肝を潰した」という訴えだった。
最初から最後まで、ハンジが囮役を買って出ていたことを、あの場にいた兵士たちは誰一人気づいていなかったのだ。──リヴァイを除いて。
彼らとの意思疎通が叶わなかった事実はハンジはいささか消沈させた。
仲間の協力を必要とする策が、よりにもよってその仲間に気づかれなかったのなら、それは結局、過ちとしか見られないだろう。
「……うん。でも、結果的にね」
自嘲を込めて同じ台詞を伝えれば、リヴァイの髪が小さく揺れた。「そうじゃねぇよ」と、やはり同じ台詞を伴って。
「俺が思うに、獲物への接し方にはソイツの〝色〟が出る」
「え?」
突如始まった講釈に、ハンジは足を止めそうになった。が、少しでも離れれば闇へ沈もうとする姿に、慌てて動きを再開する。
「なに、どういう意味? 色って何?」
「てめぇは本当にこっちを向けこっちを向けと喧しいな。俺の気を引こうとする分には可愛いもんだが、巨人相手にまでやるなら話は別だ」
「は……」
さあ振り向いて。
こっちを向いて。完全に振り向いて。意識のすべてを私に向けて。
片時も、目を離さないで。
リヴァイの言う『色』、つまり男女の情に照らし合わせた言葉を理解し、さらにそれをリヴァイに指摘されたのだと気付いた瞬間、ハンジは恥で血を沸かしそうになった。頬が熱くなる。
「あっ……え? 私そういう、」
生まれたばかりの自覚はあっというまに大きくなり、言いがかりだと反論する余地を潰してしまう。リヴァイの入団から今日まで、ハンジは一体、何度彼の背中を追ったのだろう。数え切れないほどだ。彼はその無意識の思慕のすべてに対して、知らんぷりしていたというのか。
体のあちこちに汗の湿りを感じ、ハンジは掠れる羞恥で「リヴァイ、酷い」と囁いた。と、近づいた見張り場に目をやったまま、リヴァイが静かに口を開く。
「酷いのはどっちだ。人に嫉妬させて血を被らせるようなことをする」
「……え?」
「ハンジ、俺は息の根が絶えるまでじっくりと味わうのが好みだ」
今度こそ足が止まった。それも二人分。
汗の予感がひいていく。かわって肌が熱を溜めはじめる。
拠点中央と見張り場を渡す短い暗がりの中にいる二人は、きっと誰の目にも留まっていない。リヴァイの気配だけがハンジの空気を揺らしている。
なのに、彼は振り向かなかった。
──リヴァイがこうやって、ひと時も目を合わせてくれなくなったのはいつからか。肩を並べる事は躊躇なく行うくせに、見据える先にハンジを置かなくなってから、そういえば、とても久しいような気がする。
「次に俺が振り向く時は、覚悟しとけよ」
一人分の足が、さく、と再び草を踏んだ。
ハンジは止まったままだった。かけられた言葉の意味を正確に理解し、咀嚼し、だからこそもう、追いかけることはしなかった。
なぜって、彼が意外と短気だということを、ハンジはよく知っていたからだ。
前を行く足音に耳を澄ませる。
次に彼が振り向き、その音が再び近づいた時、残像だけの心臓は執拗に嬲られ、ゆっくりと動きを止めるのだろう。
巨人の胃袋に収まるよりもはるかに幸福なその終わりを、ハンジはひっそりと、心待ちにするのだった。
〈了〉
(初出 15/11/27)