ムーンセット・キングダム …原作/二人だけの王国の話
ムーンセット・キングダム …原作/二人だけの王国の話
「不思議だ」
頭の天辺から足先まで、どこにも力の入っていない姿勢で、ハンジは天を見上げていた。
「星の位置は壁内から見た時と〝ここ〟とで変わるだろうけど、それはあくまで観測地点の移動によるものだ」
眼球をどこに動かしても、認知できるのはただひたすら天の光、──すべて星。
まだらに色づき煌めく夜空を見つめ、濃度や明度の違いが日ごとに変化することを知った時、子どもだったハンジは初めて「あれは絵ではなく空間なのだ」ということに気づいた。
「私がどこにあっても、空は空として遥か頭上に存在しつづけているんだ。……そんでもって」
起き上がり、瞬きをすると、視界を占めていた黒が違う黒へ成りかわった。
眩しくもないのに目を細める。
「この馬鹿でかい水溜りも空と同じだということか。海が水溜りなのではなく、この土地が空における星である、と……」
あの感動から二十年以上経った今になって、こうしてまた、脳が拡げられる感覚を味わうとは思わなかった。
「——それで、その海を夜通し眺めてりゃ、敵を迎え撃つための名案でも生まれるのか?」
「いいや。これは純粋な好奇心から起こる思考だから、実用的なことには何一つ結びつかないよ」
両手を後ろについてぐっと頭を逸らすと、先ほどまで光で溢れていた場所の一部が、よく見慣れたシルエットに黒く切り取られている。星と違って手の届く距離からハンジを見下ろしていたのは、壁内を出立してからというもの、ハンジが団長であるあいだは一度もそばを離れようとしなかった男だった。
「何時だと思ってるんだよ」
「何時なんだ?」
「ええと、」
懐中時計を開き、思わず眉間が狭くなる。
「四時だよ、朝の四時! 何してるんだい、こんな所で」
こんな所、と強調してしまった裏に、ふてくされる気持ちがあったのは否定できない。
『海』を目指す調査兵団遠征隊は、早朝に最後の拠点を出発し、昼過ぎにようやく自分たちが生きる地の淵にたどり着いた。現れた光景に驚き、興奮しているうちに陽はすぐに傾きはじめ、遠征隊は大慌てで拠点の作成に取り掛からなければならなかった。
足りない薪を探している最中、壁内では見たことがない低木の群れの奥深くに、ハンジは偶然水の煌めきを見つけた。その時は背後から名を呼ばれてすぐに戻ってしまったが、テントの中で眠りにつこうとしたところで、瞼の裏でチカチカと瞬く光に急き立てられ、結局テントから這いだす他なかった。
そうして砂を蹴り、木を潜った先で見つけたのが『こんな所』──ハンジが全身を預けている浜辺だった。
「さっきからイチイチ代弁してもらって悪いんだが……『何時』も『こんな所で』も『何してる』も俺の台詞だ」
柔らかい砂に両足をまっすぐ立てたまま、男はハンジを見下ろして言った。声の調子も、視線も海風のように涼しく、あくまでハンジが立ち上がるのを待っている様子だった。
「見て」
ハンジは頭を戻し、二人の前に伸びる暗い海岸線を指さした。太陽をすっかり飲み込んだ線が、けれども「線である」とわかるのには理由があった。そのすぐそばに海面を照らす光──月があるからだ。
四分の一ほど欠けた白い珠が、ゆっくり、海に近づいていた。
「月没は一日に約五十分ずつズレていって、大体一ヶ月で一サイクルを終えるんだ。今日だと四時過ぎから四時半にあたる計算になる」
ハンジは指先で空の月をくるくるとなぞった。
「数時間前、人生で初めて海に沈む太陽を見た。だから次は海に沈む月を見たいと思ってるんだ。そのあと海から昇る太陽を見て、あと数日経てば今度は海から昇る月も、」
「ハンジ。テントに戻れ」
口を閉じる。
彼がこうしてハンジの言葉を遮ることが、いまだかつてあっただろうか。ちょっと記憶にない。遮られる必要があったとも思えない。
どうして今日は違うのだろうか。今日だけなのだろうか。それとも、これからずっとなのだろうか。ハンジが新しい役職に身も心も溶かしてしまうまで、ずっと。
今日、初めて海を見た時。
驚き、興奮し、……ハンジはそして、密かに恐怖した。光と色と臭いと音と、氾濫する情報を前に目眩を起こしそうになり、足元に焦点を合わせるしかできなかった。
遠くを見つめて、そこにいるはずの敵を確かに感じ取ったエレンと違い、そうすることしかできなかったのだ。その背中に、リヴァイは何を思っただろう。
この浜辺は、昼間の海ほどハンジを脅かさない。
黒々とした陸地が、両腕でゆるく抱きしめるように海を囲んでいて、天体に似たその途方もなさを制限している。
これが本で読んだ《入り江》という地形なのだろう。音を聞く限り、内側の波の動きも穏やかだ。もしも海を渡る船を得たなら、ここから──
「……」
頭を振る。
今日は嫌だ。
今日だけは、拡がった世界を純のまま受け取りたい。怯えた自分を許したかった。
「リヴァイ」
上半身だけで振り返り、敢えてきつく彼を見上げる。
「先にテントに帰ってくれ。私は大丈夫だから」
瞳をハンジに合わせたまま、リヴァイの目蓋が限界まで閉じられる。その視線はもはや、見下げる、と言ったほうが正しい。
「絶対明日には響かせない。頼む……今は、」
遮られるのを恐れて早口になる。舌がもつれ、焦り、ハンジはぎゅっと手元の砂を握った。
「……私、今は、〝団長〟になれない」
すぐ近くで砂を潰す音がして、気がついたときには、鼻先に彼がいた。襟ぐりを掴まれる感覚があり、叱責が飛んでくるのかと身構えたハンジは、けれど視線が合わさった瞬間、打たれてもいない頬を熱くした。
リヴァイの眼には光が揺れていた。天の星とも海の乱反射とも違う、腹の底についた火が内側から眼球を舐めているような、そういう光だ。
ハンジはその瞬きをよく知っていた。まだ二人の背後に誰もいなかったころ、密かに分け合って、共に燃えて、いつしかどこかに置いてきてしまった火だ。
「っ……」
無意識だった。近づく唇を、ハンジの手指が覆い隠す。
月日を重ねた掌は、それと同じだけ責任を握り込んでいた。
リヴァイの目がもう一度細まり、ふ、と拘束がなくなった。
彼はそれから、安堵か、それとも落胆で息を吐くハンジを眺め、口元を抑えたままの制止に目を移した。骨の目立つその手首を掴み、静かに立ち上がり、ハンジの腕が伸びるギリギリまで手を引き寄せる。
「リヴァイ?」
不意に、ハンジの手の甲に顔が近づく。そうして、見た目からは想像もできないほど熱を持った唇が、荒れた肌にじわりと押しつけられた。
服従を示すかのように、切実に。
「沈むぞ」
言われるままぼんやりと視線を滑らせれば、彼の言うとおり、月が空と海の境目に潜っていくところだった。
「日が昇るのを見たら、すぐ帰るからな」
「……うん」
リヴァイは何事もなかったかのように、砂の上に尻をつくハンジのそばに立っていた。
相も変わらずまっすぐな脚と、涼しい眼差しで。ハンジの手を、強く握ったまま。
ここが境界線だ。
言わずとも、たぶんお互いにわかっていた。
見下ろしながら服従を誓った彼は、日の出とともに兵士の光を取り戻すだろう。膝を折らせることなく支配したハンジも、本当はもう、次のことを考えずにはいられない。
この入江は、いずれ戦いの場に塗り潰されるだろう。真実を知った人類は、一つなぎの海の上にさえ、点在する敵の数々を意識しなければならないのだから。……それでも。
月に呼ばれた太陽が、顔を見せるまでのあいだ。
確かにそこは、二人だけの王国だった。
〈了〉
(初出 15/11/27)