ウソカエ …巨中+原作/嘘に替えたかった話
ウソカエ …巨中+原作/嘘に替えたかった話
かえましょう。かえましょう。
その身に起こった悪いこと。
すべてを嘘にかえましょう。
「あげる!」
「は?」
この季節の昼夜のあいだは、瞬きもできないほど短い。そして太陽を失った空は、閉じた目の内側よりも暗い。だから道を見失う前に、リヴァイはハンジを伴って帰路を急いでいた。
伴うと言ったって、特段、隣にいることを約束し合っているわけではない。ただ帰る場所が同じで、ハンジが何かしでかした時にリヴァイの力を求められることが多いため、つるむ機会が多いだけだ。
そしてそのたくさんの機会の中で、ハンジが何か突拍子もないことを言い出したり、得体の知れないものを手にしているのはいつものことだった。
だからその日のリヴァイも、目の前に差し出された掌の上に乗る、小さくて不格好な木の塊を眺めて、いつものように口を開いた。
「一応聞くが、巨人に由来するものじゃねぇだろうな」
「そうだったらあげないよ」
「そうだったら要らねぇから安心しろ。……で、何だこれは」
「知らない? 鷽替の儀式」
「ウソカエ?」
前を歩いていたハンジが、得意げな顔を作ってリヴァイの隣に並ぶ。
「神社で行われる神事のひとつだよ。鷽(うそ)っていう鳥の木彫りを互いに交換して、去年一年間にあった悪いことを嘘と取り替えるんだ。そうすると、今年一年いいことがあるんだって」
「じゃあ、もしかしてこれはその鷽っていう鳥か?」
ハンジの手の上の木彫りを改めて観察すると、確かに鳥のような目や羽の模様が入っているーーように見えてくる。教えられた知識を反芻しながら、リヴァイは半ば呆れた気持ちになった。
「〝ウソ〟と取り替えるから鷽替か。駄洒落かよ」
「言葉遊びだよ! 祭り事と言霊の密接な関係が窺えて面白いじゃないか。というわけで、あげる」
「いらねぇよ」
どうして?、と首を傾げるハンジの輪郭が、薄暮にぼやけていた。夕刻の色はあっというまに黒ずんで、すぐに闇が辺りを包むだろう。灯りのある所に急がねば、手の届く距離さえ心許なくなる。
おしゃべりなんてしてないで、さっさとハンジを連れて明るい場所へ帰りたい、とリヴァイは思う。
「俺の分の鳥がねぇんだから、交換にならないだろ」
「リヴァイは渡さなくていいんだよ。もともと嘘なんてつかないんだし」
自信満々に言いきられて、そんなことはない、と否定しそびれた。おまけに、ハンジが足を止めて「私に起きた悪いことは嘘になんてならないし」と呟いたものだから、リヴァイは思わず振り向いていた。先ほどまですぐそばにいたはずのハンジが、なんだかずいぶん後方にいる。
「……なんだと?」
「リヴァイ、これ本当に要らない?」
ハンジが、路地の真ん中で突っ立ったまま、掌だけをリヴァイのほうに伸ばした。そこには最初と変わらず小さな木彫りの鳥が鎮座していて、どうしてかその部分だけ、細やかな木の目の流れまで目につくほど光をまとって見える。
手が引き寄せられる。リヴァイの意思とは関係なく。いや、意思に先行しているのかもしれない。ハンジの鷽は、リヴァイの望みのずっとずっと先にいて、リヴァイをそこで待っているようだった。
「手にしたなら、誠実なあなたに起きた『悪いこと』は、すべて嘘になるよ」
「『悪いこと』、なんて……」
ハンジの顔は、その目や鼻や口の一つ一つさえもはや見えなくなっていた。発せられる声とぼんやりと浮かぶ像だけが、そこにあるのがハンジであることをリヴァイに教えていた。
爪先を進めようとして、けれど何かに押し返される。体のまわりが水に満たされたように空気が重くなり、リヴァイの前進を拒む。
ハンジ、と呼んだはずの声が、どこかに消えた。早く帰ろう、と続けた空の言葉に、頷き返す気配だけがあった。
リヴァイは無我夢中で手を伸ばした。
「ごめんね、リヴァイ。私の嘘に巻き込んじゃって」
ハンジの声が、すぐそばから聞こえた。痛々しさを含んでいて、なのに、もう何もかもを覚悟した声だった。
「……なんでもいい、が」
指が木彫りに触れる。リヴァイはそこを通り過ぎて、ハンジの手ごと鷽を握り込んだ。
「隣を離れるなよ」
お前、俺がいないとダメになるだろ。
かえしましょう。かえしましょう。
この身が願う悪いこと。
すべての嘘をかえしましょう。
そして〝ここ〟に帰りましょう。
残酷で美しい世界にこそ、あなたの誠実はあるのだから。
まったくもって腹の立つことに、事を起こしてから収束させるまで、ハンジは徹頭徹尾怪我もなく五体満足だった。
骨の一本でも折っていれば少しは立ち上がる気力も挫けただろうに、目覚めてすぐに指先まで何の問題もなく走る神経を確認して、立ち止まれない己の強運を嘲笑う。
対して、彼ときたらどうだ。
「……やあ、お隣さん」
どうやら暴流に揉まれていたあいだもハンジが胸に抱いて離さなかったらしい男は、血塗れの顔の中で目蓋を閉じていた。口元に手をやれば、かろうじて吐息が掌をくすぐる。
「生きてる、けど……散々な姿じゃないか……」
川から引き上げた体なんて、流れる血が濡れた衣服に滲み、彼の嫌いな泥汚れと相まって悲惨な色に染められている始末だ。
これほど小さな体躯を、一体誰が人類最強なんて呼び出したんだか。
草叢に倒れ込み、傷に触れないよう冷たい体に寄り添い、ハンジはじっと彼の横顔を見つめた。
満身創痍の肌は、熱を取り戻すのももどかしいほどゆっくりだ。
「こんなになっても、〝ここ〟に帰ってこようというんだから……本当に、貴方って人は……」
静謐な横顔が、あの一瞬の夕焼けの中に消えた、年若い彼を思い出させる。
嘘のような夢だった。
夢のような嘘だった。
ハンジの願いに由来したあの世界が、叶う瞬間が訪れることは、きっと一生ないのだろう。
それでいい。彼は逃げることなど望まない。
嘘で作られた幸福は、リヴァイにとって『悪いこと』でしかない。
交わした言葉だって、嘘にした夢だって。全部ハンジだけのものでいい。次に目覚めた時、彼がすべてを忘れていればいい。
「でもせめて、……私の知らないところで、死なないでくれよ」
すぐに動くべき時がくる。
彼もじきに目を開けるだろう。
夢の背中を見送りながら、いつ握りあったのかもわからないリヴァイの手を、ハンジはそっと繋ぎなおした。
〈了〉
(初出 20/04/02)