惚れた弱みというやつは …原作/そんなところも愛しい、という話
惚れた弱みというやつは …原作/そんなところも愛しい、という話
「やめろ」
強すぎる、と思える語調だった。
驚いて顔を上げると、感じた強さをそのまま打ちつけたような表情でリヴァイがこちらを見下ろしていた。
閉じるのを忘れた口端から、つ、と唾液が伝い、渋面が舌打ちを重ねる。
(これは拗れるな)
察知したハンジは素早く体を起こした。
『場の空気が読めない』なんて指を差されることもあるハンジだが、他人の表情筋の動きには存外聡かったりもする。ただ、聡く気付いたそれに対して、対処すべきか否かの線引きが後者に寄っているだけのことだ。
一個人の心情をその場全体の空気にすり替えて「斟酌してくれない」などと文句を言う輩のために、知りたいことや突き詰めたいことを半端に投げ出すなんてことはしない、そう決めているだけの話。
ただし。
裸でこの男と睦み合う場合は、少しだけ違う。
「ごめん。気持ちいいかと思ってたんだけど……嫌だった?」
口元をぬぐい、静かに訊ねる。正面から捉えれば何も言わずに逸らしてしまう人だから、体は斜めに、伏し目がちに相対し、注意深く観察する。
リヴァイは顔面をそのままに、じっと黙ったままだった。拒絶のための無言ではなく、伝えたいことをどう伝えるべきかと考えている故のものだ。たぶん。
ハンジは目線を下に落とし、観察対象を今の今まで咥えていたそれに移した。人より大きな口の舌や唇を精一杯使って愛したつもりのそれは、持ち主が「やめろ」と拒んだ今も固く太く熱りたっている、ように見える。
何が不満だったんだろう。別の部分が不快だったのかな? 眼鏡が当たって痛かったのかも。
「お前が、」
答えのない問答をぐるぐるとこね回しはじめたところに、ちょうどいいタイミングでリヴァイが声を発した。
「ん?」
「商売女みてぇな真似すんじゃねぇよ」
真っ先に思ったのは、「わっかんないかなぁ」だった。
リヴァイは王都の地下街で生まれ育ったと言う。それ以外のことをハンジは知らない。知らないままでも、別にいいと思っていた。
彼の生まれも育ちもその類稀な才覚に直接的な結びつきがないらしいとわかったあとは、過去の仔細までを突っ込んで明かすこともしなかった。
ハンジの知りたいことも突き詰めたいことも、リヴァイの〝現在〟に向けられている。それだけで容量がいっぱいになってしまうのだ。
今だってそうだ。リヴァイの発した『商売女』という響きに含まれる、何らかの蔑み……あるいは悲哀の、その由来までを遡るつもりはない。
ただ、ハンジとリヴァイのあいだに横たわる今日これから先の、この行為の認識だけを変えたい。それだけでいい。
「わっかんないかなぁ」
意図して、強く声を放り投げる。リヴァイのそれを打ち消すために。
「商売女が何を指してるのか知らないけど、あいにくこっちは好きでやってるんだよ」
寝台の上に投げ出されていた男の脚を叩き、そこに頭を置いて寝そべると、てらてらと濡れて立ち上がったままの欲望の向こうにリヴァイの呆気にとられた表情が鎮座する。なかなかに酷い光景だったが、これがハンジの腹の中を疼かせるのだからどうしようもない。
「あなたの持つもの全てに触れたい。味わいたい。五感すべてであなたを感じたい。そう願ったからやったんだ。そうじゃなきゃわざわざ時間を割いてここに留まることすらしないさ」
言葉を繋げるにつれ、うっすらと上気していたリヴァイの頬がさらに血を昇らせるのがわかった。喜んでくれている、と弾む心の裏で、そんなことにも気付いてなかったのか、という落胆も感じる。
「嫌なら嫌で構わないけど……私があなたにとって少しでも特別な位置にいるっていうなら、勝手な感傷で私を貶めるのはやめてくれよ……」
リヴァイの体の横をまさぐって、力をなくしていた腕を取る。指の一本一本の先に口づけ、掌を頬にかぶせ、染み込んできた安堵に目蓋を下ろす。悲しいのに、惚れた男の熱に触れている限り、ハンジの一部は幸福を得てしまうのだ。
「……嫌なわけじゃない。よくなかったわけでも、ない」
閉じた目の向こうで、リヴァイがそう囁いた。随分弱々しいそれに、勝手な寂しさを抱いていた心が今度は不安に震える。ハンジはすぐさま視界を開く。
「無理してない?」
「俺にもっと酷い男になれってのか」
リヴァイはしばらく、ほぼ無に近い表情の下で激しく逡巡したあと、諦めたように言った。
「顔が見えねぇから……嫌だ」
「カオ?」
今度はハンジが呆気にとられる番だった。石が来ると身構えていたところに、花を投げられたようなものだ。
「え……顔? 私の? 舐めてるときの?」
「……」
ここにきて無言を貫こうとするリヴァイに、感情をあちこちへ振り回されていたハンジは少しだけ腹立たしい気持ちになった。仕返しのつもりはなかったが、いまだ硬度を保ったままのそれに顔を近づけ、許可を得る前に口に含み直す。
「っ……」
繋いだままの手がぎゅっと力を込める。けれど、どこも振り解かれはしない。渋面はさらに険しさを増していたが、ハンジの眼はそこに易々と悦楽を見出した。
まったくもって言葉の足らない男だ。まともなフリして、手のかからない顔をして、溜め込んだ何かの断片だけに触れさせるようなことをする。
ハンジは彼に狂っているのだ。
だからこうやって見つめて、感じていたい。線引きだって、彼に寄っていたい。
せめて兵服を脱いで、この地上に足をつけていないときだけは。
「あ、これはちょっと、……恥ずかしいな」
舐めにくい、うまくできなくなる、という感想以上に、視線を合わせながらの口淫は予想外の羞恥をハンジにもたらした。対してリヴァイのほうはというと、噛み締めた歯の合間から荒い息遣いを溢し、常は鋭い視線を一秒毎に溶かしていっている。
「お前……俺のモン咥えてる時のツラが、一番いやらしいな」
「んっ……それ、褒めてるつもりなの……?」
そうは聞こえない言葉さえハンジの女を震わせるのだから、まったくもって。
〈了〉
(初出 19/11/04)