不達の距離 …原作/近くて遠い差の話
不達の距離 …原作/近くて遠い差の話
「自分より背が低い男ってどう思います?」
後になって思い返すまでもなく、ジャンはその質問を発したそばから『なに阿呆なこと言ってんだ』と後悔した。
質問の相手が直属の上司である兵士長ではなく団長のハンジ・ゾエだったのは不幸中の幸いであったが、それでも『なんでよりによって』が薄れたのはほんのちょっとのあいだだった。
「ん? 機動性の話?」
「あ、いえ……。今のはちょっと、口がすべっ」
「待てよ、それなら〝男〟に限定する必要はないか」
言い訳は当然のごとく間に合わない。
「〝自分より〟を頭につける必要もないな。兵士としての能力についてではなく一般的な……見た目の印象についてってことかい?」
「や、あの、それは、」
(なんでよりによってこの人に訊いちまったんだ)
立ち上がりから一度は水平に戻った後悔が、ハンジの返答を機に再び上昇をはじめる。
「他意はありません。勤務中にすみませんでした」
「別にいいよ。彼女に行く先を示すくらいしか今はしてないしね」
手綱が軽くたわんで、彼女──ハンジの馬の艶のある首に映えた。よく馴染んだ路を街から街へ歩く二人と二馬には、話題を変えられるだけの何かも降ってきそうにない。ジャンは路横に伸びる淡緑の野原に視線を逃し、すぐに諦めた。ハンジの右眼が完全にこちらを向いていたからだ。
「他意はなく、一般的に、私より背の低い男のことをどう思うか君は訊ねているんだね」
「……はい……」
ジャンのか細い肯定を受けると、馬の頭一つ分前を行っていたハンジは正面に向き直り、考え事を引きずっている調子で答えた。
「私は『私より背が低いな』としか思わないけど……そういう訊き方をするってことは、比較対象となる他の意見をすでに聞き取り済みなのかな?」
たしかに一般的な女性は自分より背の低い男を魅力的だとは思いにくく、男も男で自分より背の高い女に魅力を感じにくいだろう。けれどジャンは首を振った。
「や、比較とか大げさなものじゃなくて。ただ……」
ただ、エレンの背が伸びた、と。
きっかけはそんなことだ。
不揃いの黒髪の先の少し下にある、女の──ミカサの肩。それと並ぶ位置にあったはずのエレンの肩が、少し上にあがっていたとか、その程度のこと。
ジャンは二人を、数歩離れた後ろから見ていた。ミカサはエレンの目を追って頤をわずかに上げていた。見返しもしない目を追って。きっと、見上げるようになる遥か以前からそうしてきたように。
その時、ジャンはふと思ったのだ。
(女って)
自分より背が高くない男でも、好きになるんだな。
「君らの世代は街に住む子供たちのほとんどが兵士になってるけど、以前はそうじゃなかったから」
前方に飛ぶハンジの声に引き戻され、一般的どころか一人の女を思い浮かべていたジャンは慌てて手綱を握り直した。
「はい?」
「壁の崩壊以前はね、兄弟数の多い農家の口減らしだとか、街に住んではいても何らかの理由で普通の職につけそうにないとかで、世間からあぶれて兵士になろうとする人間がほとんどだったんだ」
「はあ」
知らないうちに始まっていた昔話は、ジャンが身をおく世代を一つ遡ったものだった。兵士という職が意外にも敏感に世相を反映していることを知ったのは、当の兵士になって渦中に巻き込まれてからのことだ。
「と言っても税金で飯を食うわけだから、誰でも兵士にするわけにもいかない。体格に恵まれない人間は訓練兵の段階で容赦なく蹴落とされるし、今よりもまだ食料は豊富だったから必然的に大柄な兵士が多い時代だった。というわけで、」
右眼がまた、くるりとジャンを振り返る。
「私より背が低い男なんてそうそうお目にかかったことがないんだよね。だから意見としては参考にならないと思う」
(あ、そこに着地すんのか)
話が長くなりがちのハンジだが、話が通じない人間ではない。
彼女なりの理由も述べた上で意見を締めくくってくれたことに気がついたジャンは、迂闊な質問から己の本意が暴かれなかったことに安堵した。安堵し、
「でも兵長は低いですよね?」
「リヴァイ?」
「あ」
緩んだ脳で、またも余計なことを口走ってしまった。腹の底ではあながち興味がなかったわけでもなかったので、沸き起こった焦りも言い訳を紡げないほどになる。
「リヴァイ、リヴァイね……初めて会った時はやっぱり『機動性が高そうだな』としか思わなかったはずだけど」
ジャンがまごつくあいだに、雑に結われた髪が右に傾き、記憶を探る様子を見せる。
「でもそうだ、一度口論になったことがある。何かの時にリヴァイに『見下ろすな』って言われて、『君の背が低いんだから仕方がないだろ』って返しちゃってさ。彼はどうやら自分の身長のことで卑屈になっているらしくて、そんなつもりはなかったんだけど自尊心を傷つけてしまったんだ」
人類最強の剣幕と拳に打たれたことのある身としては背筋が凍る話であるが、目の前の人は物ともしないのだからさらに恐ろしい。
「それからは私なりに気を遣ってるんだ」との追い打ちを聞きながら、ジャンは傷つけられた自尊心にも思いを馳せてまとめて震えた。
「じゃあ、ハンジさんは兵長の身長に対しても何とも思ってないってことですね」
街の壁は、いつのまにか間近に迫っていた。きっかけから随分逸れてしまった話題を収束させるべく、ジャンは近づいてきた背中にそう確認した。歩みの緩んだ二頭の馬が、シガンシナの内門の影に飲み込まれようとする。
「——よかったと思ってるよ」
「え?」
前を行く片方の馬が、薄い闇に鼻先を浸した。
「彼の背が低くて、私と並ぶたびに卑屈になってくれて、よかったなって」
「ハンジさん……?」
先に街への境界を踏んだ彼女が、肩越しにジャンを見た。今度は左眼で、だった。
「そうじゃなかったら、あの人、きっと今よりもっとモテちゃってただろ?」
**
「ジャン、ご苦労だったな」
兵団支部の馬房に足を踏み入れようとしたジャンは、かけられた声に一瞬で背筋を伸ばした。正門の反対の方向からゆっくりとやってきたのは、道中話題の中心であった兵士長その人だった。彼はジャンの敬礼を手で制し、「ハンジはどうした?」と次ぐ。
「正門のところでピクシス司令にお会いして、話し込んだまま支部の中に……」
ちらりと後方に目をやると、ハンジの馬を連れてくる羽目になった門兵が頭をかく。
「アイツは……合流してから話す手順だったろうが」
「す、すんません」
「お前のことじゃねぇよ。……オイ、あとは俺がやる。悪かったな」
前もって決めていた予定では、ハンジとジャンが中央からの諸連絡を持ち帰り、待機していたリヴァイと落ち合って支部に報告する手はずだった。
が、未だ調査兵団との溝が明らかな憲兵相手ならともかく、ピクシスに限ってハンジに何かするわけもないと信頼しているのだろう。
門兵から馬を引き継いだリヴァイは特に急ぐでもなく馬房の中に入っていく。ジャンもリヴァイのあとに続く。
「何か変わったことは?」
「ありません。途中の家々も平和なもんでした」
それが返答として正しいかはわからなかったが、ハンジとジャンが辿ってきたのは、数年前までは死を覚悟して踏まなければならなかった地だ。馬上から捉えた風景の中でジャンの目を一番に引いたのは、そんな場所に降り注ぐ安穏だったのだ。
晴天の光に反比例するように、馬房は薄暗さを濃くしている。ジャンの答えを聞いたリヴァイが、その真ん中で目尻を緩ませたように見えた。
「ハンジのやつは煩くなかったか」
「いえ、今回は俺がくだらねぇ話を振っちまっ、て」
「くだらねぇ話?」
三度目の緩みを後悔しかけたジャンだったが、頭の隅に閃いた言葉をひっつかみ、そのまま舌に乗せてしまった。少し浮き足立っていたのかもしれない。
「ハンジさんの好みの男についてです」
一瞬だけ置いた間は、リヴァイの反応を見るためのものだった。ジャンは上がりそうになる口角を抑え、横目で上司を見る。そして落胆した。リヴァイの顔が明後日の方向を向いていたからだ。それはもう『興味がない』と言わんばかりに。
「え、気にならないんですか」
「ならねぇな」
「……そうっスか。ちなみに」
「やめろ」
突如、胸に見えない氷柱が刺さる。過去に経験のあるジャンはすぐにそれがリヴァイの威圧であることを察する。
視線も手出しもなく、言葉だけで完全に封じられてしまった。何が逆鱗に触れたのかもわからず冷や汗をかくジャンと無言のリヴァイとのあいだを、しばし寒風が吹き抜ける。と、ハンジの馬が小さく鳴き、リヴァイの肩に鼻先を押し付けた。応える手が空気を緩ませる。
「……少なくとも」
リヴァイは相変わらず背中を見せたままだった。
ジャンはその背中を知っていた。実際の姿形ではなく、秘めたものを滲ませたその絵図を。
そうして、彼女に届かない彼は、窓越しに降る陽の光に投げるようにぽつりと呟いたのだった。
「背の低い男じゃあ、ねぇだろうしな」
〈了〉
(初出 19/09/01)