真偽、矛盾せず …原作/嘘つきが矛盾しない話
真偽、矛盾せず …原作/嘘つきが矛盾しない話
言葉こそ「話が違うじゃねぇか」というなじりではあったが、そこに責めの色を乗せたつもりはなかった。
昨日は「太陽は西から昇る」と叫んだ口が今日は「東から昇る」と静かに唱えたとして、なぜ昨日と言ってることが違う、と怒りのまま問うたとしても、男はただ「事情が変わった」と返すだけだろう。
「事情が変わった」
そらみろ。
エルヴィン・スミスはそういう人間であったし、リヴァイに求められるのも、まっすぐ地面に落ちることはない葉っぱのような状況に、迅速に、正確に着いていくことだけであった。
「クソメガネには」
「伝えてある」
「なんでお前の代わりに俺なんだ?」
そんな問いでさえ、より詳しく事態を把握するためのものにすぎない。
そう、断じて深い意味はない。と、リヴァイは喉に蓋をしたまま言い訳した。
誰に対しての言い訳なのか、そこまでは考えていなかった。
リヴァイの問いを受けて、応酬のあいだも机上の案件を処理することに暇のなかったエルヴィンが、初めて手を止める。そして何もない空を映した鏡のような瞳でリヴァイを捉えた。
「お前とハンジのほうが上手くやれると、そう判断した」
「根拠は」
「ハンジは喜んでいたが」
「『事情が変わった』ばかりの嘘つきにそう言われてもな」
言い終わる前に、しくじった、とリヴァイは思った。
ハンジはあれで、仕事に自分の悲喜交々を影響させまいとする人間だ。その試みがうまくいっているかは別として。ともかく、今この場で『ハンジが喜んでいた』という情報はリヴァイには必要ないもののはずだった。なのにその情報を疑うような返答をしてしまったのだ。これでは「本当にハンジは喜んでいるのか?」という意味にとられかねない。
ここは「それは根拠じゃねぇだろ」と言わなければならなかったのに。
迂闊な言葉のせいで、リヴァイはエルヴィンからふざけた回答を得ることになってしまった。
「そうだな。俺は嘘しかつかない」
「……あ?」
「俺は常に嘘しかつかない、と言った」
投げられたものを咀嚼する時間も与えられず、エルヴィンに「もう行け」と退出を促される。命令されれば従うほかない。無理に居座ったとしても、リヴァイが知りたい事を得るより知られたくない事を奪われる可能性のほうが高かった。
そうして大人しく扉まで下がったリヴァイが、エルヴィンの台詞にようやく疑問を抱いた瞬間、彼は見越したように言うのだった。
「ハンジに聞いてみるといい。暇潰しぐらいにはなるだろう」
**
「ああ、『嘘つきのパラドクス』か」
「なんだそれは」
二日後、リヴァイとハンジはシーナへと駆ける馬車の中にいた。
向き合う体の礼装の下に立体機動用ベルトは走っていない。調査兵の装備と技術はマリアの壁から遠ざかるほど必要がないものになっていく。そういうものだった。
普段の位置より少し下で、普段よりずっと丁寧に慎ましくまとめられた髪のせいで、ハンジは座席に深々と体を預けることができないでいた。だからといって脚に肘をついて手で顎を支えると、今度は施された化粧に咎められてしまう。
不自由にも尻を落ち着けられない様子のハンジに、リヴァイが「何か気を紛らわせられないか」と考えて渋々伝えた話が、ハンジ曰くの『嘘つきのパラドクス』だった。
「エルヴィンが『俺は嘘しかつかない』の言葉どおり常に嘘しかつかない人間だとすると、『嘘しかつかない』という言葉は本当のことを言っている、つまり正しいということになる」
朗々と語り出したハンジの目は、先ほどまでとは比べ物にならないほど輝いている。きちんと磨き上げられた眼鏡のせい、だけではないだろう。
「しかし『嘘しかつかない』という言葉が正しいとすると、今言ったばかりの『嘘しかつかない』に反することになる」
ハンジは、誰かを前にしているときのほうが活きた。
それ以外が死んでいるというわけではないが、仲間の骸や、紙や本、壁、無意味な時間や無限に寄り集まった悪意などを前にしたときのハンジは、例えるならば瞬きをしない瞼や風に揺れない髪の毛のような、静止した時間の無機質さをリヴァイに感じさせるのだ。
「反対に、『嘘しかつかない』が嘘だとすると……」
二つの茶色い光彩に自分を納めるだけで、この喧しい時計の針はとたんに動き出すのだから、それを見られるのなら長話に付き合うのも偶には悪くない、とリヴァイは思っている。
「ねえ、聞いてる?」
ハンジの瞳に映る己が随分大きくなっているのに気づき、リヴァイはその肩を掴んで、詰め寄っていた体を適切だと思う距離まで押し戻した。
「『嘘しかつかない』は正しいからまた矛盾する、だろう」
「そうそう。同時に成立し、また同時に否定される。永遠に続くこれが『嘘つきのパラドクス』」
「まどろっこしいな」
脳に生まれてすぐ出てきた素直な感想を、ハンジはそのまま逃がしてはくれなかった。
何も言わずに「意見を聞こう」と目だけで先を促してくる。
「……男が二人いて、どっちも自分を指差しながら『俺は嘘しか言わない』とほざいた」
石でも踏んだか、ガタン、と車輪が跳ねた。舌を噛み損ねたリヴァイは、不得意な説明の苦心する。
「二人のうちの片方は過去に嘘をついて俺を騙そうとした奴だ。だから俺はそいつをぶん殴った」
ハンジは視線を逸らすことなく、口を挟むこともなくリヴァイを見ていた。リヴァイは頭の毛穴が縮むような緊張をひた隠しにして続ける。
「そいつの言うことが正しいか嘘かなんて、そいつのやってきた事とやってる事次第だろう」
何度も嘘をつく男がいる。
帳尻合わせが抜群に上手くて、運も恐ろしくいい。
大勢が男の嘘を信じ続けるならば、その嘘はもはや真実になる。
エルヴィン・スミスの嘘のように。
己の誠実を唄う男がいる。
金持ちで若くて、権力などはほしいままに操れる。
そいつが『巨人に有効な兵器』と『その研究開発に携わる分隊長』などに本当に興味を持っているのか、それはこれから見極めなければならない。
たとえ商売貴族の男が唄う、胡散臭い誠実だったとしてもだ。
その胡散臭い誠実の標的となっている張本人は、なのに晴空から雨粒を一つ食らったような、無防備な表情で口を開いた。
「それってあなたの哲学?」
「哲学が生き方って意味なら、まあ、そうだな」
答えた瞬間、ハンジは笑い出した。
体を折り曲げ、足元の磨き上げられた靴をより近くで見られるだろう姿勢で。大げさな動作に反して倒れた肺と喉が生んだのは掠れた吐息だけだった。
ハンジは声もなく笑っていた。
「あー、もう。あなたがそんなんだから……」
隙間で、小さく囁く。
「……〝私たち〟に、必要とされてしまうんだよ」
エルヴィンがこの話題と、今日この日の役目を自分に託した意味を、リヴァイはそこでなんとなく理解した。
頭が滅法良い人間というものは、得てして『人を貶める貪欲さ』については無知だ。
単純で短い文章の中にすら無限を見出し、壁の外よりも広い永遠だって、掌より小さな檻だってその脳の中に作り出すことができる。他人を蹴落としてまで限りあるものを求めようとはしない。
だから、頭の悪い奴が自分の手の中の有限を精一杯大きくしようと悪巧みを働く過程で、大抵は喰い物にされてしまう。
エルヴィンもハンジも、永遠に一方に傾くことのない秤を宙に描くことができる人間だった。
リヴァイにはそんなことはできない。
秤がどちらに傾くのかを、浅い思考と経験で見極めることしかできない。傾かないなら壊れた秤だと捨て去ることしかできない。
だからここにいる。
ようやっと笑い終わったハンジが、涙をぬぐいながら顔を上げた。
「あなたの言うとおりだよ。この永遠の問答は現実では成立しない。嘘か真か、それは過去から未来への時間の経過が明らかにする」
目元に施されていたはずの繊細な色の装飾は、指について行ったのか跡形もなく消えていた。
そのほうがいい、とリヴァイは思った。
「そもそもこれは、人間の性質やその言葉が常に、完全に白黒に分かれることを前提としている。現実にはそんなことありやしない」
「当たり前だ」
大抵は嘘になってしまう言葉の真ん中にある、真実にしたい熱望を知っている。だからリヴァイはエルヴィンに従う。
真実を唄う瞳の中に、平気で嘘が混じる世界も知っている。だからリヴァイはここにいる。
真実だけを語りだがる精神に、嘘を教える必要も知っている。
だからリヴァイは、ハンジのそばにいる。
そばに、いたいと思っている。
「腹んなか真っ黒い奴が『俺は黒だ』とほざいたら永遠になる? 冗談じゃねぇよ」
狭く切り取られた窓から外を見遣る。日の光が地面に垂直になりかけていた。もう間もなく目的地だ。
「んなクソみてぇなことが現実にも起こるってんなら、俺はなけなしの理性だって便所に捨ててやる」
ハンジが愉快そうに身を乗り出した。
「なにそれ、むしろ永遠より気になる。理性を捨てたらどうなるの?」
「お前を口説く」
「えっ?」
やけにでかい声がした。おまけに高い音だった。おかげでよく響いた。
リヴァイは、しくじった、と思う前にハンジを見た。
ちょうどハンジの頬が、夏の光を溜め込んだ果物のような赤さに染まっていくところだった。
二人で、しばし言葉を失う。
「……ん? あっ、私を口説く……のがクソみてぇなこと、ってこと?」
先に動き出したのはハンジの口だったが、冷静さは窓から捨ててしまったらしい。リヴァイの鼻あたりを見ながらしきりに髪を整え始めた。
化粧の剥げた目元が、ひときわ鮮やかな色でリヴァイを苛む。
「あっそれとも今の話にちなんだ嘘? あはは」
「……ああ、『俺は嘘つきだ』」
習ったばかりの言葉をそのまま伝えてみれば、出来のいい頭はありもしない深みを探って混乱していく。
「えーっと、あぁ……、それは時間の経過で明らかになるもの、なのかな」
「そうだな。案外状況次第じゃ数分もかからねぇかもしれねぇぞ」
車輪は回り続けている。己の提示した『数分』がここでは叶わないことをリヴァイを知っていた。それでも、嘘にはしたくない。柔く潤んでリヴァイを閉じ込めている瞳も、それを望んでいるような気がした。
「状況……って?」
「——馬車ん中に、二人きりだとか」
「……っ!」
ハンジは目尻が裂けるんじゃないかと思うほど目を開くと、うろうろと視線を彷徨わせ、ついには顔を覆ってしまった。緩んだまとめ髪が艶めかしくこめかみを滑り落ち、見る者を誘う。
今夜リヴァイは、おそらく必要とされる以上に、与えられた任務を迅速かつ正確にこなしてしまうだろう。
二つの茶色い虹彩に鼻持ちならない貴族の男が映ったとしても、けして女の針が動き出さないように。真実だけを語りたがる精神が、不愉快な形で嘘を教えられることがないように。
リヴァイの抱くこの感情だけは、どうしても嘘にならないのだから。
〈了〉
(初出 19/03/07)