良宵の酔い …原作/ずっと昔の夜更かしの話
良宵の酔い …原作/ずっと昔の夜更かしの話
あの夜だけは、世界に二人きり。
「待った」
存在は認識していたがあえて目を遣ることもしなかった女が、リヴァイのシャツの背に触れた。夜風よりもずっと生温かく確かな物体として伝わってきた手の感触を、肌が粟立つ前に振りほどく。
「なんだ」
不審も警戒も隠さぬまま、リヴァイは女を睨みつけた。
酷く気が立っていた。
巨人の発する臭気、巻き上げられた人間の血と脂。何度体を清めても纏わりついて離れない不快感。
欲望だとか怨嗟だとか、そんなモノのせいで殺されるのがこの世でもっともクソみたいな死に方なのだろうと思っていたリヴァイの眼前に、あっさりと投げ捨てられた肉の塊。意味すら持たない死にぶっ潰された、兵士の顔。その残像。
酷く、気が立っていた。
壁外調査の後はいつもそうだ。
ただでさえ霧みたいに薄い眠気が、その晩は頭上から降りてくることさえしなくなる。頭を打って昏倒するか、桶に安酒を溜めて顔を浸して溺れるか、そんなことの方がずっとずっとマシな夜だった。少しは気がまぎれるかと部屋の外をうろつきはじめたリヴァイは、女の存在によってその判断を後悔した。
「夜更かしだねぇ、リヴァイ。もう寝るところ?」
暗く沈んだ廊下に立つ女から、場違いに明るい声が発せられる。その落差はリヴァイを苛立たせた。
女のことは知っていた。ハンジ・ゾエだ。
違法に兵団へ入り込んだリヴァイと違ってきちんと訓練過程を終えた兵士のくせに、身ぶりが大仰で、懐もガラ空きで、いちいち声もでかくて、人体の真ん中に急所が連なっていることも知らないのではないかと、そんなことを思う始末の調査兵。
顔と名前を知っている程度の人間だ。女も含めて、ここにいる誰とも『仲間』だなんて見えない線で繋がっているつもりなどリヴァイにはなかった。
付き合う義理はない。そう結論付けて無言で立ち去ろうとしたリヴァイを、女がやはり呼び止める。
「お願いがあるんだけど」
「それを叶えて俺になんの得がある」
「すっきりするよ」
振り返る。最初から取り分を求めれば『要望なんて聴く気もない』と伝わるだろうと目論んだリヴァイを、女の返答はあっさり飛び越えた。
「君が今、その体に溜め込んでる鬱憤。私に向かって全部出しちゃわない?」
女は、随分と下劣なことを、太陽の真下に立つ明るさで言った。
意図がわからず、暗がりに双眸を探す。分厚い眼鏡のレンズの向こうで光が瞬く。宵も深まったこの場において、その瞬きは錯覚のはずだった。
「来て」
と連れてこられたのが食堂だったために、リヴァイは少しだけ度肝を抜いた。日が昇れば何百という『仲間』が呼吸をする場所で、この女は粘ついた吐息を散らそうというのか。
「さあ、座って座って」
「あ?」
「遠慮はいらないよ! 好きな所に座ってくれ。ほら早く座りなよ」
様子がおかしいことに気づいたのは、女が手持ちのランプに火を灯し、無理やり座らせたリヴァイの向かいの椅子を引いた時だった。
「さて。何から話そうか」
──話す?
「オイ、なに」
「いや議題は私が決めよう。今回の壁外調査、リヴァイは先鋒だったよね。というかずっとそうだ。生存率二割と言われている隊の嘴を君は四度も勤め上げて帰ってきた」
「オイ」
バン!
机の天板を強く叩くと、ようやくその口が止まる。夜分に似つかわしくない大きな音に驚いたのか、女は目を丸くしてリヴァイを見た。
「てめぇの言うお願いってのは何か? ここでペチャクチャおしゃべりすることか?」
「え、違うよ。お願いしたいのは質問に答えること」
「はあ?」
「リヴァイ、君ったら気が早いよ。まだ一番最初の」
「待て待て待て、だったらさっきの『俺にとっての得』っつうのはなんだ。てめぇ嘘つきやがったのか?」
「嘘?」
話だと。冗談じゃない。
体の内側を黒々とのたうちまわる不快をどうにかして収めようとするリヴァイに、この女はよりにもよって、それを取り出してみせろと言うのだ。
他人の感情をとことん読み取ることができない人間なのだろうか。地下にはそういう奴らもいた。それと同類か、と体を引いたリヴァイに、しかし女は真剣な眼差しで答えた。
「嘘じゃあないさ。君の鬱憤はそこで意味もなく死ぬから鬱憤なんだ。夜更かしして殺して死骸にして腐らせる。まったくもって無意味だ。腐臭にまみれていつか君も死ぬ」
横っ面を殴られた気分だった。
女の言い分が正しいと思ったからではない。リヴァイが払いたくて仕方なかった『意味もない死』を、リヴァイ自身が犯しているのだと、女がそう言ったからだ。
「リヴァイ、私は君の立体機動を見て一瞬で理解したんだ。『彼の飛び方は汎用的ではない』と。わかる? 他の兵士が訓練や道具を使って達成できるものではないんだよ。君にしかできない飛び方なんだ」
女が身を乗り出した。
小さなランプが広げる明かりの範囲に、とうとうその顔の全てが入り込む。
「じゃあ、君の類い稀な才能を活かすにはどうしたらいい? 生きて帰ってきた君が壁内で死なないように、我々はなにをしたらいい?」
眼には、やはり光が瞬いていた。宵闇の中にあって、ここではないどこかの光を溜め込んでいた。
「聞かせて、リヴァイ。見たものを。聞いたものを。感じたものを。壁の外で、君だけが知ったものを」
活かすために。殺して溜め込んで、腐らせてしまう前に。
女のことは知っていた。ハンジ・ゾエだ。
けれどその瞬間から、リヴァイにとってハンジは女ではなくなった。
ただの兵士だった。
初めての夜の顛末を、リヴァイは思い出す。
朝を迎える頃には大きく体積を減らしていた不快感に、けれどリヴァイはなぜだか癪な気持ちになって、ハンジの「また頼むよ」の声には答えなかった。
時間が経つにつれ穏やかに『普段』に戻っていく肉体と精神にようやく「なにも癪なことなどない」と気づいた彼は、その後の壁外調査でも同じ夜を迎えることを選んだ。
見たものを。巨人を。動きを。骸を。最期を。
聞いたものを。風の唸りを。蹄の音を。射出の響きを。断末の声を。
感じたものを。──感じたものを、細かに。
己の言葉で、すべて、ハンジに。
幾たびも重ねた夜を、リヴァイは思い返す。
あの場でリヴァイとハンジが行っていたことが、重たいものを分け合って軽くする行為ならば、それはリヴァイが最初の『お願い』に見出した交換となにが違うのだろう。
月日が経つにつれて『仲間』だなんてものになってしまった者たちを、亡くして、また得て。
その度にハンジと夜を過ごした。
待遠しい時間などではなかった。
「朝が来なければいい」なんて微塵も思わなかった。
「ずっと続けばいい」なんて、机上を行き来する話題の血生臭を思えば有っていいはずのない願いだった。
だからリヴァイは、その夜に酔った。覚めることがわかっていたから。ハンジが見るのはどこまでも兵士のリヴァイだとわかっていたから。安心して身を委ねられた。
巨人も壁外も真実も、あまりにも強大なその姿を晒したばっかりに、かえって誰かの手が届くものになってしまった今。遠い夜をリヴァイは想う。
敵も未知も暗闇に溶けて、夜更かしのリヴァイとハンジだけを照らす光の中で、形を持つ以外の何もかもを交わした時間はもうどこにもない。
それでいい。
二度と望まない。
あの夜だけは、世界に二人きりだったのだから。
リヴァイを救う事実は、ただ、そこにあり続ける。
〈了〉
(初出 18/06/22)