【約束】 …原作/背中に見た夢の話
【約束】 …原作/背中に見た夢の話
東のほうで、今日の太陽が死にかけていた。
壁の上の夕刻をリヴァイに語らせたなら、なんの感慨もなくそう言うだろう。所詮〝壁の上〟での出来事だ。
リヴァイは百年前のことなど知らない。だから、現状でもっとも〝壁の外〟を知っているのは調査兵団の兵士たちだと思っていた。自分もそのうちの一人なのだと思い始めたのはつい最近のことだ。
「あの地平線の向こうってさ」
横からにゅっと腕が伸びて、空と地上の、左から右にかけて黒へと染まる境目を指でなぞった。
もっとも壁の外を知る調査兵団の兵士たちは、けれど地平線の細やかな凹凸までを知っているかというとそうではない。
分厚い壁を超えた先で、遥か彼方まで巡らす視線など持ち続けられはしない。敵と状況を見極める目だけが、手元に握り込む全てになる。
「何があるんだろうね」
そう投げかけたハンジは、命を繋いでようやく縋り付いた壁の上で、わざわざ背後を振り返る人間だった。「もう嫌だ」と震える同士の隣で、その背中を支えながら、今しがた逃げてきたばかりの場所に、惜しむ気持ちと哀しい表情を向けるような人間だった。
「知識としては知っているけど、どうも上手く想像ができないよ」
指がまた、線をなぞる。
あの地平線は『認知の線』なのだとハンジはいう。その隙間に指を突っ込んで切り開いた先に、調査兵さえ知らない『地平線の向こう』があるのだと。
「行けばわかる。そのための壁外調査だ」
「そうだけどさぁ。なんだか夢がないね」
「うるせぇ」
自分にとっての事実を『夢がない』で片付けられたことに、リヴァイは不満を覚えた。「行けばわかる」だなんて、「行けない」ことを全く想定していない言葉だ。地下で生きていた頃に比べれば、そんな台詞をほざいた己はだいぶ夢見がちのはずだった。
それを『夢がない』と言うのなら、ハンジが夢を見すぎているのだ。
「てめぇは遠くばっか見すぎて隙だらけなんだよ、クソメガネ」
「……え、そう?」
「自覚がねぇのか」
いつもいつも、十歩も百歩も先ばかりを見ている。そのくせ背中や足元や、目を向ける先の反対側はがら空きだった。
「夢中になると視野も狭くなる。だからてめぇは怪我も多いんだ」
「あーっと……」
「リヴァイって意外とよく見てるね」とかなんとか言いながら、ハンジの手が顎に触れる。ずれた袖の下からは真新しい包帯が覗いていた。
「あ、じゃあさ、そういうところは全部リヴァイに任せるよ」
「は?」
突然そう結論を出したハンジは、身を翻してリヴァイに背を向けた。ハンジの体越しに、こちらに手を振る仲間たちが見える。リヴァイも遅れて歩き出した。疑問が足の動きを遅らせる。
「おい……そりゃどういう意味だ」
「だから、私は先を見据えて、あなたは近くを捉えて」
ハンジの指が、今度は空をなでる。何の線もないそこに、もしかしたらリヴァイとハンジを描いているのかもしれない。
「要は役割分担だ」
ハンジが顔だけで振り返った。そこに哀しみはなかった。
「上手いこと生き残って、一緒に見ようよ……地平線の向こう」
「……子守か俺は」
「あはは! さあ、兵舎に帰ろう」
あったのは、夢見がちな笑顔だけだった。
――お前は、
曖昧で、無茶苦茶で、
命を賭けるには十分だったあの時の約束を。
今も覚えているだろうか。
俺は、覚えている。
「ねえ、リヴァイ」
一秒として同じ姿を見せない水の照り返しが、振り返った顔の頬で遊ぶ。
「あの海の向こうってさ、何があるんだろうね」
振り返ったはずなのに、ハンジの眼はリヴァイを見ていなかった。黒い眼帯の下で、何か別のものを見ていた。
「正直想像もつかないよ……いやぁ、困ったなぁ」
足裏が掴む砂、塩味の水。手元に引き寄せた貝。妙な生き物。
果てもなく眩しく光る一面の湖——海。
そして、その先。
リヴァイが見ているそばで、ハンジの視線は順を追って遠くに行ってしまった。
「この広大な水流の束を自由に行き来できる船に、グリシャ・イェーガーの手記によれば、どうやら空を飛ぶ乗り物なんてものまであるようだし……」
調査兵たちだけが知る〝壁の外〟は、この世から永遠に亡くなってしまった。ハンジもリヴァイも、そのことを口にすることはなかった。認知の線の先にも世界は途方もなく広がっていて、足を止めることなど許されていなかった。
「壁はもうないんだ。できる限りのことを、最大限にやらないと」
「存分にやれ。そのために俺がいる」
「……そうだね」
ハンジはもう振り返っていなかった。
だからその顔に何が浮かんでいたのか、リヴァイは知ることができなかった。
『先を見据える目』はいつも、ハンジから、誰よりも早く感傷を奪っていく。
――俺たちは、どこまで行けば同じ景色を見られるんだ?
問いかけようとする声を胸の中で殺す。殺すかわりに、すべきことはわかっている。
ハンジの背中を、足元を捉えて、けっして他に獲られてはならない。
それがリヴァイの役目だ。
そうやって、約束が果たされる時を待つのだ。
ずっと。今までも、これからも。
そんなことに一生を賭けているリヴァイは、やはりどうしようもなく夢見がちなはずだった。
〈了〉
(初出 18/05/27)