夜は傍らに …原作/ずっと未来の夜の話
夜は傍らに …原作/ずっと未来の夜の話
賑やかな夜だった。
目視でかなう距離に兵舎の食堂への入口があって、中から複数の声が漏れ聞こえていた。喜楽が土台にあって、怒りや哀しみも誰かが面白おかしく演じているものなのだとわかるような、そういう喧騒がそこにあった。
リヴァイが一歩を踏み出すと、目の前の壁からもぞりと影が分裂する。なんてことはない、そこに背を預けていた者が、こちらに気づいて体を動かしたのだ。
「え? リヴァイ?」
声を聞いて、ああこれはハンジだな、と認識したところで、廊下のランプの灯りがポッと明るさを取り戻す。つるりとした頬骨やほつれた髪、滑らかに落ちる体の線が橙の火光のなかにくっきりと浮かび上がり、一番に際立つ目が正円もかくやと見開かれる。
「うわっ! 驚いたな、本当にリヴァイだ」
「いきなりなんだ、人の顔見て泡食いやがって」
「ごめんごめん。随分久しぶりに会う気がしてさ」
事実に追い詰められていないときのハンジは、物事を大袈裟に受け取っては示したがった。小さな距離をいかにも長大に感じて途方に暮れてみせたり。リヴァイのことをさも偉大な人間のように扱ってみせたり。わずかな年月を語る顔に、永久の空白があったかのような寂しさをのせてみたり。
自分の言うことなんてそれほど真面目に取られやしないんだろうと思っていて、だから時々、その大袈裟に微量の真実を混ぜ込むことをする。そうやって溢れそうになる激情をごまかすわけだ。他の人間はどうだか知らないが、リヴァイには通じない。
「ああそうだな。一度くらいはお前から会いに来るかと思っていたんだが」
「……そう言うなよ。私だって会いたかったんだから」
だからといって、ちょっとつつけばすぐこれだった。眉を下げて、目を細めて、笑みになりきれない笑みを浮かべるハンジは少しも変わらない。この表情を前にしてリヴァイがどれだけあらゆることに目をつぶってきたのか、どうせ知りやしないのだろう。
「みんなと話してたら夢中になっちゃってさ……忘れてたわけじゃないんだ。もう少し到着が遅れるかと思っていたし。本当だよ? ホラ、あんなに盛り上がってるんだもの」
ハンジが食堂のほうに顔を向けた。細長い体の影になってリヴァイの位置から中までうかがうことはできなかったが、夜と歓談の気配は先ほどと同じく色濃く漂ってくる。「ね?」と首を傾げながら、ハンジがまたリヴァイを見る。リヴァイを、見る。なんでもないことのように。
「そっちはもういいのかい?」
「ああ。これからは好きなだけ時間がとれる」
「本当に?」
二度目の笑みはなんともあどけなかった。だからリヴァイは、その笑顔と今日までの軌跡とを鑑みて結局すべてを許すことにした。なんと言っても、自分こそがこの人間の『一番』として許されてきたのだ、と。そういう自覚と自負があったからだ。弾む体にゆっくり近づくと、ハンジが先を指さした。
「じゃあ行こうよ。みんなも私も、あなたに話したいことがたくさんあるんだ」
「そうだな。俺もたくさんある」
「へえ、どんなことだい?」
改めて聞かれると困ってしまうが、歩き出した二人の足は止まらない。
「たいした話じゃない。たぶんお前らも知ってることだ」
「ううん、知らないよ。知らないようにしてたからね」
その無知は、あるいは、時間が止まった者たちの矜持なのかもしれない。ならばリヴァイの話が誰かの退屈を招くようなことはないだろう。
「まあ、俺にとっては過去で……お前らにとっては未来の、そういう話だ」
「いいね! すっごく楽しみだ」
少なくとも、いちいち大袈裟に受け取って示しては笑うこのハンジ・ゾエが、すぐ隣にいるのだから。
二人の背中に、太陽は続かなかった。
世界のどこにも、予感ですら朝日の熱は見当たらなくて、夜だけがずっと傍らにあった。
永く静かに待ち望んだその到達を、リヴァイは今、穏やかに手にする。
〈了〉
(初出 22/02/10)