Don’t zip your lip. …原作/唇の動作確認についての話
Don’t zip your lip. …原作/唇の動作確認についての話
色という色がごっそり抜けた、そんな表情で見下ろすものだから、「そういうカオもするんだ」と思ったのが初まりだ。
一見が与える不穏な印象に反して、リヴァイという男は存外多彩な感情を持っていた。なのに、類まれな出生のためか、それを活かせるだけの表情の図案を持たぬ人でもあった。
感情の表出が自由に許される幼少期を過ごしていたなら、その情感はさぞや豊かに彼を彩っていただろう。あるいは、彼がハンジに見せた情の種類とて、もう少し汲みやすかったかもしれない。
——『死体か?』
研究明けの自室で意識を失っていたハンジに彼が放ったのは、普段の物言いからすればずいぶん穏当な台詞で、けれど血色さえ失くした虚無な表面は、彼にしては過剰だった。
周囲の人間から呆れた視線で叩かれることに慣れていたハンジは、その時、彼の巨大な欠落を前に何も返すことができなかった。
何もできなかった、という記憶はよく残る。後悔に背を押されてこそ足はよく進む。そういうわけで、ハンジはリヴァイのことをよく観察するようになった。巨人に対する戦闘力を測るためでなく、おのれに対する感情を図るために。
——『寝てる時以外ずっとうるせぇな、お前は』
稚拙な言い回しでハンジをそう評した彼は、うるさい、なんて形容詞を用いながら、自分はどこまでも静かな空気をまとっていた。その不揃いは不思議なことに不可解ではなく、とはいえ不明瞭で、だからと言って不快だと言っているわけでもないようで。「ああうん、そうだね」なんてありきたりに応じれば満足したのかまた口を閉じてハンジの論説に耳を傾けてきたが、伏せた目に鋭利や冷涼はなく、どこか雑多な熱を灯していた。
——『おい、何か言え』
重たい沼のような思考に、ふいに小さな衝撃が割って入る。その源に目を向ければ、隣に座ったリヴァイが腕を小突いてきたらしい。暗く底のない一人きりの世界から浮上したハンジは、自分が作戦会議の場にいることを思い出した。そうして、いささか子どもじみた行動でハンジの気を引いたリヴァイを見返し、息を止めた。
丹念に加工された刃を思わせる瞳がこちらを覗き込み、口や喉と言わず、ハンジの全てが動き出すのを待っていた。お前が動きさえすれば、すべてが動き出すのだ、とでも言うように。
胸の裡で、ハンジは日に日にもどかしさを積み上げた。「どうしてそんな顔をしてるの?」。疑問を疑問のままで残しておきたくないのに、声に出して問うには曖昧だ。『そんな顔とはどんな顔だ』と聞き返されたら、きっとハンジは困ってしまう。リヴァイの態度に間違いなく異質を感じ取れるのに、ハンジの言葉の抽斗では、それを言い表すことができない。
検証の精度をあげるなら、ある程度の予測が必要だ。ハンジはいくつかの状況証拠から、リヴァイが見せる不定形の表情、感情に仮の枠組みを与えてみることにした。
薄い酒を口に含む。夜更けの疲労には絞った明かりもよく染みた。低く囁くように話を終えたリヴァイに、一度だけ頷き、ハンジは沈黙した。
二人きりの空間に音群のあとを継ぐ者はいなかったが、酔うことを楽しむ場においては必ずしも『話題』が必要なわけではない。現にリヴァイは大勢で飲むとき、部屋の隅のテーブルで黙って杯を傾けていることも多いのだ。
「どうした。腹でもいてぇのか」
と、数秒も経たぬうちにせっつかれる。
真向かいに座る男の眉根は窮屈に寄せられ、訝しさに満ちている。ハンジは確信した。
「リヴァイは、もしかして」
「なんだ」
「私が静かにしてるのは、嫌?」
黙れば彩りをなくす表情。喋れば揺れ動く感情。変化の条件を整理し、予測した法則に沿って彼の言動を見直してみれば、今日までの異質はそれによく当てはまる気がした。
リヴァイが珍しく、虚をつかれたように瞠目する。
「正解?」
重ねて問えば、重たい溜息のあと、平らな額に皺が寄った。
「何をもってそう思ったんだ」
「ずっと観察してたんだ。私が黙ってる時と喋ってる時のそれぞれで、リヴァイはおかしな顔をしている」
「おかしな顔?」
「その、……他の人には見せないようなカオ」
細かく形容するならもっと言いようがあったが、この場はこれで十分だろう。
「最近やたらとガン飛ばしてきてたのはそういうことか」
「んっ? えっと、うん」
視線を気取られていた、という事実に冷や汗をかく。この男の研ぎ澄まされた勘からすれば当然だったが、得意げに書き連ねていた観察評の隣に、とつぜん己のことが書き足されたようで恥ずかしくなる。ハンジは手元の盃に目を落とした。
「不躾だったのは謝るよ。もっと早くあなたに聞ければよかったんだけど、疑問点を上手く説明できる気がしなくて。……それで、」
それで、本題。
どうしてリヴァイは、私が、私だけが、口を閉じて、沈黙して、静かにしているのが嫌なのか。
まごつき、それでも問おうとした時。リヴァイがそれを遮るように自分の杯をあおった。ごつりとした手を追って顔を上げれば、酒を通す喉仏が大きく動くのが見える。思わず釘付けになる。と、上向いていた顔が正面に直り、痛いほど鋭い眼光がハンジを照らした。
「……」
いつ、どちらから、ここまで肉薄したのだろう。しっかりと捉えていたはずの二つの瞳が、いつのまにかハンジの視界いっぱいに広がっていた。ハンジは一言も発しなかった。発することができなかった。けれどリヴァイは不満を見せることなく、それどころか首裏をつかんでますますハンジの口を塞いだ。柔らかく熱い蓋がいつしか深い穴に変わり、口を閉じるなとばかりに舌を誘う。
「っ、俺もお前も、認識を改めないといけねぇらしい」
口封じの合間に、掠れた声が言った。弾んだ息は目を閉じていてさえ彼の感情を教えてくれた。鮮やかに。彩り豊かに。逆だって、きっとそうなのだろう。
終始静かだったハンジを、リヴァイも今度こそせっつくことはしなかった。
キスをしている時は、例外ってことだ。
〈了〉
(初出 22/01/20)