The footprints …原作/ハンジの足跡に動かされるリヴァイの話
The footprints …原作/ハンジの足跡に動かされるリヴァイの話
あんまりにも大きな傷を遺していくから、今の今まで忘れていたことがある。
ハンジの『足跡』のことだ。
リヴァイがあの人間の奇行の数々について、まだ浅い理解でしか見ることができなかった大昔の話。だから、他に知る者はいない。
「床を汚すな」
部屋の前まで続いていた足跡を指して、開口一番そうなじった。泥が乾いた白い線で、靴裏の模様のすべてが描かれていて、そのくせ、輪郭全体が後ろに尾を引いた汚らしい足跡だった。誰かが雨上がりの屋外に浸った挙句、部屋に駆け込む際に床を強く踏んでつけたものだとすぐに判断できた。リヴァイが部屋主のハンジに訴えたのも当然だったわけだ。
「んー、ごめんごめん」
「掃除しろ」
「あとでやるよ」
「今やれ」
「……うん。いいよ、一段落したし」
ハンジは扉を蹴破られた衝撃なんぞ一顧だにもせず、持っていた手帳を懐にしまって、リヴァイのほうにやってきた。そうしてリヴァイが携行していたモップを当然のように受け取り、汚れた床をゴシゴシと掃除しはじめた。
当時のリヴァイは、ハンジの奇行に対して深い理解は持たずとも特に意に介すこともしなかった。ハンジもハンジで、リヴァイがごく稀に力任せに行う諸々についてまったく頓着しなかった。なんだかんだ、この時にはもう、兵団の過渡期を並んで駆け抜ける未来は決まっていたのかもしれない。
「悪かったよ。ぬかるみに対しての捕獲器具の摩擦係数を測りたかっんだ」
「測ること自体を悪いと言ってるんじゃない。泥を落としてから兵舎に入れと言ってるんだ」
「うん、ごめん。次からは気をつける」
興奮の極地に達したハンジが足元なんぞ見ないことくらいはその時のリヴァイにもわかっていたので、「二度とするな」と叱ることはしなかった。
一つ足跡を消し、次の一つ。
中庭への出入口まで続いている汚れを、二人で消していく。時折、廊下を歩く誰かの困惑と納得が横を過ぎる。
「お前以外の足跡を、俺は兵舎で見たことがない」
ふ、と。リヴァイが愚痴とも気づきともつかぬ言葉をこぼすと、ハンジも隣で笑う。
「足跡がつくようなこと、私以外してないから」
足元の泥を落とす余裕をなくしたまま走り出したり、最後の一歩をもどかしく詰めたり、そういうことを。
リヴァイは納得した。ハンジ・ゾエと言えば、こと巨人の研究に対して異常とも言えるほど執着し、何か思いついたり閃いたりするたびに目の前のことをほっぽり出してどこかへと飛んでいく人間だ。そんな人間に準じる足が、強い行動の跡を残していくのも仕方がないことだと思えた。
「てめぇの頭ん中は、さぞや新しい発見でいっぱいなんだろうな」
「まさか。私が思いつくことなんて、もうとっくに誰かが思いついてるよ」
その時、リヴァイは初めてハンジの行動に疑問を持った。顔を上げ、胡乱な気持ちで横顔を見る。
「実際、兵団の倉庫や書庫、壁内の埃っぽい場所には巨人についての驚くような発想や知見がたくさん埋もれている」
こういう形でね、とハンジが取り出したのは、先ほど懐にしまっていた手帳だ。
ハンジがそれを覗き込む姿はリヴァイもよく見かけていた。表紙に手垢や汗染みのあとがないのは頻繁に新調されているからだ。机の上や引き出しを占領してやまない過去の手帳たちのことも知っている。
「私も最初は驚いて、こういったものを読み漁るのに幾晩も費やしたよ。でもさ、どうしてそれらの思いつきは、見解や予想は、ここを限界にして世に出なかったんだと思う?」
ハンジがようやくリヴァイを見る。通じた視線に何らかの揺らぎを感じるも、それは一瞬だった。
「先人たちの死力を尽くした観察や思考の結果は、どうして彼らの手記を飛び出して、今いま巨人に立ち向かう調査兵たちの常識として膾炙しなかったんだと思う?」
「事実だと、確かめられなかったから、か」
間を置かず答えれば、ハンジは奇妙な笑みを浮かべた。リヴァイと会話が続いたときに見せる褒められた子どものような顔でなく、より哀しげな。
「そう。みんな実証できなかった」
ハンジが手帳を胸に抱き締めて、数秒、沈黙が落ちる。先に掃除を再開したのはリヴァイだった。床を擦るモップだけが音を立てる中、不意にハンジが言った。
「リヴァイ。私、あなたと同じ時代を生きられて良かったよ。あなたの力のおかげで、きっとこれからもいろんなことができる」
止むことなく湧く巨人を、いとも簡単に殺せる能力。リヴァイの目と手と足の届く範囲でしか使えない、その場かぎりの強さ。けれど、空論で終わってきた多くの目線を、願いを、誰かの足跡を。ハンジがすくい上げて、リヴァイのこの力で昇華して、もっと大きな足跡にできるとしたら。
掃けば消える汚れみたいに繊細なその展望は、たぶん、ハンジがずっと前から抱いていたものなのだろう。
「……本当に、よかったって思ってるんだ」
リヴァイは、今度はハンジを見なかった。
コイツはこういうことを恥ずかしげもなく言える奴なんだ、なんて諦めとか、自分は果たしてそういう大きな意思の中心に据えられる人間たり得るのかという面映さとか。微かに震えた声に、甘ったるさを探してしまった自分への驚きとか。
上手く返答もできないほど、身体をいくつもの感情に支配されていたからだ。
あの時ハンジの表情を拝まなかったことに、今、リヴァイは少しだけ腹を立てていた。遺した物の一つさえ手に取れない現状では、脳裏にある過去の像だけが過去と今を繋ぐ足跡だった。
もっと見つめればよかった。もっと耳を傾ければよかった。詮ないことを考えて、考えながらその傍らにはハンジの記憶があるものだから、存外いろんなことを思い出している。
「……書きつけでもしてみるか」
首を伸ばして机の上を確認する。相応しいもの、例えば手帳などはあっただろうか。ないなら、そうだ。買いに行けばいい。雨は上がったばかりだ。
今外に出れば、車椅子の車輪は泥にまみれて掃除に時間がかかるだろう。跡を残したって誰にすくわれるかもわからず、そのまま埋もれてしまうことだって十分ありうる。
それでも、リヴァイは発つことを決めた。
この身が進んだあとに、長い轍が二本、続いていく。その光景を想像すれば、立ち止まっている気にはなれなかった。
〈了〉
(初出 21/08/21)